デュゲイ・トルーアンその9 デュゲイ=トルーアン、病気になる デュゲイ=トルーアンは、貴族に列せられても相変わらずコルセールでした。1709年10月、トルーアンは、旗 艦「le Lys(74)」以下、「la Dauphine (54)」「l'Achille (64)」「le Jason (54)」「l'Amazone (36)」を率いて、インド 帰りの船団を狙ってアイルランド南部海域へ出動しました。肝心の船団には遭遇できませんでしたが、10月26 日、クリア岬沖で、就役後一ヶ月のピカピカのイギリス艦「グロスター Gloucester (60)」に遭遇し、トルーアンの 戦隊は酷い損害を被りながらも、これを拿捕しました。なお、トルーアンの回顧録には、「グロスター」の拿捕は1 710年の出来事の中に書かれていますが、イギリス側の記録から、間違いなく1709年10月の事件です。 ちなみに、「グロスター」のサー・ジョン・バルチェン艦長(Sir John Balchen 1670-1744)は、リザード岬沖海戦 でも、トルーアンに乗艦「チェスター」を拿捕された人物でした。捕虜交換で帰国したパルチェン艦長は、その勇 敢な戦いぶりを称賛されて艦長復帰を飾ったばかりだったのですが、またもやトルーアンの捕虜となる不運に見 舞われたのでした(もっとも、パルチェン艦長はトルーアンの紳士的な態度を褒めています)。 パルチェン艦長は、またも捕虜交換で早々にイギリスへ帰り、またまたその勇敢さを称えられて海軍に留まりま した。そして、74歳になるまで海に出続け、少将にまで進級しています。1744年、高齢ゆえに海軍病院の院長 という名誉職にまわされ、「サー」の称号を授けられましたが、在任二ヶ月でまた海に引っ張り出されたのが最後 の不運であり、乗艦「Victory (100)」が嵐で行方不明、死亡と認定されました。 ま、それはさておき、サー・ジョン・バルチェンほどではないですが、この時のトルーアンもけっこう不運でした。 肝心のインド帰り船団は濃霧の中で取り逃がし、「グロスター」の他に、獲物はタバコを積んだ商船一隻という乏 しい戦果で帰路につかねばなりませんでした。そこでさらに、トルーアンが病に倒れてしまいます。かなりの重体 だったようであり、彼自身も、ブレストへ入港した時には「死んでるみたい」だった、と述べているくらいでした。 デュゲイ=トルーアン、リオデジャネイロを襲撃 1710年8月、フランスのコルセール、ジャン・フランソワ・デュクレルク(Jean-François Duclerc ?-1711) は、6隻の艦船と1000-1200人の人員を率いて、当時はポルトガル領のブラジル、リオ・デ・ジャネイロを攻撃し ました。首尾よく上陸はしたものの、休戦交渉が決裂している間にポルトガルの増援が到着していたので、デュク レルクの攻撃は粉砕され、約400人の戦死者を出したうえに、デュクレルクを含む残りは捕虜となりました。 一方、(何の病気かよくわかりませんが)トルーアンが健康を取り戻すのには、何ヶ月もかかりました。そしてそ の療養中、トルーアンもまたリオ・デ・ジャネイロ遠征を計画して、スポンサー集めを始めました。はっきりとはわ からないですが、ブラジル遠征を考えたはじめた時、恐らくトルーアンはデュクレルクの作戦とその顛末は知らな かったと思われます。 これまでトルーアンは、ブラジル船団がらみでは失敗が続いていたので、船団の出発点を叩こうと考えたようで す。また、あまり知られていないことですが、1555年から67年にかけての短い間、リオ・デ・ジャネイロ市のすぐ 近くには、ユグノーを中心とするフランス人の入植地がありました。この入植地はポルトガルに武力で排除された ので、どうも当時のフランス人には、この地に遺恨めいたものがあったようです(ユグノーを弾圧したクセに…)。 リオ・デ・ジャネイロ遠征計画には、トルーアン家は勿論、トルーアン自身も多額の自己資金を出資し、トルーア ン家の盟友ダニカン家を始めとする、サン・マロの大物商人達からの賛同を得ることが出来ました。それからトル ーアンは、ベルサイユ宮と海軍省に対して、必要な人員と艦船の拠出を要請しました。当時のフランス海軍の戦 力は、公平に言ってまだまだ強大でしたが、例によって予算不足のため、多数の軍艦が港で無為に過ごしていた のです。 デュクレルクの敗北がフランスに伝わると、当然ながらスポンサーの熱意も、首脳部の熱意も一時は冷めまし た。しかしながら、捕虜になったデュクレルクらに対する、リオ・デ・ジャネイロ市当局による虐待がフランスにも聞 こえてきて、しかも先方が捕虜交換に応じないことから、フランスの威信の点から見ても、彼らを救出すべしとの 声が出ました。 また、この時すでに、スペイン継承戦争も10年目に入ろうかとしており、フランスは財政的に限界でした。170 9年には飢饉も発生しています。ここいら辺りになってようやくというべきか、国王ルイ14世も、(私掠遠征とは違 って)配当金の無い戦争努力に本格的に個人資産を投じていました。 おまけに、1709年以降は陸上の戦況も思わしくなく、フランスは、(スペイン領である)イタリアとネーデルラント を既に失い、反仏同盟軍はネーデルラント方面からついにフランス本土に侵入して、大損害を受けつつもフラン スの防衛線を押し下げていました。スペインでは、なんだかんだとフェリペ国王の人気がうなぎ登りで、結果として フランス側は優位を保っていましたが、それでも、カタロニアが反仏同盟軍に支配されている状況でした。このよ うな状況であるからこそ、フランス王国としては、(例え大局に影響が無くても)景気の良い勝利を、それも文字ど おりの意味で景気が良いであろう、リオ・デ・ジャネイロの掠奪のような勝利を上げねばならなくなります。 トルーアンが資金の目途がついていると確約したこともあって、トルーアンのブラジル遠征計画は、海軍大臣ポ ンシャルトラン伯やフランス陸海軍の総司令官ツールーズ伯の賛同が得られ、順調にルイ14世の前に上がって 行き、計画は、1710年12月に国王の承認が得られました。 デュクレルクの失敗は、兵力が過少であったためと考えられており、必要とされる艦船と人員も増大しました。 そのため、遠征の費用は70万リーブルとも言われ、サン・マロからの出資だけでは間に合わなくなり、最大の出 資者ツールーズ伯をはじめとして、フランス全国から出資者が集められました。トルーアンもさらに多額の自己資 金を投じることになり、遠征の失敗は破産に直結する状態となります。 遠征の準備は、機密保持に注意を払いつつも極めて迅速に進められ、2ヶ月ほどで準備は完了。用意された のは、トルーアンの旗艦でお馴染みの「le Lys」以下、戦列艦6隻、フリゲート艦8隻、そして、本業は沿岸航路船 であるガリオット(漕走もできる船)を、陸上砲撃用の臼砲艦(ボムシップ)にしたもの3隻の計17隻、大砲738 門、船員およそ3800人に、フランス陸軍から派遣された兵士も併せて人員6139人(5684人?)という大部隊でし た。艦長達は、現役のコルセールや、コルセール出身の海軍士官から選ばれました。ブレストだけでは在泊艦も 人員も足りず、ダンケルク、ロシュフォール、ラ・ロシェルの艦船が動員され、さらに港湾設備も足りなかったの で、一部の艦は整備のためにサン・マロに回航されました。こうしたことは、単一の大規模な遠征ではなく、個別 の小規模な遠征であると見せかける欺瞞工作も兼ねていました。 リオデジャネイロ遠征艦隊(トルーアンの回顧録より)
のだろう。 しかしながら、機密保持に注意を払っていたと言いつつも、情報は概ねイギリスに漏れていました(当時にあっ ては珍しいことではありません)。そして、イギリス海軍はブレストを封鎖しようとしていました(こっちもフランスに 情報もれもれ)。そういうわけでトルーアンは、当初はブレストに設定していた集合地点を、フランス南部のラ・ロ シェル沖に変更して、1711年6月3日、ひそかにブレストを出港しました。これは極めて絶妙なタイミングであ り、トルーアンの出港を阻止するために、サー・ジョン・リーク(Sir John Leake 1656-1720)率いる20隻のイギリ ス艦隊がプレスト沖に現れたのが、この二日後でした。 6月9日、フリゲート「l'Aigle」を除く遠征艦隊は、無事にラ・ロシェル沖に集合。トルーアンいわく、「金羊皮を取 りに行く現代のイアソン」一行は、大西洋横断の旅に乗り出しました。 幸先よくもリスボン沖でイギリス商船1隻を拿捕すると、7月6日に、ベルデ岬諸島近海で遅れていた「l'Aigle」と 会合しました。その後は南下をつづけ、8月11日に赤道を越え、8月19日にアセンション島沖を通過し、8月27 日、ブラジルのバイーア近くに到着。そこでこっそり給水したのちに再び南下し、9月11日、トルーアンの艦隊は リオ・デ・ジャネイロ沖に姿を現しました。 一方のリオ・デ・ジャネイロ市はと言えば、トルーアン艦隊の来襲を事前に察知していました。ブレストを偵察し たリーク提督は、港内に艦隊がいないことを知るや目的地を正確に察知し、高速船を送って警告を発していたの です。その高速船は、リスボンを経て8月末にリオ・デ・ジャネイロに到着しており、リオ・デ・ジャネイロ総督のド・ カストロ(Francisco de Castro Morais, 生没年不詳 在任1697-99,1710-11)ら当局者は、余裕を持って迎撃の 準備を整えることが出来ました。 正規兵は直ちに配置につき(普段どこにいたの?)、民兵には臨戦待機が命じられ、近隣の州にも援軍を求める 使者が送られました。またこの時、リオ・デ・ジャネイロ港には、商船隊の護衛のためにダ・コスタ提督(Gaspar da Costa da Ataide 生没年不詳)率いる戦列艦4隻(砲56-74門)が停泊中であり、これらは直ちに湾口を守る 泊地に移動しました。さらに数日後、トルーアンの艦隊らしき目撃報告が寄せられたので、リオ・デ・ジャネイロの 緊張はピークに達します。 そんなこんなで、臨戦態勢の数日が過ぎましたが、もう大丈夫と、ド・カストロ総督が警戒態勢を解除したのは、 間の悪いことに9月11日でした。 関連図(グーグルアースより) かくして翌9月12日朝、艦長がリオ・デ・ジャネイロを訪れたことがある「Magnanime」の先導のもと、トルーアン の艦隊がグアナバーラ湾に突入した時、彼ら自身も望むべくもないと思っていた奇襲となったのでした。それも、 朝靄の中から突然現れると言う、エフェクト付きのカッコいい登場でした。このあたりの経緯は、よほど印象的だ ったのか、トルーアンの回顧録では珍しく、はっきり日付が書かれてあります。 上の衛星写真でわかるように、グアナバーラ湾口は狭くて守り易い地形であり、入口の両岸には、それぞれ40 門ほどの大砲を備えた要塞があったのですが、肝心の守備隊が、あわせて30人ほどしか配置されていませんで した。それでも、要塞の守備隊員達は果敢に任務を果たしたので、トルーアンの艦隊は、先頭の「Magnanime」 以外はしこたま砲火を浴びせられ、グアナバーラ湾内側の射程外に移動するまでに、死傷300人の大損害を受 けました。 とは言え、この日のリオ・デ・ジャネイロのまともな抵抗はここまでで、それからは奇襲に混乱するばかりでし た。しかも、何を慌てたのか、火薬集積所で爆発事故を起こしてしまい、大混乱に拍車がかかりました。停泊して いた戦列艦4隻も、「Magnanime」の砲火を浴びせられると、戦うことなく錨綱を切断して逃げ出し、拿捕されるの を避けようと陸岸にのしあげるありさまでした。 湾内に入ったトルーアンの艦隊は、リオ・デ・ジャネイロ市眼前のコープラス島に停泊しました。9月13日、de Goyon勲爵士が指揮する上陸部隊が、コープラス島の要塞を占領して(守備隊は既に逃げ出していた)、大砲を 移動させると、リオ・デ・ジャネイロ市の死命を制する位置を押さえました。その日の夜、トルーアンの3300人か らなる本隊と、重症の壊血病患者500人が、市の北西半マイルのところに上陸しました(壊血病患者も併せて 3300人とも言われる)。守備隊の抵抗はあまりなく、トルーアンらは簡単に市街を見下ろす丘を占領して、翌14 日から、コーブラス島の要塞や海上の艦とともに、リオ・デ・ジャネイロ市街を砲撃しはじめました。人的被害を避 けての、建物の破壊を優先した攻撃でした。 リオ・デ・ジャネイロ守備隊が落ち着きを取り戻したのは、ここいらあたりでした。市の守備隊は、民兵も含めて 1万人を超えており(トルーアンの回顧録には1万3千人)、前年のデュクレルクの攻撃の時に実戦を経験した者 も多くいました。その上さらに、ミナス・ジェイラス州からはこれまた1万人近い援軍が進軍しつつあり、守備側と しては、ただ時間を稼ぐだけで良かったのでした。 しかし、落ち着きを取り戻すとともに、リーダー間では責任の押し付け合いが始まりました。総督とダ・コスタ提 督は優柔不断であり、しかもそこに教会関係者からの要らない口出しがあったりして、当局はおよそマトモな指揮 がとれる状態ではありませんでした。そうした優柔不断と無策により、守備隊は一方的に砲撃を受けるだけで、 士気は低下の一方をたどります。 しかし、守備隊にはGil de Bocageと言うフランス人士官がおり、彼が脱走した捕虜のふりをしてフランス側の 配置を調べ、その情報をもとに総督を説得して、反撃の許可を得ました。 9月17日、リオ・デ・ジャネイロ守備隊は、街から討って出ました。フランス側は完全に不意を突かれて混乱し ましたが、残念なことにポルトガル側の攻撃は失敗します。このため、総督はまた消極的になり、反撃に出る事 を厳禁しました。この後でもそうですが、ド・カストロ総督は、好戦的な決断と臆病な決断の落差が激しく、こうした 姿勢は守備隊をいたずらに混乱させるばかりか、士気をさらに低下させました。 9月19日、総攻撃の準備が整ったので、トルーアンは降伏交渉のため、ド・カストロ総督との面会を求めまし た。さる5月11日、獄中のフランソワ・デュクレルクは、謎の覆面集団によって殺害されていました。さすがにこ れはリオ・デ・ジャネイロでも問題になりましたが、犯人は不明のままでした。トルーアンは総督に対し、降伏の他 に、デュクレルクの部下達の釈放、デュクレルク殺害事件の犯人と捕虜虐待の責任者の処罰と、そうした行為に 対する賠償金の支払いも要求しました。 総督はトルーアンとの面会は拒否しますが、書面で回答を寄こし、デュクレルク殺害への自身の関与は否定し た上で、犯人は見つけ次第処罰する、捕虜虐待の事実は無く、皆殺しにすると息巻く黒人達から保護しているだ けだ、降伏はせずに最後まで町は守り抜く、と返答しました(この時、総督は好戦的だった)。 当然の結果として、トルーアンは砲撃を再開したので、9月21日、総督は主だった者を集めて方針を協議しま すが、総督も含めた多くが、街から避難すべしと主張しました(総督は臆病になっていた)。とは言え、守備隊の士 官達の説得で総督は考えを変え、その日の夕刻、総督は、持ち場を離れたものは死刑に処すとの布告を発し て、徹底抗戦の構えを見せました。 しかしその夜、士気が崩壊した一部の民兵隊が、勝手に持ち場を離れて退却し始めます。そして夜10時頃、 総督は市民と守備隊に市外への避難を命じ、自身もリオ・デ・ジャネイロから退去しました。夜の闇と折からの大 雨も手伝って、市内はたちまち大混乱となりましたが、この悪天候が幸いして、フランス側は、脱出が始まったこ とに全く気が付きませんでした。 で、翌22日の早朝、デュクレルクの副官だったという人物がフランス側の陣地に現れ、市の守備隊が退去して いると知らせました。 トルーアンはその情報を信じられず、罠と疑って用心しいしい市内に入りましたが、そこで見たものは、脱走し たデュクレルクの部下達が、住人がいなくなった市内を好き勝手に掠奪している姿でした。 トルーアンは、これらデュクレルク隊の生存者360人を配下に加え、勝手な掠奪を戒めました。この時、教会で 掠奪を働いた者18人をその場で銃殺したということです。そう言うトルーアンも、実は教会を占領したり、守備隊 の砲台があったベネディクト会の修道院を砲撃したりしているのですが、ツッこんではいけません。教会や修道院 が、概して見晴らしの良い高台にあったため、砲台や指揮所と同居する破目になったのです。 リオ・デ・ジャネイロ市街を制圧したトルーアンらは、市内のイエズス会の教会で(勝手に)勝利を祝うミサを行っ てから、市街を組織的に掠奪しました。市街地の陥落によって、周辺の要塞は戦意を失い、守備隊が脱出する か降伏するかしたため、これらの要塞もフランス側の手に落ちました。 さて、避難が急だったため、市内には住民の家財の多くが残されていたのですが、金塊の備蓄などは最初の 警報の時点で運び出されていたので、残念ながら、掠奪は大した儲けにはなりませんでした。そういうわけでトル ーアンは、総督に対して前回と同じ条件を突きつけました。また、地元の逃亡奴隷から、援軍が接近中と知らさ れていたのでいささか焦り、即時の支払いが無ければ、市街地と占領した要塞を破壊するとも脅迫しました。 総督は、ミナス・ジェイラスからの援軍に期待して返事を引き延ばしましたが、その後の戦闘で信頼していた部 下が戦死したため、結局は戦意を失って降伏。イエズス会の司祭を仲介として、トルーアンと降伏条件を交渉し ました。 その結果、市街とその周辺の防御施設を破壊しない代償として、トルーアンはリオ・デ・ジャネイロ当局から、金 貨61万クルサドス(cruzado)、砂糖5千箱、牛2百頭を受け取ることになりました。この身代金は街の富裕層から 徴収され、ド・カストロ総督自身も相当な額を支払ったようです。 金貨61万クルサドスは、フランスの91-92万リーブルに相当し、現代日本の感覚では18-20億円程度です。 しかし、これでもまだトルーアンの満足がいく金額ではありませんでした(遠征の費用が70万リーブルだったこと を思い出して下さい)。そのため、港の船舶や市内の家屋敷については、その所有者が個別にフランス側と交渉 して買い戻す許可も認めさせました。 この降伏協定は10月10日に調印され、リオ・デ・ジャネイロの有力者4名が、支払いの保証としてフランス側 の人質となりました(しかし、デュクレルク殺害の犯人は現在に至るも不明なままで、彼やその部下への虐待に対 する賠償の名目はウヤムヤになったようです)。 その2週間後、ミナス・ジェイラス州からの援軍の先遣隊が、リオ・デ・ジャネイロに到着しました。この援軍は、 9月21日に要請を受けて出発したものの、折から大雨で道路が通行困難となり、行軍は難渋していました。そこ へ、10月15日に、リオ・デ・ジャネイロ陥落のニュースを受け取り、さらにその数日後には降伏の報せを受け取 りました。この援軍がやったことと言えば、トルーアンから大量の火薬を買い戻しただけでした。 11月13日、戦果にはまだ不満が残ったものの、トルーアンの艦隊はリオ・デ・ジャネイロを出港しました。出発 に先立ち、海岸にのしあげていた戦列艦4隻(フリゲート2、戦列艦3とも)と、ポルトガルの民間船およそ60隻を 破壊しています。それから、ヨーロッパで高値で売れそうにない掠奪品を拿捕船に積み込んで、遠く南米の太平 洋側、スペイン領ペルーへ送りました。分捕った黒人奴隷達は、フリゲート「Aigle」を護衛につけて仏領ギアナに 送りました。またトルーアンは、掠奪されていた教会や修道院の家財や備品を全て返却しており、さらに、異端審 問にかけられていたユダヤ系市民何人かを保護して、フランスに連れて帰っています。 リオ・デ・ジャネイロを出港したトルーアンは、バイーアを攻撃するため北上しようとしましたが、強い逆風のた めもあきらめて帰路につきます。そして、大西洋を横断し、アフリカのギニア湾を経て北上しました。 1712年1月29日、向かい風の大嵐に遭遇し、トルーアンの艦隊の維持が困難と見て、各個にフランスへ向 かうように命じました。 トルーアンの「Lys」は、酷い損傷を被りながらもアゾレス諸島沖で何隻かの僚艦と出くわし、幸いにもイギリス 海軍の哨戒線にひっかかることもなく、2月6日、僚艦ともども無事にブレストへと帰還しました。その翌日、 「Achille」と「Glorieux」がブレストに入港し、同日、「Chancelier」「Glorieuse」とボムシップ2隻がサン・マロにた どり着きました。元沿岸フェリーのボムシップが、よく嵐に耐えられたものです。さらに数日後、全てのマストに損 傷を受けた「Mars」が、ポルト・ルイへたどり着きました。 しかしながら、戦列艦「Magnanime」「Fidele」の二隻は、およそ1200人の全乗員とともに行方不明となりまし た。「名前とともに不運も受け継ぐ」のは、船の世界ではよく知られたジンクス(伝説?)ですが、「Fidele」にはこれ があてはまり、先代「Fidele」、1671年就役の60門戦列艦もまた、1676年に難破しています。 しかし、そうしたジンクス以上に切実な問題は、「Magnanime」に60万リーブル分の金貨(金貨50万クルザード とも…)と多量の砂糖が積まれていたことであり、この遭難によって掠奪品の半分近くが失われたのでした。 しかしそれでも、ペルーやギアナに送った船が無事に帰国したこともあって、リオ・デ・ジャネイロ遠征は160万 リーブル程度の成果をあげました(ポルトガル側の被害額は、200万英ポンドとも400万英ポンド=現代の400- 800億円相当と言われています)。 出資者への配当率は92%となり、遠征に参加した将兵にも十分な報酬が支払われました。そして、金銭的な成 功度合いはどうあれ、トルーアンは大いに賞賛され、ルイ14世にも拝謁して、年金2000リーブルの褒賞を受けま した。しかしそれでも、儲けが少ないという不満はあったようで、トルーアンには、「Magnanime」沈没にかこつけ てのネコババ疑惑が、かなり後になるまで付きまといました。ジャン・バールやジャック・カサールの例をみるまで もなく、こういう疑惑はコルセールには宿命的なものなのでしょう。 デュゲイ=トルーアン、平穏に引退する さて、トルーアンがブラジル遠征の準備をしている頃、さしもの長きに渡ったスペイン継承戦争にも、和平の兆 しが見え始めていました。1711年、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世(1678-1711、在位1705-1711)が崩御したの で、その弟カール大公が、カール6世として神聖ローマ皇帝に即位しました。つまり、自称スペイン国王カルロス であるカール6世を頂いたまま、フェリペ5世を打倒すれば、オーストリア/スペイン連合王国という別の超大国が 出現しかねない事態となったのです(もともとハプスブルグ家一門なので、フランス/スペイン連合王国よりもずっ と現実的)。これで、イギリスとオランダは一気に戦意を失いました。 そんでもって1713年、ユトレヒト条約が締結されました。その結果イギリスは、スペインからジブラルタルとミノ ルカ島を割譲され、中南米地域のスペイン植民地に対する奴隷貿易の権利も獲得しました。またフランスから は、ニューファウンドランド島と、現代カナダのハドソン湾東部地域を割譲され、また改めて、今後フランスとスペ インの王座が合体することが無いと保証されました。 1714年にはラシュタット条約が締結され、オーストリアはスペインからネーデルラント(いったんはオランダが 代理として受け取った)、ナポリ王国、ミラノを割譲されました。そして同じくスペイン領のシチリア島が、サヴォイ 公国に割譲されました。 つまるところ、フランス/スペインが得たものは、フェリペ5世の王位承認くらいのものでした。ヨーロッパに覇を 唱えんとするルイ14世の野望は阻止され、その軍事力は大打撃を受けました。スペインもまた、ヨーロッパにお ける領土の多くを巻き上げられました。しかも、その和平条件には、フランスのゴリ押しがあったため、フランスに 対しても大いに不満が残り、1718年には、奪われた領土の奪回を目指して英、仏、蘭、オーストリアの4国と戦 争になりました(4カ国同盟戦争 War of the Quadruple Alliance 1718-1720)。もちろん、このメンバー相手に 勝てるわけもなく、傷口を広げたのでした。 さて、主人公デュゲイ=トルーアンはと言うと、和平交渉の進展とユトレヒト条約の締結により、リオ・デ・ジャネイ ロ襲撃の後は、実戦に参加することはありませんでした。 1713年、トルーアンは海軍を休職扱いなりました。その後は、海軍への復職を求めて運動していましたが、ル イ14世の崩御直前の1715年8月、ルイ14世の意思によって、トルーアンは海軍少将(Chef d'escadre)に進級 して、海軍に復帰することができました。 しかし、当時のフランス王国の宰相格であるフルーリー枢機卿(Andre Hercule de Fleury 1653-1743)の協調 外交が功を奏し、長年抗争を続けてきた英、蘭、オーストリアとフランスの関係が大いに改善されたので、1740 年のオーストリア継承戦争まで、フランスは大きな戦争を経験しませんでした(ただし、大きくない戦争はいくつか あった)。そのため、トルーアンの将官としての海軍生活は平穏でした。 1720年から21年にかけて、トルーアンは、周囲の勧めに従って回顧録(Memoires)を書きました。トルーアン は意外に謙虚な性格で、自分の功績を一般に触れまわりたいと言う意思はなかったようであり、回顧録は出版す ることを意図したものではなく、言ってみれば、トルーアン家の家伝のような、内輪の文書として書いたものです。 そのせいか文章も短く、簡潔であり、その内容は1689年から1712年にかけての、コルセール/海軍軍人とし ての事績に限定されています。大同盟戦争とスペイン継承戦争の戦間期数年についても、何も書かれていませ ん。この回顧録は、トルーアンの死後、1740年になってオランダのアムステルダムで出版されました(当時、オ ランダはヨーロッパの出版業界の中心でした)。 ちなみに、1707年のリザード岬沖海戦以来、険悪な間柄となっていたクロード・ド・フォルバンもまた、回顧録 を書いています。こちらも、1690年から1710年までの事跡が中心ですが、自分の手柄に謙虚さが無いフォル バンは、最初から出版を意図して、秘書の手も借りて執筆しており、その内容は長文で詳細です。 1723年、トルーアンはフランス東インド会社の取締役会に加わり、フランスの植民地政策と海外貿易に関与し ました。1728年には、海軍中将(lieutenant general des armees navales)に進級して、同時に司令官級サン・ ルイ勲章 (commandeur de l'ordre royal et militaire de Saint-Louis)を授与されています。彼は以前にもサ ン・ルイ勲章を授与されていますが、サン・ルイ勲章には、下からChevalier(騎士)、Commandeur(司令官)、 Grand-Croix(大十字)の三段階があり、この時にトルーアンが受けたのは2番目です。勿論、トルーアンが以前 に受けたのはChevalierです。 1731年には、トルーアンはツーロンの地中海艦隊を指揮し、バーバリ海賊の根拠地であるトリポリ、アルジ ェ、チュニスに対する示威行為を行って、拿捕されたフランス船と捕虜を奪回しました。 1733年、ポーランド継承戦争勃発に伴い、トルーアンは、ブレスト艦隊を指揮してバルト海へ派遣されることに なりました。しかし、なんだかんだあって艦隊派遣は行われず。またトルーアン自身が健康を損ねたため、パリで 療養生活に入りました。 しかし、療養の甲斐はなく、トルーアンは死期を悟り、フルーリー枢機卿に手紙を書いて、後見していた姉シャ ルロットの孫のため、トルーアン家に対する経済支援を要請しました。トルーアンは、ハンサムで女好きでモテる 人物ではあったのですが、どうやら結婚はしなかったようで、実子もいませんでした。 フルーリー枢機卿は、ジャック・カサールの1万リーブル事件(ローカル英雄伝17回参照)に冷たい態度を取っ て、カサールから殴りかかられた人物ですが、トルーアンの要請は快諾しました。そして、その返答に安心したか のように、トルーアンは1736年9月27日に息を引き取りました。享年63歳。その海上生活を通じて、イギリス の軍艦10、私掠船2、商船73、オランダの軍艦3、私掠船2、ポルトガルの軍艦4に加えて、様々な国の商船94 隻、計188隻(「The Corsairs of France」)を拿捕もしくは破壊しました。 彼の遺体は、滞在していたパリに埋葬されましたが、彼のような英雄を地元サン・マロがそのままにしておくは ずはなく、改葬を求める運動の末、250年後の1973年になって、その遺骸はサン・マロに移され、現在に至り ます。
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