ジャン・バール

ジャン・バールその4


ジャン・バール、ツキまくること

 1676年の冬の間、バールはスポンサー集めに勤しみ、「ラ・ロイヤル」よりも大きな船の指揮権を得るべく活動しました。ただ、大型船の指揮となれば、バールのコルセールとしての手腕よりも、彼の若さくる船乗りとしての経験不足が問題になって、すんなりとコトは運びませんでした。それでも大戦果がモノを言い、バールはスポンサー達の推薦をとりつけて、新造のフリゲート「パルム(Palme 24門 150人)」の船長に任命されました。
 
 1676年3月25日、バールは「パルム」で最初の航海に出ました。バールはやはり幸運であり、出港したその夜、10門搭載のオランダの小型ブリッグ(船名不詳)を拿捕すると、翌朝にダンケルクに引き返しました。いきなりの獲物にダンケルクは大歓迎ムードでしたが、その日の内にバールはまた出港しました。
 そして3月28日、オランダの捕鯨船団を攻撃しようとしていた3隻のコルセールに遭遇。「パルム」も攻撃に加わりました。捕鯨船団にはオランダ船1隻、およびブルゴーニュ公旗(=スペイン領の船)を掲げた2隻の武装船が護衛についていました。果たしてこの時、船団が「ホゲェーッ!」と雄叫びをあげたのかは不明ですが、激しい戦闘になります。
 いかにもオランダフェチ(違っ)のジャン・バールらしく、「パルム」はオランダの護衛船「Tertoole(16門 ゼーラント州司令部所属の軍艦と思われるが不明)」を攻撃。三時間の戦闘で、「ラ・パルム」に修理に何週間もかかる損傷を受けながらも、バールは接舷/切り込み戦闘に持ち込むことに成功し、自ら敵の艦長と剣を交えて切り殺したあげくに、「Tertoole」を拿捕しました。
 その間、仲間のコルセール達は、ブルゴーニュの武装船は取り逃がすも、捕鯨船の逃走は阻止して(←と言うか、無責任にも護衛が逃げたとも)、8隻からなる捕鯨船団を全て拿捕することに成功し、ダンケルクへ帰投しました。
 大戦果をあげての帰還でしたが、しかし、バールは「パルム」の性能に不満を抱いていました。このため、「パルム」はドック入りし、損傷の修理に加えて、速度を改善するため、帆を増設する改装を行いました。バールもスポンサー達も、満足の行く船にするためには時間と手間を惜しまず、なんだかんだと作業には5ヵ月を要しました。

 1676年9月1日、「パルム」は再度、海に出ました。そして9月4日には、多量のイギリス製靴下を運んでいたオランダの大型スマック(←漁船に多い形式)を拿捕。バールはこの獲物を連れていったんダンケルクに引き返しました。こういう「何月何日、これこれを積んだ船を拿捕」に、早くも飽きが来ている方もおられるでしょうが、我慢して下さい。ジャン・バールの事績の大部分はコレなのであり、この先もまだまだ続くのです。
 
 スマックをダンケルクの海事裁判所に引き渡すと、早々にバールは海へ戻り、9月7日には、大型艦に先導されたオランダの漁船団に遭遇しました。それまでは比較的小さな船ばかりを狙っていたバールでしたが、強力な「パルム」を指揮している彼は、自信を持って軍艦に立ち向かいました。
 そのオランダ艦「ネプチュナス Neptunus」は、ホラント州ノールトカター司令部所属のまごうかたなきオランダ海軍のフリゲートで(ありふれた名前なので、この時期のオランダには同名の艦が何隻もあります)、32門の砲を搭載する新造艦であり、バールがそれまでに遭遇したどんな船よりも強力な軍艦でした。30門艦とするオランダ側の記録もありますが、なんであれ「パルム」の24門より多いのには違いありません。オランダ艦は平均的に火力に劣っているとか、他国の同規模の軍艦に比べて人員が少なめだなんて、ヤボなことは突っ込まないでください。
 三時間の砲撃戦の後、「パルム」の砲弾が「ネプチュナス」のメインマストを破砕し、舵を破壊しました。バールは「パルム」を敵の艦尾に突っ込ませ、先頭に立って「ネプチュナス」に切り込みます。この時既に、「ネプチュナス」の艦長は既に重傷を負って倒れていたため、わずか数分の戦闘で「ネプチュナス」は降伏、バールの手に落ちました。
 「ネプチュナス」は、バールにとって、コルセール稼業開始以来の最大の獲物となりました。またそればかりでなく、「ネプチュナス」の護衛を受けていた漁船8隻が降伏したので(←逃げればよかったのに…)、バールはそれらも拿捕しました。そして「パルム」は、勝利を祝う旗をやたらとおっ立てたヘンな姿となり、「ネプチュナス」を曳航しつつ、8隻の漁船も引き連れてダンケルクへ帰港しました。
 このフリゲート「ネプチュナス」拿捕の大戦果はたちまち評判になり、ダンケルクの町は勿論、フランス全土にもバールの勇名が知れ渡りました。また、バールのコルセールとしての評判に付きまとっていた、小型の船しか捕まえていない、と言う小さなマイナス面も払拭されました。コルベールもこの勝利を称え、バールに対して金の鎖を贈呈しました。

 さて、「ネプチュナス」との戦いでの損傷は大きくなかったようで、「パルム」はすぐにまた海に出て、バールはまたさらなる戦果を挙げました。9月11日、長い帆船チェイスの末にオランダのブリガンティン「Gouden Havik(黄金のタカ)」を拿捕。15日には、スペイン産ワインを積んだオランダ船「Corbeau Vert」を拿捕し、21日には、バタビア(インドネシア)からインディゴ、香辛料、熱帯産の木材等の高価な貨物を運んできたオランダ船「ペリカン」を拿捕。翌22日には、ロシアのアルハンゲリスクから、これまた高価な毛皮と皮革製品を運んできた二隻「Lady Christien」と「Prophet Daniel」を拿捕。ジャン・バール、ツイてます。バカヅキです。ここで獲物の回航の人手が足りなくなったので、「パルム」は帰投を余儀なくされましたが、バールは戦果に満足して、そのまま冬休みに入りました。

 やがて1677年が明けると、バールは活動を再開。早くも1月16日、グリーンランドからの捕鯨船「Cabilhan」を拿捕しました。果たしてこの船が「ホゲェー!」と喜んだかどうかは不明ですが、前年9月の人手不足の経験に懲りていたバールは、2,800リーブルの身代金をとって「Cabilland」を解放しました。2月8日にもまた、オランダの小さな船団を襲撃してブリッグ三隻をいっぺんに拿捕しましたが、これまた6,500リーブルの金をとって解放しました。
 取引の詳細に関する資料が無いので確実なことは言えませんが、身代金をとるよりも、船をダンケルクで売却して代金の配分を受けた方が、金銭的利益の点だけで言えば、ずっと大きいはずだと思われます。しかし、拿捕船をダンケルクまで護送する手間と、回航員に人手がとられるため航海を中断しなければならない不便さをパールは嫌い、場合によっては数ヶ月かかる海事裁判所の手続き後ではなく、即金で利益があると言う点を重視したのでした。
 戦果はまだ続きます。2月10日、オランダ船「Prinze Wilhelm」を拿捕。2月14日には「Good Fortune」を追撃戦の末にマストをへし折って、切り込み戦闘で船長とクルー6人を殺して拿捕。2月23日にもポルトガルからワインを運んできたブリガンティン「Oliphant(ゾウ)」を拿捕しますが、この三隻は釈放せずに、ダンケルクまで持ち帰りました。

 さて、ダンケルクに戻ってみると、またもや勝手に身代金を取ったバールの越権行為が問題になりました。これは以前と同じく、身代金の半分を慈善事業に寄付させられることで決着しますが、ゴタゴタのために4月下旬まで陸で謹慎となりました。
 バールとしても、こうした事態が生起することは予想していたはずですが、ぶっちゃけて言えば、回航の手間を省こうとして余計な面倒をしょい込んだだけとしか思えません。4月までの数週間があれば、もう一航海できたと思われます。そしてバールは、これでもまだ懲りずに、同じことを繰り返します。長々と裁判沙汰につきあい、半分を罰金に取られてもなお、そんなに即金が欲しかったのでしょうか?
 この辺りに、ジャン・バールの大雑把な性格というか、わりとアタマのワルい面を見ることができますが、この行為は、後々に横領疑惑を受ける原因となっています。

 5月1日、バールと「パルム」はまた海へ出て、5月7日に、アゾレス諸島から果物を運んできた三本マストのオランダ船「Gouden Prinz」を拿捕しますが、この航海での獲物はこの一隻だけでした。
 そしてこの航海が、バールにとって「パルム」での最後の航海となりました。「パルム」は1676年から一年余、バールの指揮のもと、単独/共同で2隻の軍艦(と言って語弊があれば、少なくとも戦闘用の船)「Tertoole」と「ネプチュナス」を含む33隻の船舶を捕らえる戦果をあげ、そのうち29隻をダンケルクまで持ち帰りました。途中の長期ドック入りや越冬の三か月も併せて考えると、「パルム」が実際に稼働していた期間は半年ほどでしかなく、これは驚異的なペースと言えます。


ジャン・バール、また武勲をたてること

 ダンケルクに戻ってみると、スポンサー達はバールに新造船「ドーファン (Dauphin イルカ)」を任せることを決定していました。
 「ドーファン」は、砲30門、定員200名と「パルム」よりも大型でありながら、スピード重視の設計で帆走性能も「パルム」に勝っていると思われました。ジャン・バールは自らこの船の艤装を監督し、9月までかかって満足の行く仕上がりにしました。
 そして、冬の到来の前に試験航海を済ませようと、9月に強引に航海に出て、9月8日、石炭と牡蠣を、イングランドのハリッジからロッテルダムへ運んでいたオランダのブリッグ(船名不詳)を拿捕しました。その後は船に出会わなかったため、バールはダンケルクに戻り、「ドーファン」を解役してドック入りさせました。
 ところが12月下旬、フランスの艦船が越冬中の隙をつき、オランダ漁船団が護衛無しで出漁しているとの情報がダンケルクに持たらされました。バールは一人色めき立ち、大急ぎで乗組員を集め、装備を整えると、暮れも押し詰まった12月30日、強引に「ドーファン」を出港させました。
 そして1678年の元日、ドッガーバンクで操業中のオランダ漁船団を襲撃して、首尾よく5隻のラガーを拿捕しました。しかし、この後がいけません。更なる獲物を捕まえるべく身軽になろうと、合計10,600リーブルの身代金を取って5隻を釈放したバールでしたが、コルセール来襲の報に漁船団は既に逃亡しており、獲物に遭遇することはできませんでした。失敗です。仕方なくバールはダンケルクに戻り、船を解役しました。

 その後、「ドーファン」は1678年6月まで陸につながれ、バールも陸に上がっていました。この長い待機の理由ははっきりと伝わっていませんが、やはり、またも勝手に身代金を取ったことで起きた告発が大きな理由だと考えられます。また、結果として空手で戻ることになった不手際や、強引な出港によって資金不足になった等の理由もあるかも知れません。

ここいらで一つ、お金の話を。
1795年までのフランスでは、リーブル(Livre/Livres)と呼ばれる単位のコインが使われていました。元々はローマ帝国の通貨リブラ Libraに由来する言葉で、重さ
のポンドの意味もありました。また、コインの別称として「フラン Franc」と言う言葉が使われ、この語がフランス革命からユーロ導入までの間、フランスの通貨単位と
して使用されました。

リーブルの上には、エキュ、ルイドールと呼ばれる貨幣がありました。リーブルの下の単位はソル(Sols スーとも呼ばれる)、ソルの下はドゥニエ(Deniers)と言うコイン
があり、その換算は下の通りです。


ルイドール(Louis d'Or)金貨=時代によって違うが、だいたい20-30リーブル程度 金品位=6.12/6.69g(1640年)
エキュ(Ecu)銀貨=時代によって違うが、だいたい3リーブル前後
1リーブル(livre)=20スー(Sols)、1スー=12ドゥニエ(Deniers)

他に高額金貨として、ピストール(pistole =10リーブル)も使われていました。なお、他国の通貨との交換レートですが17世紀から18世紀の時代では概ね、
1ポンド(イングランド)=12-14リーブル
1フルデン(オランダ)=1.2-1.6リーブル
程度と思われます(参考: The Marteau Early 18th-Century Currency Converter ttp://www.pierre-marteau.com/currency/converter.html、友清理士著 研究
社「イギリス革命史」p.87)。


現代日本の感覚では、1リーブル=2000円(「イギリス革命史」)程度とのことであり、1678年1月1日のバールを例に出せば、2000万円ふんだくったことになりま
す。クレジットカードも銀行振込みも無い時代ですから、物資の買い付けや給料用に多額の現金を置いている船が多かったのです。  

 
 なお、船員の給与は、平水夫の場合、イギリスでは月30シリング程度(18-21リーブル)、オランダではその1.5-2倍でした。船乗りの場合、食料が全て支給される
ため、その分だけ給料の額面が安いです。

 また、1676年当時の商船の建造費(船体のみで装備品は含まない)は、平均的な大きさの商船である250トン(船の大きさを示す長さと幅から算出されるトン数
か、積荷重量を示すトン数かは不明)の船は、イギリスではトン当たり7ポンド2シリング6ペンス、建造費が安いことで知られるオランダではトン当たり4ポンド10シリ
ングでした(海上交易の世界史歴史 http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/index.htmlより)。私掠船の場合、国によって違いますが、平均的に言って船体の査定額の1/
3から1/5が賞金として支払われていたようです。

1678年6月、バールの「ドーファン」は、ケイジー船長が指揮する「エンペルール empereur(皇帝)」、Soutenage船長と言う人物が指揮する「Dame de Lombardie (「ロンバルディアの貴婦人」くらいの意味)」の二隻の船とチームを組んで出港し、マース河口沖に陣取りました。
 6月18日の早朝、「パルム」はオランダのフリゲート艦を視認しました。この時、コルセール達は広く散開しており、チームで一番小さく、かつ敵に近かった「Dame de Lombardie」が攻撃を受けました。
 敵は、ヴィレム・ランク艦長(Willem Ranc)率いるマース司令部(ロッテルダム)所属の小型フリゲート艦「スキーダム Schiedam (24)」 で、「Dame de Lombardie」に接舷切り込みを試みます。
 ケイジー船長の位置は遠すぎ、「Dame de Lombardie」を救えるのはバールの「ドーファン」のみと言う状況でしたが、「Damede Lombardie」はひたすら逃げ回って「ドーファン」の来援まで持ちこたえました。
 「スキーダム」を射程にとらえた「ドーファン」は、敵に片舷斉射を浴びせ、さらにバールは「ドーファン」を敵の風下側に置く一方、「Dame de Lombardie」に風上側へ回り込むように信号を出して、「スキーダム」を挟撃しようとします。そしてこの作戦は成功し、「ドーファン」は「スキーダム」の艦首近くに突っ込んで引っかけ鉤をぶち込み、バールが自ら先頭に立った切込み隊が「スキーダム」に突入。「Dame de Lombardie」も「スキーダム」に接舷、切り込みをかけます。
 明らかに深追いしすぎて逃げるタイミングを失ったとしか思えな無い「スキーダム」のランク艦長ですが、多勢に無勢ながらその戦いぶりは勇敢でした。バールの報告によると「スキーダム」の乗員は94人で、「ドーファン」一隻でも戦力的には圧倒的に有利でしたが、バールはかつてないほどの苦戦を強いられました。行政官に宛てた戦闘報告の中で、バールはランク艦長の戦いぶりを賞賛しています。
 「スキーダム」は、90分間の白兵戦の結果、ランク艦長が重傷を負い、乗員の過半数57人が死傷して降伏を余儀なくされましたが、バールはふくらはぎに貫通銃創を受けたうえに、敵の大砲の発射煙を浴びて顔面と両手にひどい火傷を負いました。「ドーファン」も死者6、負傷31の犠牲を出して、さらに至近距離からの砲撃を受けて大破し、激しい浸水で沈没の危機に陥りました。
 
 二週間後、傷の癒えたバールは、再び航海に出ました。沈没をまぬかれてなんとかダンケルクへ帰投した「ドーファン」でしたが、再起不能だったようであり、新たに「マルス Mars (32門)」と言う船を任されての出撃でした。
 この時になると、フランス-オランダ戦争の終結は時間の問題となっていて、この航海は最後の一儲けのチャンスでしたが、持ち前の幸運で、バールはそれをモノにしました。7月7日、スペインからアムステルダムへワインを運んでいたオランダのブリッグ「Sint Maartin」を拿捕、18日にも、雑貨を運んでいたオランダ船「Sint Antoine」を拿捕して、ダンケルクへ帰りました。
 8月10日、「ナイメーヘンの和約」が成立して、フランス-オランダ戦争は終結。フランスは、スペイン領ネーデルラントの都市をいくつか獲得しましたが、戦争目的を達したとは言えず、不本意な講和となりました。
 なんであれ、終戦に伴ってコルセールはお役御免となり、私掠免許状も無効となります(この後に船を襲ったりすれば、海賊にされるとは言わぬまでも、襲った相手に弁償しなくてはなりません。船長の自腹で…)。ダンケルクの行政官の命令に従い、バールは船を解役して陸に上がりました。


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