ムハマンド・アリー・ジンナー
(1876-1948)
+:パキスタン建国の父

-:印パ対立の原因?
 ムハマンド・アリ・ジンナーは、パキスタン建国の父にしてインドの民族運動の立役者の一人です。しかし、同時期に活躍したマハトマ・ガンジーが東洋か生んだ最大の偉人として知られているのに対し、ジンナーはパキスタン以外では人気も知名度も今ひとつです(温和で誠実な紳士で、ガンジーよりもずっとハンサムなのにも関わらず・・・)。おまけに、リチャード・アッテンボローの名作「ガンジー」では、あからさまに悪役になっていたりします。恐らく、最後の最後でガンジーと対決したことが響いているのではないでしょうか。
まず初めに・・・・・
・国民会議派
 インドで最も伝統ある政党。1880年、英国の政変でクラッドストーンの自由党内閣が成立した折、インドに対する弾圧的法令や人種差別的法案の多くが廃止になりましたが、1883年、インド総督参事会に、裁判上の差別(イギリス人はイギリス人のみが裁くという・・・)を撤廃するイルバート法案が提出されました。しかし、イギリス人の右翼団体の猛攻撃に遭って廃案となったため、総督府に対するインド人の反感が強まりました。その結果、元官僚のスレンドラナート・バネルジーの元に、人種差別行政に反発するインド知識人らが結集して、全インド国民協議会(All-India National Congress)が結成されました。一方、総督府の弾圧的な政策に反発していた元官僚A・O・ヒューム(生粋のイギリス人!)とインド人ナオロージーは、「インド国民会議」の開催を総督府とイギリス政府に認めさせました。その結果、1895年12月、ボンベイで第一回インド国民会議が開催され、国民協議会とヒューム、ナオロージーのグループが統合されて正式に「国民会議派(Indian National Congress)」が成立しました。当初はインド人富裕層の利害を代弁して、イギリスに忠誠を表明しつつもその政策の欠点を指摘すると言う、かなり親英的で「穏健」な組織でしたが、1905−1908年のベンガル分割反対運動を機に急進的な民族主義者が主導権を奪い、インド人民衆の独立運動の中心政党として発展して行きました。


・ムスリム連盟
 正式には全インドムスリム連盟(All India Muslim League)。国民会議派の発言力が増大して、イギリス本国も無視出来なくなった20世紀初頭、インドのムスリム (イスラム教徒)の間では、ヒンズー教徒中心の国民会議派に対する不安の声が高まりはじめました。1905年、ベンガル州分割の反対運動の中で、イスラム教徒による政党結成の動きが活発になりました。ミントー総督はイギリス政府の分割統治の方針に基づき、勢力を増す国民会議派とムスリムを争わせるべくムスリムによる政党設立を認めたため、1906年12月、ダッカでムスリム連盟の創立大会が開催されました。その綱領は、
1)イギリス統治に対するムスリムの忠誠心の鼓舞
2)ムスリムの政治的権利の擁護
3)1)と2)を損なわない範囲で、他宗教との融和を図る
というものであり、以後、ムスリム優遇の選挙制度の要求とともに、ベンガル州分割賛成、国民会議派のやる事全てに反対と、あからさまな総督府の御用政党として活動しました。


・ベンガル分割令
 1905年10月、当時のインド総督カーゾン卿によって施行されました。ベンガル州はもともと広大であり、19世紀半ばから行政の効率化の点で分割が提案されてきましたが、20世紀初頭に国民会議派の発言力が増大すると、民族運動の中心でインド政府の官僚の多くを占めるベンガル人の勢力を削ぐ為に行われました。ベンガル州は東部(現バングラディシュ)にはムスリムが多く、西部ではヒンズー教徒が多数を占めていましたが、言語や経済などの点からすれば同一でした。この分割令は州を東西に分割して東部にムスリムによる自治州誕生の可能性を匂わせ、宗教間の対立をあおって民族運動を分裂させるとともに、分割地域を他の州に組み込んで(管轄地域が広すぎたからじゃないのか?他の州を広くしてどうする?)ベンガル人を一つの選挙区内で少数派に転落させることを目的としていました。この分割案は強行されましたが、意図があまりにも見え見えであり、ベンガル州はもちろん、インド全体で反対運動が始まりました。この分割案は、どちらかと言うと親英派だった国民会議派を反英の立場に追いやり、分割反対運動は英国商品の排斥(ボイコット)、国産品の使用(スワデーシ)、自治の要求(スワラージ)と拡大して、結果としてインドの民族運動の方向を決定付けました。
 1911年、新イギリス国王ジョージ5世はデリーでの式典の席で、自分の戴冠記念事業として分割令を取り消し、デリーへの遷都(それまでインド帝国の首都は、ベンガル州の中心都市カルカッタだった)を行うと宣言しました。イギリスの最初の敗北です。しかし、ベンガル人の怨念は凄まじく、1911年以降ベンガル州はテロリズムの温床となりました。

・インドにおける宗教対立の起源
 インドにおけるイギリスの覇権が決定的になると、ムスリムは旧支配者(=ムガール帝国)の勢力として警戒されて行政への関与が制限され、反対にヒンズー教徒は優遇されました。1857年の反乱をムガール帝国再興の陰謀であると考えたイギリスは、更にムスリムを圧迫しますが、反対にヒンズー教徒は英国流の制度の恩恵を受けて社会的地位を向上させて行きました。しかし、1870年ごろからヒンズー教徒による民族運動が活発になると、 イギリスはムスリム勢力にも遅ればせながら目を向けました。
ヒンズー教徒の民族主義者が要求するような選挙と代議制度によるインド国家は、国民が均質で無い以上少数派が圧迫される結果となるので、イギリスは統治者として君臨して両者の利害を守るという「分割統治」を主張しました。
生誕から政界入りまで
 1876年12月、ムハマンド・アリー・ジンナーはカラチの非常に裕福な商家の長男として生まれました。一応、誕生日は25日ということになっており、最近まで祝日となっていました(核実験後の制裁で、経済的に苦しくなったパキスタン政府は祝祭日を16日から11日に減らしてしまった)。ジンナーは子供の頃から並外れた知性と才能を示し、1887年、僅か11歳でイスラム教のハイスクールに進学。その後、ミッション系の高校にも入学すると、今度は16歳でボンベイ大学に進学しました。そこでイギリス人の友人から英国留学を薦められます。父親は、ビジネスマンとしてジンナーに商売を継いでもらおうと考えていたので、ビジネスマンとしての経験をつめるだろうと英国留学には大賛成でした。当のジンナーは、ビジネスマンになるつもりは無く弁護士を目指していたのですが、だからと言って両親と対立することもなく、手早く英国留学の準備が整えられました。出発直前、両親に強引に結婚させられたりもしたのですが、ジンナーは英国留学へと向かいました。
 1892年、ロンドンに到着したジンナーは法律学生のための協会の一つ、リンカーン・インに加入して勉強を続け、1895年、母親と夫人の急死というダブルパンチにもめげずに、この年、なんと19歳で弁護士資格を取得して英国法曹界の注目を集めました。
 英国留学中、ジンナーはイギリスの法制度や社会を研究し、頻繁に下院議会を傍聴しました。ここで彼はグラッドストーン首相の自由主義的な政策に影響され、インドの政治状況にも目を向けるようになります。また、ロンドンではインドの民族主義者でパルシー(インド国内のゾロアスター教徒)のリーダーであるダダバハイ・ナオロージーと出会い、彼の選挙活動のスタッフとして働きました。その甲斐あってか、ジンナーの留学中、ナオロージーはインド人として初めて英国議会の下院議員に当選しました。、
 1896年、ジンナーは帰国し、カラチに戻りました。ジンナーとしては、家の財力を背景にそのまま政界入りしようと考えていたようですが、帰国してみるとジンナー家は商売に失敗して苦戦している最中でした。このため、ジンナーは、生活のために弁護士として活動せざるを得なくなり、ボンベイで法律事務所を開設します。その後、民族運動に関連して逮捕された人の弁護に当たったりして、辣腕弁護士として名声を馳せました。
 ジンナーは温和で誠実な紳士であり、高潔な人格者でしたが、かなり退屈な人物であり、政治と法律にしか興味がありませんでした。また、確かにイスラム教徒でしたが、堂々とミッション系の高校に通っていたことからも分かるように、あまり熱心なイスラム教徒ではなく(他宗教への寛容という、イスラム教の古き良き伝統を体現していたとも言えますが)、宗教にも興味がありませんでした。さらに、女性にも興味を示しませんでしたが、この時期、家族の猛反対に遇って縁を切られながらも、パルシーの大富豪(多分、ナオロージーとの交際の影響が多分にあったと思われますが)ディンショウ・パティ卿の娘、ルーテンバイと再婚しています。
 1905年、ベンガル分割令への反対運動が活発になると、ジンナーはタダバハイ・ナオロージー(当時、国民会議派総裁)の熱烈な勧誘に応じて国民会議派に加入し、ナオロージーの秘書を努めました。
 
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