デュゲイ・トルーアンその2

デュゲイ=トルーアン、お坊ちゃん船長になる
 
 「Grenedan」がサン・マロに戻ると、早速、レネ・デュゲイ=トルーアンの船長就任の準備が始まりました。
 当時のフランスでは、軍民問わず未成年者が船長になることは出来ないのですが、レネ少年はまだ18歳。ジ
ャック・カサールは年齢詐称でこの問題を突破しましたが、トルーアン家は、ゼニのパワーで強行突破します。盟
友ダニカン家(Danycan ここもサン・マロを代表する豪商)とともに船を用意して、レネを船長に据えました。実
際、当時のフランスの海運界は、能力や資格よりも、船主との縁故で船長が決まるケースが他国よりも多い傾向
があったようです。肝心の私掠免許状は、フランスではなく、自称英国王ジェームズ一世の亡命宮廷から受ける
という裏技で解決しました(フランスの国内法上は問題無いが、イギリスの捕虜になれば厄介なことになったは
ず)。
 とはいえトルーアン家は、レネ少年が失敗する可能性を見越して、経歴に大きな傷をつけまいと投資をだいぶ
抑制しており、レネ少年に用意されたのは「le Danycan (14門)」と言う小さな船でした。


関連地図 1.シャノン河口 2.ブルターニュ半島東部 3.コンウォール半島とブリストル海峡
( EURATLAS PERIODIS BASIC PERIODICAL HISTORICAL ATLAS OF EUROPE 1 - 2000 より)

 そんでもって1692年初頭、レネ・デュゲイ=トルーアンは、船長として初めての航海に乗り出しました。
 そして、英仏海峡をパトロールする「Danycan」でしたが、出遭う商船全てに逃げられました。トルーアンが言う
には、「Danycan」の帆走性能が悪かったと言うことです。小型船に14門もの大砲を詰め込んだので、スピード
が落ちていたのかも知れませんが、実際のところ、商船に追いつけないような船を私掠船に使うなど、かなり考
えにくいです。ここは素直に、船長レネ・デュゲイ=トルーアンの経験不足による操船術のマズさに、追跡失敗の
原因を求めるべきではないでしょうか?
 それはさておき、そうしているうちに大嵐に遭い、「Danycan」はアイルランド西部海域へ流されてしまいました。
トルーアンは敵地であるシャノン河口に逃げ込み、嵐が過ぎるのを待つ破目になります。
 そして、嵐が少し収まった時、リムリックの近くで陸上げされていた船二隻を発見したので、トルーアンは50人
の部下とともに上陸して、二隻を焼き払いました。そして、少し内陸部に進み、ロード・クレアの領地に侵入して放
火を働いたとのことですが、ここでの戦果ははっきりしません。ただ、クレアでは数ヶ月前までジェームズ支持派
と英国軍の戦闘が続いていたので、すわフランス軍の反攻作戦かと、地元にかなりの混乱を引き起こしました。
 
 
シャノン河口の図 (demis product web map serverより)

 しかし、放火は金になりません。結局のところこの航海では、燃やした二隻以上の戦果は無く、トルーアンは手
ぶら(=利益なし)でサン・マロへ帰ることになりますが、ここは身びいきによりリムリック上陸の戦果が評価され、「Danycan」の「性能の悪さ」も明らかとなって、レネ少年には別の船が与えられることになりました。

 レネは船長の座にとどまり、新たにトルーアン家が用意した「le Coëtquen (18門/140人)」の指揮を執ること
になりました。リムリック上陸の功績が、時の海軍大臣ポンシャルトラン伯爵の耳に入っていたので、この航海で
は、めでたくもフランスから私掠免許状が発行されました。しかし、単独の航海に不安がもたれたのか、ジェーム
ズ一世からの免許状を受けて、ジェームズ支持派のウェールズからの移民二世ウェルシュ船長(Welsh もしくは
Welch)が指揮を執る、ダニカン家が用意した「Saint Aaron」と言う船と共に航海することになりました。
 1692年6月4日、2隻はサン・マロを出港して、イングランド南部、コーンウォール半島のつま先にあるシリー
諸島近海へ向かいました。ところで、イタリアが長靴なら、コーンウォールは伸ばして何かをつつこうとしている脚
に見えませんか?
 それから、西インド諸島帰りの船団を狙い、うろつくこと2週間余の6月22日。コルセール達は、大砲16門の
小型艦2隻に護衛された、商船30隻からなるイギリスのコンボイに遭遇しました。残念ながらこれは沿岸航路の
コンボイでしたが、獲物には違いありません。
 2隻のコルセールは英国旗を掲げてコンボイを油断させ、十分に接近させたところでフランス国旗に取り換えて
突撃します。「Saint Aaron」は商船隊を襲い、比較的小型の沿岸船だったこともあって、捕りも捕ったり、人手の
限界まで12隻も拿捕しました。
 その一方、トルーアンの「Coëtquen」は、護衛艦の方に向かいました。そして首尾よく一隻に接舷して切り込む
も、当然ながらもう一隻から攻撃されて、トルーアン以外の士官全員が死傷する大ピンチに陥りました。ウェルシ
ュ船長が戻って来なければ「Coëtquen」は危なかったでしょうが、コルセール達は、死闘の末になんとか護衛艦
二隻を降伏させます。かくしてレネ・デュゲイ=トルーアンとウェルシュ船長は、商船12隻に軍艦2隻!をいっぺん
に拿捕する大戦果を上げたのでした。
 しかし、「勝って兜の緒を締めよ」とはよく言ったもので、サン・マロまであともう一息のジャージー島沖で、コル
セール達は、6隻からなるイギリス海軍のパトロールから攻撃を受けます。拿捕船は次から次へと奪回され、
「Coëtquen」と「Saint Aaron」は、二手に分かれての逃走を余儀なくされました(こういうことがあるから、ジャン・
バールやカサールは身代金を取ったのです)。それでもウェルシュ船長の「Saint Aaron」は、獲物の一部(商船4
隻? 商船5隻+軍艦2隻?)とともに、サン・マロへ逃げ込むことに成功しました。
 
 一方、レネの「Coëtquen」は、執拗な追撃を振り切ることはできず、何時間も敵の船首砲の砲火を浴びる破目
になりました。振りきれないと見たレネは、強い潮流に暗礁が点在する航海の難所、ブレア島(Île-de-Bréhat)
とブルターニュ半島本土の間の水路を抜けて、追撃を振り切ろうとしました。先述の通り、レネ以外の(そして、皆
レネより経験抱負な)士官達は全員が死傷しており、おまけに水先案内人も戦闘で死んでいました。従って、船長
としての航海は二回目で、その水路を通った経験などもちろん無いレネにとって、この決断には大変な勇気が必
要だったと思われます。


2. ブルターニュ半島東岸 (google earthより)

 そして、レネが天才ぶりを発揮したのか、幸運の女神様の団体がついていたのか、「Coëtquen」は難所の突
破に成功。追跡を振り切ったレネはパンポル(Paimpol)の港に逃げ込み、船を並べて入江の入り口を塞いで、敵
の来襲に備えました。ブレア島の外側を通ってきた敵戦隊は、4日ほどパンポル沖に留まり、入江に突入する気
配もみせたものの、結局は諦めて立ち去りました。
 それからサン・マロに戻ったレネ・デュゲイ=トルーアンは、獲物の一部が残っていたのを知って喜びましたが、
航海の結果には満足しておらず、わずか二日で「Coëtquen」に人員の補充と補給を済ませると、今度は単独
で、コーンウォール半島沖目指して出港しました。
 しかし、獲物に出会うこともなく、数日を経ずして大嵐に遭い、「Coëtquen」はブリストル海峡の方へ流された
ので、レネはランディ島(Lundy Island)の島影に避泊する破目になりました(こんなんばっかり)。すると、その同じ
泊地にイギリスの戦列艦までもが逃げ込んできたので、レネは慌てて嵐の中に逃げ出しましたが、幸いにも、追
跡されることはありませんでした。
 ただ、この後レネは幸運に恵まれ、帰り道で砂糖を積んだ西インド帰りのイギリス商船二隻に遭遇し、二隻とも
無抵抗で拿捕してサン・マロへ戻りました。

コーンウォール近海 (demis product web map serverより)
 
デュゲイ=トルーアン、金持ちは強いということを見せつける

 サン・マロへ戻ったレネは、軍艦を指揮する候補者として、地元当局者から海軍省に推薦された事を知りまし
た。この場合、海軍士官として任官するわけではなく、金欠で動けないフランス海軍所属の軍艦を、民間資本で、
私掠船として運用するのに指揮を任せる人物です(フランス王国の取り分は1/10)。こういう人事は、だいたいに
おいて出資者の意向で決まるものであり、クロード・ド・フォルパンのように、現役の海軍士官が指揮を執ることも
ありますが、既に見てきたように、概して海軍軍人では無い船長が選ばれるのが普通でした。
 ただ、当時まだ19歳のレネ・デュゲイ=トルーアンに指揮を任せることについては、当然ながら海軍側に反対意
見が強く、(この種の事業の常として)損失は全て出資者のトルーアン家が引き受ける事になっていても、兄リュッ
クの強引なプッシュが無ければ、レネの船長就任は認められないところでした。
 
 かくして1692年の冬、レネは命令を受けてブレストへ移動し、32門フリゲート「le Profond」を与えられると、1
692年の大みそかにブレストを出港しました。
 この「Profond」の航海は、恐るべき不運の連続でした。
 まず「Profond」は、「陸亀」と評されるほど船足が鈍く、トルーアンは、出遭う船全ての追跡に失敗しました(あ
れ? 前も同じことが…)。
 それから、英仏海峡を航行中のとある夜、「Profond」は何故かアルジェリアの海賊船と間違われ、スウェーデ
ン(大同盟戦争では中立)のフリゲート艦に攻撃されて、朝になって間違いに気がつくまで交戦する破目になりまし
た。この戦闘では、スウェーデン艦はトップマストが破損して16人の死傷者を出し、「Profond」は船体に9個の
大穴が開けられて、死者4名を出しました(「The Corsairs of France」)。
 さらにこの後、「Profond」の船内では「熱病(と記録されていますが、恐らくインフルエンザ)」が流行し始めたの
で、トルーアンはリスボンの検疫錨地に逃げ込む破目になりました。直ちに船の燻蒸消毒が行われましたが、当
時は酢に火薬を混ぜて燃やすなど、なんとなく「効果がありそう」なくさい煙で燻すだけであり、はっきり言って消
毒効果はありません。最終的に疫病が収まるまで、乗員の1/3に当たる80人が死亡する惨事となりました。
 
 疫病が収まると、トルーアンは補給を行い、さらに速度の改善のため船底の清掃(船をひっくり返して、抵抗に
なる海藻や貝類を除去して補修する作業)を行ってから、リスボンを出港しました。手ぶらでの帰港を覚悟してい
たトルーアンでしたが、最後の最後になんたる幸運か、リスボンを発った翌日、ラム酒と砂糖を積んだ西インド帰
りの大きなスペイン商船と遭遇。船底掃除の効果があったのか、「Profond」は獲物に追いついて拿捕することに
成功しました。このスペイン船は、リスボン滞在も含む4ヶ月もの「Profond」の航海における唯一の獲物でした
が、積荷が高価だったため、事業としてはなんとか黒字になり、レネ・デュゲイ=トルーアンの船長としての面子は
保たれました。
 
 ブレストへ帰港したトルーアンは、しばらくサン・マロに戻って待機した後、新たな指揮権を与えられました。今
度は「エルクール Herecule」と言う28門のコルベット艦で、フランス海軍でも高性能との評判高い船でした。
 7月の初めに、シリー諸島沖を目指してブレストを出港した「Herecule」は、同月中に4隻の英国船を拿捕して、
幸先の良いスタートを切りました。しかし、その後は獲物が無く、しかもトルーアンは欲をかいて、捕虜を抱え込ん
だまま2ヶ月も獲物を探して航海を続けたため、当然ながら「Herecule」は、食糧不足(減配給)と疫病発生に見
舞われました。
 士官達(いずれもトルーアンよりも経験豊富)は、帰港するように何度も進言しましたが、トルーアンは聞き入れ
ません。そのため、ついに船員達がストライキを起こし、直ちに最寄りのフランス領に帰港するように要求して、
あわや反乱と言う事態になりました。
 コロンブスの航海に似たような話がありますが、ここでレネ・デュゲイ=トルーアンもその例に倣ったのか、彼
は、一週間で獲物に遭遇しなければ帰投する、もし獲物に出遭えば、その最初の一隻は(違法ですが)海事裁判
所の査定にはかけず、船員達に自由な略奪に任せると約束して、船員達を何とか説得しました。
 しかし、その後も獲物に出会うことはなく、いよいよ明日は約束の一週間になろうと言う夜、トルーアンは、高価
な貨物を積んだ英国の大型商船二隻を視認するという、生々しい夢を見ました(本人談)。目を覚ましたトルーア
ンは、自らマストのてっぺんに登ったところ、夢に見たのと同じ方向に、まさしく二隻の英国船を発見しました(こ
れも本人談)。
 トルーアンは直ちに戦闘準備を命じ、例によって英国旗を掲げて商船を接近させて、至近距離で正体を明かす
戦法を使い、短い砲戦と追跡のすえ、夜明けまでに二隻とも拿捕しました。そして約束通り、一隻は船員達に略
奪させると、この二隻を引き連れてブレストへ戻りました。
 それから、冬の訪れの前にもうひと儲けと、レネは再度「Herecule」で出動して、11月27日に英国船のバーク
を拿捕。この獲物を連れてブレストへ帰投しようとしていた11月29日には、オランダ商船を拿捕しました。これ
ら二隻は西インド諸島からの帰りで、砂糖、ラム酒、銀塊といった高価な積荷を運んでおり、トルーアン家の私掠
船事業に相当な利益をもたらしました。恐らくレネは、前回の航海での不手際を挽回できたと感じたでしょう。
 
 これら一連の航海では、何隻拿捕したかと言うことよりも、デュゲイ=トルーアンのリーダーとしての未熟さが目
立つ結果となりました。乗組員がストライキを起こすことは勿論、当時の医学の水準では仕方が無い面もあると
は言え、病気の流行も船長の管理の手落ちです。普通ならば、一般の士官としてもう少し勉強することになるの
ですが、やはりスポンサーの弟と言う立場は最強であり、この後もレネは船長として働き続けます。

発作的にコミpo!で作った

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