ジャン・バール

ジャン・バールその2


ジャン・バール少年、船乗りになる

 フランスを代表するコルセール、ジャン・バールは、1651年10月21日、父コルニル・バール(Cornil Bart1619? - 1668)と、母カトリーヌの間の二番目の子供として、フランス占領時代のダンケルクで生まれました。
 父コルニルは、この当時は漁師(というか、漁船の船主か?)として働いていましたが、私掠船乗りの家系の出であり、本人もまた戦隊司令官(Chef d'Escadre)の階級まで与えられた、名の通った私掠船乗りでした。さらに、ジャン・バールの祖父リュック、叔父のガスパールとミシェルも私掠船乗りで、みんなスペインの認可状の下でオランダと戦いました。家は「貧しかった」とする資料もあるのですが、名のある私掠船船長の一族ですから、決して貧しくなかったはずです。
 母カトリーヌもまた、ダンケルクの私掠船乗りの家系の出で、その祖父(つまりジャン・バールの曾祖父)は、「海のキツネlerenaud de la mare」の異名を取った大物私掠船乗りのミシェル・ヤコブセンであり、そのミシェルの息子で、ジャン・バールの大叔父にあたるヤンも、同じく名の知れた掠船乗りでした。従って、ジャン・バール少年が私掠船乗りを志望したのも、この家系ではえらく自然なことでした。
 ジャン・バールの子供時代、父コルニルは戦闘の巻き添えで負傷したため、船に乗らなくなっていましたが、息子に自分や祖父の私掠船時代の冒険譚を語って聞かせていました。またダンケルクは、ジャンの子供時代に二度の包囲攻撃を受けています。一回目の包囲戦は物心つく前のことですが、二回目の包囲戦の時には、通りで遊んでいた時、近くに砲弾が落ちたということもありました。バール少年は文字通り、「砲弾が降り注ぐ中で育った」と言えます。父親の冒険談と自身の体験とで、ジャン・バールが戦闘を身近に感じる環境で育ったのは間違いないでしょう。この経験によるものか、長じた後のジャン・バールには、勇敢も度が過ぎたのか、危険に鈍感な面があったと言われています。

 母カトリーヌは、息子達が私掠船稼業に就くのは反対でした。ここは海に出る者と帰りを待つ者の考え方の差でしょうが、カトリーヌの場合、息子を失った父母、夫を亡くした妻、父を失った子供達などなど、私掠船乗りの遺族達の悲しみを何回となく目の当たりにしていました。ダンケルクの私掠船も含むスペイン艦隊が、「ダウンズの海戦」でオランダ海軍に壊滅させられた時には、ダンケルクの海岸にも多くの死体と残骸が打ち上げられ、その惨状を目撃していました。また、カトリーヌの叔父にあたるヤン・ヤコブセン船長は、オランダ艦隊に包囲された時、捕虜になるのを潔しとせずに船の火薬庫に火を放ち、ソーゼツな自爆を遂げていました(「足を洗う権利」の弊害です)。この自爆には奇跡的に二人の生存者がいて、その一人がジャンの父方の叔父、ガスパールだったりしたのですが、この話も、息子たちには格好良いものと聞こえました。
 しかも、もっと直接的に、夫コルニル・バールは、第二次英蘭戦争で私掠船稼業に戻り、イギリス艦と戦った時の負傷がもとで死んでもいます。しかし、結局は母の願いも空しく、ジャンのみならず、その兄コルニル(父と同名の長男)、弟ガスパールにジャックと、バール夫妻がもうけた男兄弟はみんな、私掠船乗りとなりました。親の心子知らずとはよく言ったものです。もっともこの時代、出世を目指すなら、他にそれほど途が無かったと言うことも書いておかねばなりませんが。

 ダンケルクの英国支配が終わる直前の1662年、11歳のジャン・バールは、父コルニルの友人で、元私掠船乗りのジェローム・バルビュエ(Jerome Valbue)船長の密輸船に見習い水夫として乗り組むことになり、船乗りとしてのキャリアを歩み出しました。
 ただ、「密輸船」とは言いますが、保護貿易が当然の当時にあって、密輸業者達は、本来なら高い関税がかかる品物を安く売ってくれたりするので、決して悪い商売とは考えられていませんでした。それよりも、この時はバルビュエ船長の人格の方が大問題でした。
 水夫には荒くれ者が多く(実際はどうあれ、少なくとも世間のイメージはそうでした)、船長もそれ以上に荒くれにならねばならないこと、海に出れば船長は絶対的存在となるなどの理由で、法規制も未整備で人権意識が薄かった時代のことではあり、どこの国でも船長/艦長は横暴になりがちでした。そしてバルビュエ船長も、その横暴なタイプであり、もともとが粗暴で酷薄な性格でもあったようです(決して私掠船上がりだから…なんてことを言うつもりはありません)。友人の息子であるジャン・バールにも遠慮は無く、バルビュエ船長は彼に厳しく接しました。やる人によっては、これは「公平無視」として称賛されるのですが、バルビュエ船長の性格が話半分だったとしても、この場合は「迷惑」としか言いようがなく、実際にジャンは、横暴で理不尽な行為を受けたようです。
 その一方、同じく父コルニルの友人である甲板長、アントワーヌ・サウレ(Antoine Sauret)は、バルビュエ船長とは反対にジャンに優しく接し、また船長の横暴な振る舞いからもジャンを守りました。なんであれ、ジャン・バールはこの間に、船乗りとしての基礎的な技術を学びました。

 そうこうしている内に第二次英蘭戦争(1665-1667)が始まりました。フランスはオランダとの同盟に従い、1666年から本格的に参戦します。そうなれば、当然ながらイングランド船に対する私掠免許状が発行されるわけであり、航海士に昇進していたジャン・バールは、バルビュエ船長が指揮する私掠船のブリッグ「コショングラ(Cochon Gras 太った豚)」に乗務することになり、コルセールとしての第一歩を踏みだしました。

ブリッグ(英Brig 仏Brick )
 
 左の図のような二本マストの小型-中型帆船を指す。後部がメインマスト。あくまで帆装の形式を指す言葉で、船体の設計に形式は無い。貿易船や軽艦艇としてヨーロッパで広く使用された。
 「ブリッグ」とは、「ブリガンティン(英Brigantine 仏Brigantin)」と言う、地中海の二本マストで漕走も出来る小型帆船の名称の短縮形が語源で、最初はブリッグもブリガンティンも同義だった。記録に残る最古のブリガンティンは、1629年のイタリアの船とされる。
 しかし17世紀後半頃より、メインマストが縦帆のみで横帆が無い形式を「ブリガンティン」と呼び、左図のように横帆があるタイプを「ブリッグ」と呼んで区別するようになった。さらに、イギリス海軍の分類では二本マストの船はみんな「ブリッグ」となっており、また、形式によらず二本マストならなんでも「ブリッグ」と書いている文献も多く、ややこしい。「ブリッグ」と言えばとにかく、横帆が使われている二本マストのあまり大きくない帆船と考えれば、間違いはないと思われる。
 ちなみに、マスト二本とも縦帆になれば、船体の設計も加味されて別の様々な名で呼ばれる。

(図版は「Pirates」 Iron Crown Enterprize より)

↑因みに、別形式としての「ブリガンティン」はこういう感じで、後部マストが縦帆になっている

 それはそうと、ジャン・バールもバルビュエ船長も、ついでにコルニル・バールも含めて、ダンケルク市民はみんな4年前までは英国臣民だったはずなのですが、イギリスとの戦争に身を投じることに躊躇した形跡はありません。それどころか、この時にはスペイン支配時代のダンケルクを覚えている人もまだいた筈ですが、敵国フランスの支配に大声で異を唱えた人は多くありませんでした。ダンケルクは確かに、もともとフランスの文化圏(もしくはそれに近い文化圏)に属する都市ではありますが。
 ダンケルクに限らず、世界のどこでも、住人の意思に関係なく地域の支配者がころころと変わった例は多々ありますが、ダンケルクの人々は、逞しいと言うか厚かましいと言うか、誰が支配者になろうと、大して気にしていなかったのでしょうか。


ジャン・バール少年、正義を貫いて退職する

 さて、第二次英蘭戦争におけるジャン・バールの私掠船乗りとしての活動は、ひどく短いものでした。なんとなれば、バルビュエ船長が事件を起こしたためです。

 フランスの海運界には、「Roles d'Oleron」と呼ばれる慣習法がありました。日本では「オレロン海法」と訳されていますが、この「オレロン海法」は、海上の船舶における船長の権限と責任、および船員の労働と規律を定めたもので、だいたい1200年前後の時期(1194年?)、輸出用ワインの集積地であったビスケー湾のオレロン島で、ワイン輸出業者と輸出に携わる船主達が集まって編纂した規定をもとにしたものでした。この「オレロン海法」は、イギリスでも早々に受け入れられています(呼び名はRollsof Oleron、Judgement of Oleron、 Oleronruleなど色々あります)。
 この法律が作られた時代は、まだ海運業が未発達だったので、船乗りとは貴重な特殊技能の持ち主として認識されていました。船員が事業の共同出資者であることも多々あって、船長も、独裁者ではなく、船員仲間の指導者と言う感じであり、船長の権威を認められていたものの、船長と船員の間に紛争が生じた場合には、船員達の協議によって解決が図られることになっていました。

 ところが、時代が下って近世になり、海運業が発達して大資本による経営が一般化して、さらに船乗りという職業が特殊ではなくなると、事業主に雇われた管理職である船長と、一般船員の間にはっきりとした断絶が生じました。一般船員が船の空きスペースを私的な貿易に使うことが許されたりもしましたが、共同出資者になることなどまずありえないことになり、この断絶が、船員の発言力と権利を大幅に削減してしまう一方で、船長の権威と言うか横暴さを裏打ちして、海上における船長とは、船員の生殺与奪を掌握するほとんど絶対的な存在となってしまいました。

 そして「オレロン海法」は、もともとがいかにも中世的な慣習法であり、犯罪への対処に当たっては、原因を追究することなく犯人を処罰する単純さと、刑罰の残酷さが特徴でした。刑罰にあたっては、鞭打ち刑はまだ大人しい方であり、手の切断とか、パンと水だけで一年監禁などの酷刑が明記されていました。これが上記の変化と重なって、船長の一存で犯罪行為に処罰を下すならまだ良いとしても(←いや、これも陸地なら領主なり裁判所なりの権限なのですが)、単に「気に入らん奴」との理由だけで、船員に残虐行為を行うことすら正当化されるようになりました。そしてさらなる問題は、この「オレロン海法」が、(幾つかの変更は加えられていましたが)4世紀半経った1660年代になっても、フランスではまだ使われていた、ということです。
  
 事件は1666年6月のこととされています。「コショングラ」には、マルタン・ラノーと言うユグノー(フランスのカルバン派信者)の水夫が乗船していました。そしてフランスの例に漏れず、この水夫はその信仰によって浮いた存在でした。ある日、バルビュエ船長は、昼間から酔っぱらった挙句、ユグノーの信仰について暴言を吐き、ラノーの顔に酒をぶっかけました(カップを投げつけたとも)。
 「オレロン海法」は、船長は部下を公正に扱うことを規定していました(そもそも、船長が昼間に酒を飲むのもマズいです)。このためラノーは抗議しましたが、バルビュエは逆切れして棒で殴りつけました。ここで甲板長アントワーヌ・サウレが間に入ろうとしましたが、バルビュエはさらにラノーに殴りかかります。
 「オレロン海法」では、船長は船員を一発なら殴っても良く、船員も甘んじて受けねばならないとされていました。しかし二発目以降のパンチには、船員は身を守って良いことになっていました(ただし、殴り返してはいけない)。また、共同体時代の所産として、船員が船長に理不尽な扱いをされたと感じた場合は、船員区画に立てこもっても良いとの規定があり、そこまで船長が追いかけてきた場合には、自衛のための反撃も許されていました。
 ラノーはその法規に従い、甲板上の退避区画に逃げ込みましたが、バルビュエは退避区画の中まで追いかけて、ラノーを二発殴りつけました。「オレロン海法」では、これは船長にも許されない行為です。ついにラノーはナイフを抜き、バルビュエ船長の腕を切りつけて怪我をさせました。怒ったバルビュエはラノーを取り押さえるように船員達に命じたので、その乱闘のはずみでナイフが刺さって、一人の船員が死にました。

 「オレロン海法」は、船内で発生する暴力事件に対して、極めて単純な「目には目を、歯には歯を」式の方針が貫かれていました。実際、暴力沙汰で相手の腕を傷つけた者は、同じく腕を傷つけられる、とあり、殺人に至った場合などは、犯人に被害者の遺体を縛り付けて、一緒に海に投げ込むべし、とまで書かれていました。
 そしてバルビュエ船長は、これを字義通りに実行するべく、乗組員達を集め、傷害と殺人で判決を下し、刑を宣告して執行するための証言を求めました。船員の多くはバルビュエを嫌っていましたが、ユグノーへの偏見と船長に対する服従の精神はぬぐい難く、また実際に怪我人と死人が出ているので、船員達はラノーによる犯罪行為があったと認めました。
 しかし、サウレが船長に反抗しました。確かに死者が出たことは重大でしたが、サウレの意見では、バルビュエ船長が酔って暴行を働いたのと、「オレロン海法」に規定された船員の権利を侵害したことが騒動の発端であり、サウレは、ラノーによる犯罪行為は無かったと、きっぱりと否認しました。そしてバールも、それに同調しました。流血沙汰の時、ジャン・バールは当直中で持ち場から離れず、その現場は見ていなかったようなのですが、サウレの言うことなら間違いはないだろうと考えたらしいです。無茶と言えばかなり無茶な証言ですが、この二人は、当時の海員として、正義を全うしようとしたと言えるでしょう。しかし、いかんせん多数決なので、否認二人では勝負にならず、ラノーは船長から腕に切りつけられたあげく、死んだ船員とともに海へ投げ込まれてしまった、とのことです。

 この事件の後、「コショングラ」がカレーに入港すると、ジャン・バールとサウレは、さっさとバルビュエ船長におさらばしました。その一方で、バルビュエ船長から事件の報告を受けたカレーの行政官は、サウレとバールの行動を絶賛するとともに、いたく同情もしました。ちょうどこの時、テームズ河口を封鎖中のオランダ艦隊に派遣される(もしくは勝手に押しかける予定の)三人のフランス陸軍士官がカレーに滞在していたので、行政官は、無職となったバールに対して、三人をオランダ艦隊まで送り届けるように依頼しました。そして、この仕事がジャン・バールの人生の大きな転機となるのでした。

 なお、バルビュエ船長の事件は、報告が財務総監コルベールのところまで届き、船長の権限に関する、「オレロン海法」に代わるもっとまともな法律が整備される契機となった、と言われています。


ジャン・バプティスト・コルベール(Jean-Baptiste Colbert 1619-1683)
ルイ14世時代のフランスの財務総監。重商主義者として、フランスの海運業と海軍の発展に尽力した。
ジャン・バールの出世の途にも関わっている。



目次へ



inserted by FC2 system