ジャック・カサールその3

ジャック・カサール、空振りの後でホームランを打つ

 さて、せっかく国王ルイ14世に謁見して、海軍士官となったジャック・カサールですが、その後1705年まで足取
りがはっきりしません。
 カサールは支度金2,000リーブルもらったうえに、伝説によると、謁見の際に国王のお言葉を聞いた後、落涙しつ
つルイ14世の足に抱きついて「陛下のためには死も恐れません !」、とまで誓ったそうですが、早々に海軍内部の
貴族社会に嫌気がさし、民間に戻ってしまったようなのです。勿論、しばらくは、まじめに戦列艦に乗ってはいまし
たが。また、後援者ド・ポアンティ男爵が、急死したジャン・バールの後任と言う名誉もつかの間、すぐに海軍の主
流からホされてしまったことも、海軍をやめたことに関係しているかもしれません。

 カサールは私掠船に職を求めましたが、生まれ故郷であるはずのナントでは避けられ、船を任せてもらえなかっ
たので、サン・マロでの伝手を頼りました。そして、サン・マロの商人の小グループから出資を受け、1705年6
月、カサールに私掠免許状が発行されました。
 カサールに任されたのは、「サン・ギヨーム (Saint Guillaume 聖ウィリアムのこと)」と言う小さな船。どうやら資
金的には潤沢ではなかったようで、武装は3ポンド砲8門と頼りなく、68人の乗組員は、カサールも「クズ」と認め
る他の船に採用されなかった連中でした。
 1705年6月27日、カサールはサン・マロから出港しました。しかし、しばしば敵の商船に遭遇するも、いずれも
サン・ギヨームよりも重武装の大型船ばかりであり、カサールは襲撃はあきらめざるを得ず、一隻の戦果を上げる
ことも出来ないまま、11月からサン・マロで越冬に入りました。ジャン・バールが、大砲たった2門、乗員36人の
「ダビデ王」で6隻拿捕したことを考えると、カサールの「サン・ギヨーム」はずいぶんと恵まれているのですが、ま
あ、これは時代が進んで、英蘭の商船で私掠船対策が進んだ結果と見るべきなのでしょう。
 
 さて1706年3月、前年の失敗に懲りたカサールは、外海で大型商船を狙うことは諦め、沿岸航路の小型船を狙
う方針に切り替えました。
 再びサン・マロから出港したカサールは、「サン・ギヨーム」に英国旗を掲げ(違法。私掠船であっても下手をすれ
ば海賊として死刑)、アイルランド南部のキンセール岬へ直航するコースを取りました。そして、アイルランドの海岸
では、英国旗で難無く沿岸航路船を騙し、二週間弱の間に6隻を捕まえ、合計650英ポンドの身代金を要求する
と、船長達を人質として「サン・ギヨーム」に拘束してから解放しました。人手の少なさや質の悪さを考慮し、拿捕し
た船を回航する手間をかけなかったのです。
 そのあとカサールは「サン・ギヨーム」をブレストへ向かわせ、4月6日にブレストに入港。捕まえた船長達を海軍
司令部に引き渡しました。なお、こういう捕虜達は、休戦旗を掲げた船が身代金を持って来るまで拘束されている
わけですが、実は戦時にあって敵国とちゃっかり貿易する良い機会でもありました。

 カサールと「サン・ギヨーム」は、補給と給水のためブレストに短期間滞在してから、再びアイルランドへ向けて、
英国旗を掲げて出港しましたが、ブレストを出た翌日にオランダのコルベットに遭遇しました。
 ブレストから一日のところで、英国旗の小型船はさすがに怪しまれます。だいたい、こういう偽りの国旗を掲げる
と言う方法は効果的に見えますが、実際には味方から攻撃を受けることもあるし、フランス国旗を掲げた英国の私
掠船と、私掠船対策でフランス国旗を掲げていた英国船との遭遇と言う、マヌケですが決して笑い事では済まない
事件も実際に起こっています(かのキャプテン・キッドもそれでミソをつけました)。
 オランダのコルベットは、英国旗を掲げる「サン・ギヨーム」に対し、「船長は来船せよ」の信号を掲げ、警告射撃
を行いました。そのオランダ艦「Catherine(14門 オランダ側の記録は不詳)」は、軍艦としては小型でしたが、見る
からに「サン・ギヨーム」よりも強そうでした。どう見ても砲戦では勝ち目が無いので、カサールは最初から切り込み
戦闘に全てを賭けるつもりで、乗員たちに戦闘計画を説明しつつ、見事な操船術を発揮して、オランダ艦からの片
舷斉射を避けつつわざと追いつかせると、切り込み戦闘に持ち込みました。
 カサールは、予め装てんしてあった鎖つき弾で敵艦の甲板を掃射させると、その隙に敵艦に切り込みました。ま
た、戦闘に先立って、信頼できる士官(Guilloisと言う名前らしい)に乗組員の中でもマシな6人を付けて、敵艦が接
舷してくるのと同時に、敵の乗組員は無視して突撃して、相手の甲板砲を奪取するように命じていました。コレ、か
なり無茶な命令にしか見えませんが、混乱にまぎれてGuillois氏一行は任務を達成しました。
 斬り合い突き合いの真っ最中に、Guillois氏一行は、甲板上を射撃できるように、苦労して敵の大砲の向きを変
えると、クズ鉄やら散弾を詰め込みました(オランダ側のものか、彼らが抱えてきたものかは不明)。射撃準備完了
の声を聞くや、フランス人達は急いで退避し、Guilloisらが操るオランダの大砲が元の持ち主達をなぎ倒してから、
再び斬りかかります。そして二度目の砲撃の後で、三か所も負傷を負ったオランダの艦長は降伏して、カサールに
剣を差し出すとともに、殊勲のGuilloisがオランダ国旗を降ろしました。かくして、オランダ艦「Catherine」は、113
人の乗組員のうち37人が戦死、51人が負傷する大損害を受け、ジャック・カサールの手に落ちました。一方、カ
サールの方も損害が大きく、乗組員60人のうち戦死16負傷23と、乗組員の3/4が倒れるほどでした。

 帆船時代、敵艦を拿捕すれば賞金がもらえると言うヨーロッパの海洋国家に共通した制度は、船長/艦長達の
戦闘意欲を、ある意味で消極的にしていました。撃沈すれば一銭にもなりませんが、捕まえれば賞金がっぽりです
(帆船時代の大砲で撃沈するのも困難ですが)。しかし、拿捕した船を回航するには、砲撃であまりなダメージを与
えるわけにもいきません。ですから、残された記録は多くを語っていないものの、賞金狙いの切り込みを図ったば
かりに、商船に逃げられたり、逆襲されて返り討ちにされると言うことは、(特に私掠船では)わりと頻繁に起こって
いたと推測されます。
 もちろん、こういう拿捕賞金制度は、第一次世界大戦以降のように、問答無用で魚雷をぶち込むよりも戦いを人
道的にしていましたが、「Cathrine」の艦長も、恐らくはこの賞金の落とし穴にハマッたのでしょう。C.S.フォレスタ
ー氏の名作、ホーンブロワー・シリーズでは、貧しいホーンブロワー艦長が、懐具合を気にしつつも拿捕賞金制度
の弊害について語る場面があります。
 なんであれ、4月24日、カサールは「Catherine」を引き連れてブレストへ帰港、コルセールの成功者の列に加
わることができたのでした。

ジャック・カサール、誘拐魔と化す

 航海から戻ったカサールは、一週間ばかりブレストに滞在しました。その間、補給を行うとともに、拿捕したオラ
ンダ艦から9ポンド砲4門を「サン・ギヨーム」に移して、火力を強化しました。また、成功したコルセールとなったカ
サールの下には優秀な船員が集まってきたので、人員の補充も容易に行うことが出来ました。
 そして1706年5月2日、カサールは再びブレストを出港。80人に増えて質も改善された乗組員と、強化された
火力により、カサールは自信を持って航海に臨んだということです。しかし、英国の商船に偽装してアイルランド南
岸へと向かったということですから、やっていることは変わっていません。
 そして、オランダ船とイギリス船各一隻を捕えると、船長を捕虜にして、合計1,250リーブルの身代金を要求しまし
た。その後、敵の捜索を避けるためアイルランド北方海域へ向かいました。そこでは、別のサン・マロの私掠船に
遭遇。しばらく、この船と一緒にスコットランドの沿岸を荒らし、共同で8隻の沿岸航路船を捕え、合計1,600リーブ
ルの身代金を要求しました。
 この後、荒天で二隻は離ればなれになってしまったので、カサールは再び単独で行動。6月17日から25日にか
けて、アイルランドの石炭輸送船「William」、そして穀物輸送船「James」、「Livonia」、「Elizabeth」の計4隻を捕え
ると、これまた船長を捕虜にして、身代金を要求してから釈放しました。ここで食糧が乏しくなったので、カサール
は帰路につき、7月2日、「サン・ギヨーム」は、身代金合計7,000リーブル分の人質を引き連れて、サン・マロに帰
港しました。
 ただ、こういう身代金で船を釈放するという行為は、ジャン・バールが裁判沙汰になったように、フランス海軍省
が定めた私掠行為の法令に反する行為であり、本来、拿捕した船は、最寄りのフランスの港まで回航して、同地
の行政官や海軍の出先機関の査定を経てから、売却されて賞金が支払われるべきものでした。
 しかしながら、多くのコルセール達は、(ジャン・バールも悩んだように)拿捕船を回航することで、自分の船が捕
虜でいっぱいになる反面、回航要員で自船の人手が減ってしまうことを嫌っていました。また、この時代にはもう制
海権が英蘭連合艦隊のものなので、スペイン継承戦争では回航中の拿捕船が奪回されることが頻繁に起こって
いました。そういう訳で、船を回航せずに身代金を取って解放する方法は、コルセールにとっては大きな魅力だっ
たのです。
 しかしながら、(ジャン・バールはその場にある現金を撒きあげていたようですが)こういう身代金の約束がすっぽ
かされることは、当然あったと思われます。単に金がないということから、敵国に大金が渡ることを嫌がる政府の
意向まで、理由はいくつも考えられます。また、このやり方では、敵国の海上輸送力を奪うことができません(この
点、フランスの海軍省はしっかり認識していた)。つまるところ、営利事業であることの弊害が出たと言うことなので
しょう。

 サン・マロに帰った後、カサールは「サン・ギヨーム」を降りますが、ここでようやく、カサールは故郷ナントの船主
達からオファーを受けました(サン・ギヨーム」を解役したからオファーを受けたのか、オファーを受けたから「サン・
ギヨーム」を降りたのかは判りません)。
 カサールはこの申し出を受けて、新造の150トンのバーク船「Duchess Anne(16門 104人)」の指揮をとることに
なりました。
バーク船 (Bark もしくは Barque) 図は「The line of Battle The sailing warships 1650-1840」より
 1670年頃から、フランスの地中海岸で使われ始めた小型帆船。ラテンセール(Latin Sail)と呼ばれる三角帆を装備した三本マストが特徴。現代のバーク型帆船とは違う形であることに注意。
 しかしながら、ナントからの仕事を受けた後、しばらくカサールのはっきりした足取りが途絶えています。ただ、サ
ン・マロの海軍関係の古文書によると、2年間に13隻の商船を拿捕してサン・マロに回航し、合計37,000リーブル
の賞金が支払われているということです。この他にどれほど身代金を取ったかどうかは不明ですが、身代金を取っ
たことを海軍本部から厳しく譴責されて、拿捕船を回航する方針に転換したようです。また、後では「Duchess
Anne」を含む3隻の私掠船を指揮する身分にもなったようで、恐らくは、回航による人手の減少をあまり気にする
必要がなくなっていたと考えられます。

inserted by FC2 system