ナンセン その2 
北極点を目指して
 
 1881年6月13日、アメリカの探検家、デロング(George Washington DeLong 1844-1881)の探検船ジャネッ
ト号は、現在のノヴォシビルスク諸島の近くで氷に押し潰されて沈没しました。船を脱出した一行はシベリアを目
指しますが、途中で一行は離散、ジャネット号の乗員28名の内19名が死亡/行方不明となり、デロングも、ヤク
ーツクを目前にして餓死してしまいました。
 1884年、グリーンランド北西部の海岸で、ジャネット号の備品が発見されました。これらの漂着物には、デロ
ング本人のサインの入った書類や生存者の名前の入った衣類が含まれていたので、ジャネット号の遺品である
ことは間違いありませんでした。これに関して、ノルウェーの著名な科学者で、海洋学と気象学の専門家、ヘンリ
ック・モーン(Henrik Mohn 1835-1916)は、当時の既知の海流コースではグリーンランドに漂着物は流れてこな
いし、また漂着までの時間が短いことから、北極海には、北極点近くを通る短いコースを西北へ流れる未知の海
流があり、ジャネット号の遺品は、それに乗ってグリーンランドまで流れてきたとする説を発表しました。 
 モーンの説には賛否両論あったのですが、ナンセンは、アザラシ漁船での航海中に、グリーンランドの南端近く
で、アラスカ沖で遭難したアメリカ船の残骸(らしきもの)を目にしていたので、モーンの説に賛成していました。ま
た、グリーンランドの東西海岸で流木を調査した結果、流木のほとんどがシベリア産の樹木だったことから、18
90年2月、ナンセンは、北極海のどこかに、北極点を通ってグリーンランド東海岸へ向かう海流があるという自
身の見解をノルウェー地理学会で発表し、可能な限り東、極東シベリアの北極海岸あたりから船を出し、未知の
海流を捕まえ、浮氷塊とともに北極点の近くに到達すると言う探検計画を提出しました。
 モーン教授はナンセンの計画に賛成しましたが、この時は無謀、危険と言う反対意見が勝ち、計画は却下。極
海域で活動する探検船や捕鯨船などが流氷に挟まれ、何ヶ月も漂流した挙句に氷の圧力で押しつぶされるとい
う事件は多発していましたし、発想の根本が沈没したジャネット号の残骸であることを考えれば、反対論はけだし
当然です。
 それでもナンセンは、準備と予算獲得のための活動を開始しました。彼は既にノルウェーの英雄であり、二冊
のグリーンランド探検記の売れ行きは好調で、ヨーロッパの主要都市における講演も盛況だったので、資金調達
で以前のような困難に見舞われることはありませんでした。1891年5月、「ネイチャー(ご存知、科学者達のラス
ボスです)」に論文が掲載されると、イギリスの王立地理学協会では、ナンセンの計画を支持する声が大きくなり
ました。
 1892年、相変わらず「無謀、危険」という反対意見はありましたが、ノルウェー政府と議会の支援が得られる
ことになって費用の2/3が支出されることになり、残りに関してもノルウェー国民から多大な寄付が寄せられまし
た。さらに、イギリス王立地理学協会からは300ポンド寄付され(←大金ですが、全体的に見てはした金です)、ス
ウェーデンの実業家兼探検家のオスカール・ディクソン男爵からは、風車式発電機その他の電気設備を提供さ
れました。
 資金調達はわりと簡単でしたが、ナンセンは、探検の準備に「予想の5倍の困難に直面した」とコメントしていま
す。
 ナンセンがクリアすべき最大の問題は、浮氷とともに北極海まで航海出来る船の建造でした。計画が浮氷群と
ともに北上することに基づいている以上、氷の圧力に潰されないような特殊な船が絶対に必要でした。
  このためナンセンは、元海軍の技術士官で、設計の頑丈さと安全性に定評があった造船技師、コリン・アーチ
ャーに船の設計を依頼しました。船の建造費は当初の見込みの二倍の45万クローネに膨らみましたが、船は1
892年の暮れに完成し、ナンセンの妻、エーワの命名により「フラム号(Fram 英語のForward)」と命名されまし
た。フラム号は、船体下部の構造を強化してやや縦長の半円形に成型し、周囲の氷から船体を破壊するような
圧力がかかった場合でも、そのまま浮氷の上に押し上げられるように設計されていました。
 
 そして1893年6月24日、隊長ナンセン、及びフラム号船長オットー・スベルドラップ(Otto Sverdrup 1854-
1930)以下11名の乗組員、30匹くらいのソリ犬に、8年分の燃料と6年分の食料を積み込んだフラム号はクリス
タニアを出港。三年におよぶ冒険の航海に旅立ちました。

Australian dictionary of biography (http://www.adb.online.anu.edu.au)より
コリン・アーチャー (Colin Archer 1832-1921)
  スコットランド系ノルウェー人の二世。若い頃はオーストラリアで兄達とともに羊飼いをやっていた。その後、ノルウェー海軍を経て造船
所を開き、安全性の高い設計で名を成した。現在ノルウェーでは、彼の名を冠したヨットレースが開催されている。
Wikipediaより
オットー・スベルドラップ (Otto Sverdrup 1854-1930)
 家の持ち船の船長をしていたが、ナンセンの兄と友人であり、その紹介でナンセンとも知り合う。グリーンランド探検にも参加し、北極
点遠征ではフラム号の船長を勤めた。その後も引き続きフラム号を指揮して、カナダの北極海諸島を探検。20世紀に入ると、ソ連と協
力してバレンツ海やカラ海の調査や航路開発に従事した。
フラム号要目

排水量530t 厚さ2ft以上の船殻で三層構造。 
水線長 113ft(速度に関係する)
竜骨長103ft  
最大幅36ft
喫水17ft 
乾舷 3-6ft (水線部分よりも上の高さ。高いと荒天時の耐航性が増す。フラム号はかなり低め)
 
 三本マストのスクーナーで、エンジンは220hp 最大7ノット

 写真の手前の人物はナンセン


漂流

 フラム号はロシアの北岸に沿って東に向かい、1893年9月22日、シベリアはチュリスキン岬の北東、北緯77
度43分、東経134度の海上で予定通り浮氷群につかまって、漂流が始まりました。そして10月、フラム号は氷
に挟まれ、氷上に押し上げられました。実を言うと、フラム号の耐久性についてはあまりテストしておらず、ほぼ
ぶっつけ本番状態だったのですが、ナンセンはフラム号を信頼していました。
 ただ、フラム号は一度も危険に遭遇しなかったわけでもありません。北極とは、真っ平らな大氷原を想像する人
もいるかも知れませんが、実際には氷の塊が押しあいへし合いしており、氷が折り重なって盛り上がる「氷脈」が
できたり、氷の無い開水面が出来たりしています。1895年1月、フラム号は急激に形成された氷脈にのしかか
られ、大きく傾いてしまいました。確かに横からの圧力には耐えられたものの、上からのしかかられてはひとたま
りもありません。この時は、スベルドラップ船長が脱出の用意を命じる事態となりますが、幸いにも、氷の山はす
ぐに消えてゆき、フラム号は危地を逃れました。

 さて、フラム号は期待通り北西に向かって漂流し始めます。 道すがらフラム号の一行は、セイウチ、シロクマ、
キツネなど、出会う動物を片っ端から攻撃しています。何年かかるかわからない漂流なので、少しでも食料を確
保しなくてはならないし、まだ動物保護の概念がまだ浸透していなかった時代なので、仕方が無いと言えば仕方
が無いです。しかし、動物学者でもあるナンセンが、地球上の存在と言う点ではお仲間である野生動物に対し
て、後年に人類全般に対して見せた愛情を発揮しなかったことに、いささか違和感を覚えます。あくまで、現代人
の視点ではありますが。
 
 漂流開始から一年後、漂流コースを検討したところ、期待したほどフラム号は北へ流れていきそうに無く、ナン
セン一行は、理想的な場合でも北緯87.5度までしか到達しないだろうと結論しました。また、北からの風が予想
以上に強く、しばしばフラム号は南に流されることもありました。このため、1894年11月の時点でナンセンは、
フラム号を降りて、スキーと犬ぞりで北極点を目指す計画を立て始めました。
 そしてフラム号が北緯84度に達した1895年2月、ナンセンはフラム号を降ります。ナンセンが選んだ旅の相
棒は、ハイアラム・ヨハンセン(当時28才)。フラム号では機関の罐焚きでしたが、元陸軍士官で、力持ちで頑丈な
男であり、腕の良い犬ぞりの御者で、探検の相棒としては最適でした。
 グリーンランド東岸を出発したのと同じく、これはかなり無謀な背水の陣でした。例え北極点に到達することが
出来たとしても、その時には帰るべきフラム号はどこかに流れ去っているはずであり、現代のような通信手段を
欠いている以上、完全な片道切符でした。だからフラム号との会合は最初からあきらめていて、帰路は一番近い
陸地であるゼムリャ・フランツ・イオシファ諸島を目指す予定でした。

 出発からして旅は簡単ではありませんでした。1895年2月25日、ナンセンとヨハンセンは、四台のソリに荷物
を積み込み、五人の乗組員とともにフラム号を出発しました。しかし、ソリが過積載で氷の盛り上がりを越えるこ
とができず、わいわいやっているうちに荷物の重さでソリが破損、数時間であきらめて引き返しますが、帰り道で
もまた、玉突き衝突でソリが一台破損しました。ナンセンとしては、フラム号に万一のことがあった場合、乗員の
脱出手段を考えて、遠征に使うソリの数を少なくしようとしていたのですが、この配慮が過積載を招いたのはあき
らかでした。
 そして2月28日、今度はソリを6台に増やして再度出発、荷物の重みで速度は鈍かったものの、食料の消費と
供に荷物は軽くなるので大丈夫だろうと判断し、3月1日、同行していたフラム号居残り組と別れました。しかし、
二人きりになってみれば、6台ものソリはとても二人で扱えないと言うことが判明します(←バカ)。3月3日、ヨハン
センを留守番にして、荷物を下ろした一台のソリに乗ったナンセンはフラム号へ引き返し、行きに三日かかった
ところを、ほんの二時間ばかりフラム号にたどり着きました。その後、ヨハンセンと残りのソリを回収してから、計
画を見直し、過積載でも壊れないように補強した三台のソリで遠征を行うことにしました。また、荷物の量を減ら
すため、そり犬用の食料を減らすことにしました。

 3月14日、それぞれ9頭の犬に引かせる三台のソリに、カヤックと犬の食料30日分、人間の食料100日分を
積み込み、三度目の正直で、今度は無事にフラム号から出発することが出来ました。犬の食料については、ナン
センの計算では、不要になる犬を殺してエサにすることで、さらに50日分食いつなげるはずでした。
 しかし、氷の状態が悪くでこぼこ道の連続で、さらには開水面や、うずたかく盛り上がった氷脈などにに迂回を
余儀なくされたりして、ひどいときには一日の移動距離がわずか6キロなど、旅は難渋しました。そして出発から2
5日目の4月8日、北緯86度14分に達したところで、帰路の分の犬の食料がぎりぎりとなり、ナンセンは前方に
延々と広がる氷脈を目にして、それ以上の北進は危険だと考え、退却を決断しました。北極点まで後400キロ。
状態さえ良ければ一週間ほどの強行軍で到達可能な距離であり、ナンセンとヨハンセンの悔しさは察するに余り
あります。もっともナンセンは、「極北」の中で、未踏査の部分を探検することが第一目的であって、北極点に行
けないなら行けないでそれでも良かった、とコメントしていますが。しかし、この北緯86度14分という到達地点は
人類史上空前であり、ピアリーが北極点に到達するまで破られることはありませんでした。もっとも、ピアリーが
本当に北極点に到達したかどうかにはギモンがありますが。
 ナンセンの計算では、そこから南へ500kmばかり下ればペーターマン島と言う島があり、食糧にもかなり余裕を
持って硬い陸地にたどり着けるはずでした。そして、人生とは概してこんなもんかも知れませんが、南に向かい始
めると、いきなり真っ平らな氷が続くようになったので、当初、南への旅は以外に順調でした。
 問題は、ナンセンが目指したペーターマン島が実在しない幻の島だったということです。この島は、ドイツの著
名な地理学者ペーターマン(August Heinrich Petermann 1822-1878)が、オーストリアの探検家パイヤー
(Julius von Payer 1841-1919)の、ゼムリヤ・フランツ・イオシファ諸島探検の報告に基づいて推定した島です
が、有名なサンニコフ島を代表格として、北極海では、馬鹿でかい氷山の見間違い、蜃気楼、単なる位置の測定
ミスなどで、近年までその存否の不明な島が多数報告されていました(詳しくはここ→望夢楼ttp://homepage3.
nifty.com/boumurou/内 「幻想諸島航海記」参照)。19世紀の極地探検家は、多かれ少なかれ、この種の幻
の島に振り回されています。
  南下につれて再び氷の状態が悪くなり、ナンセンとヨハンセンの歩みはまた遅くなります。そして5月の半ばに
なると、ペーターマン島なんて影も形も存在しないことが判明しました。それどころか、天測の結果、ナンセン達
はエスカレーターで逆向きに歩くがごとく、氷群もろともかなりの速度で北東方向に流されていることが判明して、
思ったほど南に向かっていないことが明らかになりました。緯度に関しては天測で正確に算出できますが、現在
のような航法システムが存在しない以上、経度は移動距離から推測するしか方法がありませんでした。流される
速度がわからないため、この時点でナンセン一行は、経度に関して完全に位置を見失って迷走を続け、道の悪
さも手伝って、結局延々3ヶ月以上にわたって北極海を彷徨することになりました。食料は確実に減っていき、飼
料確保のため、犬も殺していかざるを得ない。ナンセンらが最も野垂死にに近づいたのは、この時だったと思わ
れます。
 そしてフラム号を出て132日目の7月24日、ついに陸地を発見しました。ナンセンはそこをゼムリャ・フラン
ツ・イオシファ諸島の一部だと推測しました。しかし、またここで氷の状態が悪くなって速度が鈍り、霧が出たり、
ヨハンセンがシロクマに殴られたりもして(無傷で切り抜けた)、実際に島に上陸できたのは8月7日になってから
でした。
 そこから南には広大な海面が広がっていたので、もはや犬ぞりは不要と、最後に残ったそり犬二頭を射殺した
後、ナンセン一行はカヤックの旅に切り替え、島伝い南下を開始しました。カヤックは帆走装置付きで、なかなか
性能は良かったとナンセンは書いていますが、なんせ自作で急ごしらえなので漏水が激しく、速度が上がりませ
んでした。そして、荒天を避けるために上陸した島で日を過ごすうちに9月になり、吹き寄せられた流氷に島が完
全に包囲されてしまったので、ナンセンはやむなく、そこで越冬する決断を下しました。

関係図 (Googleアースより)

 ナンセンとヨハンセンは、解体したそりの部品やスキー、仕留めたセイウチの骨などで急ごしらえの道具を使っ
て、石と土で壁をつくり、セイウチの皮で屋根を作って越冬小屋を建てました。そして、本格的な冬の到来の前
に、シロクマやセイウチを射殺して肉を調達し、時にはシロクマの獲物を横取りするようなことまでして、食糧を蓄
えて、冬を乗り切りました。この越冬に関しては、ただ退屈だっただけで平穏だったと言う事です。二人とも壊血
病にかかったりしなかったのは、グリーンランドで研究したエスキモー(現イヌイット)のサバイバル技術に負うとこ
ろがあったのでしょう。
 1896年5月、解氷とともにナンセンとヨハンセンは、再びカヤックの旅を開始します。小さな島が点在するだけ
の航路を、漏水のするカヤックでどうやって突破するつもりだったのかはわかりませんが、ナンセンは、採掘のた
めに夏の間は人が居るスピッツベルゲンを目指すつもりでした。
 ところが6月15日、ナンセンのカヤックがセイウチに噛みつかれて、撃沈されてしまいました。装備もろとも海
に放り出されたナンセンは、どうにかヨハンセンに助けられて近くの島に逃げますが、その島で回収した装備を
乾かしていた6月17日、イギリスの探検隊にばったり出くわします。
 この探検隊は、フラム号がノルウェーを出発する前から派遣が計画されていた探検隊で、ナンセンとも面識が
あるジャクソン(Frederick George Jackson 1860-1938)が指揮を執っていました。そして巡り合わせか、ナンセ
ン一行に宛てたノルウェーからの手紙を持参していました。フラム号一行が生死不明で、ノルウェーでは心配す
る声があったからです。そして、ジャクソンが最初にナンセンとヨハンセンを見た時、フラム号が沈没して、たった
二人しか生き残らなかったのだと勘違いしたのは無理からぬことでした。
 その後ナンセンらは、ジャクソン隊の補給船ウインドワード号の到着が遅れたため、8月まで島に滞在した後、
ウインドワード号でノルウェーへ帰国、8月16日、ノルウェー北端のハンメルフェスト市に到着し、たまたま滞在し
ていた友人のベーデン・パウエル卿(Robert Stephenson Smyth Baden-Powell 1857-1941 ボーイスカウトの
創始者)のヨットに宿泊しつつ、ノルウェー国民の歓迎を受け、妻エーワと再会しました。

写真なし m(_ _)m



フレデリク・ハイアラム・ヨハンセン
(Fredrik Hjalmar Johansen 1867-1913)
 探検家。元ノルウェー陸軍の歩兵士官。ナンセンは彼の人柄を絶賛しているが、飲んだくれて
軍隊から放り出されていた人物。必用な時には酒を断つことが出来る人なのだが、フラム号の探
検から帰国後は、極地探検に従事しつつもまた飲んだくれとなる。
 しかし、ナンセンの強い推薦によりアムンゼンの南極探検に参加した。アムンゼン隊の中でもっ
とも経験豊富な探検家であるヨハンセンは、酒を断ち、犬ぞりの御者として大活躍して、さらには
クレバスに落ちた隊員をその大力で引っ張り挙げるなど、少なくとも二人の命を救った。南極点到
達を目指すアタック隊員に選ばれていたが、出発の時期を巡ってアムンゼンと意見が対立したた
め、最終的にアタック隊から外された。
 1913年に自殺してしまったが、ナンセンの探検行と南極点到達の隠れた功労者として、1990
年代頃からノルウェーでは評価が高まっている。
 
 なお、ナンセンはヨハンセンを高く評価していますが(一年以上も二人きりで過ごせた仲です)、
アムンゼンはほとんど無視しています。


ロアール・アムンセン(Roald Engelbregt Gravning Amundsen 1872-1928)

17歳の時、ナンセンのグリーンランド遠征に感動し、探検家の道に。北極海北西航路突破、南極点一番乗り、北極海横断飛行などを達成した世界最高の探検家。遭難した友人を救出すべく北極海に向かい、行方不明となった。
ナンセンとヨハンセン、フラム号を降りるの図(何回目の出発かは不明)
 
 さて、フラム号はどうなったかと言えば、スベルドラップ船長の指揮の下、氷に担がれて北極海を東から西まで
横断し、ナンセンがイギリス隊に遭遇した頃に浮氷群から離脱、ノルウェーの目と鼻の先、スピッツベルゲンに到
着します。そしてナンセンに遅れること4日、8月20日にフラム号はトロムソ港に入港して、ナンセンの無事を確
認しました。連絡を受けたナンセンはすぐにトロムソに向かい、8月21日、フラム号の一行と再会します。フラム
号は、乗組員の誰一人として健康を損ねることなく、無事に三年の旅を乗り切ったのでした。


 ちなみにフラム号、惜しくも北極点一番乗りの栄光は逃しましたが、後に新たな持ち主の下で栄光を掴みまし
た。その持ち主とはノルウェーが生んだもう一人の英雄、誰あろうあの偉大な探検家、ロアール・アムンセンで
す。フラム号はアムンゼンの南極点遠征に使用され、見事にアムンゼンは南極点一番乗りを果たしました。南極
点到達に関しては、イギリスのスコットとの競争が有名ですが、石炭を燃料としていたスコットの船に対して、重油
を燃料としていたフラム号は、燃料に必要なスペースと重量が少なくて済む上に、カマ焚きが必要ない分機関担
当の人員も少なく、定期的に掃除して石炭ガラを捨てる必要も無かった。このような目立たないところでフラム号
は、アムンゼンの優位に貢献していました。
 
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