ジャン・バール

ジャン・バールその1



(画像はwikipediaより)
ジャン・バール
(Jean Bart 1651[注]-1702)
                         [注]:1650年とする資料もある

+: 英雄的私掠船乗り


-: ただの海賊とも言ふ(笑)
 ジャン・バールは、フランスが生んだ最大の海の英雄です。シュフラン、デュゲイ・トルーアン、ブーガンビルなど、フランスにも海の勇者は数あれど、フランスにおける知名度と人気の点では、彼が群を抜いています。

コルセールとダンケルクの小史

 ジャン・バールと言う人を職業で分類すると、「コルセール(Corsaire)」と言うことになります。このコルセールとは、日本では「海賊」とも訳されたりしますが、フランス語では概ね「私掠船」を意味します。よって、本稿では「コルセール」もしくは「私掠船乗りと」言う訳語を用いたいと思います。

 海賊と私掠船の違いはと言えば、海賊(英/仏Pirate 蘭Zeerover)は、要するに戦時平時を問わずに公海上で船を襲うギャングを指します。オランダ語の直截さ(zee海 rover盗賊)が笑えます。
 一方で私掠船(英Privateer 仏Corsaire 蘭Kaper)とは、戦時中もしくは戦争覚悟の状況で、国家もしくは主権君主の権限で発行された免許状によって、敵国船を攻撃する資格を与えられた私有の武装船、もしくはその目的で民間人によって運航される政府所有の軍艦を指します。そしてフランスの場合、「コルセール」の言葉は、この私掠免許状が「lettre de course」と呼ばれていたことに由来しているとされ、記録に残る最古のものは、1144年にサン・マロで発行されたのものだと言われています。そして、彼らフランスのコルセールの活躍があまりに激しかったため、英語でも「Corsair コルセア」として私掠船を指して使われる言葉となりました。
 ちなみに、英語の「コルセア」は、特にフランスの私掠船だけを指すわけでもなく、意味としては、なんとなくイギリス以外の国の私掠船と海賊をごっちゃにした感じで、「コルセア」と「プリバティア Privateer」の使い分けの定義が不明瞭です。例えば、有名なバーバリー海岸の海賊/私掠船は「コルセア」と呼ばれ、オランダの私掠船も時代によっては「コルセア」と呼ばれますが、アメリカ革命戦争時の独立派の私掠船は「Privateer(悪意の表現としてPirateとも)」です。使い分けの定義がいまいちわかりません。
 
 しかしまあ、言葉の使い分けは置いとくとして、これらの私掠船は、敵国の船、もしくは敵国との通商に従事している第三国船など、免許状に規定された船舶を襲撃して利益を得て、その一部(フランスでは10%、イギリスでは20%が一般的)を免許状の発行者に対して収めることで、その資格が保障されていました。私掠免許状を持っていれば、海賊と違って中立国の港にも入ることができるし、敵に捕らえられても戦時捕虜として処遇されて、いきなり「海賊」として犯罪者扱いされることはありません。
 ただ、捕まった場合は、免許状を誰が発行したかが重要でした。船乗りにしてみれば、誰が発行しようと私掠免許状は、自分が海賊では無いという証明(誇りの源泉、もしくは自己欺瞞)です。しかし、例えば歴史上最大の私掠船戦争であったオランダ独立戦争では、ウィレム一世とその弟ルートヴィッヒ・フォン・ナサウ伯爵が「海乞食」に対して盛んに私掠免許状を発行(=ほとんど乱発)して、スペインへの破壊工作と軍資金の確保の一挙両得の作戦を展開していましたが、ウィレム一世発行の免許状は、彼がオランニェ公国の主権君主であるため、スペインとオランニェ公国の間に戦争状態がないにも拘らず有効でしたが、主権君主ではないルートヴィッヒ伯発行のものは法的に無効とされ、その所有者が捕まれば、海賊として処理されました。
 もっとも、こういう法律解釈以外に、免許状で規定された範囲外の船を襲撃して海賊と見なされたり、当事者の判断によって海賊扱いされたりして、私掠船員が処刑されてしまうことは多々ありました。海賊に比べれば確かに安全な方ですが、捕まった場合の命の危険がゼロと言う訳ではないのでした。

 さてジャン・バールは、ダンケルクが生んだ最大の英雄で、町には剣を振るうカッコいいジャン・バールの銅像が立っていたりもします。彼とダンケルク、そしてダンケルクと私掠船は切っても切れない間柄なので、本題に入る前に、ダンケルクと、ダンケルクの私掠船の歴史を簡単に紹介しておきたいと思います。


関係図 (google earthより)

 現在でこそダンケルクは、フランス第三位の港湾都市となっていますが、最初からフランス領だったわけではありません。
 ダンケルクの町がいつ頃創設されたのかはハッキリしていませんが、11世紀初めには、「ダンケルク」の名前で歴史に登場しています。元々は神聖ローマ帝国に属するフランドル伯領でしたが、1520年、スペイン国王カルロス1世にして神聖ローマ帝国皇帝カール5世(1500-1558、スペイン国王1516-1556、神聖ローマ皇帝1519-1556)がフランドル伯を相続したため、スペインの支配下に置かれることになりました。このカルロス1世/カール5世は、他にいくつも公爵位やら伯爵位やらを持っていましたが、その中にはロード・オブ・ネーデルラントの爵位があったので、それまでばらばらの伯爵領だったネードルラント地域(現在のベルギーとオランダ、ルクセンブルグ)を17州に統一して、スペインの支配下に置きました。オランダ独立戦争、およびそれ以後の時代も通じたダンケルクとオランダの敵対関係を考えれば、因縁めいた話です。
 
 やがて1567年、ネーデルランドでオランダ人の対スペイン反乱(オランダ独立戦争、80年戦争)が始まりました。当初、ダンケルクは反乱軍の支配下にありましたが、1582年から、パルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼ(Alessandro Farnese 1545-1592)率いるスペイン軍はフランドル沿岸の制圧作戦を展開したので、最終的に、オステンデを除くフランドル海岸(現在のベルギーとフランス北部海岸の一部)の都市の全てがスペインに占領され、ダンケルクも1582年7月にスペイン軍に占領されました。

 ダンケルクと言う都市は、地図を見ればわかるとおり、ドイツ内陸部への玄関口であるマース河口と、イギリスの玄関口であるテームズ河口のほぼ中間に位置し、戦略的に重要な位置を占めています。そして、名将パルマ公は、ネードルラント派遣軍に対する補給拠点としては勿論、その位置からオランダ(=独立派支配地域)の海上交易ルートを攻撃する拠点としての、ダンケルクの重要性に早くから気が付いていました。
 しかし、ダンケルクの地は、恵まれた立地条件にも拘わらず、19世紀も半ばを過ぎるまで貿易業があまり盛んになったためしがなく、「そこそこ」クラスの港湾都市に過ぎませんでした。恐らくは、元来が小さな領土に属していたため、有力な産業や市場が後背になかったことが原因と思われます。そしてスペインに占領されたこの時、ダンケルクの船主や船乗り達の多くは、まっとうな仕事ではなく私掠船稼業を選び、1583年から、ホラントとゼーラントの船舶を襲い始めました。ネーデルラント摂政としてのパルマ公が、最初に私掠許可証を発行したのが1585年2月なので、その自主性(海賊嗜好?)は、「海乞食」スペイン側版と言えるかも知れません。それまで反乱軍の町だったので、嫌でもスペインに忠誠心を見せる必要があったのかも知れず、理由はいくつか考えられますが、ぶっちゃけた話、漁業や貿易よりも、私掠船稼業の方が性に合ったのでしょう。

 対する反乱軍(オランダ)の私掠船対策はと言うと、重武装な上に価値ある積荷も持たない敵私掠船に対して、味方の私掠船が興味を持たないため、当時の小規模な海軍だけで対処しなくてはなりませんでした。それどころかウィレム一世の下には、(予算獲得の方便くさいですが)賞金につられてオランダ人水夫がダンケルクの私掠船へ奔るため、人件費を増額してくれと言う要請までも寄せられています。そして、オランダ海軍による海上封鎖も効果は上がりませんでした。ダンケルクの私掠船は、普通は数十人程度、多くて100人のクルーで運航される(短期の航海が専らで、場合によっては日帰りもあるので、満員状態でも気にしない)、砂州の多いフランドルの海岸を航行するために喫水が浅い小型の軽快な高速帆船だったので、夜陰にまぎれて容易に封鎖線を突破し、沿岸の商船や漁船を襲いました。オランダ語では、「ダンケルクの私掠船」は「Duinkerker kapers」となりますが、この時代、ただ「ダンケルク船 Duinkerker」だけで、私掠船を意味するようになります。
 
 1587年8月28日、オランダの連邦議会は、ダンケルクの私掠船は全て海賊と見なすと宣言し、オランダの艦船に対して、捕虜は全て海に叩きこむように命じました。この命令はオランダの船乗りには大不評で、「足を洗う権利 recht op voetspoeling」と皮肉られました。当時でもこれは、過度に残虐で、一線を越えた命令でしたが、連邦議会としては、ダンケルク船の被害に対して強い態度を見せる必要に迫られていたのです。ダンケルクの当局者もこの命令に対抗して、私掠船の船長にオランダ人捕虜の殺害を命じました。

 双方ともに、命令を守った者は少数でした。オランダ海軍にしてみればルールに反することであるし、ダンケルクの私掠船にしても、身代金が取れる捕虜を殺害することは無益であり(オランダの「海乞食」達が、スペイン人捕虜の殺害をさほど躊躇しなかったのとは対照的です)、また相手の必死の抵抗を招くために危険が増すものと考えられました(私掠船にに狙われた商船は、敵より武装が勝っていても大抵はあっさり降参します)。ただ、それでも捕虜の殺害や海賊としての処刑が頻繁に行われたので、この命令のため、戦いがその残虐さを増したのは間違ありません。
 しかしながら、基本的に弱い者いじめの私掠船乗りより、海軍軍人のプロ根性が勝っていたのか、次第にダンケルクの私掠船の活動は圧迫されてゆきます。また、オランダとイングランドの間で同盟関係が確立されると、ダンケルク船の攻撃リストにイングランド船が加わった反面、イングランドの軍艦もダンケルク船を狩るようになりました。

 1599年、ダンケルク市当局は、ジェノアの名家スピノラ家の一員で、ガレー船で鳴らした傭兵、フェデリゴ・スピノラ(Federigo Spinola ?-1603)を6隻のガレー船とともに雇い入れました。本来なら、乾舷の低いガレー船は、波が荒い北海での運航には不向きで、危険です。実際スピノラの船団では、波をかぶって沈没寸前になる事故も発生していますが、しかしそれでも、風に頼らずに済むその機動性はオランダ艦隊を翻弄し、大きな戦果をあげました。そして、ガレー船を漕ぐ捕虜が不足を来しますが、オランダ人捕虜を使うことにも不安が多かったため、わざわざハンガリーからトルコ人の奴隷を導入してまで、ガレー船に力を入れました(志願者を使う発想はなかったようです。ガレー船漕ぎは多くの人手が必要で、志願者を使うと人件費が急増するのが理由と思われます)。
 とは言え、翌1600年にオランダ海軍がガレー船を投入すると、戦局はまた逆転。1603年、フェデリゴ・スピノラは、封鎖の突破に失敗して戦死しました。ちなみに、フェデリゴ・スピノラの兄アンブロッジョ・スピノラ
(Ambrogio Spinola 1569-1630)は、同じく傭兵の頭目であり、ベラスケスの名画「ブレダ開城」で有名な、名将の誉れ高き人物です。アンブロッジョは、1602年からスペイン王国と契約して、自腹で編成した軍隊を率いてオランダ軍と戦いました。彼は休戦明け後も戦いましたが、当時のスペインのようなデフォルト国家と契約したのが運の尽き(政争でジェノアを追われた立場としては、契約せざるを得なかった?)、アンブロッジョは傭兵としての報酬をほとんど払ってもらえず、結局、銀行業を営む富豪の伯爵だったスピノラ家は破産してしまいました。
 
 やがて1609年、スペイン-オランダ間で12年の休戦が発効しました。ダンケルクの私掠船はこれ以後も、ちょくちょくとスペインの敵を攻撃してはいますが、この休戦によって、その活動は大幅に縮小しました。でも、言うまでもないことですが、1621年3月の休戦明けとともに、再び活動が活発化。オランダ海軍もまた、その対策に忙殺されます。そして、この対私掠船任務において、オランダ海軍の三大エースたるマールテン・トロンプ、ヴィッテ・デ・ウィト、ヤン・エベルトセンが頭角を現しました。
 一方のダンケルクの私掠船乗りの有名人には、配下の船団で大小600隻以上の船舶を拿捕/撃沈したジャック・バンデワレ(Jacques van de Walle 生没年不詳)、200隻近いオランダ漁船を捕らえたヤコブ・コラール(Jacob Collaart ?-1637 1636年にヤン・エベルトセンに捕まったが釈放後に病死)、そして、ジャン・バールの母方の曾祖父で、「海のキツネ le Renard desmers」の異名を取ったミシェル・ヤコブセン(Michel Jacobsen 1560-1632)と言った面々がいます。

スペイン王
室船
私掠船
1626/7
45
49
1628
52
88
1629
55
152
1630
27
196
1631
38
161
1632
26
252
1633
19
145
1634
8
106
合計
270
1149
ダンケルク船によって拿捕されたオランダ商船の数。王室船は、私掠許可証を持った民間人によって運行されていた王室の船を指す( Alex Ritsema
著 Pirates and privateers from the low countriesより)
 
 上の表は、1626年から34年までの、ダンケルクの私掠船に拿捕されたオランダ商船の数を示していますが、最盛期には1-2日に一隻のペースで商船が拿捕されていたわけで、以下にダンケルカーが猛威を振るったか分かります。しかも、この表の数字が示すのは、あくまで拿捕賞金が支払われた商船の数であり、漁船と、拿捕されずに破壊された商船は含まれて居ないため、実際の被害はもっと多いはずです。

 しかし、オランダ海軍の強大化と、フランスの参戦(1635)により、例によってスペインは劣勢に立たされます。同時にダンケルク船の活動も圧迫されて行き、ついに1646年、トロンプ率いるオランダ艦隊が海上から支援する中、フランス軍がダンケルクを占領。スペインの免許状によるダンケルク私掠船の活動は、ここに終焉を迎えました。
 そして1648年、三十年戦争(1618-1648)の解決と併せて、スペインはオランダの独立を承認、またフランスとスペインも休戦して、ダンケルクは、いわば「休戦ラインの向こう側」と言うことでフランスの支配下に残りました。その後ダンケルクは、そのまま仏領として現代に至る…、なんてことはありませんでした。フランス領に落ち着くまで、ダンケルクはまた、何度かその支配者を変えることになるのです。
 
 フランス・スペイン間の休戦はすぐに破れました。詩人風に言えば、「三十年戦争の硝煙も晴れない」その1648年、フランス国内では内戦が勃発しました。いわゆる、「フロンドの乱」(1648-1653)です。みんな節操がないと言うか厚顔無恥と言うか、反乱軍の指導者であるコンデ親王ルイ2世・ド・ブルボン(Louis II de Bourbon,prince de Conde, 1621-1686)はスペインに同盟を持ちかけ、スペインもほいほいとそれに乗っかったので、またまたフランス・スペイン間の戦争が再開しました。そして1652年、スペイン軍はダンケルクを奪回しました。

 ところが1655年、スペインとイングランド(当時はクロムウェルのコモンウェルス)の間で戦争が始まり、1658年、奇怪な国際政治が生んだ英仏合同軍+多数のオランダ人傭兵が、亡命中のコンデ親王率いるスペイン軍を破り(砂丘の戦い Battle ofDunes)、ダンケルクはイングランド領となりました。

 しかし、フランスの財務総監にしてフランス海軍の父と称されるコルベール(Jean-Baptiste Colbert 1619-1683)は、かねてからダンケルクの戦略的価値に目をつけていました。そしてイングランドで王政復古がなると、イングランドに対してダンケルクの購入を持ちかけました。その結果1662年10月17日(旧暦)、イングランドは320,000ポンドでダンケルクをフランスに譲渡し、ここにようやく、ダンケルクはフランス領に落ち着いて、現代に至ります。


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