ジャック・カサールその2

スペイン継承戦争

 いつものことですが、本題を続ける前に、ジャック・カサールが活躍するスペイン継承戦争について概説しておく
のが親切というものでしょう。ここに到る過程には、ルイ14世の膨張主義や、大同盟戦争、名誉革命も絡んでいる
ので、その点は適宜、「ジャン・バール」の項あたりを参照して下さい。

 1700年11月1日、スペイン国王カルロス2世(1661-1700 在位1665-1700)は後継者を残さないまま崩御しま
した。カルロス2世は、肖像画にははっきり末端肥大症が見え、病弱で、おまけに癲癇と軽い知的障害があったと
言う人物であり、スペイン宮廷や諸外国は、敢えて不敬な言い方をすれば、さっさと死ねよと思いつつ、存命中か
ら後継者問題を議論していました。
 さて、カルロス2世の実子誕生が絶望的な中で、次期スペイン国王候補は三人いました。
 まず一人目は、ルイ14世の孫アンジュー公フィリップ(1683-1746)。ルイ14世の王妃マリー・テレーズが、カル
ロス2世の姉であることから来た継承権です。
 2人目は、同じハプスブルグ家の神聖ローマ帝国皇帝レオポルド1世(カルロス2世の叔父)の次男である、オー
ストリアのカール大公(後の神聖ローマ皇帝カール6世 1685-1740)。
  3人目は、これまたカルロス2世の姉の孫で、バイエルン選帝侯子ヨーゼフ・フェルディナンド(Joseph
Ferdinand Leopold von Bayern 1692-1699)。フェルディナンド候子は英蘭からの強い推薦を受けており、一時
は最有力候補として、スペイン王太子であるアストゥリアス公(Príncipe de Asturias)の称号を受けたりもしたの
ですが、6歳で亡くなってしまい、早々にレースから脱落しました。

 スペイン王位継承の何が問題であったかと言うと、スペインは既に「老大国」のデフォルト国家で、そうとうガタが
きていたのですが、それでも中南米やフィリピンなどの広大な植民地に加え、称号の掛け持ちによるイタリアの諸
王国、シチリア島、南部ネーデルラントなどの支配地域があり、他の王国と同君連合(最悪なケースでは合邦)して
超大国が出現するような事態は、その超大国になりたいフランスを除き、イギリスを中心とする反仏の西欧諸国に
は避けたいことでした。そういう英国王ウィリアム1世/ウィレム3世も、世襲職のオランダ総督掛け持ちであり、当
時、英蘭の二大経済大国は事実上の同君連合だったのですが、そのあたりは突っ込んではいけません(ウィリア
ム1世にも世継が居ないのです)。
 大モメの気配に、フランスも含む関係各国(ただし、当のスペインを除く)は、候補者達にスペイン国王が持つ諸
地域の王権を分割して相続させることで、いったんは合意しました。
 しかし、当たり前の話ですが、勝手な分割案にスペイン側は反発します。そしてルイ14世も、一度は分割案に乗
ったと言うことはさらりと水に流し、なりふり構わぬカルロス2世のご機嫌取り工作を展開しました。そしてその甲斐
あって、分割相続案は放棄され、カルロス2世の遺言により、アンジュー公フィリップが、スペイン国王フェリペ5世
として即位しました(在位1701-1740 1724年に一度退位しているが、新国王の急死で重祚)。これ以後、ナポレオ
ン時代、共和制やフランコ支配の中断を挟みつつも、現代に至るまでスペインではブルボン王朝が続いています。
本家フランスよりも長続きです。

 さて、カルロス二世の遺言では、誰であれスペイン王に即位した場合、出身国の王位継承権は放棄することにな
っていました(アンジュー公が即位しないというまずあり得ぬ事態も想定されており、二番手としてカール大公が指
名されていました)。
 しかしルイ14世は、フェリペ5世のフランス王位継承権を曖昧にしました。この種の約束破りは、ルイ14世の常
套手段です。ここにフランス=スペイン連合王国が現実的になったわけで、しかも、9年に及んだ大同盟戦争が終
わってまだ何年もたっていない時期ですから、ルイ14世の膨張政策に振り回されてきたドイツ諸侯と英蘭は怒る
まいことか。
 最初に行動を起こしたのは、オーストリア(概ね神聖ローマ帝国と考えてよい)でした。1701年6月、名将オイゲ
ン公子率いるオーストリア軍3万は、アルプスを越えて、スペイン領である北イタリアはミラノ公国に侵攻。カルピの
戦い(Battle of Carpi 1701.7.9)でフランス軍2万5千を破りました。かくして再び、フランスは戦争に突入します。世
に言うスペイン継承戦争(1701-1714)の始まりでした。

オイゲン公子
(Prinz Eugen, Eugen Franz von Savoyen-Carignan 1663-1736 画像はwikipediaより)
  オーストリアが誇る無敵の名将。サヴォイ公家の親戚で、ルイ14世の隠し子と言う噂もたったバリバリの
フランス貴族にして、ちゃきちゃきのパリっ子。母はかのマザラン枢機卿の親戚である。しかし、若い頃から
オーストリア軍に奉職。トルコとの戦争で武功をあげ、オーストリア軍随一の名将となった。

 そして1701年9月7日、英国王兼ネーデルラント連邦諸州の総督、ウィリアム1世/ウィレム3世を中心に、神聖
ローマ帝国、プロイセンその他主要なドイツ諸邦が加盟する対仏大同盟が再結成されました。
 一方フランスでは、同盟結成のほぼ同時期に、亡命中の前英国王ジェームズ2世が危篤となり、9月16日に死
去しました。ジェームズ2世と親しかったルイ14世は、死に際についほだされてしまい、ジェームズ2世の息子フラ
ンシス(James Francis Edward Stuart 1688-1766)をイングランド国王ジェームズ3世として承認すると宣言して
しまいます。これでもう、イギリス、オランダとの戦争は不可避となり、フランスは再び、西欧諸国の大半を敵にす
ることになりました。
 この半年後の1702年2月20日、ウィリアム1世/ウィレム3世は、乗馬がもぐら穴に躓いたために落馬し、鎖骨
を折りました。落馬事故のかなり前から健康を損ねていた彼は感染症を起こしてしまい、3月8日に死去します。
ルイ14世の宿敵にして稀代の大英雄のあっけない死でしたが、だからと言って同盟側の対決姿勢が変化すること
はなく、1702年5月、大同盟諸国はフランスとスペインに対して宣戦布告しました。

 大同盟戦争の終結からたった5年ぽっちで、前に勝てなかったのと概ね同じメンバーに対し、性懲りも無くまた喧
嘩を売る外交方針を採ったルイ14世の神経には、かなりなギモンを抱かざるを得ませんが、これはあくまで結果
論。孤立していた大同盟戦争の時と違い、当時のフランスには、今や親戚となったスペイン王国があり、他にサヴ
ォイ公国と言う同盟国もあったので、「今度はいける」と思ったとしても、まあ、おかしくはありません。また開戦後
には、バイエルン選帝侯国がフランス側に立って参戦しています。
 ただ、これらのフランスの同盟国が、「強い味方」だったかと言えば、これが甚しくだビミョーと言わざるを得ませ
ん。実際、サヴォイ公国はあっさり裏切って反仏同盟につきました。スペインも、軍事的にはともかく、国内にはブ
ルボン家の王位継承に反発する勢力もあって内紛が続き、さらにポルトガルが反仏同盟側で参戦したため、フラ
ンスは却って下腹を敵にさらす始末となります(そもそもスペイン軍がフランス軍よりも弱いことは、1660年代から
のスペインいじめでルイ14世はよくわかっていたはずです)。
 バイエルン選帝侯国も、一時は善戦しましたが、1704年の有名な「ブレニムの戦いBattle of Blenheim 1704.
8.13」で、オイゲン公子とマールバラ公ジョン・チャーチル(John Churchill, 1st Duke of Marlborough 1650-
1722 ウィンスチン・チャーチルのご先祖様)と言う当代きっての名将二人が率いる同盟軍に大敗北を喫し、11月
には国土の大部分をオーストリアの占領下に置かれて、戦争から脱落しています。
 かくして、このスペイン継承戦争では、結果はともあれ軍事的には決してフランスが負けてはいなかった大同盟
戦争とは違って、オイゲン公とマールバラ公ジョン・チャーチルの大活躍のために、フランス/スペイン連合軍はあ
ちこちで敗北を繰り返します。一時はパリすら危ぶまれる有様でした。それでも、戦争はなんと13年も続くのでし
た(←バカ)。

ジャック・カサール、国王に会って海軍士官になる

 1697年9月、帰国したド・ポアンティ男爵は、報告書でカサールの功績を称え、海軍士官として登用すべきであ
ると説きました。
 カサールの登用にルイ14世は乗り気だったようで、海軍大臣ポンシャルトラン伯に推薦したようではあります
が、戦争がとりあえず終わっていたことではあるし、庶民の士官任用にも反発があって、残念ながら、カサールの
任官はかないませんでした。
 その後、ド・ポアンティの推薦と故郷ナントの商人達の出資により、カサールは商船の指揮を任されることになり
ました。ただ、これは港町間のライバル意識によるものと思われますが、カサールは既に「サン・マロの船乗り」と
見做されていたらしく、故郷であるはずのナントの船乗り達からは敵視され、彼が船を預かることに強い反発もあ
ったようです。
 またさらに、船長になるには最低25歳という規定もありました。私見ながら、カサールはこの時本当はまだ18歳
ながら、船長資格を得るために25歳だと年齢詐称をしたため、1672年生誕説もあるのではないか、と考えられ
ます。
 なんであれ、カサールは預かった船の艤装を自ら監督しました。彼が指揮したのは、6門の大砲を積んだ商船で
したが、半ば私掠船でもあったらしく、既に和平が成立していたにもかかわらず、オランダ商船2隻、イギリス商船4
隻を拿捕しました(「The Corsairs of France」)。 
 特に、その時の一隻、西インド諸島からラムと砂糖を運んでいたイギリスの重武装のプリッグ「William Duncan」
を拿捕した時は、敵の船長と11人の乗員を倒し、自らも死傷18人を出す激しい戦闘であり、カサールは大いに名
声を得るとともに、けっこうな分け前をえました。
 大同盟戦争の和平は成立していましたが、1698年になっても北米ではフランス私掠船の活動が続いていたの
で、グレーゾーンと言うべきか、宣戦布告なき戦争ならぬ「終ったはず」の戦争なのか…。
  また、「The Corsairs of France」によると、ダンケルクの海軍工廠司令官となっていたド・ポアンティの推薦に
より、「le Jersey」と言う船(ジャン・バールの下でテクセル島沖海戦に参加した)を指揮して、英仏海峡で英蘭の商
船17隻を拿捕した、と言うことですが、おいおい平時だろうと言うツッコミは別としても、1700年あたりまで民間
商船に乗っていたと言う話もありますから、実際のところはなんとも判りません。
 しかし、そうこうしているうちに1700年、ド・ポアンティ男爵の運動が功を奏したらしく、カサールはヴェルサイユ
宮殿に呼ばれ、なんと、太陽王と言いつつはっきりフランスを疲弊させつつある偉大な君主、ルイ14世への謁見
を許されました。
 謁見の場でルイ14世は、
「カサール殿、多くの人が貴殿の活躍を賞賛している。ド・ポアンティ男爵も、貴殿が自身の職務に邁進していると
保証している。私は、我が海軍のために、見つけられる限りの貴殿のような勇者を必要としている。人々は、貴殿
こそ勇者の中の最勇者だと言う。私は、貴殿を我が艦隊の士官に任命するとともに、ポンシャルトラン伯爵には、
貴殿がその地位に相応しい用意をするため、2,000リーブルを支給するように指示しておきました。」
 と言ったらしいです。2,000リーブルくれたくだりを「いやらしい」と見るか、「名誉なこと」と受け取るかは人それぞ
れでしょうが、とにかくカサールは、海軍士官となったのでした。
 
 
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