ヘルベルト・ヴェーナー
(1906−1990)
イッチー様より投稿いただきました。
+ ドイツ社会民主党(SPD)政権樹立・東方外交の影の立役者
(+ ナチスに反対)

− 目的のためには手段を選ばない
SPDのHP(http://www.spd.de)より引用
 1906年、ドイツ帝国ザクセン州の首府ドレスデンに貧しい靴職人の子供として生まれる。父は急進的な社会民主党員で、母も無学ながら息子に戦争の非道を教えた。両親の影響をうけたヴェーナーもまた社会主義労働者青年同盟に参加するが、1923年、社会民主党主導の中央政府によるザクセンの社共統一戦線政府に対する武力弾圧を目の当たりにして、社民党と決別する。当時、ドイツ中が第一次世界大戦後の混乱のなかにあり、ザクセンでも共産党が州政府の社民党政権を支持するひきかえに傘下の武装集団を公認されていた。共産党に近づいていたヴェーナーの父も独自の武装集団を組織しており、ヴェーナーはひときわ、ザクセンの武力鎮圧を許せなかったようだ。
 1924年、行政職業学校を卒業したヴェーナーは工場労働者として働きながら、アナーキズムに接近する。ベルリンに出てアナーキズム雑誌の編集部員となるもヴェーナーは、言論が現実の労働者の困窮を前にしていかに無力であるかを痛感する。1927年、共産党員の女優ロッテ・レービンガーと恋に落ちたヴェーナーは今度はドイツ共産党に入党する(アナーキストと共産党は一般に仲が悪く、スペインでは内戦中でもさらに「内戦の中の内戦」を起こすような連中ですが、こう簡単に思想を転換できたあたりが、彼らしいのでしょうか)。
 1930年、共産党からザクセン地方議会選挙に出馬、当選したヴェーナーはザクセンの共産党の若手指導者として注目を浴びた彼は、翌年、ベルリンの党本部に招かれる。ここでヴェーナーは一時、後に東ドイツの独裁者となるワルター・ウルブリヒトの個人的秘書をしていたらしいがこれは後の彼の人生を考えると非常に興味深い出来事である。1932年、党政治局書記に抜擢されるが、共産党は翌年、首相に就任したヒトラーによって非合法化される。ヴェーナーは地下に潜り、共産党の地下組織をよく指揮したが、1935年、ソ連に亡命した。
 当時、共産主義の総本山として理想の楽園として伝えられていたソ連であったが、実際は一部の共産党幹部が特権を一人占めし、多くの国民は物不足で苦しんでいた。そのうえ、多くの罪なき市民がスターリンの粛清の対象とされ、ヴェーナーも一時、秘密警察に拘禁された。このような体験から、ヴェーナーは次第に共産主義に幻滅するようになった。
 1941年、ストックホルムの党センターを指揮するため、スウェーデンに密入国したが、翌年、現地警察に逮捕され、投獄された。既にソ連に亡命した共産主義者グループの権力闘争に敗れていたヴェーナーはこのとき、非情にも共産党を除名される。そして、ヴェーナーもまた共産主義への決別を決意する。
 1946年、ドイツに帰国したヴェーナーは社民党に入党する。そして、今度は共産党つぶしの先頭にたった。西ドイツ社民党初代党首となったクルト・シューマッハーはヴェーナーを重用したが、肝心の西ドイツ社民党は票田だったザクセンなど工業地域が東ドイツ領となったため、選挙のたびにふるわなかった。
 シューマッハーが亡くなると、ヴェーナーは1959年にバート・ゴーデスベルク綱領を採択させ、党の路線を現実化させ、ホワイトカラー層などの支持を集める一方、指導力のないシューマッハーの後継者、オレンハウアーに代わって西ベルリン市長、ヴィリー・ブラントを首相候補に押し立てた。さらに、与党キリスト教民主同盟(CDU)とも密かに接触。1966年、ヴェーナーの工作の結果、CDUとSPDによる大連立内閣が誕生した。
 再軍備に反対し教条主義的だったシューマッハーが生きているうちは自らも教条主義的に振るまい、シューマッハーが亡くなるとCDUとの連立も辞さないヴェーナーの変節は当時、マスコミで強く非難されたが、ヴェーナーの悲願は社民党政権を実現し、東ドイツの労働者階級との連帯をすすめ、祖国再統一の下地を作ることにあった。
 1969年、SPDと自由民主党(FDP)による連立内閣が成立し、ブラントが首相となった。ブラントはこれまで国として認められていなかった東ドイツを承認し、東側諸国との関係改善をすすめ、ドイツの戦争責任についても率直に謝罪した。これは東方外交と呼ばれ、ブラントはノーベル平和賞を受賞するが、ブラントの権力維持のためにヴェーナーはあえて汚い手段にも手を染めていた。1972年、CDU総裁ライナー・バルツェルはブラント政権を倒すためにFDP議員を抱きこみ、「建設的不信任案」を提出する。(ドイツでは後任の首相候補とされた人物が過半数を制しない限り、内閣不信任案は認められない)このとき、ヴェーナーはCDUの金に困っている議員を買収して、バルツェルの野望をくじいた。1972年総選挙ではSPDが第一党に躍り出(それまで第2党でFDPとの連立で過半数を制していた)、SPDは黄金時代を迎える。しかし、女癖が悪く、言動の軽いブラントの限界を感じたヴェーナーは1974年、ブラントの秘書ギョームが東ドイツのスパイであることが発覚すると、ブラントに引導をわたし、ヘルムート・シュミットを新首相に据えた。シュミットは無難に国政をこなしたが、1982年、FDPの離反によってシュミット政権は崩壊し、SPDは再び野党に戻った。ヴェーナーがなくなったのはそれから8年後の冷戦崩壊後のことである。
 ヴェーナーは謀略家として、生前はその政治的変節を批判されたことがあったが、ヴェーナーの究極の目標は東西ドイツの労働者階級の連帯によるドイツ統一の実現とドイツ全体の労働者の解放にあったように思われる。
 曲がりなりにもドイツは統一し、国内では高福祉が維持された。さらにCDUからSPDへ政権交代が行われたことでドイツの民主主義は政権交代がいつでもあり得るという緊張感をもつことが出来、政党政治を活性化することが出来た。謀略家といっても、彼は信念をもった謀略家であり、ジョゼフ・フーシェや日本の政治家と比べれば、はるかに英雄の名に値する政治家といえよう。
戻る
切手にもなった!
stern magazin(http://www.ster n.de/)より引用
inserted by FC2 system