ジャン・バールその5 ジャン・バール、国王陛下の海軍士官になること さて、コルベールが貴族階級の海軍士官の低質さにうんざりして、有能なコルセールを海軍士官として登用しよ うとしていたことは先述しました(人気の差による人物の集まり具合なのか、陸軍士官には有能な人士が揃ってい たように見えます)。1676年9月、コルベールの要請に従い、ダンケルクの行政官は、ジャン・バールをリストの 筆頭にして、士官として相応しいと思われるコルセール33名の名簿を送りました。 「バール船長は先日、漁船団を護衛中のオランダ軍艦ネプチュナス(24門)を拿捕しました。 彼が士官として仕えていた船長の推薦により、その技量と勇敢さはスポンサー達の注目を集めていました。彼 が指揮を任された最初の船は8門の大砲しかなかったが、10門の大砲を持ったオランダ船を攻撃して拿捕して います。二番目に任された船は24門搭載で、シャルル・ケイジー船長が指揮する他の私掠船とともに、優勢な武 装を持ったグリーンランドからの漁船団を捕獲しました。 その後、また同じくケイジー船長とともに、3隻の軍艦に護衛されたコンボイに遭遇。ケイジー船長に商船群の 捕獲を任せると、バール自身は18門搭載の敵艦に切り込んで、拿捕しました。」(「The Corsairs of France」より) 行政官の推薦文は、赤字の部分が示すように、大砲2門の「ダビテ王」が忘れられていて、いささか不正確で す。こうした内容の間違いなどわからなかったでしょうが、戦果に関する推薦だけではコルベールは満足せず、さ らに船長達の性格面や、フランスへの忠誠度に関する報告を求めました。 それに対して行政官は、代々続くコルセール一家の出で、勇敢で腕の良い船乗りだとしてバールとケイジー船 長を強く推薦しました。 「ダンケルク私掠船を指揮する主要な船長達 ジャン・バール 24門フリゲートを指揮、ケイジー 18門フリゲートを指揮。 両者とも勇敢で腕の良い船乗り。 私はこの二人を両方とも推薦します。二人はよく共に航海しています。二人ともダンケルク出身で、30歳と35 歳。ミュンスター和約以前のオランダ独立戦争で名誉を得た、著名なコルセールの子孫。ジャン・バールの父、コ ルニル・バールは、ダンケルクの最後の包囲戦で負傷しています。(以下略)」(「The Corsairs of France」より) ケイジー船長の年齢はわかりませんが、バールの年齢は、1650年生まれだとしても、この時26歳。行政官、 年齢も間違っています。四捨五入し過ぎです。またバール家の人々は、1670年代フランスの敵(と言うか、領土 拡大の目標)であるスペインに仕えて戦っていました。この事は問題にならなかったのでしょうか? ま、行政官の推薦の内容や、バール家のかつての働き場はともかくとして、平民の士官任用には、宮廷内と、 肝心の現役海軍士官達(=貴族)に強い反発がありました。現代でもそうですが、軍の士官とは、その国の元首な り政府なりの代理と言う立場があります。もともと軍隊というものが騎士とそのお供集団の延長であるうえに、絶 対王政のフランスにあって、君主の代理は貴族でなければならぬ、と言うのは気持ちとして分からぬでもないで す。 またコルベール本人も、商人の息子ながら貴族達を押しのけて大臣にまで出世した男であり、そんな彼が平民 の士官任用を主張するのだから、貴族の反発も二倍です。また、はっきりと書かれている資料は無いのですが、 バールとケイジーの身代金に関する法令違反が大きなマイナスとなったのも、容易に想像できます。 コルベールは、ジャン・バールらコルセールの獲物が、フランス国家の財政にどれだけ貢献しているかを国王 ルイ14世に説き、士官任用を訴えました(フランス-オランダ戦争で、フランスが戦争目的を達せずに講和に応じ たのは、財政破綻の兆候が現れたからです)。そして、「スキーダム」拿捕の戦果が最後の決め手となり、コルベ ールはルイ14世の同意を取りつけることに成功。ジャン・バールを始め、優秀なコルセール達を海軍士官の任 命リストに載せることに成功しました。 しかし、こういう士官ポストには得てして定員があり、年功序列か、先任順位で空きが出来る度に埋まっていくも のです。そのため、ジャン・バールが実際に任官辞令を受け取ったのは、戦争が終わった1679年1月8日のこ とでした。 階級はLieutenant de vaisseau (直訳では戦列艦海尉、現代フランス海軍では大尉に該当)で、軍艦の指揮権 は得られない階級でしたが、それでも、平民のまま士官になれただけで、フランスでは名誉なことです。曽祖父ヤ コブセンや、父コルニルもそれなりの階級を持っていましたが、それはあくまで、私掠船の仲間内での階級なの で、国王の軍隊の階級ではないのです。
なお、ケイジー船長がどうなったのか(恐らく、海軍士官に任命されたと思われますが)、そしてまた、アントワー ヌ・サウレがどうなったのかは気になるところなのですが、残念ながらはっきりしません。 ジャン・バール、バーバリの同業者を狩ること 晴れて国王陛下の海軍士官となったバールでしたが、海軍の任務は全く気に入らなかったようです。容易に想 像できることですが、無能かそうでないかは別としても、平民出身のバールと、貴族出身の他の士官達とのミゾ はやはり埋めがたく、またコルセールの標準からは程遠い訓練不足の水夫達も、バールには頭痛のタネでした。 でも、そうこうしているうちに戦う機会がめぐってきました。1681年、バーバリ海賊に対する小規模な懲罰遠征 が計画され、コルベールの意向によって、バールはこの遠征の指揮官に任命されたのです。 当「ローカル英雄伝」では、既にお馴染みの名前で説明不要とは存じますが、バーバリ海賊とは、現代のモロッ コからリビアに該当する北アフリカの海岸(=バーバリ海岸)にある、オスマン・トルコ帝国の属国を根城とする海賊 や私掠船です。キリスト教徒の船を専ら襲い、乗組員を奴隷にするというので、キリスト教国の船乗り達の恐怖 の的でした。実際のところ、イスラムの船を襲うバーバリ海賊もいるし、ライバル国の船を襲うようにキリスト教国 から依頼されて動くバーバリ海賊もいますが(例えば、オランダ独立戦争中、オランダの私掠船とアルジェの海賊 は協力してスペイン船を襲っていました)、とにかく、バーバリ海賊とは迷惑な存在でした。 6月、バールは「ヴィーペル (Vipère 毒蛇 14門)」「アーレキン (Arlequin 英語のハーレクイン 恋愛小説シ リーズではなく、道化者の意味 12門)」の民間武装船を指揮して、ダンケルクを出港しました。この時、ジャン・パ ールは未だ大尉であり、本来ならばこうした遠征を指揮する階級では無いうえに、貴族出身の士官を差し置いて 元コルセールを起用したことは、宮廷と海軍内部で強い反発を受けました(ついでに、コルベールが財務総監、 海軍大臣、宮内大臣などやたらとポストを兼任していることへの反発もある)。そしてコルベールの方針は徹底し ていて、この遠征に貴族士官は一人も参加していません。 6月末、バールの船は、ポルトガル西南端、サン・ビセンテ岬の沖合いを航行中に、バーバリ海賊の二隻の大 型フェルーカ(Felucca 北アフリカ伝統の三角帆の帆船)に遭遇しました。 バールはフランス国旗を揚げ、空砲を撃ってフェルーカに停船を求めますが、海賊達は二手に分かれて逃走、 一隻は浅海を目指して陸岸へと向かい、もう一隻は、たまたま付近を航行していたイギリス艦隊の真ん中に逃げ 込みました。イギリス人にとってもバーバリ海賊は敵(少なくとも友人ではない)ですが、このフェルーカは、イギリ ス人がフランスの軍艦に協力することはないはずだし、フランス艦も、戦争のきっかけになりかねない無理な追 跡はしないはずと踏んだのでした。 バールが直接指揮する「ヴィーペル」は、陸へ向かって逃げた方を追いかけました。たまたまそうなったのか、 面倒そうな事を部下に押し付けたのかは解りませんが、とにかくそうしました。 何時間かの追跡の後、バールは敵を座礁に追い込みました。そして、この辺はいかにもコルセールと言うべき か、座礁したフェルーカから動かせる値打物を全部かっさらったうえで、船体に火を放ちました。海賊達は既に脱 出しており、ポルトガル軍に投降していました。 一方「アーレクイン」は、フェルーカを追ってイギリス艦隊の真ん中に飛び込んだものの、敬礼を求める警告射 撃を受けて追跡を断念し、「ヴィーペル」に合流しました。 それからバールは、リスボンに入港して、そこでフランス公使を通じて投降した海賊達の身柄を要求した後、た またまリ出くわしたダンケルクの船(船名不詳)を誘って、もう一隻のフェルーカを探しに出かけました。 リスボンを出て二日後、再びイギリス艦隊と、その付近を航行しているフェルーカと遭遇しました。 ここでバールは、フェルーカをイギリス艦隊から引き離すために、大胆?な計略を使いました。慣習に反して旗 艦に敬礼せず、無礼を咎める警告射撃も無視して周囲をうろつきまわり、英艦がブチ切れて追跡しはじめたとこ ろで、三手に分かれて後を追わせることで、フェルーカを孤立させることに成功しました。 この時どういう訳か、バーバリのフェラッカは自分が狙われているとは考えず、漫然と航行を続けていました。 そして、軽快な船の性能と、手錬の操船の技を駆使してイギリス艦の追跡を振り切ったバール達が、フランス国 旗を掲げてフェラッカを取り囲んだ時、抵抗せずに降伏しました。なんかすごくコトが上手く運んでいて、本当かど うか疑いたくなるほどですが、とにかくジャン・バールが、イギリス艦隊の近くで海賊を拿捕したのは、間違いあり ません。 およそ130人の捕虜の中には、バーバリの貴族が何人かいました。また、ポルトガルに逮捕された海賊達も、 外交努力によってフランス側に引き渡されました。バールは彼らから高額の身代金を取り立てたので、拿捕船 (大砲16門)の売却益も合わせて、遠征の準備にかけた費用を十分に回収することができました。 ジャン・バール、負傷退場すること 海賊退治の後、バールはダンケルクを離れて、地中海で任務につきました。1682年には、まだ23歳の妻二 コールが出産時に死去、生まれた娘も死産と言う悲劇に見舞われています。また相変わらず、海軍の生活は苦 痛でした。 そうこうしているうちに、フランス対スペインおよび神聖ローマ帝国の戦争が始まります。実質的には、バール が海賊退治をしていた1681年から戦争になっていましたが、スペインの宣戦布告による正式な戦争の期間は1 683年10月から翌年8月までの間であり、これを「再統合戦争 (仏 Guerre des Reunions / 英 War of the Reunions)」と呼びます。この再統合戦争は、友清理士先生の「イギリス革命史」に取り上げられていますが、日 本ではあまり知られていないので、簡単な説明を加えることにします。 ルイ14世が即位して以来、フランスは幾度も対外戦争を経験しました。戦争そのものは敗勢で終わることもあ りましたが、なんだかんだとその度毎に、主にスペインからちびちびと領土を削りとっています。オランダ戦争で も、スペイン領ネーデルラント、および神聖ローマ帝国領からいくつかの都市がフランスに割譲されました。この 拡張主義は、ルイ14世の信奉する自然国境と言う考え方に基づいていて、この場合、フランス王国の領域と は、ピレネー山脈からライン河やその大きな支流までと言うものでした(現代のフランス本国に近い)。しかし実際 には、封建領主の縁戚やら相続やらで、ルイ14世の考えるエリア内には、持主が違う領地が並んでいました(そ もそも、宿敵ウィレム三世のオランニェ公国が南フランスにあることも、ルイ14世の癪のタネでした)。 さて、当時のヨーロッパの都市には、周辺地域(outlying area)と称される都市と経済的に結びついたエリアが、 漠然とした感じながら存在していました。要するに、中心都市に対して食糧を供給している農村や、都市へ水を 供給している水源地、隣の都市へ移動する道路の管理権が及ぶ範囲、場合によっては領主様が持っている別 荘地だとか言う、現代風に言えば、衛星都市ならぬ、衛星町、衛星村と言った感じの地区です(マニアな話です が、近世ヨーロッパ風異世界を舞台にしたTRPG「ウォーハンマー」のルールには、この周辺地域がわかりやすく 設定されています)。 そして、都市の支配者が変われば、周辺支配地域の領有権も都市の支配者のものとなりました。ヨーロッパで は壁で囲まれた城郭都市が多く、都市と言えばその壁の中を指します。しかし、当たり前の話ですが、壁の内側 だけ貰っても意味がありません。例えば、その都市につながる道路がある土地を確保しなければ、単なる厄介な 飛び地でしかなく、「周辺地域」も移管されることになります。しかし、周辺地域の境界は概して不明瞭だったの で、ルイ14世は、そこのところを領土拡張に利用しました。 1670年代初頭より、国境沿いの幾つか都市には、「再統合庁 Chambres de réunion 」と言う欲望まるだし な名前の役所が設置されて、領有権の根拠をひねり出すべく、古文書の発掘や記録の調査等が行われました。 1681年夏、再統合庁が見つけ出した口実により、フランス軍はスペイン領のルクセンブルク市を包囲、さらに 神聖ローマ帝国領ストラスブルグ(現ストラスブール)およびそのライン川を挟んだ対岸のケール市を占領しまし た。ストラスブールとケールは無抵抗でしたが、ルクセンブルグ駐留のスペイン軍は断固たる抵抗を示したので、 戦いが長引きました。このため、既に反仏の英雄となっていたオランニェ公ウィレム三世の口利きで、イングラン ド国王チャールズ二世が仲裁に入り、1682年、ルクセンブルグ周辺のフランス軍は撤退しました。この時は、 神聖ローマ帝国(スペインと同じハブスブルグ家)の首都、ウィーンにトルコ軍が迫りつつあったため、フランスの 立場としては、同盟国トルコの健闘を祈りつつも、イスラム教国に味方してキリスト教国を攻めたと叩かれるのを 避けたい事情もありました。 しかしながら、1683年9月、領土割譲要求を断られたことで、フランス軍は再びルクセンブルグを包囲すると ともに、スペイン領ネーデルラントへの全面侵攻を開始しました。ここに至ってスペインは、10月26日にフランス に対して宣戦布告します。そしてスペインとの同盟に従い、オランダ陸軍がネーデルラント防衛に出動したので、 再びヨーロッパ大戦争へと緊張が高まりました。 ところが、ルイ14世にとって最も目障りなそのオランダは、頼りになる同盟者ブランデンブルグ選帝侯国から、 対仏融和を求められていました。 オランダ-フランス戦争の講和の時、ブランデンブルグは、スウェーデンから奪った西ポンメルン地区を返還さ せられていましたが、これはオランダが先にフランスと講和したため、弱い立場に追いやられたせいだと遺恨を 持っていたからです。またオランダ連邦議会でも、アムステルダム市とその出身レヘンテンを中心とする親仏派 勢力(=と言うより、フランスとの対決はもう懲りた派)が、出兵に強硬に反対したので、重要議題は全会一致が原 則のところを、ウィレム三世一派は強引に多数決で押し切っていました。そのためウィレム三世は反発を買って しまい、却ってオランダ国内の厭戦ムードを高めてしまいます。 これらの事情により、オランダの軍事的関与は小さく、実際の戦いは、ほとんどフランスとスペイン、神聖ローマ 皇帝との間に限られました。で、スペイン軍がフランス軍に勝てないのは、もはや法則と言ってもよいくらいであ り、奮戦空しくルクセンブルクは陥落。その他の地域でもスペイン軍は連敗していましたが、その間、ウィレム三 世の外交努力の結果、スペイン、スウェーデン、神聖ローマ帝国及び帝国内の有力諸侯の代表がハーグに集ま り、反仏姿勢を明確にしました。 このためルイ14世は警戒し、1684年5月、ストラスブール(1681年以来占領していた)、ルクセンブルク、アル ザスとフランシェ・コンテの間のいくつかの地域をフランス領に編入することを条件に、20年間の休戦を提案しま した。この提案は、ウィレム三世の強硬な反対にも拘らず、多数決(笑)で連邦議会に批准されてしまいました。こ うなっては、スペインと神聖ローマ帝国も休戦に応じざるを得ず、1684年8月15日、休戦に応じました。 この再統合戦争では、フランスは少ない損害で目的の地域を確保することに成功し、大きな収穫を得ました。
さて、再統合戦争の戦闘の中心はフランスの東部国境地帯ですが、小規模ながら、地中海でも海戦がありまし た。ただ、バールについて書くことは短いです(笑)。 1683年、ジャン・バールは未だ大尉相当なのにも拘らず、フリゲート艦「La Serpente (26門 36門との資料も あり)」を指揮しており、カディスからマホルカ島へ350人の陸軍部隊を運んでいたスペインの輸送船を拿捕しま した(日付はわかりませんが、恐らくは正式な宣戦前の事件だと思われます)。 この戦果はまた、無能な貴族出身の海軍士官達に対する、コルベール一派からの格好の非難材料となりまし たが、ルイ14世は、どうやら海軍内部の不和の方を嫌ったらしく、国王の強い意向を受けたコルベールは、バー ルを艦長職から解任すると、その階級に相応な地位である一般士官として、戦列艦「Modèrè」に配属しました。 その後コルベールは、83年9月に死去。息子アントワーヌ(Jean-Baptiste Antoine Colbert, セニュレー侯爵 1651-1690。ジェノバ砲撃を主導した人)は、父親の路線を継承しましたが、一時的であれ、やはり後ろ盾が弱体 化したことは否めません。 それからバールは、カディスへの上陸作戦、ジェノバ砲撃に参加しますが、スペインの戦列艦二隻との戦闘中、 砲弾の破片をふとももに受ける重傷を負いました。海上勤務から外されるほどの負傷であり、バールはダンケル クに帰っての療養を余儀なくされました。その後数年間、バールは現役を離れ、陸で暮らすこととなります。
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