ジャック・カサールその4

ジャック・カサール、詐欺に遭う?

 1708年2月9日、カサールは「Duchess Anne」で、チャンネル諸島沖でイギリスの私掠船二隻と戦いました。こ
の時の勇敢さ認められたため、晴れて海軍士官となり(復職か?)、再びフリゲート「Le Jersey」の指揮をとることに
なります。
 繰り返しになりますが、この「Le Jersey」は、もともとはフランス海軍に拿捕されたイギリスのフリゲートであり、
かのジャン・バールと共にテクセル島沖で穀物輸送船団を奪回して、フランスを飢餓から救った船です。そして因
みに、前任の艦長は、ジャン・バールの長男フランソワでした。
 カサールが「Le Jersey」で上げた戦果については、彼が捕虜にしたイギリスの艦長の証言があります。この時
「Le Jersey」は、証言によると砲42門、乗員446人(英海軍在籍時の3倍もの詰め込み)の強力な船であり、4月
か5月、アイリッシュ海で小型艦「ダンバートン・キャッスルDumbarton Castle」に護衛された6隻の商船隊を襲
い、商船隊は取り逃がすも、「ダンバートン・キャッスル」のマスト二本を砲撃で破壊して、降伏させました。なお、同
じ証言の中で、艦長は、自分の牽制行動のおかげで商船が無事に逃げられたと言いきっています(笑)。
 「ダンバートン・キャッスル」をブレストへ向けて送り出した後(なぜかブレストの少し東にあるモルレに入港しまし
たが)、カサールはさらにアイルランド南部海域を二週間ほどパトロールし、二隻の沿岸船を拿捕、もしくは身代金
を取るも、その後、オランダの私掠船と交戦中に、三隻の英フリゲートを視認したため、やむなく逃走しました。た
だ、これらの他に「Le Jersey」で、カサールがどれだけの戦果をあげたのかは、これまたはっきりしません。

 ジャック・カサールの足取りが再びはっきりするのは、1709年になってからです。
 当時のフランスは、またも旱魃に見舞われており、そこに例によって、(今度は負け戦が続いている)長期化した
戦争による重税と労働力不足が加わって、1690年代ほど深刻ではなかったものの、またも飢饉に見舞われてい
ました。そういう訳で、フランスは食糧を海外に求めざるを得なかったのですが、これまた例によって、英蘭連合艦
隊による、1690年代よりもパワーアップした海上封鎖のために、簡単にはゆきませんでした。
 そんな中、マルセイユの商人グループが、北アフリカ、チュニジアからの穀物輸入を企図しました。北アフリカと
言えばなんとなく砂っぽいイメージであり、実際にチュニジアはかなり砂っぽいのですが、ローマ帝国の「北アフリカ
属州」だった頃から豊かな穀倉地帯であり、現代でもチュニジアは一大農業国です。
 ま、そんなこんなで、穀物輸入のために25(26?)隻の商船からなる船団が編成され、カサールはマルセイユ商
人達の依頼を受けて、商船隊の護衛を引き受けることにしました。またカサールはこの当時、コルセール稼業に
勤しんだおかげでかなり裕福になっていたので、この穀物輸入事業に出資者としても参加することになります。
 ジャック・カサールは、臨時で戦隊司令官(Commandante)に昇進して、「自由に使え」と海軍省から二隻の軍
艦、「Eclatant(62-70)」と「Serieux(52-68)」を貸し与えられます。貸し出された二隻は、1687-88年就役の20年
モノでいささか古くはあるのですが、いずれも立派な「戦列艦 Ship of the line」です。カサールが、コルセールとし
てどれほどの名声を得ていたかがよく判ります。
 カサールは、護衛任務のために自費で軍艦二隻の準備を整えると、恐らく1709年2月か3月ごろだと思われま
すが、商船隊とともに、無事にチュニジアのビゼルトに到着して、穀物の積み込みを終えることが出来ました。

関連地図(EURATLAS PERIODIS BASIC PERIODICAL HISTORICAL ATLAS OF EUROPE 1 - 2000 Christos Nussli より)

 しかし、さすがにこの段階まで来ると、フランス側の動きはイギリス地中海艦隊の知るところとなり、ビゼルト港に
はイギリスの分遣隊も入港して来ました。
 この『ローカル英雄伝』では既にお馴染みとは思いますが、チュニジア大守国は、その悪名すこぶる高き、バー
バリ海賊(彼らもコルセールと呼ばれる)の巣窟の一つであり、世界最強の英国ロイヤルネービーですら一目置か
ねばならない連中です。そしてチュニジアは、一応は中立国ですが、条件と気分次第でどこの国にでもつきます(オ
スマン帝国の支配を嫌がって、キリスト教国のスペインの支配下に入ったことがあるくらいです)。
 どうやらこの時のチュニス太守は、フランスに味方すると決めていたようであり、イギリス艦隊がフランスのコンボ
イを攻撃することは許可しませんでした。
 ビゼルト港内でしばらく英仏の睨み合いが続きましたが、強い西風が吹いた4月29日、カサールは、商船隊に
マルタ島(当時はまだ独立国)へ向かうように指示して出港させ、自身は「Serieux」を指揮して「Eclatant」と共にし
んがりにつきました。カサールは「Eclatant」に乗っていたという話もありますが、どちらにせよ、商船隊の背後を
守ったのは間違いありません。
 一方、イギリス側はと言うと、商船隊はビゼルトから真っすぐマルセイユへ北上すると予想していたので、強い西
風の日を選んで(マルタ島目指して)西に向かったことに、完全に虚を突かれました。
 イギリス艦隊の出港は遅れた上に、カサールの二隻が立ち塞がって、追跡を妨害しました。そして日没近くにな
った時、カサールは「Eclatant」に、商船隊を追いついてマルセイユまで護送せよと命じ、自身は「Serieux」で引き
続き戦い続けました。
 おかげでこの後、5対1の多勢に無勢の戦いとなり、「Serieux」は大損害を受けました。それでもカサールが死な
ずにすんだのは、恐らく、イギリス側があわてて追跡したため、高速の艦、すなわち普通は小型で比較的軽武装
の軍艦が先に立って、重武装の艦(普通は敏捷ではない)が遅れていたためだと思われます。
 そして、「Serieux」は大破し、船底に深さ5フィートも浸水しつつも、ビゼルトの少し西にある、ポルタ・ファリナ港
(Porta Farina 現在の名はGhar al Milh)に逃げ込むことに成功しました。
 それからカサールは、チュニス太守国の保護の下でポルタ・ファリナに数週間滞在し、太守国の施設と資材の提
供を受けて、自費で「Serieux」の修理を行った後、夜陰にまぎれ、イギリス艦隊の目をかすめてポルタ・ファリナか
ら脱出。あまつさえ、レパント帰りの英国商船と、シラクサからの穀物を運んでいた英国商船を拿捕してから、無事
にマルセイユへ帰港しました。

 一方の穀物輸送船団はと言えば、カサールが帰ってくるよりもかなり前に、無事にマルセイユに到着していまし
た。つまり、カサールは護衛任務を完遂したわけです。ところが、マルセイユの商人達は、カサールへの報酬1万
リーブルの支払いを拒否しました。
 なんとなれば、カサールは船団に随行する契約になっていたのにも関わらず、ビゼルトを出港した時、しんがりを
守って船団と別行動を取ったのが契約違反だと言う、確かに契約がそうなら理にかなってはいるものの、カサール
が船団を守るために戦い、そして船団に全く被害が無く、マルセイユのみならず南仏全域が飢餓から救われたこ
とを考えれば、あまりに厚かましい言い分でした。少なくとも、まっとうな人間が言うことではありません。だいたい、
護衛と言うものは、その対象の無事を確保するのが主たる目的であり、対象にへばりつくことが目的ではないはず
です。
 カサールは当然の権利として怒り、支払いを求めてマルセイユの裁判所に提訴しました。しかし、結果はカサー
ルの敗訴。それでは、と彼はエクス県(Aix)の裁判所に上告しますが、これまた敗訴。そんなこんなでカサールは、
二隻の軍艦の整備費用にチュニジアでの修理費用、そして訴訟用費用も併せて、金額ははっきりしないものの、
かなりの損害を蒙りました。
 こうした判決を受けたカサールが、マルセイユの商人から組織的な詐欺に遭ったと考えたのも、無理からぬこと
でした。判決の理由としては、勿論、マルセイユ商人と裁判所が癒着しており、かつカサールに力のある後ろ盾が
無く、マルセイユでもよそ者だったと言うことが、いちばん分かりやすいでしょう。
 ジャン・バールを例に取れば、彼の場合、コルベール父子からポンシャルトラン伯爵まで、折々の海軍大臣の後
ろ盾があり、しかも故郷ダンケルクに根を下ろして活動していたので、そもそも、ダンケルク商人達がバールを敵
に回そうと考ることも無ければ、よしんば同様の騒動があったとしても、不利な判決が出る可能性もかなり低かっ
たと思われます。
 ただ、公平に考えて見ると、カサールの策略が図に当たったのは、確かに結果オーライで、実際には「Serieux」
はあっさり行動不能にされ、船団はそっくり拿捕されると言う可能性も大いにありました。従って、契約だけ読んで
裁判所がカサールに不利な判断を下すのも、あながち無理やりと言えないかも知れません。おまけに、カサール
が拿捕船を二隻も連れて帰ってきたことを考えれば、獲物探しに熱中して、船団護衛をないがしろにしたと誤解さ
れた可能性もあるでしょう(カサールが用意した二隻しか護衛がいないというところに、ソートーな問題があるように
思えますが…)。

 かくして、カサールはマルセイユに深い恨みを抱くようになりました。ただ、カサールはかなりの金持ちだったし、
この時も二隻の拿捕船から高額の賞金が入ったので、経済的に困窮した事実は全くありません。しかし、この1万
リーブル踏み倒し事件は、後々にまで尾を引くことになります。

ジャック・カサール、再びマルセイユを救う

 さて、カサールがすっかりマルセイユを嫌いになったのとは反対に、実際のところマルセイユ市では、輸送船団を
守ったことによって、カサールの名声と信望は大いに高まりました。そういう訳でカサールは、翌1710年、マルセ
イユの商人達から、トルコのスミルナへ向かう穀物輸送船団の指揮を依頼されるのでした。
 この空気が全く読めていない申し出は、カサールの怒りを買い、当たり前の話ですが拒絶されます。そこで、代
わりにde Feuquieresと言う人物(不詳 ただde Pas de Feuquieresと言う侯爵家があるので、その一族かも知れ
ない)が指揮官に選ばれ、1710年6月初め、60門艦、50門艦、36門フリゲートそれぞれ二隻づつ計6隻からなる
護衛と、商船84隻からなる大船団がスミルナへ向かって出発しました。
 船団は、何事も無くスミルナに到着することが出来ました。そして穀物の積み込みを終えると、10月にスミルナ
を出港して、帰路につきました。そして、「行きは良い良い帰りは悪い」を地で行く格好で、船団がシチリア島近海
に差し掛かった時、通りすがりの商船から、船団を阻止すべく、イギリス艦隊がマルセイユ近海を遊弋中だとの情
報を得ました。de Feuquieresはとても突破できないと恐れをなし(護衛艦の一部にまで穀物が積み込まれ、戦闘
可能な状態ではなかったといわれる)、シチリア島のシラクサ港(当時は同盟国スペインの支配下)に逃げ込むとと
もに、救援を求めるため、60門艦「Toulouse」をツーロン(フランス地中海艦隊の基地)へ向けて送り出しました。余
談ながら、この「Toulouse」は縁起の悪い船で、1707年に一度沈没、11年にはイギリスに拿捕されています。
 
 穀物輸送船団シラクサで足止め、のニュースが伝わると、飢餓と破産の危機にマルセイユ市に衝撃が走りまし
た。そしてカサールのもとには、いつぞや報酬を踏み倒した連中も含むマルセイユの商人達から、何とかしてくれ
と言う訴えが届いたのですが、やはりカサールは、マルセイユのために動くことを拒絶しました。
 しかし、事は国家的重大事です。ここは海軍大臣ポンシャルトラン伯が動いて、カサールに船団救援を命じるとと
もに、ツーロン港には、動ける軍艦全てをカサールの指揮下に入れるように命じました。 
 かくして、カサールは海軍大臣の命令を受けてツーロンへ赴き、11月8日、「Parfait(70門 カサールの旗艦で
1671年就役の40年モノ)」、「Phoenix(56-60)」、ビゼルト行きで使った「Serieux」、そして救援の使いであった
「Toulouse」の4隻を率いて、シラクサへ向かいました。

 さて、事前にカサールが得た情報では、イギリス艦隊は船団の行動を察知し、シラクサ港を封鎖していると言うこ
とでした。ところが9日の夕刻、シラクサ沖に到着してみると、そこに居た敵艦は64門艦「ペンブローク Pembroke」
と36門フリゲート「ファルコン Falcon」の二隻だけでした。何たる幸運か、封鎖艦隊の本隊は、補給のためバルア
レス諸島のミノルカ島(スペイン領だが1708年に英軍が占領)に向けて出発した後だったのです !
 カサールは直ちに行動を開始します。船団を出港させるべく、連絡のため「Toulouse」をシラクサ港へ送り、
「Serieux」と「Phoenix」には大きな「ペンブローク」を攻撃させる一方で、自身は「Parfait」でフリゲート「ファルコ
ン」の方に向かいました。
 イギリス側にとって、戦力差は絶望的であり、本隊へ連絡を送る手段も無ければ、連絡が間に合う見込みも無
く、穀物船団の出港を妨害することもまた絶望的でしたが、それでも、イギリス海軍の名に恥じない勇敢な戦いぶ
りを見せます。カサールが小さな「ファルコン」に向かったのは、マルセイユ人のために命を懸けるのがイヤで、自
分だけラクをしようと思ったからだとしても、その意図は大ハズレでした。
 「ファルコン」の艦長は、切り込み戦闘に全てを賭けるつもりだったようで、機先を制して「Parfait」に切り込み隊
を突入させました。この最初の切り込みで「ファルコン」の艦長は落命しますが、その後も「ファルコン」は乗員の2/
3が倒れるまで戦い続けて、乗員の数では3倍の「Parfait」に大損害を与えました。
 カサールは降伏した「ファルコン」に回航員を配置すると、「ペンブローク」と砲戦を続けている「Serieux」、
「Phoenix」の支援に向かいました。すると、「ペンブローク」は、「Parfait」の方に向かって来ました。カサールが衝
突を避けようと針路を転じたところ、船尾からT字型に縦射されて30人以上が死ぬ大損害を被ります。それから二
隻は、至近距離で砲戦を続けますが、「Serieux」が反対側から接近してきて、「ペンブローク」のメイントップマスト
とミズンマストを粉砕したため、「ペンブローク」はついに降伏。乗員320人中、艦長以下74人が戦死し、140人
が負傷する大奮戦でした。
 11月15日、カサールは二隻の拿捕船と穀物船団を引き連れ、ツーロンに入港。大歓迎を受けました。
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