デュゲイ・トルーアンその4

デュゲイ=トルーアン、ジャン・バールの仇を討つ

 トルーアン一行は、いつぞや逃げ込んだパンポルの少し西にある、トレギエ(Tregiuer)という村に上陸し、そこ
から10日かかってサン・マロへ帰りました。
 帰還したトルーアンは、兄リュックがロシュフォール(Rochefort)で軍艦「フランソワ le François(48)」を整備中
であり、弟をこの船の指揮官に据えるため、捕虜交換の運動もしていたことを知りました。まこと麗しき兄弟愛で
す。
 そして10月の「フランソワ」での最初の航海で、トルーアンはアイルランド南部海域でアメリカ帰りの英国商船5
隻を拿捕し、幸先の良い復帰を飾りました。

 明けて1695年1月13日、アイルランド南西海域を航行中の「フランソワ」は、真西に船団を視認しました。こ
れは北米ニューイングランドからの船団であり、2隻の軍艦「ノンサッチ Nonsuch (36-42)」と「ファルコン
Falcon (36)」が護衛についていました。
 そう、この「ノンサッチ」は、1689年の英仏海峡で、大損害を受けながらもジャン・バールとクロード・ド・フォル
バンを撃破し、捕虜にした軍艦です。「ファルコン」の方は、トルーアンの回顧録では何故か「ボストン Boston」と
いう名前で、74門戦列艦からダウングレードされた38門艦、と記録されているのですが、そのような事実はなく、
実際には海軍に編入された元大型商船でした。ただ、商船時代の名前が「ボストン」であったようです。
 同時代、英海軍には「HMS. Falcon」と言う船が他にもあって、同じくサン・マロ出身のジャック・カサールが、1
694年にシチリア島沖で拿捕しています。トルーアンとしては、これと混同されるのが嫌で、わざわざ「ボストン」
と言う名前を使ったのかも知れません。

 船団を視認したトルーアンは、ためらいなく攻撃をかけました。彼は捕虜にされたことをどうしても雪辱したかっ
たようで、この時は、商船ではなく、はっきりと護衛艦の方を主目標としていました。
 そして英国側はと言えば、元商船の「ファルコン」は勿論、「ノンサッチ」も、(トルーアンには知る由もないことな
がら)1691年の改装で36門艦にダウングレードされていて、どちらも「フランソワ」より火力で劣っていました。
おまけに配置も悪く、「ファルコン」と「ノンサッチ」は相互支援が不可能な状態だったので、二隻はトルーアンに
各個撃破されました。後のイギリス海軍の軍法会議では、先任である「ノンサッチ」のテイラー艦長が、フランスに
近い海域にもかかわらず、襲撃に対する備えをしていなかったことが、船団を危険に曝したと指摘されました。実
際彼は、上官から無能だと評されていた士官でした。
 
 トルーアンは、「ファルコン」を手早く航行不能にすると、砲火を交わしつつ「ノンサッチ」に近づき、片舷斉射の
煙にまぎれて横につけ、切り込みをしかけるべく引っかけ鉤を投げ込みました。しかし、ここでいきなり、「ノンサッ
チ」の船尾甲板が燃えだしたので、巻き添えを避けるため、トルーアンは離脱を余儀なくされました。ただ、英国
側には、「フランソワ」が切り込みを試みた言う記録も、火災の記録も無いということです(「Studies in Naval
History: Biography」 J.K. Laughton 1887)。
 ともあれ、敵の火災が鎮火してから、トルーアンは再び切り込みを意図して引っかけ鉤を投げましたが、今度は
「フランソワ」の前部トップマストに火が付き、さらには前部マスト全体が盛大に燃えしだしたので、トルーアンは消
火作業のために離脱を余儀なくされました。 
 そして、消火が終わる前に日没となり、やがて1月14日となりました。商船隊はとうの昔に逃げ去っていました
が、応急修理中の「ノンサッチ」と「フランソワ」、そして航行不能の「ファルコン」の敵味方三隻は、相変わらず戦
場に留まっていました(←なんだかマヌケ)。
 夜明けとともにトルーアンは攻撃を再開。「ノンサッチ」の前部マストとメインマストを撃ち倒して航行不能に陥れ
ました。ここでトルーアンは、既に航行不能の「ファルコン」に目標を変え、乗り込んで手早く拿捕しました。
 それからトルーアンは「ノンサッチ」の方へ戻り、さらに砲火を浴びせて最後の後部マストも倒しました。こうなっ
てはどうしようもなく、「ノンサッチ」は降伏しました。しかし、勝ったとは言え「フランソワ」の損害も大きく、マストが
破損した上に、乗員の半数が死傷していました。
 
 さて、回顧録の中でトルーアンは、「ノンサッチ」に乗り込んだ時、艦長室でジャン・バールとフォルバンの士官
任官辞令を発見したと述べています。しかしながら、バールとフォルバンを捕虜にした艦長は、当のその戦闘で
戦死していました。代わって指揮を執った甲板長も、士官に昇進して当時は別の艦に勤務中だったので、5年も
前の他人の記念品が艦長室にあったというのは、いささか不自然です。実際にあったのかも知れないし、記憶の
混乱かもしれず、真相は闇の中です。 
 ただ、どうもデュゲイ・トルーアンと言う人は、ジャン・バールにかなりのライバル意識を抱いていたのは確かで
あり、トルーアンとしては、英雄ジャン・バールを捕えた「ノンサッチ」を自分が捕まえた、と言うことで、バールより
も自分が上だとアピールしたかったのかも知れず、暗喩が好まれる当時の風潮にあっては、こういう文章になっ
たのかも知れません。「ノンサッチ」がバールとの戦いの後の改装で弱くなっていたことには、ツッこんではなりま
せん。また、後でトルーアンはフォルバンと行動を共にしているのですが、フォルバンを嫌いだったのは間違いあ
りません(後述)。
 トルーアンに限らず、サン・マロの船乗りにはフランス私掠船発祥の地という自負があって、フランス領としても
後発で、むしろ、フランスと敵国の領土だったことが多いダンケルクの船乗り全般に対してライバル意識をもって
いました。   

関連地図( EURATLAS PERIODIS BASIC PERIODICAL HISTORICAL ATLAS OF EUROPE 1 - 2000 より)
 
 ま、ジャン・バールらの辞令の有無は置いておくとして、「ノンサッチ」回航の指揮は、トルーアンの従兄弟ジャッ
ク・ブシェールが担当して、「ファルコン」の方は、副長のニコラス・デュプレ(脱走につき合った人)が指揮をとるこ
とになりました。
 しかし、一行はまたも、「勝って兜を緒を締めよ」を地でいく事態に遭遇します。14日には既に風が強まってい
ましたが、拿捕船を確保して仮マストを立てた頃には、すっかり嵐になっていました。
 トルーアンの「フランソワ」は既に戦闘で大破しており、乗組員の半分は死傷していました。そして嵐が過ぎると、
「フランソワ」は、前部マストとメインマストの上半分、そして後部マスト全体を失っており、大変な苦労をして、ロリ
アンの入江の対岸にあるポルト・ルイへたどり着きました。
 「ノンサッチ」は戦闘で破船同然のひどい状態になっており、嵐ではげしく浸水しました。おまけに、ブシェールを
含めて回航員は25人しかおらず、捕虜達も動員して大砲と錨を捨て、必死の排水作業でどうにか生き延びて、
2月3日、命からがらポルト・ルイへ這いずりこみました。
 一方、比較的損傷が軽かった「ファルコン」は、早々に応急修理を終え、二隻と分かれて先にブレストへ向かい
ました。しかし、ブレストまであと一息のウェサン島沖で嵐に遭い、避泊していたところをオランダの軍艦か私掠
船4隻に襲われ、残念ながら、奪回されてしまいました。
 
デュゲイ=トルーアン、海軍士官になりそこねる

 さて、ブレストへ戻ったトルーアンは、その戦果を大いに賞賛されました。商船隊には逃げられ、乗艦を大破させた挙句に、帰り道で「ファルコン」を奪回されたとはいえ、英国のフリゲートをいっぺんに二隻も拿捕したことは、特筆すべき戦果でした。
 当時にあって(少なくとも1700年代前半では)、フランスの私掠船が英蘭の軍艦を拿捕するというのは、特に珍
しい事ではありませんでした。しかしレネ・デュゲイ=トルーアンの場合、弱冠22歳の若者で、それもまだ海軍士
官に任官していない船長が、敵のフリゲート艦を二隻もいっぺんに捕まえたという点で、極めて高評価だったので
す。
 このニュースはベルサイユ宮にも伝わり、国王ルイ14世は、トルーアンの戦果を称えて名誉の剣を授与するこ
とを決定しました。海軍大臣ポンシャルトラン伯も、トルーアンに戦果を賞賛する手紙を送りました。
 そして当然、トルーアンを海軍士官に登用するという話が出たのですが、名誉あるフランス海軍としては面目を
つぶされた形なので、これまた当然、反発は強いものでした(コルセールの中のコルセールたるジャン・バールで
すら、フリゲート以上の軍艦を捕まえたのは任官してからです)。おまけに22歳と言う年齢は、フランス海軍の標
準では艦長として若すぎでした。結局、ポンシャルトラン伯はトルーアンを登用するのは諦めますが、より名誉あ
る立場として、フランス海軍の作戦行動に参加できるように取り計らいました。
 そういうわけでトルーアンは、「フランソワ」の修理が(費用はトルーアン家もちで)完了しだい、ネスモン侯爵指
揮する戦隊に合流せよと命じられました。

ネスモン侯爵 (André marquis de Nesmond 1641-1702)
  1658年にマルタ騎士団入り。1662年にフランス海軍に入隊して、地中海での海賊退治を経て1667年に艦長となり、第三次英蘭戦争では、ソール湾、スホーネベルト、ケイクダインと主要な大海戦全てに参加した。と言うことは、良いところは全くなかったと言うことであるが、かのデ・ロイテルの息子エンヘルが指揮する艦には勝った事があるらしい。大同盟戦争でも、アイルランド遠征、ビーチーヘッド沖海戦、ラ・オーグの海戦、ラゴス沖海戦等、フランス海軍の主要な大作戦全てに参加している。フランス艦隊がラ・オーグで破局を迎えた後は通商破壊で名を上げて、戦隊司令官に進級した。1702年、カリブ海遠征中に病死。

 1695年3月下旬、旗艦「Excellent (56)」以下、トルーアンの「フランソワ」も含む48−56門の艦5隻からなる
ネスモン侯爵の戦隊は、ブレストを出港しました。
 そして英仏海峡を航行中の4月26日、戦列艦「ホープ Hope (70)」、大型フリゲート「アングレシー Anglesea
(48)」、火船「Roebuck」の三隻の英艦と遭遇しました。この三隻の英艦は、他の二隻の70門艦とともに船団護
衛のために出動していたのですが、ネスモン侯爵にとっては幸か不幸か、二日前の夜、「ホープ」の当直士官の
ミスで船団とはぐれていたのでした。
 戦闘を回避しようとする三隻に対し、ネスモン侯爵は果敢に追跡しました。そしてフランス戦隊の一隻、「St.
Antoine (56)」が「アングレシー」を捕捉し、切り込みをかけました。しかし、「アングレシー」の戦いぶりは見事で
あり、「St. Antoine」の艦長を戦死させて、切り込み隊は撃退したあげく、前部マストを撃ち倒して。「St.
Antoine」を航行不能に陥れました。そして「アングレシー」は、見るからに価値が無いと無視された火船
「Roebuck」とともに、逃走に成功しました。
 残った「ホープ」は、航行不能の「St. Antoine」を除く、ネスモン戦隊の残り5隻の追跡を受けました。そして、も
っとも船足が速いトルーアンの「フランソワ」が真っ先に追いつき、「ホープ」と砲火を交えたのですが、ネスモン侯
爵はトルーアンに対し、戦闘を中止して他艦の来援を待つよう信号しました。侯爵としては、ただ「フランソワ」単
独では「ホープ」にとても敵うまいと、心配しただけのようなのです。しかしトルーアンは、しぶしぶ指示に従ったも
のの、自分の手柄を邪魔するための命令だと考えました。
 やがて、ネスモン侯爵は追跡再開を命じ、フランス側は「ホープ」を捕捉しました。「ホープ」は、その後8時間に
わたって5隻のフランス艦と戦い続けましたが、マストを全部倒された上に、7フィートの浸水、大砲もほとんどが
使用不能という状態となって、ネスモン侯爵の旗艦「Excellent」に降伏しました。これについてもトルーアンは、手
柄を横取りされたと腹を立てました。とは言え、よく考えるまでもなく、相手の総指揮官に対して降伏するのは当
たり前の話なのですが…。
 そして数日後、東インド帰りのオランダの貿易船一隻を拿捕すると、戦果に満足したネスモン侯爵はブレストへ
帰投したので、トルーアンは戦意が不足していると感じました(実際ところは、戦意が無いと言うよりも、貴族出身
者の余裕かもしれません)。かくして、ストレスをためてブレストへ戻ったトルーアンは、ネスモン侯爵の指揮を声
高に非難するとともに、侯爵の指揮下から外してもらえるよう、ポンシャルトラン伯に直訴に及びました。
 
 そうしてデュゲイ=トルーアンは、「フランソワ」の船長のまま気楽なコルセールに戻ることができましたが、169
5年の夏は、スコットランド北方海域での哨戒を命じられました。何と言うか、誰かの機嫌を損ねて、ヒマな北の
海へ追い払われた気がしなくもないです。
 ともあれトルーアンは、「フランソワ」に、従兄弟ジャック・ブシェールが指揮する大型フリゲート「Fortune (56)」
を伴って、ブレストから出港しました。
 しかしこの航海では、オークニー諸島、シェトランド諸島を経て、オランダの捕鯨船団を攻撃しようとスピッツベ
ルゲンの近くまで北上したものの、何週間も獲物に遭遇することはありませんでした(どうやら、情報漏れがあっ
たようです)。
 そして物資が底をつきかけ、いつぞやのように乗組員の不満も極限に達したため、トルーアンはしぶしぶ南下
しました(単に帰路についただけとも、いつぞやのように一週間で獲物に出会わなければ…の約束をして獲物に
出会わなかったからとも言われますが、はっきりしません)。
 ところが何たる幸運か、日付ははっきりしないものの、アイルランド南西のブラスケッツ諸島(Blaskets)沖で、三
隻の英国東インド会社の大型武装商船と遭遇しました。トルーアンは、「Fortune」を前に出して攻撃します。敵の
抵抗は激しいものでしたが、いかに大型武装商船とは言え、二隻の大型フリゲートにはやっぱり敵うべくなく、ト
ルーアンは三隻とも拿捕することに成功しました。この戦果に満足したトルーアンは、ポルト・ルイへ帰投しました
(本当はブレストへ行きたかったのだが、風向きが悪くて入港できなかった)。
 これら東インド会社商船は、トルーアンの回顧録によると、絹、砂金、インディゴ(藍色の染料)、銅など高価な積
み荷を運んでいて、この航海における利益率は2,000%にもなったとのことです。
 
目次へ
inserted by FC2 system