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レネ・デュゲイ=トルーアン 
(René Duguay-Trouin 本名 René Trouin du Gué 1673-1736)
+: 英雄的コルセール
-: やっぱりただの海賊ともいふ(笑)

レネ・デュゲイ=トルーアンは、ジャン・バールと並ぶフランス海軍の大英雄です。と言っても、やっていることはやっぱり海賊まがいの私掠船乗り。ただバールやカサールと違って富豪の出身であり、金を求めて暴れたのでない事は確かです。

デュゲイ=トルーアン、親兄弟に恥をかかせる

 レネ・デュゲイ=トルーアンは、1673年6月10日、ブルターニュ半島の港湾都市サン・マロで、海運業を営むト
ルーアン家の二男として産まれました(産まれ順としては兄リュックと姉シャルロッテの次)。
 当時のトルーアン家は、地元サン・マロでのトップクラスの有力者でした。代々200年以上に渡って、一族はス
ペイン北部、マラガ駐在のフランス領事職を任されていました。また、貴族ではないにしろ小さな領地を所有して
いて、当主はde la Barbinayと言う領地の名を称号としていました。言わば「郷士」クラスのけっこうな名家だった
のです。
 レネが生まれた時、当主である父リュック(Luc Trouin de la Barbinay 1637-1687)はサン・マロで事業を指揮
しており、その弟レネ(René Trouin de Grand Bois 1642-1684)がマラガ駐在領事を務めていましたが、この叔
父レネが、甥っ子に自分の名を与えたのでした(ちなみに、リュックは長男に自分の名を与えています)。
 そして、当時の上流階級の習慣に従い、レネには乳母がつけられましたが、その乳母がギュー(Gué)と言う村
の人だったというので、レネ少年の本名はRené Trouin du Guéとなりました。しかし、du Guéを上手く発音で
きなかったのか、レネ本人がDuguayと名乗り、さらには語順も変えて、後には公文書にもRené Duguay-Trouin
と署名するようになったので、こちらがすっかり名前として定着しました。

 さて、レネが生まれた1673年と言えば、第三次英蘭戦争の真っ最中。しかもレネ少年の誕生日は、6月7日
の第一次スホーネベルト海戦と、6月21日の第二次スホーネベルト海戦(デ・ロイテルの項参照)の中間にあたっ
ていたので、トルーアンの誕生と前後して、サン・マロの町には「勝利を祝う鐘と祝砲の音が鳴り響いた」と言うこ
とらしいです。
 この一連のスホーネベルト海戦では、フランス艦隊は2隻を撃沈された一方、オランダ側の損害と言えば、直
接の原因は荒天とも言われる1隻のみ(他に1隻が拿捕されたがすぐに奪回した)。一億五千万歩譲って、仮に海
戦が英仏艦隊の勝ちだったとしても、フランス側が「勝利」に何も貢献していないことや、イギリス側の足を引っ張
ってルパート王子を怒らせたことには、ツッこんではいけません。ただ、このタイミングに本人は、何か運命のよう
なものを感じたようです。
 もっとも、スホーネベルト海戦の勝ち負けに関係なく、トルーアン家は、平時は海運/貿易業(トルーアン家は主
にスペイン相手)、戦時には私掠船事業という、絵に描いたような近世フランスの船主であり、レネ少年が海を志
したのは極めて自然な流れでした。
 
 とは言え、レネ少年が船乗りとしてスタートを切るまでには、いささかの紆余曲折がありました。
 叔父レネは、マラガの大司教と個人的に親しかったため、その影響で名づけ子の甥レネには、聖職者になって
もらいたいと考えていました。そして父リュックも、聖職者は一族のビジネスに有益であると考えて、弟に賛成しま
した。そういうわけでレネ少年は、サン・マロで初等教育を受けた後、1684年から、サン・ピエール大聖堂で有
名なレンヌで神学校に入り、聖職者としての勉強を始めたのでした。
 しかし、船乗り志望のレネ少年は神学校になじめず、たびたび規則違反で罰を受けました。言い出しっぺのレ
ネ叔父は1684年に死去しており、そうこうしているうちに、聖職者への道を強く望んでいた父リュックも1687年
に死去します。
 そして誰にも遠慮が無くなったレネ少年は、どういう違反の罰かは不明ですが、手の甲を定規で叩かれた時に
逆切れして、先生である僧侶の襟首をひっつかんで定規を奪い取り、定規が折れるくらい強く先生の頭をぶっ叩
きました。
 この当時、教育現場での体罰はごく当たり前でしたが、実際のところは、体罰に値しない些細な理由で、教師
が生徒に暴力を振るっていたことも否定はできません。私自身は、現代の教育の場における体罰にも肯定的な
方ですが、もし理不尽だと思えば、私だって、定規を奪い取ることくらいはするでしょう。ただ、さすがに殴り返し
はしませんが。
 なんであれ、教師を殴るというレネの行為は、寛容な現代社会でも許容されるものではありませんから、当然な
がら大問題になりました。レネは直ちに拘束され、母マルグリット(Marguerite Boscher 1635-1705)もサン・マロ
から呼びつけられました。しかし、当の本人が謝罪を拒否して暴言を吐いたので、神学校から退学となります。
 ここに至って母親は、レネが神学に向かないと理解しました。しかし、彼の船乗り志望については良い顔しませ
んでした。で、なんだかんだあってレネ少年は、法学の勉強のためにカンのカレッジ(ここではレベルの高い専門
学校のようなもの)へ入学することになりました。
 
 ところが、カンでのレネ少年は、比喩でもなんでもなしに、「飲む、打つ、買う」の三拍子そろった完全な不良学
生でした。特に「打つ」のは一生の趣味となり、この時に覚えたプロのギャンブラーとしての技で、なかなかの勝
負師となります。また、彼はフェンシングにも凝り、何度か決闘騒ぎを起こして、怪我をしたり、させたりしました。
この時、レネ少年はまだ14−15歳。たいへんなガキです。そして1688年には、あろうことか身代金目的の女
性誘拐に加担したとのことで(「Studies in Naval History: Biography」 J.K. Laughton 1887)、ルイ金貨20枚の分け前を
もらうとパリに繰り出し、派手に遊びまわりました。
 何と言うか、校内暴力も不良少年も、決して現代文明の産物ではない事がわかります。今も昔も不良は不良で
す。近世と現代とでは、年齢の社会的意味合いが違うと言う反論もあるでしょう。確かに、近世の住人は、現代人
よりも早く社会の一員として「大人」と見なされていましたが、そもそも大人であっても、飲む、打つ、買うはあんま
り褒められたことではありません。
 まあ、それはさておき、悪いことはできないものです。レネ少年がパリで遊んでいたちょうどその時、トルーアン
家の現当主にしてマラガ領事でもある7歳年上の兄リュック(1666-1737)が、大同盟戦争の勃発でスペインが敵
国となったため、帰国してパリに来ていました。そして弟の非行が耳に入ったので、リュックは嚇怒します。
 レネ少年は兄に捕まってえらく怒られ、即座にサン・マロへ連れ戻されました。そして、母マルグリットにもどや
されました。それから、レネ少年はめでたくも、トルーアン家が準備していた私掠船に乗り組むことになりました。
 このあたり、レネ少年が自身の志望を家族に納得させたのか、それとも「アタマ冷やしてこい」と蹴りだされたの
か、いまいちビミョーと言わざるを得ませんが、まあ、念願かなったのだから、本人にとっては良かったのでしょ
う。
関連地図( EURATLAS PERIODIS BASIC PERIODICAL HISTORICAL ATLAS OF EUROPE 1 - 2000 より)


デュゲイ=トルーアン、お坊ちゃんコルセールとなる

 1689年11月、レネ・デュゲイ=トルーアンは、私掠船「le Trinitè(「三位一体」の意味 18門 128人)」に乗り組
むことになりました。映画や小説では「役に立たないお坊ちゃんに用はねぇ」とか言う職人肌の船長が登場します
が、少なくとも「Trinitè」のFossard船長は、スポンサーのお坊ちゃんを歓迎し、スポンサーのお坊ちゃんとして、
はっきりと優遇しました。それにレネ少年は、例え船乗りとしてずぶずぶの新米であっても、カーンで学んだ剣術
のおかげで、決して役立たずではありませんでした(意外なことですが、乗り込み戦が想定されていながらも、当
時の水夫はあまり近接戦闘の訓練を受けていませんでした)。
 
 さて、「Trinitè」は英仏海峡へ乗り出しましたが、時期が時期だけに海は大荒れであり、念願だったとは言え、
レネ少年は船乗りとして厳しい洗礼を受けました。おまけに「Trinitè」にもツキがなく、収穫の無い航海が延々と
続いたのでした。
 そして、レネ少年が船乗りになって一年が過ぎようとした1690年11月、「Trinitè」はようやく、ロンドンから来
た小型船「The Three Friends」を拿捕しました。レネ少年は、この船の回航員を務めましたが、この後から
「Trinitè」はツキ始め、1ヶ月弱の間にさらに英国船4隻を拿捕しました。
 さらに同年12月16日、「Trinitè」はオランダの私掠船「Concorde」と遭遇。レネ少年は最初の戦闘(少なくと
も、決闘沙汰ではないホンモノの戦い)を経験します。この二隻、大砲の数は同じでしたが、「Trinitè」はオランダ
船よりも大きな大砲を持っていました。そのため「Trinitè」は、2時間の砲戦の末に「Concorde」のマストに大損
傷を与えます。Fossard船長は直ちに切り込み戦に入ったまでは良かったのですが、獲物の回航のために人手
が取られていたフランス側は、多勢に無勢で苦戦を強いられました。
 しかし、この切り込み戦闘では、レネ少年の剣技が冴えわたります。船長のすぐ後に続いて切り込んだレネ
は、大男のオランダ人と切り結び、斬撃をひらりとかわすや、喉を一突きして刺殺。それから、三人の敵に襲わ
れて苦戦しているFossard船長を見たレネは、助けに駆けつけるや、たちまち2人を刺殺して船長を救う大活躍
でした。そして「Concord」は、20人以上の死者を出して降伏しました。ただ、フランス側も多くの死者を出し、そ
の中には、切り込む時に海に落ち、船の間に挟まれて死んだレネの幼馴染が含まれていました。
 
 サン・マロでは、当然ながらレネ少年の活躍は大いに賞賛されました。そして彼は、本格的に航海術の勉強を
始めます。レンヌとカンでのダメっぷりから、母と兄は勉学の意思は長続きすまいと危ぶんだようですが、今度の
レネは、まじめに勉強しました。神学と法学は無駄ではなかったようで、レネ少年には十分な学力が備わってい
たようです。
 そんなこんなで翌1691年6月から、レネ少年は私掠船「Grenedan (18門 205人 300t)」に乗り組みました。
この船のLegoux船長は、特別扱いが要求されたレネ少年に良い顔はしなかったのですが、トルーアン家が50%
を出資していたので、文句は言えませんでした。
 そして、アイルランド西岸を航行中の8月21日、「Grenedan」は、15隻からなる英国の商船団に遭遇。そのう
ち「Francis Samuel」「Europe」「Seven Star」の3隻を拿捕しました。この時レネ少年は、切り込みの時に海に
落ち、ロープにつかまったまま海中を引きずられて死にかけましたが、そんなアクシデントもなんのその、甲板に
這い上がるや、敵の船長と切り結んで負傷させ、降伏の印として剣を受け取る大活躍でした。
   
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