ジャック・カサール
(Jacques Cassard 1679[注] - 1721)
  [注]1672年生まれともされる 

+: 英雄的私掠船乗り

-: 世渡り下手? 







 
 端的に言うと、ジャン・バールになり損ねた、忘れられた英雄。理不尽な最期を迎えた後は、19世紀後半まで、フランスにおいても完全に忘れ去られていた人物です。フランス海軍には彼の名をとった駆逐艦が就役中ですが、それでもなお、フランス国内においてさえそれほど有名でもなければ、人気があるわけでもありません。

少年時代

 ジャック・カサールの少年時代については、ほとんど不明です。彼がフランス宮廷を怒らせたため、同時代の作
家達には、彼の伝記を残すことが憚かられたのが原因だと言われています。
 生年からして、「1679年9月30日」とは言われていますが、特に19世紀末に書かれた資料には、「1672年生
まれ」としているものが多いです。はっきりしているのは、ナント(地図参照)の出身で、レパント航路の貿易船の船
長の息子であり、他に姉妹が三人いたこと、父親はジャックの幼少期に亡くなり、裕福ではなかった一家のために
ジャックは働かざるを得ず、父親の伝手を頼ってキャビンボーイとして船に乗り組んだということです。
 この先はまた不確かで、72年出生説をとるか、79年説をとるかで違ってきます。72年生まれとした場合、彼は
まず、ニューファウンドランド沖を漁場とするサン・マロの遠洋漁船に乗り組み、3年後の1686年から、サン・マロ
の私掠船に乗り組むようになりました。79年説をとれば、なんと7歳の時からサン・マロの私掠船に乗り組んでい
ます。ただ、1686年と言えば、まだ大同盟戦争が始まる前であり、私掠船はいったい何をしていたんでしょうか?
地中海ならば、バーバリ海賊と戦うこともあるのですが…。

 ともあれ、サン・マロは、記録に残るフランス最古の私掠免許が発行された場所であり、いわばコルセール発祥
の地です。この時代には、私掠船稼業ではダンケルクにお株を奪われつつありましたが、スペイン領、イギリス領
と(市民に責任は無いながらも)腰の定まらなかったダンケルクに対して、古くからフランスに属していたと言うことも
あり、サン・マロのコルセールは、ダンケルクにかなりのライバル意識を持っていたようで…。
 
 関連地図( EURATLAS PERIODIS BASIC PERIODICAL HISTORICAL ATLAS OF EUROPE 1 - 2000 より)

 コルセールになったカサールが、具体的にどのような活躍をしたのかは全く闇の中です。ただ、時代は大同盟戦
争(1689-1697 この戦争についてはジャン・バールの項を参照してください)とかぶっているので、活躍の場が大
いにあったのは確実です。そして17歳もしくは24歳になった1696年までに、カサールは士官になっていました。
なお、ここで言う「士官」は、民間の幹部船員(仏Officier/英Officer)の意味で、海軍士官ではないですよ、念のた
め…。
 そして1696年末、南米のスペイン領カルタヘナ(現コロンビア共和国)への遠征に際して、ジャック・カサールは
臼砲艦(仏galiote a bombes/英Bomb-ship)「l'Eclatante」の船長に任命されました。この臼砲艦と言うのは、英
語や仏語では何やら自爆ボートのようですが、この「bomb」とは、中世から攻城戦に使う短砲身/大口径をボンバ
ード(Bombard)と呼んでいることから来た言葉であり、陸上攻撃に使う、高弾道の大口径臼砲一門を主装備とする
小型艦のことです。

カサール カルタヘナ遠征で出世の階段に足をかけること

 カルタヘナ遠征は、「半官半民」ならぬ、資金的には「零官十民」の軍事作戦で、船舶の全てと人員の多くはフラ
ンス陸海軍から提供されましたが、運行のための資金と資材は全て民間からの出資でまかなわれました。フラン
ス王国の破綻寸前の財政は、こうした作戦の費用を捻出することは出来ず、逆に、遠征で得られた財貨の1/10は
王室が受け取る契約となっていて、略奪した財物に期待しなければならない状況だったのです。
 時の海軍大臣ポンシャルトラン伯爵も、この作戦には大いに乗り気であり、遠征のために用意された戦力は、戦
列艦10隻(56-74門)、フリゲート4隻、臼砲艦その他小型艦数隻からなる艦隊に、上陸作戦用の兵士も含めて
5000人の人員、そして攻城戦に備えて陸軍から砲術士官と工兵隊も派遣されると言う、かなり豪華な陣容となりま
した。ラゴス沖海戦以降、大同盟戦争中のフランス海軍は、ヨーロッパでの作戦にこれほどの戦力を投入したこと
はありません。ブツ欲が絡むと、人間のやることはかくも変わるものなのです(違)。
 遠征の指揮官に選ばれたのは、海軍少将ド・ポアンティ男爵。男爵は自ら作戦に参加する艦長達の人選に当た
っており、また、はっきりと実力よりも家柄と身分を優先する人物だったのですが、裕福ではない船長の息子で、さ
らにまだ18歳だったかも知れないジャック・カサールが、例え小型艦のとは言え、ここで船長(艦長?)として男爵の
御眼鏡にかなったという事実は、船乗りとしての高い能力が備わっていたのは当然としても、カサールにかなり強
力なコネもあったことが伺われます。しかし、やはり詳しいところは歴史の闇の中です。

ド・ポアンティ男爵 ジャン=ベルナルド・ルイ・ド・サン=ジャン
(Jean-Bernard Louis de Saint Jean, baron de Pointis 1645-1707)

 フランスの海軍軍人。1680年代はデュケーヌの元でジャン・バールの同僚だった。1690年のビーチー・ヘッド沖海戦の武功により、サン・ルイ第一級勲章を受勲。1693年、海軍少将Chef d'escadreに昇進。カリブ海での通商破壊に従事し、1697年にはカルタヘナ遠征の指揮をとって成功を収める。1702年には、急死したジャン・バールの後任としてフランドル地区司令官に就任しているが、無能とのことですぐに更迭され、その後はあまり成功していない。

 1697年1月7日、ド・ポアンティ男爵の艦隊は、敵に妨害されること無くブレストを出港しました。冬の北大西洋
は荒れるので、17世紀にあっては、大型船は港にこもるのが普通の時期ですが、これは敵の警戒も緩やかであ
ることを意味します。また、フランス艦隊の主力が地中海に移動していたので(と言うか、大西洋から追い払われた
ので)、英蘭連合艦隊がブレストの監視を重視していなかったことも、幸いしたと思われます。
 とは言え、1月は大西洋横断には最悪な季節でした。当然、嵐にも遭遇するわけでして、小型船、ことに、臼砲艦
のようなトップヘビー気味の小型船には極めて危険な航海でしたが、カサールは苦労しつつも大西洋横断に成功
しました。コネがあったか無かったかは別として、カサールが優秀な船乗りだったことだけは確実です。
 艦隊は一隻も欠くことなく、3月には会合点であるハイチのサン=ドマング(Saint-Domingue)に集合しました。ただ、
到着順では、カサールの船はビリだったらしいです。

 なお、サン=ドマングは、現在のドミニカ共和国の首都サント・ドミンゴに間違われやすいですが、ここは現在のハ
イチにあたるヒスパニオラ島西部地域の名称であり、現在のサント・ドミンゴ市とは全く別物です(ちなみに、サン=
ドマングが正式にフランス領として承認されたのは、大同盟戦争の講和条約、ライスワイク条約の締結時です)。
 サン=ドマングの総督ジャン・バプティスタ・デュ・カス(Jean Baptiste du Casse 1646-1715)は、遠征隊に全面
的に協力せよと言うポンシャルトラン伯からの指令にも関わらず、自分が計画していたパナマ地峡攻撃を阻害され
ることを嫌がって、非協力的でした。必然、ド・ポアンティ男爵とは仲が悪くなりましたが、なんやかやともめた挙句
に、最終的には総督自ら兵士1200人とバッカニア650人を指揮して、カルタヘナ遠征に協力することになりまし
た。

バッカニア (Buccaneer バカニーアとも)

 海賊の中でも、17世紀のカリブ海で主にスペイン領を攻撃していた者達を指す言葉。海賊を研究する上では、パイレーツ、バッカニア、私掠船の区別をつけることは必須。
 元々は、スペイン領ヒスパニオラ島への非スペイン白人の不法入植者をさす言葉であったと考えられ、彼らが燻製肉の製造に使っていたアラワク族の窯buccanが語源とされている。スペイン当局に追われた不法入植者達が、復讐心と生活の必要上から海賊行為に及ばざるを得なくなり、そこに無法者や密輸業者も加わって本物の海賊集団になっていった。さらに、宗教的迫害から逃れてきたフランス人や、清教徒革命や王政復古で政治的迫害を受けたイギリス人なども加わり始め、かなり混沌とした様相を呈した。
 一般にイメージされる海賊Pirate との違いは、数百人以上の大集団で行動し、陸上の都市(主にスペインの植民地)をも目標にすること、権力との結びつきが強く、私掠免許状のもとに行動することが多いことなど。利益の配分でもめていなければバッカニアの仲間意識は強固で、「浜辺の同胞団 (Brethren of the Coast, Brothers of the Coast など.)」と自称していたが、こうした団体は存在していたことはない(少なくとも、常時存在していたことは無い)。あくまで遠征ごとに大ボス(サー・ヘンリー・モーガンが最も有名)の下に集まるのが基本で、計画が気に入らなければ不参加も途中離脱も有り得た。
 カルタヘナ遠征は、バッカニアが参加した最後の略奪であるとされている。

 準備に一ヶ月ほどかけた後、遠征隊はサン=ドマングを出港。カルタヘナでは、要塞の砲火に一時退避を余儀無
くされたりもしますが、デュ・カスの兵士とバッカニアが上陸して側面攻撃をかけたおかげで、要塞と砲台はあっさ
り陥落。カルタヘナ市は、市民の安全を保障すると言う約束のもとに降伏しました。フランス側の損害は死者60名
だったと言うことです。また「The Corsairs of France」によれば、カサールの船はデュ・カスを乗せて要塞に接近
(臼砲は射程が短いし、陸上攻撃が本来の任務である)、要塞からの砲撃で大破しつつも、兵士とバッカニアの上
陸を援護した上に、上陸後の戦闘でも大いに活躍したということです。
 守備隊と一部の住民が市外へ退去した5月6日、フランスの遠征隊はカルタヘナに入城しました。しかし、カルタ
ヘナ入城後のバッカニア達は、まだ残っていた住民に対し、彼らにとってはお決まりの略奪暴行を始め、デュ・カス
の兵士達もそれに加わりました。制止しようとした士官も射殺されるほどの乱暴狼藉に、ド・ポアンティ男爵は困惑
して事態を収拾できず、デュ・カス総督は、もともとバッカニアに近しいので混乱を収拾する意思そのものがありま
せんでした。
 そこでカサールが事態収拾を買って出て、300人を引き連れて市内をパトロールし、略奪中のバッカニアを射殺
してまわったということです。おかげで占領二日目に市内の混乱は収拾されますが、その間、略式裁判による処刑
も含めて、カサールは自ら20人以上の略奪者を射殺し、部下達とともに、殺害された女性370人を埋葬したと言
うことです。
 私見を述べさせていただきますと、こういう秩序回復は極めて重大な任務であり、軍人でもなく、また臼砲艦の船
長でしかない、しかもまだ18歳だったかも知れないジャック・カサールに任されるようなものだとは、とうてい考え
にくいのです。しかし、「The Corsairs of France」にはこう書いてあります。再評価に際して作られた後付の伝説
かも知れないし、実際にそういうことがあったのかも知れませんが、ただ、ド・ポアンティ男爵が、この遠征でジャッ
ク・カサールを大いに気に入り、以後、彼の後ろ盾になったのは間違いないことのようです。

 さて、秩序が回復した後のド・ポアンティ男爵らはと言うと、なんのことは無い、彼らもまた5月24日までかけて市
内で財物を漁りまくりました。虐殺をやらかさないのは良いのですが、つまるところ、「頂きます」「ご馳走様」を言う
だけで、やってる事は基本的にバッカニアと同じです。でもまあ、財貨を奪うのが遠征の主目的なので、これは仕
方がありません。敵兵力の分散を図ろうなんてのは付け足しです(そもそも英蘭の海軍力を分散させないと意味が
無いし、だいたいこの時、ヨーロッパでフランス軍はカタロニアに侵入してスペインには勝ちつつあった)。この時か
き集めた財宝は、1千万リーブルとも2千万リーブル(現代日本の感覚では400億円ほど)とも言われており、フラ
ンス王室への分け前は200万リーブルだったということです。
 そしてド・ポアンティ男爵は、奪った財貨の1/5を渡すと言うデュ・カス総督とバッカニア達への約束を守らず、
のままブレストへとトンズラしました。バッカニアの乱行に呆れたのか、非協力的だったデュ・カス総督に腹を立て
ていたのか、破綻寸前のフランス財政を慮り、財物の配分には中央の裁定を待つべきと考えたのか、はたまた元
来がそういうズルい人だっただけなのか、理由は分かりません。
 当然の権利としてバッカニアは激怒しましたが、怒りの矛先は理不尽にもカルタヘナ市民へ向けられ、結果はお
決まりの略奪暴行と虐殺でした。某ねずみーランドには「カリブの海賊 (Pirates of the Caribbean)」なんてアトラ
クションがあり、これはバッカニアを指しているとしか思えませんが、その実態は陰惨そのもので、失われた財宝な
んか探したりせずに、手っ取り早く他人の持ち物を盗む連中なのです(しかし、1/5には足りませんが、後になって
デュ・カスらは120万リーブルもらったとのこと)。

 ド・ポアンティの艦隊は、大同盟戦争の和平成立とほとんど同時の、1697年9月にブレストへ帰還しました。略
奪に対する因果応報か、当時の衛生環境では当然の結果というべきか、帰路の艦隊は熱病の流行に苦しみ、多
数の死者を出しました。これは黄熱Yellow feverだったということですが、普通はヒト間で感染しない黄熱病が流
行したというのは、実は他の病気だったのかでしょうか。それとも当時の船のひどい衛生環境がなせる業なのでし
ょうか? しかしなんであれ、多大な財貨を得たので、遠征は大成功と評されました。
 その上さらに、帰路のド・ポアンティの艦隊を捕捉した英蘭連合艦隊は、よりによって病人をまとめて運んでいた
船を捕まえてしまったので、指揮官ジョン・ネビル中将と多くの艦長を含む、1300人の病死者を出したと言うこと
です。棚ぼた式生物兵器というべきか、カルタヘナ遠征は、いろんな意味で大戦果があがったのでした。
 もっとも、帰ってきて直ぐに戦争は終わってしまったので、「戦局に何の影響も及ぼさ無かった」のですが…。

 
inserted by FC2 system