デュゲイ・トルーアンその3

デュゲイ=トルーアン、捕虜になる

 「Herecule」の航海から帰ったレネ・デュゲイ=トルーアンは、一ヶ月の冬休みを挟み、改めて軍艦「Diligente
(36 - 40門 250人)」の指揮を任されることになりました
 明けて1694年1月16日、トルーアンはスペイン沖をパトロールせよとの命令を受け、「Diligente」を率いてブ
レストを出港しました。
 「Diligente」は、2月中をセント・ビンセント岬からジブラルタル海峡にかけての海域で過ごしますが、この航海
はツイており、オランダ商船2隻とイギリス商船1隻を拿捕してブレストへ送ることが出来ました。
 それからトルーアンは、補給のためにポルトガルのリスボンに入港し、4月の初めまで滞在した後、ブレストへ
送った回航員を連れて来た「Helecule」と会合しました。
 「Helecule」は、この時もまだトルーアン家が運航していて、レネの従兄弟ジャック・ブシェール(Jacques
Boscher)が副船長として乗り込んでいました。そしてスポンサー一家として当然の如く(笑)、レネは先任船長とし
て「Helecule」も指揮下に入れて、帰路につきました。
 そうして、明日にはサン・マロに着こうという4月25日、トルーアン家の2隻は、オランダの武装商船4隻からな
る船団に遭遇しました。トルーアンは、4隻の中で一番大きな「Panther(32)」を狙い、「Helecule」には、二番目に
大きな船を狙うように命じました。そんでもって、ひとしきりの砲戦の末、「Diligente」のラッキーヒットが
「Panther」のマストをへし折ったため、トルーアンは切り込み戦で見事に「Panther」を拿捕しました。
 その一方、「Helecule」は追跡に失敗してしまい、船団の残り3隻は取り逃がしてしまいました。これにトルーア
ンは怒り、過去の自分は棚に上げて「Helecule」の船長を無能と決めつける一方、仲良しの従兄弟ジャックに拿捕した「Panther」の指揮を任せました(=拿捕船の指揮を任されるのは、船長を目指す船乗りには大きな名誉です)。
 
 さて、トルーアンは、船団の残りを逃がしたのがよほど悔しかったらしく、早々に補給を済ませると、さらなる獲
物を求めて、「Diligente」単独で、すぐにサン・マロから出港しました。
 そして5月3日(4月30日説あり)、英仏海峡を航行中の「Diligente」は、30隻の石炭輸送船からなるイギリス
のコンボイと遭遇しました。トルーアンは「Diligente」に英国旗を掲げてコンボイの中に入り込み、ざっと偵察した
結果、石炭輸送船なんぞを、わざわざ捕まえる必要が無いと見て離脱しました。
 とは言え、いかに英国旗を掲げていようと、石炭輸送船(概して沿岸用の小型船が多い)の船団の中にフリゲー
トが紛れ込んでくれば、当然、かなり怪しまれるわけで、護衛についていた「プリンス・オブ・オレンジ Prince of
Orange (60門 チャーターされた大型武装商船)」が、「Diligente」を追いかけて来ました。
 ここでトルーアンは、英国旗を掲げたまま逃走しました。「プリンス・オブ・オレンジ」は、停船を求めて何度か空
砲を撃って来ましたが、トルーアンは、適当な距離を保ちながら、まぐれあたりを期待して「プリンス・オブ・オレン
ジ」に片舷斉射をぶちかましてから逃走しました。「プリンス・オブ・オレンジ」は、深追いせずに船団に戻って行き
ました。ただこの時、トルーアンは、意図的だったのか単なる不注意なのか、英国旗を掲げたまま砲撃していまし
た。
 
 その9日後の5月12日、シリー諸島の南を航行中の「Diligente」は、サー・デビッド・ミッチェル(Sir David
Mitchell 1642-1710)率いる、戦列艦6隻からなるイギリス戦隊に遭遇して攻撃を受け、フォアマストとメインマス
トの上部を破壊されて拿捕されました。

 この遭遇については、トルーアンの回顧録とイギリス側の証言にいささか食い違いがあります。トルーアンの回
顧録では、凪に近い濃霧の中を航行中、気がつくとイギリスの戦隊のどまんなかに入り込んでいた、としていま
す。一方、トルーアンを捕虜にした戦列艦「モンク Monk(70)」の、トーマス・ワレン艦長の報告によると、強風
(Hard Gale)の中、「Diligente」を視認して全戦隊で追撃し、砲戦の末に拿捕したとあります。
 どちらが正しいのかと言えば、あくまで私見ですが、ワレン艦長の方が正しいでしょう。トルーアンの回顧録は、
かなり時間が経ってから書かれたものであるし、フリゲートである「Diligente」が、戦列艦を振り切れなかった状
況を考えれば、強風で海が荒れていたと考える方が妥当だからです(こういう場合、小さい船は波にもまれるた
め、大きい船の方がスピードが出る)。もっとも、トルーアンは過去の例からしてスピードを出すのが苦手のようですが。
 この後で起こった事については、ワレン艦長の報告では非常にあっさりしており、「Diligente」は砲撃でマストを
失い(この点は証言が一致している)、僚艦「アドベンチャー」との短い戦闘の後に降伏。「モンク」の士官がボート
で「Diligente」に乗り込み、船長トルーアンと他の士官達を捕虜にして連れて来た、とあります。
 一方、トルーアンの回顧録には、もう少し景気の良い事が書かれてあります。マストを失って逃げるチャンスが
なくなったと見た彼は、一か八か、一番近くにいた「アドベンチャー」に切り込みをかけて奪い取ろうとしました。し
かし、激しい銃撃を浴びて切り込みは失敗。今度は至近距離からの砲戦を仕掛けますが、火力の差はいかんと
もしがたく、しかも、「モンク」以下4隻の戦列艦に囲まれて袋叩きにされ、「Diligente」は大破して火災も発生しま
した(←このあたりが、ワレン艦長の報告と違う)。この状況でもトルーアンは降伏を拒み、盛んに暴れていました
が、飛んできた何かが足にぶつかり、転倒して気絶(大した怪我はしなかった)。気がつくと「モンク」に収容されて
おり、航行不能の「Diligente」は曳航されていた、とのことです(また、一連の戦闘で仏側に40人、英側に80人ほ
どの死傷者が出たらしい)。

デュゲイ=トルーアン、お約束の大脱走

 捕虜の身となったレネ・デュゲイ=ルーアンでしたが、イギリス側は、21歳の若者の勇敢な戦いぶりに大いに感
じ入り(少なくともトルーアンの回顧録ではそうなっている)、その扱いは極めて丁重でした。トーマス・ワレン艦長
は艦長室をトルーアンに譲っており、トルーアンも「息子のように扱ってくれた」とコメントしています。
 やがて戦隊は、拿捕された「Diligente」ともどもプリマスに入港(日付ははっきりしない)。捕虜達はプリマスの城
塞に収容されましたが、トルーアンは士官として厚遇され、捕虜となった部下の中から従者を2人与えられたうえ
に、逃亡を図らないと言う宣誓のもと、行動の自由を保証されるパロールも与えられました。
(パロール Parole とは、日本語では、刑事上の「仮釈放」になりますが、捕虜については、釈放宣誓、捕虜宣誓など訳語が統一されて
いないようなので、ここでは"パロール"とします)

 勇敢な戦いぶりが伝わっていたため、トルーアンはプリマスの人々や停泊中の船の船長達から大いに歓迎さ
れ、短期間でたくさんの友人を作りました。
 しかし、そうこうしている内に、「プリンス・オブ・オレンジ」がプリマスに入港してきます。拿捕された「Diligente」
を見たサミュエル・ビンセント艦長は、それがまさしく、5月3日に遭遇した船であると知り、トルーアンが英国旗で
身元を偽ったまま発砲したことを告発しました。
 現代においても、他国の制服を着ての戦闘は極めて重大な違法行為ですが、これは当時も同様で、国籍を偽
ったまま戦闘に入ることは海賊行為と見なされ、死刑になっても文句は言えない重大な違反でした(戦闘開始直
前に本来の国旗と取り換えるのは、まあなんとか許される)。名作「海の勇者ホーンブロワー」でも、ホーンブロワ
ー艦長がフランス国旗で敵を欺き、戦闘開始直前に英国旗を掲げる手を使ったので、これがためにナポレオン
から「海賊」として告発されるエピソードがあります。
 プリマスの海軍当局は、ビンセント艦長よりもトルーアンの方に好意的でしたが、それでも彼のパロールは取り
消され、城塞の独房に監禁されました。とは言え、この監禁は、トルーアンにとっては却って幸運でした。なぜな
ら、パロールでの行動の自由と引換となっていた、「逃亡を図らない」という名誉にかけての宣誓が、監禁によっ
て失効したと見なせるからです。
 そして、プリマスの城塞も、トルーアンを監禁したは良いものの、脱走計画を立てろと言わんばかりに、来客と
の面会を全く制限しませんでした。

 で、脱走の経緯は、トルーアンの回顧録によると、だいたい↓のような…

コミpoでつくりました

 ユグノーの士官は見事に思いを遂げ、晴れて女のコとお付き合いすることができたようです。そして仲介の返礼
に、牢獄の扉を開けてトルーアンを逃がしました。さすが、5年前にもジャン・バールを逃がしているプリマスの城
塞だけあって、警備に根本的な問題があります。
 と言っても、ユグノーの士官としては、女のコもさりながら、いかに弾圧で追われた祖国とは言え、下手をすれ
ば死刑になりかねない21歳の同国人の若者を見て、助けずにはいられなかったのでしょう(「迷惑はかけられな
い」とトルーアンが逃げなければ、もっと美しい友情なのですが)。
 また、トルーアンの脱走よりも、この後、"une fort jolie marchande"とユグノー士官の恋がどう発展したのか
の方が興味深いのですが、さすがにそれは分からないので置いといて、先に進みましょう。
 
 牢獄を抜け出したトルーアンは、部下4人(副長ニコラス・デュプレNicolas Dupre、船医アントワーヌ・レルミット
Antonine l'Hermitte、氏名不詳の甲板長ともう一人)と近くの酒場で落ち合いました。この「酒場で落ち合う」あた
りに、部下の中にパロールの宣誓を破った者がいるような気がするのですが、ツッ込まないでおきましょう(多分、
副長と船医だと思います。残り二人はトルーアンの従者でしょう)。
 プリマス港では、トルーアンの友人であるスウェーデンの船長が、予てから船員の服とボート、それにマスケット
銃と剣を用意して待っていました。そして脱走者御一行様は、そのボートに乗り込んで英仏海峡にこぎ出しまし
た。トルーアンの回顧録によると、6月18日の夜10時ごろだったということです。
 港を出るまでに二隻の軍艦に誰何されましたが、英語で「Fisher」とだけ答えて誤魔化して切り抜け、脱走者御
一行は、フランス目指してひたすらボートをこぎ続けました。残念ながらその夜と次の日は凪で帆が使えず、トル
ーアンらはひたすらこぎ続けねばなりませんでした。そして疲労が限界に達した時、風が吹き始めたので、トルー
アンは帆を上げ、舵を固定してから、みんなで眠りにつきました。
 そして、目が覚めた時は海が荒れており、ボートは浸水してかなりヤバい状態に。沈没はまぬかれたものの、
食糧は全滅しました。しかし、幸いなことに既に陸が見える海域であり、6月20日の夜8時ごろ、トルーアンらは
無事にブルターニュ半島に上陸。その夜は近くの村で宿を借り、そこで雇った馬車でサン・マロへ戻りました。

inserted by FC2 system