ジャン・バール

ジャン・バールその3


ジャン・バール、乗客を危険に曝して手柄を売り込むこと

 行政官の依頼を受けたバールとサウレは、二人のカレーの船乗りとともに、無蓋の大型ボート(現代のセンスでは小型ヨットのような船)にお客を乗せて海に出ました。客の陸軍士官は三人で、侯爵、伯爵、勲爵士からなる豪華メンバーでした。第二次英蘭戦争でのフランス陸軍の活躍の場は、オランダに侵入したミュンスター司教領の軍隊を追い払うことくらいだったので、海戦に参加することでなにがしかの名誉を得ようとしたのでしょう(もう少し陸で待っていれば、スペイン領ネーデルラントとフランシェ・コンテへの侵攻作戦に参加できたでしょうに…)。

 ジャン・バールもまた、オランダ海軍で働けるであろうこのチャンスを、逃すつもりはありませんでした。オランダ海軍では、当時のフランスでは望むべくもない有益な経験が得られると踏んでいたのです(当時のフランス海軍は建設途上で小規模でした)。彼は当時、15-6歳。航海士としてはまだまだ未熟だったかも知れませんが、ダンケルクでの砲術コンテスト(←普段から船乗りに砲術の腕を磨かせて、有事に優秀な水兵を確保しようとするコルベールの政策。フランスの多くの港町で行われていた)で優勝したこともある優秀な砲手なので、その技量をもってすれば、オランダ海軍に歓迎されるだろうと考えていました。
 そのうえバールは、オランダ艦隊の司令部は、イングランド艦隊の動向についての情報を知りたがっているはずだと考えて、さらに自分を売り込むため、オランダ艦隊の泊地を素通りすると、先ずはボートをテームズ河口に向かわせました。そして、主力がいるガンフリート泊地も含むテームズ河口周辺を丸一日かけて偵察し、停泊中のイギリス艦隊の数を調べました。
 それからオランダ艦隊の泊地に向かい、デ・ロイテルの旗艦「ゼーベン・プロヴィンセン」に乗り込んで三人の貴族を引き渡し、そのついでに、大胆と言うか図々しいと言うか、三人のオランダ艦隊への着任を見届ける義務があると言って、名将の中の名将たるデ・ロイテルに会見を申し込んだらしいです。

 会見の場でバールは、偵察情報を伝えるとともに、ダンケルクの砲術コンテスト優勝の賞状(←こういう時のために持参していたらしい)を示して自分の能力を売り込んで、相棒サウレともども、「ゼーベン・プロヴィンセン」に乗せてもらえるように頼みこみます。その甲斐あって、二人は平水夫として「ゼーベン・プロヴィンセン」に乗り組むことができました。
 なおこの時、バール自身の語るところによれば、偵察情報についてデ・ロイテルから大いに賞賛されたということです。しかしながら、そもそもデ・ロイテルと面会できたのかと言うことからして、本当のところは不明です(平水夫扱いですし)。もっとも、自分で船室の掃除をするというデ・ロイテルの人物像を考えるに、平水夫と面会するのはあり得る話ではありますが。また、バールの偵察航海については、カレーの行政官の信用を無視して、高級士官三人を捕虜にする危険を冒して、手柄を立てに奔ったと考えられなくもないです。実際、しなくても良い航海に付き合わされた三人の貴族は、「ゼーベン・プロヴィンセン」に到着した時、船酔いで完全にダウンしていたと言われます。

 その後ジャン・バールは、「ゼーベン・プロヴィンセン」の乗組員として、第二次英蘭戦争中は「セントジェームズデーの海戦」とチャタム遠征に参加。その間、フランス軍の南部ネーデルラント侵攻により、仏蘭関係は急速に悪化していきましたが、バールは1672年までオランダ海軍に勤務し、士官に昇進しています。サウレの方は、いつまでオランダ海軍にいたのかはっきりしないのですが、少なくともチャタム遠征には参加しているようです。

 しかし、時は容赦なく流れ、やがて「災厄の年」1672年となり、フランスがオランダに露骨な侵略を開始、第三次英蘭戦争およびフランス-オランダ戦争が始まりました。その中にあってバールは、艦長ポストを提示されてオランダ海軍に残るように要請されたらしいのですが、彼はためらうことなくフランスを選びました。そして、別にオランダ側に拘束されるようなこともなく、ダンケルクへと戻りました。いかにも近世的な紳士のエピソードです。

 当時にあって、軍人が自分の生国ではなく、他国で働くのはよくあることであり、それどころか、勤務先が気に入れば、生国と戦うことにも大して躊躇しませんでした。
 例えばこの戦争でも、オランダ軍で、フランスの侵略に対する最初の防衛線を指揮したモンバ伯爵はフランス人(圧倒的兵力差にどうすることもできなかったのですが、内通を疑われた)。イギリス海軍の最高司令官であるルパート王子には、過去にオランダ陸軍での勤務歴がありました。また、オランダ上陸作戦を指揮する予定だったフランスのションベルク将軍は、もともとドイツ出身。そして第三次英蘭戦争の後は、オランダ陸軍を率いてフランスと戦っています。
 もしジャン・バールがユグノーで、フランスの宗教的不寛容に反発を覚えていれば、そのままオランダ海軍で働き続けたかも知れませんが、ここはやはり、フランス人としてダンケルクで生まれ、(英国籍の数年をはさみつつも)フランス人として育った人間として、バールは自然な選択をした、と言うことでしょう。

 もっとも、これが近代的なセンスで言うところの愛国心かと言うと、そうではないかも知れません。バールは後に、時のフランス国王ルイ14世に対して、熱烈に忠誠を表明していますが(当時にあっては、王様への忠誠と国家への忠誠は概ね同じでした)、単に、故郷ダンケルクを敵に回すことを良しとしなかった「愛郷心」かも知れません。支配者が頻繁に変わった当時のダンケルクのような町で生まれ育った人々にとって、自分の故郷より広い部分に自然な愛着を覚えるのは難しいと思われるのですが、どうでしょうか?
 「愛国心」が近代の産物であるとはよく言われます。実際、極端に右寄りの人が唱える、国家主義と結びついた、ほとんど権力への盲従の「愛国心」なんぞは、明らかに近代の産物でしょう。確かに前近代のこの当時、地位や身分に関係なく、愛国心なんぞ毛ほども感じていなさそうな人々は多々見られました。

 ただ、バールには、オランダよりも未熟なフランス海事界に戻った方が、オランダに留まるよりも出世できるとの判断があったのでは、との指摘もあります(「Studies in navla history: Biography」)。


ジャン・バール、祖国に忠節を貫くも、恩を仇で返すこと

 ダンケルクに戻ったバールは、ウィレム・ドルン(Willem Dorne)船長が指揮する私掠船「L'Alexandre」に、士官としておおよそ1年半勤務した後、1674年初頭に最初の指揮船「ダビデ王 Roi David」を得ました。大砲2門、乗員36人で、漁船に毛が生えたような頼りない小型船でしたが、23歳の若者の最初のキャリアとしては、このへんからでしょう。
 「ダビデ王」のタイプについては、ガリオット(Garriot 漕走も出来る小型船)ともシャッセマリー(Chasse-maree)とも記録されています。恐らくは両方の特徴を持った、ラグスル付きでオールも使える船だったのでしょう。

ラガー(Lugger/ 仏ルグレ Lougre) 

 本来はフランス語読みで「ルグレ」だが、より一般的な英語読みの「ラガ
ー」を用いる。「ラグスル lugsail」と呼ばれる台形の縦帆を用いた2-3本
マストの小型帆船のこと。小型ゆえに外洋での航海には向かない。ラグス
ルは他の形式の縦帆と違って、帆の中ほどでマストに取り付けられてい
て、縦帆の利点である風上への航行と、横帆の利点である追い風時の帆
走性能の両立を図っている。起源はオランダとも中国のジャンクとも言わ
れているが、はっきりしたところは不明。

 帆船時代のフランスでは、軍民問わず沿岸用の船として多用され、その
機動性の高さでコルセールにも愛用された。シャッセマリー(Chasse-
maree)は、フランス北部で用いられた漁船を起源とする形式で、ラガーと
概ね同様の形式であるが、特にフランス(もしくはカナダのフランス語圏)で
はこう呼ばれる。


船長としてジャン・バールは、最初の航海からツイていました。港を出てから一週間後の1674年3月27日、オランダの石炭輸送船のブリガンチン、「Homme Sauvage」を拿捕して初戦果をあげました。4月の2度目の航海では、スペインのヴィゴーからアントワープまでワインを運んでいたオランダのブリッグ「VriendschappelijkAvontuur (フレンドリー・アドベンチャー、くらいの意味)」を拿捕しました。このブリッグは10門の大砲を搭載した立派な船であり、積荷のワインの価値も高く、「ダビデ王」の船主とバールは大いに儲かりました。

 三度目となる5月の航海では、バールはさらに高価な獲物を捕まえました。5月11日、オランダ船「Sint Paulvan Brugge(ブルージュの聖パウル)」を拿捕します。この「Sint Paul…」の積荷は、184ホグスヘッド(1ホグスヘッド=およそ250リットル)の高価なボルドーワインおよびブルゴーニュワインであり、バールはまたも大儲けしました。積荷がフランス製品やんけ! と言うツッコミも入りますが、この当時、戦争している国同士でも、民間レベルではいろいろと言い訳を並べて貿易(or 密貿易)が行われているのは普通のことでした。特に自由な貿易と航海を標榜するオランダはその傾向が顕著でした。輸出業者の側としても、とかく不景気になりがちな戦時において、商売相手は誰であれ貴重で有難いものであり、海運業者や輸入業者も、戦時と言うことで高い料金や値段を設定して儲けるのです(ただし、航海の安全は完全な自己責任となる)。5月15日にはまた、オランダの小型船(smack 船名不詳)を拿捕しました。この船の積荷は、靴下五百足、多量の生牡蠣とヘイゼルナッツだったということです。

 バールの幸運はさらに続き、6月3日、オランダの小型ブリッグ2隻(恐らく漁船。船名不詳)をいっぺんに拿捕しました。この後、バールは「ダビデ王」を降りますが、わずか二ヶ月、四回の航海で6隻ものオランダ船を拿捕しました。特に、砲10門搭載の「Vriendschappelijk Avontuur」の拿捕は大戦果でした。しかもバールは、それだけの戦果を、自船の乗組員は勿論、一人のオランダ人を傷つけることなく達成しています。
 しかし、それもそのはず、拿捕された6隻は、一切抵抗せずに降伏しており、中には逃げるそぶりすら見せなかった船すらあるからです。大砲2門、乗員36名と言う「ダビデ王」の武装の貧弱さを意外に思われる方も多いでしょうが、この当時、私掠船に狙われた商船は、スピードで振り切れないと判断すると、大抵の場合、抵抗せずに大人しく捕まりました。例え私掠船より大きさや武装で勝っていても、やっぱり戦わずして降参する商船は多々ありました。お互いに傷つくこともないし、船長や船員が捕虜になったところで、捕虜交換か身代金で釈放されることが多いからです。場合によっては、適当な金銭と引き換えに拿捕された船も返却されることもあり、これなどは撃沈されるよりは安くつきました。そして、あくまで私見ながら、ぶっちゃけて言えば、船長も船員も、自分のモノでもない財産を守るために、命を懸けて戦う気にはなれなかったのでしょう。勿論、船長が船主を兼ねていたり、事業に出資しているケースは別でしょうが。そのうえ、捕虜になっても特に虐待を受けるわけではないと分かっていれば、なおさら抵抗はしないでしょう。そして、私掠船の方もまさしくこうした効果を狙って行動していました。「紳士的な戦争」ですが、ある種、暗黙のなあなあ状態でもあります。

 勿論、商船もそれなりの自衛策を講じてはいました。残忍な海賊や、悪名高きバーバリーの私掠船に襲われれば、なあなあではすみません。しかし、商船と言う性質上、重武装化には難があります。そこで、木製のニセモノの大砲を載せたり、舷側に砲門の絵を描くと言った涙ぐましい努力もされましたが、搭載している大砲の数が多くても、積荷スペース確保のために弾薬置き場が無い、経費節約のため操船と戦闘を同時に行う人手が無い、と言ったケースもありました。
 まあそんなわけですから、大砲2門の「ダビデ王」が、10門搭載の「Vriendschappelijk Avontuur」を拿捕できたことは、それほど不思議ではありません。もちろん、自船よりも大きく、かつ重武装の船に喧嘩を売るのは大変な勇気と決断が必要です。しかしそれでも、「ダビデ王」でのバールの戦果は、彼の船乗りおよび戦闘指揮官としての能力の結果というよりも、弱気な獲物に遭遇できた幸運によるところも大であり、本人もそのことを自覚していたので、戦闘でコルセールとしての腕前を見せる機会を切望していました。

 しかし、運が良いのもスポンサーに好かれる条件ではあります。短期間での戦果で船主達の注目を集めたバールは、もう少し大きな船の指揮を任されることになりました。
 小型ブリッグ「ラ・ロイヤル La Royal(10門 80人)」の船長に任命された彼は、8月、元ボスのドルン船長、および友人のシャルル・ケイジー(Charles Keyser)船長が指揮する私掠船(船名はそれぞれ「L'Alexandre」と「Grand Louis」)とチームを組んで航海に出ました。
 8月27日、バールらは船舶用の木材とロープを運んでいたオランダ船「Elizabeth」を拿捕。さらに9月11日にも、砲8門搭載のオランダの捕鯨船(船名不詳)を拿捕します。果たしてこの時、「ホゲェーッ!」と雄たけびを上げたかどうかはわかりませんが、この捕鯨船は、愚かにも3隻の私掠船を相手に抵抗しました。その結果、ごく小さくて短いものでしたが、バールは船長として初めての戦闘を経験しました。
 10月になると、バールは単独の航海に出て、8日と24日に、それぞれ「Baleime-gris」と「St. George」と言うノルウェーから木材を運んでいたオランダ船を拿捕し、この年の戦果を計10隻として、ダンケルクに戻って冬休みに入りました(1600年代の北ヨーロッパでは、荒天が多い冬の航海は避ける風潮があり、軍艦ですら海に出ないのが一般的でした)。
 
 船長となってわずか半年の間に多大な戦果を挙げたバールは、曾祖父「海のキツネ」の再来として、ダンケルクで大いに注目を集めました(「海のキツネ」ヤコブセンは、古くからフランスの敵国で、この時の仏蘭戦争でもオランダの同盟国であったスペインの免許状で働いていたということは、誰も気にしなかったようです)。
 もっともこの時、フランス海軍は、イギリス海軍と連合した1.5-2倍の戦力を持ってしても、デ・ロイテル率いるオランダ艦隊に勝つことができず、陸軍の方も、オランダとその同盟諸国の大反撃を受け、1674年初頭の時点で既に、占領地をほとんど奪回されていました。バールの奮戦は無駄、と言うか、ほとんど「蟷螂の斧」状態です。
 しかし、バール個人はともかく、私掠船事業の投資家や船主達にとっては、まずは自分たちの利益が第一でした。勿論、フランスに負けてほしいと言う人はごく少なかったでしょう(ユグノーの場合、フランスの負けを願うことはあり得ます)。しかし、勝っていようと負けていようと、戦争が続く限りは私掠免許状が有効であり続けるわけであり、ビジネスマンの悲しきサガとして、戦争の勝敗に関心が薄くなっても仕方がありません。戦争に負けて再びスペインの支配下に入れば、かなり悲惨なことになるのが分かっていたオランダですら、ダンケルクの封鎖に、自国の私掠船の協力を得られなかったことを思い出して下さい。民間資本で戦う手段を得るという、私掠船の利点の裏返しの弊害です。
 そんな中でもバールは、自分の成功がオランダ海軍で学んだ艦船運用術のおかげであると考え、オランダの船乗り達に勝利を収めたことで、大いに誇りを抱いていました。実際、当時のフランスで、オランダ海軍より高いレベルの修行が出来たとは思えません。格闘マンガ的には、弟子が師匠に勝つ名シーンでしょうが、当然ながらバールには、オランダ商船の航路や行動様式についての知識があり、それを利用したのは間違い無いので、恩を仇で返したと言えます(笑)。 


戦うジャン・バールの図
(Alex Ritsema 著「Pirates and privateers from the low countriex, c.1500-c.1810」より)

ジャン・バール、有名になって幼妻を娶ること

 1675年もまた、バールと「ラ・ロイヤル」は幸先の良いスタートを切りました。1月13日に、穀物を運んでいた「Ville de Paris(フランスな名前ですが、オランダ船です)」を、1月17日に硫黄を運んでいた「PremierJugement du Solomon(ソロモン王のお裁き、くらいの意味)」を拿捕しました。
 さらに1月21日、「ラ・ロイヤル」は、オランダ連邦議会の旗を掲げた武装船「エスペランス (Esperance 12門 軍艦か民間武装船かは不明)」に護衛された、3隻の商船からなるオランダの船団に遭遇。商船は取り逃がしましたが、激しい戦闘の末にバールは「エスペランス」の艦長と副長を戦死させ、敵艦を拿捕することに成功しました。
 この戦果によってジャン・バールは、戦闘指揮官としても確かな技量を備えていることを証明しました。彼はますます、「海のキツネ」の再来と言う名声を確固たるものとします。そして、この戦闘の報告はコルベールのもとに送られ、バールは、コルベールが進めていた、平民でも優秀な船乗りを海軍士官として登用する計画で、艦長候補としてリストアップされました。
 
 「エスペランス」拿捕の直後の1675年2月3日、ジャン・バールは、地元の酒場「金の星 l'Etoile d'Or」の経営者の娘で、当時16歳のニコール(Nicole Goutier もしくはGontier)との恋愛を成就させ、新婦の母フランソワと、元ボスのドルン船長の立会いのもとに結婚式を挙げました。彼女が酒場の看板娘なら「大航海時代」シリーズみたいですが、あくまで経営者の娘です。16歳の幼妻というだけでもうらやましいのに、二コールは10000リーブルの持参金つきでした。うらやましきこと、この上なしです。
 奥さんの年齢に関しては、(当時にあっても)まだ結婚には早すぎる、家をあけがちな船乗りの妻は、まだ荷が重いのではないか、と言う周囲の反対もあったのですが、既にダンケルクを代表するコルセールになっていたバールの名声が、反対意見を封殺しました。
 二人の夫婦仲は良好であり、1681年に二コールが死去するまで、死産した一人を別にして、息子一人と娘二人をもうけました。そして長男フランソワ=コルニル・バールは、後にフランス海軍中将にまでとりたてられています。

 結婚から4ヵ月後の6月、整備と改装を終えた「ラ・ロイヤル」で、バールは再び海に出ました。彼の幸運は衰えておらず、6月30日、三時間の追撃戦の後、砂金、象牙、砂糖と言った高価な積荷を積んだオランダ船「Arms of Humburg(12門)」を拿捕しました。
 さらに7月5日、ケイジー船長とともに、オランダの私掠船「Levrier(12門)」を拿捕、9日にはオランダのニシン漁船団を襲撃して、護衛についていた私掠船「Bergere(12門)」と、大小15隻もの漁船をいっぺんに拿捕ました。
 
 物凄い戦果ですが、バールとケイジーの腕には、計17隻もの船と250人以上の捕虜がでれーんと重くぶら下がります。一方、バールとケイジーの部下は合わせて112人。捕虜を監視しながら、自分達も併せて19隻もの船を運航するのはとても無理と判断した二人は、およそ12000リーブルの身代金と引き換えに、大型の漁船4隻と捕虜184人をまとめて釈放します。それでもバールとケイジーには13隻もの獲物が残ったわけで、二人は拿捕船を連ね、意気揚揚とダンケルクに戻りました。

 しかーし、バールとケイジーは、歓迎されるどころか、ダンケルク市当局に告発されてしまいました。私掠船は、拿捕した獲物の処分に関しては、全て海事裁判所による判断を仰がねばならず、独断で身代金を取ったのは法律違反、と言うのが告発の理由でした。
 この告発は、理不尽で、非現実的であるとダンケルクのコルセール達から強い反発を受けました。フランスに限らず、確かに私掠船と言うものは、捕虜の扱いと拿捕船の回航に苦労するものです。捕虜を皆殺しにするのは簡単ですが、たとえ海賊船であってもこれをやる連中はさすがに稀で、拿捕船の一部に捕虜を乗せてそのまま釈放するのは普通のことでした。はた迷惑この上なきことですが、中立国船を捕まえて捕虜を押し付けることもありました。また、早期釈放や賃金を出す条件で、捕虜に回航を手伝ってもらうことも行われました。多すぎる捕虜の取り扱いが、現場の船長の自由にならないと言うのは、確かに非現実的です。

 しかしながら、当局がこのような態度に出るのにも、確かに一理ありました。先述したとおり、コルセールとは政府の認可を受けた私掠船であるため、その獲物の処理にもまた政府なり君主の代理人なりの認可が必要となるのは当然で、自己判断で勝手に身代金をとるのは海賊のやり口である、と役人が考えるのも、無理からぬことだと思われます(少なくとも、当時にあっては)。実際、バールとケイジーは、国王に対する背信行為であるとまで非難されました(推測ですが、このバールとケイジー船長の場合、身代金をとったりせずに、寧ろ無条件で釈放していれば、問題にはならなかったかもしれません)。
 とは言え、最後には現実的な判断が勝ったようで、大袈裟に非難されたバールとケイジーでしたが、結局は取った身代金の半分をダンケルクの病院に寄付すると言う、罰金刑だけですみました(←スペイン統治時代から、ダンケルクの私掠船は利益の一部を病院その他の慈善事業や教会に寄付せねばならなかった)。バールは、この判決について、半分を寄付すれば船長の独断で身代金をとって良い、とのお墨付きと勝手に解釈して、この後もたびたび、海軍本部から譴責を受けつつも、一切ならず同様の行動をとるようになりました。 
 ごたごたが片付いた後、10月にバールはまた短い航海に出て、24日、ノルウェーのトロンヘイムから銅を運んできたオランダ商船「Arbre de Chene」を拿捕してダンケルクに戻り、冬休みに入りました。

 1675年を通じてジャン・バールの「ラ・ロイヤル」は、単独/共同あわせて22隻のオランダ船を拿捕し、彼はコルセール界のトップエースとなりました(と言っても、厳密に言えば釈放した4隻を差し引かねばなりません)。また、「ラ・ロイヤル」を預かって以来の戦果は26隻(もしくは先述の通り22隻)となり、バールは一財産築き上げました。そして、はっきりとはしませんが、どうやら「ラ・ロイヤル」を気に入ったらしく、この船を買い取ったようです。もっとも、この直後にフランスがハンザ諸都市と戦争状態になった時、「ラ・ロイヤル」は運悪くハンブルグに停泊しており、そのまま拿捕されてしまったと言われます。


下品ですみません(汗)

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