ジャン・バールその6

ルイ14世、しっぺ返しを食うこと

 さて、ここで少しジャン・バールから離れて、当時のフランス情勢について書いておかねばなりません。
 再統合戦争の成果で、ルイ14世の威光は絶頂に達したと言われました。実際、王様本人も鼻高々だったのは
間違いないです。ただ、「絶頂」と言うからには、この先から下り坂に入るわけでして…。

 1685年5月、ファルツ選帝侯カール二世(1651-1685)が後継ぎを残さずに死去しました。選帝侯位について
は、さしたる問題も無く、神聖ローマ皇帝レオポルド二世の義父、フィリップ・ヴィルヘルムが継承しましたが、ル
イ14世は、オルレアン公フィリップ(1640-1701 ルイ14世の弟)の二番目の妃エリザベート・シャルロットが、前
選帝侯カール二世の妹であることから、領土の一部の相続権を主張しました。当のオルレアン公妃が相続権に
興味を抱いていたフシは全く無いのですが、とにかくルイ14世は相続権を主張しました。そしてこのファルツ継承
問題により、フランス王国の拡張政策がまた明らかになったので、ついに諸国はブチ切れます。幾多の交渉を経
た1686年7月9日、神聖ローマ帝国皇帝、スペイン国王(神聖ローマ皇帝臣下のブルゴーニュ公を兼ねていた
から)、スウェーデン国王(スペインと同じく掛け持ち臣下)、ザクセンとバイエルンの選帝侯の五者が参加する対
仏防御同盟、アウクスブルグ同盟が締結されました。ルイ14世の大失敗です。

 ルイ14世の次なる失敗は、1685年12月の「フォンテーヌブローの勅令 Edit de Fontainebleau」で、ユグノ
ーの権利を保障していた「ナントの勅令」を廃止したことでした。
 「ナントの勅令 Edit de Nantes」は、ルイ14世の祖父で、プロテスタント信者のアンリ4世が、フランス国内の
宗教内戦(ユグノー戦争 1562-1598 フランスでは宗教戦争Guerres de religionとも呼ばれる)を終息させるべ
く、自身のカソリックへの改宗の後に発令されたものであり、カソリックをフランスの国教としつつも、ユグノーにカ
ソリックと同等の権利を認めたものでした。
 ビジネスに寛容な教義のため、ユグノーには商工業者が多く、少数派ながら社会的にも経済的にもかなりの影
響力がありました。とは言え、ナントの勅令が生きている時代においても、ユグノーは様々な差別を受けており、
宗教上の対立も解消し難く、1629年まで散発的にユグノーの反乱が発生し続けていました。
 そしてかの枢機卿マザラン(=カソリックの聖職者)が権力を握ると、ユグノーに対して土地取得や出国の制限、
ユグノーの家庭に兵士を宿営させるなどの弾圧を加える反面、カソリックへの改宗者に恩典を与えることで、ユ
グノーの勢力削減に努めました。そうした宗教政策の集大成がフォンテーヌブロー勅令であり、ユグノーの教会
は全て閉鎖され、ユグノーの聖職者達は、カソリックへの改宗か、出国かの二者択一を迫られました。一般信者
までは改宗を強制されませんでしたが、礼拝と集会、そして新生児に対するカソリック以外の洗礼が禁止されま
した。
 ルイ14世の時代において、フランスの人口およそ2000万人のうち、ユグノーは100万人程度のマイノリティ
ーとなっていたためて、ユグノーを弾圧しても大きな混乱は起こらないと考えたことが、ナントの勅令廃止の判断
要因だと言われています。実際ユグノーの多くは、酷い目に遭う前に改宗しています。

 しかしながら、フォンテーヌブロー勅令は、国内外に大きな動揺を引き起こしました。
 弾圧された人々が国外へ脱出するのは、洋の東西も時代も問いませんが、これに対して、多数のユグノーが国
外に流出した宗教戦争時代経験を踏まえ、ユグノーには、違反者にはガレー船漕ぎの刑を課す出国禁止令が出
されました。この結果、フランスのユグノーは勿論、迷惑なことにオランダ人を中心とする外国人の新教徒すら帰
国できなくります。オランニェ公国に逃げ込んだユグノーも居ましたが、公国の主権を無視した弾圧が行われまし
た。それでも、およそ20万人のユグノーがイギリス、オランダ、ドイツのプロテスタント圏等に脱出しました。商工
業者からなるユグノーの流出は、フランスの経済に大きな打撃を与えます。さらに、1万人を超す将兵が改宗を
拒んで軍を追われ、そのかなりの部分は国外に脱出して、弾圧者となったかつての祖国と戦う途を選びました。
  対外的にも、フォンテーヌブロー勅令は新教国に大変な不安を呼び起こしました。特に、多くの亡命者を受け
入れたブランデンブルグ選帝侯国は、長く抗争を続けてきたスウェーデンと和解して防御条約を締結しました。両
国ともプロテスタント国であり、フォンテーヌブロー勅令と拡張政策の組み合わせは、それほどの宗教的な脅威を
与えたのです。

フリードリッヒ・フォン・ションベルグ
( Friedrich Hermann von Schomberg, Graf von Schomberg 1615-1690 )

 公爵。ハイデルベルグ生まれ。フォンテーヌブロー勅令に反抗した人々の代表的存在。
 オランニェ公フレデリク・ヘンドリクの下でオランダ独立戦争に参加。その後、スウェーデン→フランス→オ
ランダ→フランスの順番でそれぞれの国の陸軍を渡り歩いた。1665年、フランスの将官に進級。ポルトガ
ルに軍事顧問として派遣され、スペイン軍と戦った。1673年、招請を受けてイギリスに渡り、陸軍元帥とし
てオランダ上陸作戦の準備にあたったが、イギリスの戦争からの脱落と議会の反発でフランス陸軍に復
帰。その後、スペインとの戦いで勲功を揚げ、フランスの元帥になった。
 しかし、新教徒であったションベルク元帥は、フォンテーヌブロー勅令に強く反発。そのまま引退する約束
でポルトガルへの出国を許されるが、約束を守る義理の無い彼は、ルイ14世と対決する道を選んだ。
 しばらくリスボンに滞在した後、ブランデンブルグ選帝侯国に渡り、ベルリンでユグノー難民の為に奔走し
た。それからブランデンブルグ選帝侯の紹介を受け、かつての敵オランニェ公ウィレム三世に仕え、重用さ
れて、名誉革命の時は侵攻軍の副司令官を務めた。大同盟戦争では、ウィレム三世に従い、息子とともに
アイルランド遠征に参加。ボイン川の戦い(1690.7.1 or 11)で、亡命ユグノー部隊の先頭に立って戦死する
も、戦いを勝利に導いた。

(画像はWikipedia ドイツ語版より)

 時を同じくして、またオランニェ公ウィレム三世は、アウクスブルグ同盟をフランスに対する攻守同盟にまで拡
大しようとドイツで外交活動を展開し、神聖ローマ皇帝にも盛んに働きかけた結果、さらにオランダ、ブランデンブ
ルグ、サヴォイ公国、ポルトガルなどが同盟に加わり、そして名誉革命後はイングランドも加わりました(イングラ
ンド加入後は「大同盟」と呼ぶのが一般的です)。アウクスブルグ同盟の初期メンバーは、スウェーデン国王を除
く多くがカソリックです。ここに至っては、信仰上の仲間意識なんて、カケラもありませんでした。

 そうこうしているうちに1688年、ついに戦争が勃発しました。直接の開戦原因は、選帝侯の一人でもあるケル
ン大司教の選任問題でした。
 1688年6月3日、親仏派の大司教が死去。後任を選ぶ投票では、ルイ14世が推す親仏派のヴィルヘルム・エ
ゴン司教(Wilhelm Egon von Furstenberg 1629-1704 ドイツ出身だが元フランス軍人で、当時はストラスブー
ルの司教だった)が最多票を獲得しました。しかし、拡張主義を巡ってフランスに反発していた時のローマ教皇イ
ンノケンティウス11世(1611-1689)は、得票数が規定に達していないことを理由に選出を認めず、ドイツ諸邦とと
もに、バイエルン選帝侯の弟ヨーゼフ・クレメンス(Joseph Clemens von Bayern 1671-1723)を推しました。
 この問題には、ルイ14世は強硬姿勢で臨み、9月6日、エゴンの大司教就任を承認するように教皇に最後通
告を発し、同時にアヴィニョン教皇領の併合を宣言しました。これで教皇も態度を硬化させ、ヨーゼフ・クレメンス
を正式にケルン大司教として承認します。
 ここに至ってルイ14世は、9月24日、ファルツ領の一部の継承権とケルン大司教問題で三ヶ月以内に要求を
呑むように要求し、同時にフランス軍が、ケルン、ファルツ、マインツへの侵攻を開始しました。この時点でルイ1
4世の意図は、あくまで示威行動だったのですが、アウクスブルグ同盟諸国は、結束してフランスに立ち向かいま
した。「ファルツ継承戦争」「アウクスブルグ同盟戦争」「大同盟戦争」等、呼び方はいろいろありますが、なんであ
れ、北米とインドまでも戦場にした、9年間に及ぶ世界規模の大戦争が始まったのでした。

意外に知らないドイツ諸邦
 名前は知っていても、位置は意外に知らない神聖ローマ帝国主要諸邦の図(1600年頃の図)
(Christos Nussli, EURATLAS PERIODIS BASIC, PERIODICAL HISTORICAL ATLAS OF EUROPE 1 - 2000 PDF版を元に作図)
@ ブランデンブルグ選帝侯国
A ザクセン選帝侯国
B バイエルン選帝侯国 (英語表記ではババリア Bavaria なので分かりにくい)
C ファルツ選帝侯国 (プファルツとも。英語ではパランティネート Palatinateなのでなおわかりにくい。ルイ14世が狙った場所)

 さて、結果を先に言うと、この戦争は、ルイ14世およびフランス王国首脳部の読み違えの連続でした。
 アウクスブルグ同盟は公開されているので、フランスの首脳部は当然、西ヨーロッパの殆ど全ての国を敵に回
しているのは知っていました。しかしフランス側は、主としてルイ14世が楽観的で、再統合戦争のように、効果的
な一撃を与えれば、その後の外交によって短期間で戦争を終わらせることが出来ると踏んでいました。
 またこの時、神聖ローマ帝国(=この場合はほぼオーストリア)がトルコとの戦争に勝ちつつあったため、楽に勝
てるチャンスは今しかないと考えたのだと言われています。
 アウクスブルグ同盟そのものに関しても、スペイン国王カルロス二世(1661-1700)が、世継が無いまま死期が
近いと言うことであり、縁戚関係上、ルイ14世の太子に王位請求権があるので、国王崩御後に王位請求で揺さ
ぶれば、スペインの参戦を阻止できると考えられました。スペインが参戦しなければ、東西から挟撃されることは
避けられます。
 そして、ルイ14世が最大の敵とみなすウィレム三世とオランダはと言えば、世に言う「名誉革命」へとつながる
イギリス本土侵攻作戦の準備に忙しく(=建前上、オランニェ公ウィレム三世個人の軍事行動と言うことになってい
ました)、また季節は既に9月で、越冬のため船が海に出なくなる時期であるため、今すぐオランダとイングランド
が束になって敵に回る可能性はないし、またイングランド国王ジェームズ二世の存在そのものが、オランダへの
十分な抑止力になると判断していました。

 「名誉革命」まで説明しだすと長くなりますが、触れないわけにもいかないので、ごく簡単に。
 イギリスは新教系の国教会(ただし、典礼や教義はカソリックとの共通点も多い)があり、歴史的な経緯からカソリックへの警戒心と敵対意識が強いことが有名でした(当時、ブリテン島のカソリック人口は1%以下)。しかし、時の国王ジェームズ二世( 在位1685.2-1688.11 ただし、死ぬまで自称イングランド国王)は、亡命中にカソリックを信仰するようになっており、「信仰の自由」を標榜しつつ、カソリック優遇国家を建設しようと謀っていました。それでも、どちらかと言うとジェームズ二世は人気がある方で、またプロテスタントの娘しか子供がいないため、カソリック好みも大目に見られていました。
 しかしフランスでの宗教弾圧と亡命ユグノーの流入に加え、ジェームズ二世が、カソリックの士官も任用する常備軍設立を計画したことと、二人の王女、メアリ(ウィレム三世の妻)とアンに、「カソリックへ改宗しない?」と手紙を送ったことが発覚して反カソリック感情が増大。さらに1688年、カソリックの後妻との間に王子ジェームズ・フランシス・エドワード(James Francis Edward Stuart 1688-1766)が生まれたため、これはカソリック王朝の誕生につながると、カソリック多数派のアイルランド以外で大騒ぎになり、最終的にメアリ王女、およびその夫オランニェ公を共同君主として推戴するクーデターとなりました。これがいわゆる「名誉革命」。
 イギリスでも、ルイ14世に立ち向かう英雄としてウィレム三世の人気は高く、ジェームズ2世が即位する前の段階で既に、ウィレム三世を国王に迎えようと言う一派がオランダで活動していました。
 そういうわけで、ルイ14世の読みが正しければ、フランスは弱体なドイツ諸邦だけを相手にすれば良かったわ
けですが、そんなに都合よくコトが運ぶはずはありません。

 フランスの首脳部はまず、オランダ人の航海能力とウィレム三世の決意を見くびっていました。1688年11
月、ウィレム三世率いるオランダ軍とイングランド人亡命者の合同軍二万人がブリテン島に上陸、ジェームズ二
世をあっさり国外に追い出し、小規模で散発的な戦闘の後、ウィレム三世もすんなりとイングランド国王におさま
ってしまいました。9月の時点でルイ14世は、イングランド遠征はフランスに対する宣戦布告と見なすと、オラン
ダ連邦議会に対して警告していました。そしてルイ14世はブチ切れ、11月26日、オランダに宣戦布告しまし
た。
 拘束下から夜逃げした前英国王ジェームズ2世は、そのままフランスに亡命。ルイ14世もウィレム三世の王権
を承認せず、ジェームズ二世を正式なイギリスの王として扱い、1689年3月、陸軍部隊と軍需物資とともに、ジ
ェームズ二世をアイルランドに送りこみました。この事態に際し、オランニェ公ウィレム三世あらため、英国王ウィ
リアム一世は、1689年5月7日、フランスに宣戦布告しました。この結果フランスは、ヨーロッパの二大経済大
国を敵に回すことになってしまい、英蘭の多大な資金提供によって、ドイツ諸邦は断固たる戦いを続けることがで
きました。

 ルイ14世にとってもう一つの誤算は、スペイン国王カルロス二世が亡くならなかったことです。肖像画を見れば
明らかに先端肥大症があり、他にも性的不能、癲癇、軽度の知的障害もあったと言われるカルロス二世ですが、
低空飛行ながらも1700年まで生き続けました。おまけに1690年には、戦争の発端でもあるファルツ選帝侯フ
ィリップ・ヴィルヘルムの娘と再婚しています。国王本人の意思はともかく、スペインの首脳部にフランスと仲良く
やって行く意思が無いのは明らかでした。 
 これでもフランスは、9年間戦い続けました。フランスは西欧で最大の人口を持っており(=約2000万人、ちなみ
に同時期の他国の人口は、諸説あるもののイギリス500-600万人、オランダ300万人、スペイン本土900万人程
度)、経済力はともかく、人口の点でフランスの軍事力は強大でした。事実、(実数ははっきりしないながら)フラン
ス陸軍の総兵力は40万人を超えていましたが、同盟側の総兵力は35万程度。オランダなどは、金にぶいぶい
言わせ、中立国デンマークから兵士を集めることまでしましたが(デンマーク王国が傭兵として貸した形で、アイル
ランド遠征に参加している)、それでも足りません。
 またフランス海軍も、(その質的な点は置くとして)軍艦の数はイギリスを越え、ヨーロッパ最大(=恐らく世界最
大)の兵力を保有していました。開戦前の1685年の段階で、300t以上の中型以上の軍艦の保有数は、フランス
が133隻14万トン、イギリスは117隻13.5万トン、オランダは95隻8.6万トン、1690年ではイギリス海軍1
09隻に対して、フランス海軍は131隻。地理的に言ってフランスは、地中海と大西洋に海軍力を分断されるの
で、英蘭に対しては戦略的不利を強いられるのですが、それでも、この後も長く続く英仏戦争の中で、イギリスに
対して海軍力が勝っていたのは、この時これっきりです。
 
 フランスはドイツ方面では守勢に回っていましたが、サヴォイ公国を撃破して同盟から脱落させ、スペインでは
バルセロナを陥落させるなど、決して戦闘に負けてはいませんでした。しかし、長い消耗戦でフランスは財政破綻
を来し、講和に応じざるを得なくなりました。また、今度こそ本当にカルロス二世の死去が近い、との情報を得た
ルイ14世は、スペイン王位を王太子に継がせ、あわよくばフランス=スペイン連合王国の設立しようと言う新たな
野望が生まれ、ドイツ方面から早々に手を引きたかったのだとも言われています。
 そういうわけでルイ14世は講和に応じ、1697年9月20日、ライスウェイク条約が締結されました。この条約
は、手痛いしっぺ返しなのか、スペイン問題に集中するための見え透いた譲歩なのかは見解の分かれるところで
すが、フランスは、ルクセンブルグ、ロレーヌ公領など、大雑把に言ってストラスブールを除いた1670年代以降
の獲得地の全てを返還することになったうえに、ジェームズ二世の王位承認を撤回して、ウィリアム一世を正当
なイングランド王として承認することになりました。


ジャン・バール、再び戦場に立つこと

 さて、奥さんの死去や負傷除隊と言った不運が続いていたジャン・バールですが、1689年になると、再び海に
戻ることになりました。
 1689年、ドイツ諸邦だけを相手にするはずだった予想はハズれ、フランスは、英蘭との戦争が必至となりまし
た。ドイツでの戦争だけなら、ほぼ陸戦のみに集中できますが、英蘭を相手にするとなれば、俄然、海での作戦
が重要さを増します。
 しかしながら、ここで妙な現象が起こりました。1670年代の戦争で、私掠船事業が大いに儲かったので、港町
のビジネスマンばかりでなく、大貴族、そしてなんと閣僚達までも、私掠船事業に投資しはじめたのでした。はてさ
て、どちらの理由が主かは人によるでしょうが、私財でもってフランスの戦争に貢献できて国王のおぼえもめでた
くなり、上手くいけば大儲けと言う、一挙両得です。
 そしてバールの場合、スポンサーは海軍大臣セニュレー侯ジャン=バプティスト・アントワーヌ・コルベールと、陸
軍大臣ルーボア侯爵(Marquis de Louvois, Francois-Michel le Tellier, 1641-1691)でした。この二人は、費用
を負担してダンケルクの行政官に二隻のフリゲートを用意させて、ジャン・パールに指揮を任せました。バール本
人も、海軍軍人として艦隊行動に参加するより、私掠船稼業を望みます。そう言う訳で彼は、正規の海軍士官で
ありながら、私掠船乗りとして公認の海賊稼業に励むことになりました。
 セニュレー侯らは、公私混同で最高の私掠船乗りを確保したように見えるのですが、まあ、そこいらをツッコむ
のはやめておきましょう。

 ダンケルクで用意されたのは、「ラアイユース La Railleuse (24門 冗談、冷やかしの意味)」と「セルペント 
La Serpente (16門 ヘビの意味 1685年に指揮したフリゲートとは別の船と思われる)」の二隻であり、バールは
「ラアイユース」を乗艦としました(フリゲート艦艦長Capitaine de fregate でしかないバールには「旗艦」はありま
せん)。
 ジャン・バール船長、再び立つのニュースにダンケルクは湧きかえり、船員の志願者には事欠かず、「ラアイユ
ース」は、定員の二倍の人員を乗せることになりました。もともとの定員が何人なのかは不明ですが、大砲の数
から考えて、100-150人(20-30門クラスだと、大砲の数の4-6倍くらい)と推測されるので、250-300人を乗せてい
たのでしょう。
 そして1689年1月頃と思われますが、バールは二隻を率いて英仏海峡に出動しました。宣戦布告の前でした
が、名誉革命の後のことなので、フランスは既にイギリスを敵と看做しており、イギリス船が私掠免許の対象とな
っていました。

 さて、この後に起こったことについては、「The Corsairs of France (1887 C.B. Norman)」以外に記述が見当
たらず、時期もはっきりせず、またオランダ側での損失が確認出来ないのですが、とりあえずあったこととして記
述します。
 
 英仏海峡をパトロール中の二隻は、風上に船団を視認。縮帆して接近してくるのを待つうちに、大型の軍艦一
隻に護衛されたオランダの貿易船団だと判明しました。
 バールは「セルペント」に商船を追わせる一方、自身は「ラアイユース」で護衛の大型フリゲートに立ち向かいま
す。そのフリゲートは50門艦であり、「ラアイユース」は火力で半分以下の劣勢でした。しかしバールは、多くの人
員をもってすれば、白兵戦に持ち込めば互角に戦えると踏んでいました。
 そのため、武装した水夫を甲板に伏せさせ、大砲には散弾を装填して接近戦に備え、また商船を追う「セルペ
ント」から引き離すためにも、並行した針路を保ちつつ、フリゲートの接近を待ちうけました。
 そしてオランダのフリゲートは、声が聞こえるような距離から砲撃を開始。それと同時にバールは、敵艦の方に
舵を切って接近し、マスケット銃と散弾の斉射を浴びせました。その後の激しい砲撃戦で、オランダのフリゲート
は後部マストと舵を破壊され、「ラアイユース」は大破して沈没の危機に陥りました。フリゲートは敵艦の左舷後部
に突っ込んで、切り込み隊員を突入させることに成功。オランダの艦長は戦死し、副長は降伏しました。
 この戦闘中、「セルペント」は9隻の商船を拿捕しており、バールが得た拿捕船は10隻となりました。応急修理
の後、バールは船団を一番近いブローニュの港に向かわせました。
 しかし、陸が見える海域にたどり着いた時、追跡してきたイギリスの私掠船に追いつかれてしまいました。大破
して浸水だだ漏れの「ラアイユース」ではとても戦えないので、バールは次席指揮官に船団の指揮を任せると、30
人ばかりの水夫を引き連れ、大急ぎでボートで「セルペント」に移乗して、私掠船に向かっていきました。
 しばしの砲撃戦の後、「セルペント」もまた大破。イギリス船に突っ込まれ、切り込み攻撃を受けます。そして一
時間に及ぶ白兵戦の後、フランスのコルセールは、イギリスの同業者達を撃退しました。今度は、バールが先頭
にフランス人達が切り込みますが、激しい銃撃を受け、バールは無事だったものの、これまた撃退されました。
 しかし、ここでイギリス船がいきなり沈没しはじめたので、バールは急いで切り離しを命じるとともに、イギリス船
に降伏を呼びかけて、受け入れさせました。 
 それから「セルペント」は、ボートを出してイギリス人の生存者を救出した後、地元の船の支援を受けて、ブーロ
ーニュに入港しました。なお、バールにとってこの戦闘は、オランダ海軍時代以来のイギリス人との戦いでした。

 この戦闘に関しては、拿捕されたオランダのフリゲートは「The Corsairs of France」によると「Seahorse」と言
う船名ですが、Sailingwarship.comでも「Seahorse」、もしくは相当するオランダ語「Zeepaardje」と言う名前の船
の喪失が確認できません。海軍ではなく、東インド会社か西インド会社の武装船なのかも知れませんが、バール
の他の戦績と違い、いささか不明瞭さが残ります。
 なんであれ、商船9隻とフリゲート艦1隻を拿捕し、さらに私掠船1隻撃沈と言う大戦果で、ジャン・バールは大
同盟戦争での初陣を飾りました。


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