デュゲイ・トルーアンその8

デュゲイ=トルーアン、サン・ルイ勲章を受ける
 
 スペインから戻ったトルーアンは、これまでの軍功に対してサン・ルイ勲章を授与されることになり、ベルサイユ
宮へ招かれて、王太子ルイ(1661-1711 ルイ14世の長男でルイ15世とフェリペ5世の父)の手で叙勲されまし
た。
 翌1707年、トルーアンはまた新たな指揮権を与えられ、彼の乗艦の「l'Achille (64)」以下、「le Jason (54)」
「la Gloire (40)」「l'Amazone (36)」「l'Astrée (22)」の5隻からなる戦隊を指揮して、ブラジル帰りの商船隊を
狙うためにポルトガル沿岸海域に向かいました。残念ながら船団を発見することは出来ませんでしたが、しかし
ジブラルタル沖で2隻、英仏海峡の入り口で4隻の英国商船を拿捕してブレストへ戻っています。拿捕した英国商
船はいずれも、高価な商品であるタバコと砂糖を運んでおり、かなりの利益が上がったようです。

 さて、ブレストへ戻ったトルーアンの戦隊は、「l'Astrée」が転出する一方、二隻の戦列艦「le Maure (50)」と、
「le Lys (74 なぜかトルーアンの回顧録に船名が出てこないが、指揮下にあったことは確か)」が加わって計六隻
となり、大砲の数もぐっと増えます。そしてトルーアンはこの戦隊を率いて、海軍少将(Chef d'escadre)クロード・
ド・フォルバンの指揮下に入るように命じられました。

クロード・ド・フォルバン (Claude de Forbin 1656-1733)
画像はwikipediaより











 

 フォルバンは「ジャン・バール」の項にも登場しますが、現代ではいささか影が薄い印象はあるものの、間違い
なくフランス海軍の英雄の一人です。下級で貧しいとは言え貴族であり、陸軍の銃士隊だったとは言え初めから
正規の軍人だったので、庶民のコルセールから海軍士官になったジャン・バールやトルーアンとは毛色が違いま
すが、スペイン継承戦争当時にあっては、トルーアン、ジャック・カサールと並ぶフランス海軍の大エースだったの
も間違いありません。
 このスペイン継承戦争でもフォルバンは、ダンケルクを拠点として通商破壊作戦に大活躍しており、1707年だ
けとっても、5月12日(新暦)の「ビーチーヘッド沖海戦」で、イギリスの70門戦列艦2隻と商船18隻(21隻?)を拿
捕する大戦果をあげています。そしてさらに、トルーアンを指揮下に入れた時は、白海(ロシア北部でコラ半島の
南にある湾)から34隻もの船を拿捕して帰って来たところでした。
 そういうわけで、フォルバンは地位の累進に相応の手柄を立ており、デュゲイ=トルーアンのような血気盛んなコ
ルセール上がりにとっても、勇気の面でも能力においても、何の不満もない提督のはずでした。

 10月21日、フォルバン(とトルーアン)の戦隊は、コーンウォール半島のリザード岬沖(ブリテン本島の最南端
で、ついでにブレストからは陸地を挟んでほぼ真北)で、英国の大船団と遭遇しました。これは、5隻の軍艦に護
衛された80-130隻からなるコンボイで、プリマスを出てポルトガルへ向かうところでした。
 この戦闘そのものは、5隻しかない英国の護衛艦を12隻(13隻とも)のフランス艦が圧倒したもので、特にどう
というものでもありません。英国の護衛艦のうち、逃走に成功したのは「Royal Oak ロイヤル・オーク(76)」一隻
のみで、80門艦「デヴォンシャー Devonshire」は爆沈(乗員900人中で生存者2名)、トルーアン配下の戦隊が
戦列艦「カンバーランド Cumberland (80)」と「チェスター Chester (54)」を拿捕し、フォルバンの旗艦「Mars
(50-54)」が「ルビー Ruby(48-50)」を拿捕しました。これに加えて、拿捕した商船は、フランス側の主張では60
-80隻、イギリス側の記録でも15隻にのぼりました。フランス側の損害は軽微であり、この「リザード岬の海戦
Combat du Cap Lezard」は大勝利に終わりました。実は、逃走した「ロイヤル・オーク」は、ビーチーヘッドでフォ
ルバンが取り逃がした艦であり、またしても逃げられたわけですが、とにかくフランス側の大勝利です。
 フォルバンは勝利に満足し、10月28日にダンケルクへ戻りました。しかしこの後、この戦闘を巡ってフォルバ
ンとトルーアンが対立します。そして、両者とも後に回顧録を出版するのですが、その該当項目を読めば、概ね
以下のようになります(↓)。

獲物を取り逃がした、とかもっと戦果があがったはず、との言い分から見て、商船の損害についてはイギリスの記録が正しいかと… 

 フォルバンの言い分については、単に貴族階級の傲慢さと嫉妬心に原因を求め、トルーアンが手柄を立てるの
を邪魔しようとしたからとも(「Corsair of France」)、風向きが変わって縮帆したフォルバンの行動を、トルーアン
が、帆船時代の一般的な戦闘準備である射撃目標を小さくする為の縮帆と誤解したのが原因(「War at Sea
Under Queen Anne 1702-1708」 Owen John Hely)、とも言われています。
 貴族階級の嫉妬という点では、フォルバン本人は庶民階級に偏見は持っていないと述べており、実際、ジャン・
バールの部下になることも厭いませんでした。そしてバールは、トルーアン家の者よりずっと庶民度が高いです。
従って、フォルバンがトルーアンに対して貴族階級の嫉妬を見せるのは不自然な感じがします。ただ、年齢も、船
乗りや軍人としてのキャリアも、さらには階級も下のトルーアンに対し、フォルバンが、ジャン・バールを相手にす
るほど謙虚になる必要が無いのも、確かですが(笑)。
 また、イギリスの船団と遭遇した際、フォルバンとトルーアンそれぞれの戦隊は距離を開けて航行していて、船
団を発見したのは何故か、敵からかなり遠い側にいたフォルバンの旗艦だったようです。この状況を考えるに、
フォルバンが、自分が先に見つけた獲物をトルーアンに横取りされまいと考えたのも、まあ人情かも知れませ
ん。そして、フォルバンには確かに、武勲を立てる上でのライバル意識が強いところは、あったようです。

 一方、デュゲイ=トルーアンの方はと言うと、彼の回顧録を見たところ、この時のトルーアンの部下の艦長のう
ち、少なくとも三人は「シュバリエ」の呼称つきであり、その中には付き合いの長い艦長もいました。そしてフォル
バンが、トルーアン戦隊の艦全てが自分の命令に従わなかった、と述べていることから、トルーアンが艦長達をし
っかり掌握していたこともわかります。このことから、(もともと富豪の出身でもあることだし)トルーアンが貴族階
級と上手くやっていけるタイプだったのは、間違いないと思われるのです。しかし、ネスモン候の指揮下に入った
時のトルーアンの言動からして、フォルバンの他意の無い命令を、自分の手柄を邪魔するためと考えた可能性
は、大いにあると思われます。

 しかしまあ、ぶっちゃけて言ってしまえば、争いの原因は単純に、フォルバンとジャン・バールは相性が良かっ
たのに、フォルバンとトルーアンは相性が悪かった、に尽きるのかも知れません。どちらが正しいかは別として
も、双方の主張を見れば分かるように、トルーアン自身はフォルバンの命令に従ったと認識し、フォルバンは命
令が無視されたと認識しているようなので、発端は、帆船時代には多々あった単なる信号の誤解であり、それが
相性の悪さゆえにこじれたのかも知れません。
 海軍大臣ポンシャルトラン伯は、フォルバンには庶民に対する差別意識があると感じてはいたようですが
(「Corsair of France」)、対立に首を突っ込むようなことはせずにリザード岬沖海戦の勝利を称え、トルーアンに
対しては年金1,000リーブルを支給しました。その御礼言上のためにヴェルサイユ宮へ赴いたトルーアンは、年
金は戦闘で片脚を失った自分の副長に与えるように訴え(トルーアン家はもともと大金持ちですから、年1000リーブルぽっちなど…)、さらに、有能な部下のコルセールへの褒賞も要請しました。
 ポンシャルトラン伯はトルーアンの提言を受け入れ、何人かのコルセールが海軍士官となり、金メダルを贈呈さ
れた下士官もいたということです。


デュゲイ=トルーアン、失敗が続くも貴族に列せられる

 1708年夏、トルーアンは2隻の74門艦「le Lys」と「le Saint-Michel」、その他「la Dauphine (54)」「l'Achille
 (64)」「le Jason (54)」「la Gloire (40)」「l'Amazone (36)」「l'Astrée (22)」「le Desmarets (30)」、そして船
名不詳のコルベット(8門 イギリスからの拿捕船)の計10隻を率いてブレストを出港し、ブラジル帰りのポルトガル
の商船隊を狙って、アゾレス諸島へと向かいました。
 この遠征は海軍の任務では無く、トルーアン家も含むサン・マロの商人達から集めた資金で行われた私掠事業
でした。
 
 アゾレス諸島近海にさしかかったトルーアンの戦隊は、中立国スウェーデンの商船から、船団護衛に派遣され
たポルトガルの軍艦7隻が、島で商船団との合流待ちをしているとの情報を得ました。
 トルーアンはコルベットを偵察に出し、この情報を確認する一方、アゾレス諸島の西部海域を遊弋して、ブラジ
ル船団を待ちました。しかし、肝心の船団がいっこうに現れません。悪いことに、ブレストからの航海で荒天と向
かい風に遭ったため、この時すでに食糧と飲料水が少なくなっていたので、トルーアンの部下の艦長達は、軍艦
が停泊しているテルセイラ島(Terceira)を攻撃して、護衛を排除するとともに、島に上陸して食糧と水を調達する
ことを提案しました。しかし、トルーアンはその提案をすぐに受け入れず、これまでも何度かやって来たように、後
4日待って船団が現れなければ島を襲撃すると、期限を切って同意しました。
 しっかーし…、待てど暮らせどやっぱりブラジル船団は現れないので、トルーアンは、約束通りに泊地を襲撃す
るため、戦隊を島に向かわせました。すると、幸か不幸か、いるはずの護衛艦隊の姿がありません。彼らとして
は、軍艦の捕獲による賞金を期待していたので、大いに失望します。
 しかしそれでも、給水と補給(=略奪)の必要があるため、トルーアンはフェアル島(Fajal)を攻撃します。ひとしき
りの要塞との戦いの後、武装した水夫を上陸させて、守備隊を追い散らしました。そして給水を済ませ、穀物、家
畜、果物、大量のワインを奪い、さらに大砲多数と、記念品としてポルトガルの軍旗15流を奪いとりました。捕虜
からは、ブラジル船団はまだ到着しておらず、軍艦は(待ちくたびれたのか)本国へ帰ったとの情報が得られまし
た。

 そこでトルーアンは待ち伏せを続けますが、不運にも嵐に遭遇して、戦隊は離散。トルーアンの「Lys」は北方へ
流されてしまいました。他にスペインのカディスへ避難した船もあったので、集合に手間取るうちに、ブラジル船
団はリスボンへ入港してしまいました。トルーアンは失望しつつ、それでもしっかりとオランダ船3、イギリス船1を
拿捕してブレストへ帰りました。
 とは言え、どう見てもアゾレス諸島遠征は失敗でした。肝心のブラジル帰り船団を見逃したのは天候のせいだ
としても、代わりの獲物となるべき軍艦は、トルーアンの判断の遅れで取り逃がすことになったし、せっかく島を攻
撃しても、金品を奪うことはせず、コルセールとしては中途半端でした。結果論とはいえ、やはりトルーアンの判
断ミスとされても仕方がありません。

 そういうわけで、サン・マロでのトルーアンの評判は傷つき、翌1709年の航海はスポンサーの集まりが悪くな
ります。トルーアンの戦力は、彼の旗艦となる「l'Achille」以下、「Gloire」「Amazone」「l'Astrée」の4隻となって、
出同海域もアイルランドと英仏海峡近辺に限定されてしまいました。
 1709年3月、トルーアンの戦隊は、英仏海峡で、3隻の軍艦に護衛された北米帰りのイギリスのコンボイを襲
い、タバコなどを積んだ商船5隻を拿捕しました。
 獲物を連れてブレストへ戻ると、 トルーアンは直ちに「l'Achille」「Gloire」の二隻だけで、再び英仏海峡に出か
けました。トルーアンとしては、低下したスポンサー受けを挽回しようとの思いがあったのでしょう。そして、イギリ
スの50門艦「ブリストル Bristol」に遭遇し、6時間もの熾烈な戦闘の末、士官2人を含む80人以上が戦死する
大損害を受けつつも、「ブリストル」を大破させ、拿捕しました。大戦果です!
 と、喜んだのも束の間、気がつくと、イギリスの艦隊が間近に迫っていました。大破している「ブリストル」を含む
トルーアンの三隻は、分散しての逃走を余儀なくされます。そして「Gloire」は拿捕され、「ブリストル」も奪回され
てしまいました(その後、損傷のひどさで自沈)。それでも、例によってトルーアンは有能かつ幸運であり、彼の
「Achille」は夜の闇に紛れて追跡を振り切り、おまけにイギリス商船1隻をしっかり拿捕しつつ、ブレストへ逃げ帰
りました。しかしながら、どちらかと言えばこの航海も失敗の部類に入るでしょう。

 とは言え、この後トルーアン家には、望外の栄誉が待っていました。6月、これまでの戦果に対する褒賞として、
デュゲイ=トルーアンはついに貴族に列せられました。同時に、トルーアン家の過去何世代かに渡る功績により、
兄リュックも貴族に列せられたのでした。

 
デュゲイ=トルーアンが送られた紋章 (wikipediaより 部分拡大)
モットーは「Dedit hæc indignia virtus この栄誉でもって勇気を称えん」
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