へっぽこじゃないぞ フランソワ・スルットその3

スルット、ようやく悪運を払う

 スルットはイェーテボリに暫く滞在して、打ち続く荒天に痛めつけられた「ベルイル」の整備を行いました。

 1758年5月12日、スルットはイェーテボリから出港しました。前年に、大した利益も無いまま荒天の中を引き
ずりまわされた「ベルイル」の乗員の士気は、低下しきっていました。ここで獲物が無ければ、既に相当危うくなっ
ていたスルットの立場は、あっさり吹っ飛びかねませんでしたが、今回の航海ではようやく幸運に恵まれました。
 5月17日から22日までの間に「ベルイル」は、沿岸航路の石炭輸送船5隻「William and Charles」「Martha」
「Prudent Mary」「Friendship of Sunderland」「Russia」を拿捕しました。

 5月26日、スルットはフォース湾の入り口で4隻の船団を視認しました。商船だと判断したスルットは接近しまし
たが、世の中そんなにうまくは行きません。その内2隻は護衛のフリゲート「Dolphin (24)」「Solebay (28)」であ
り、それに気がついたスルットは急いで逃走を図りましたが、フリゲートの方がずっと高速だったので、追いつか
れて戦闘になりました。
 2対1で両側から挟まれた上に、5隻の獲物の回航で人手が減っていた「ベルイル」は、厳しい戦いを強いられ
ました。しかし、ここでもスルットは幸運であり、奮戦の結果か、まぐれ当たりかはともかく、フリゲート二隻とも航
行不能にした上に、「Doiphin」の艦長は戦死させ、「Solebay」の艦長にも重傷を負わせたあげく、夜の闇に紛れ
て追跡を振り切る事が出来ました。
 しかし、「ベルイル」の方も、派手に被弾したうえに戦死19負傷34の損害を受けたため、ただでさえ人手が減
っていたスルットは、修理と人員の補充のため、航海を中止してベルゲンに向かいました。
 この当時、私掠船が中立国で人を雇うのは、わりと普通の事でした。特にフランスの場合、中立国の北欧出身
者は勿論、敵対国であるイングランド人も、相当な数がフランスの私掠船で働いていました。カソリック信仰とか
スチュワート王家支持で英国を追われた、という人も居ない事は無いでしょうが、多くは、イギリス式の強制徴募
のキツイ海軍勤務を嫌い、外国で就職口を求めたクチでしょう。フランスのコルセールとしても、例え敵国人であ
れ、経験のある船乗りを歓迎していました。

 さて、ベルゲンへ向かうことにしたスルットですが、その途中で、イギリスの小型高速スクーナーを拿捕しまし
た。そのスクーナーが気にいったスルットは、そのスクーナーを「Homard」と命名し、連絡船として使うことにしま
す。
 ベルゲンで「ベルイル」をドック入りさせたスルットは、時間を無駄にすまいと、大砲の一部を移した「Homard」
を、自ら指揮して航海に出ました。そして、デンマーク近海で2隻の英商船を拿捕すると、6月4日にベルゲンへ
戻りました。

 その後「ベルイル」と「Homard」を率いてベルゲンを出港したスルットは、またも幸運に見舞われました(と言う
か、商船がバルト海へ向かう時期だったのが良かった)。
 戦闘で「ベルイル」は死者1、負傷3の損害が出ましたが、小型船が中心とは言え、3週間ほどの間に10隻も
のイギリス商船を拿捕する大戦果をあげます。ここで、めでたくも回航の人手が無くなるという嬉しい悩みを抱え
たスルットは、獲物を「Homard」とともにフランスへ向かわせ、自身と「ベルイル」は、ノルウェー南端のクリスチャ
ンサンに入港(6/27)して、「Homard」が回航員を乗せて戻って来るまで待機しました。

 7月12日、「ベルイル」はクリスチャンサンを出港しますが、翌日の早朝、商船17隻と護衛2隻からなるコンボ
イに遭遇しました。
 ここでスルットは、「ベルイル」で強引にコンボイで突っ込んだとも、はたまた、護衛に追いかけられたとも言わ
れますが、どちらにせよこのコンボイと戦闘になり、「ベルイル」は索具に損傷を受けたうえに、死者4負傷12の
損害を出しました。そして、夜の闇と大雨による視界不良、そして灯火をともしたボートを流して敵の注意を引き
つける計略でどうにか追撃を振り切りました。
 そして14日の夜明け、イギリスのブリッグ「George and Joseph」(←前日のコンボイから脱落していた船と言
われる)とばったり出くわしてこれを拿捕。さらに、同日の夕刻にも「Blankney」というイギリス商船を拿捕しまし
た。
 翌15日、「ベルイル」はまたも三隻のイギリスフリゲートに遭遇して追跡されました。スルットは、付近が警戒厳
重になったと見ましたが、まだフランスへ帰るつもりは無く、イギリスの警戒のウラをかくつもりで北上し、給水の
ついでに、スコットランド北部、フェロー諸島にしばらく隠れました。

 8月10日にフェロー諸島を出港したスルットは、スコットランド西部海域を狙いました。8月18日には2隻のブ
リッグ「John」「Truelove」を拿捕しています。
 そして、ここいらで食糧不足を感じたスルットは、8月31日、アイルランド北岸のラフスウィリー入江に入ると、
食肉用の家畜を買うため、町にボートを送りました。英国暮らしが長く、外国人とは分からない英語を話せる、ス
ルットならではの大胆さです。
 ボートの士官は、ばったり出くわした農夫に羊12匹を売ってくれと頼みましたが、群れ全体でしか売れないと断
られました。そこで士官は、取りあえず12匹分の代金を払って羊を受け取ると、残りの代金は船長が払うと言っ
て、農夫を「ベルイル」に連れて行きました。
 こうなると農夫を釈放するわけにもいかず、かと言って、農夫の行方不明が騒ぎを起こすのも目に見えていた
ので、スルットは農夫を拘束して、直ちに出港しました。

 スルットが敵地で補給してまで、スコットランド西岸に留まったのは正解でした。この海域の警戒は緩く、10日
ほどの間にイギリス船3隻を拿捕。これらは、砂糖、磁器などの高価な貨物を運んでいました。加えて、イギリス
海軍に拿捕されて回航中のオランダ商船「Admiral Ruyter」を拿捕。このオランダ船もまた、砂糖、コーヒー、藍
など高価な積荷を積んでいました(オランダは中立国なので、貨物と船体の所有権についてはビミョーです)。
 なかなか大戦果ですが、ここで捕虜が270人に達したうえに、獲物の回航で「ベルイル」の人手が減ってしまっ
たので、スルットは直ちに一番近い中立国の港であるベルゲンに向かうことにしました。

 9月13日、「ベルイル」はベルゲンに入港。捕虜を上陸させ、船体の整備を行いつつ、「Homard」と合流するま
で1ヶ月ほど、ベルゲンに滞在しました。その後、冬が来る前のもうひと稼ぎで、イングランド東岸でイギリス商船
2隻を拿捕すると、戦果に満足したスルットは、フランスへ帰国することにして、ボーローニュ目指して南下しまし
た。
 しかし、イギリス海軍の監視が厳しいと知るや、スルットは、当時は同盟国オーストリア領だったオステンド(現
ベルギー)を目指し、1759年の1月初めにオステンドに入港。スルットはこの地で報酬を支払って「ベルイル」を
解役してから、報告のために陸路でパリへ赴きました。

スルット、ぐだぐだの中で討ち死にす

  さて、スルットが北海をうろついていた1757年から58年にかけて、本国フランスでは、サン・マロ、ロシュフォ
ール、シェルブールと言った大西洋岸の都市が、イギリス軍の攻撃を受けました。これらは大規模な上陸作戦も
伴っていましたが、純粋に戦闘の勝ち負けと言う点で言えば、イギリスの失敗が目立ちました。
 しかし、これは、苦戦が続くプロイセンを支援するための「第二戦線」であり、成功しなくてもよかったのです。実
際、フランス側としては、大西洋岸に大規模な陸軍部隊を配置せざるを得なくなるとともに、イギリスが制海権を
押さえている以上、どこにでも大部隊を送り込んで来られるという、不愉快な現実を突きけられたのです。

 そしてスルットが帰国した時、当時の宰相(正確には宰相格の大臣)ショワズール公爵(Etienne-Francois de
Choiseul、1719-1785)の主導により、フランスの英本土上陸作戦の準備が進められていました。
 ショワズール公の主導する上陸作戦計画では、ル・アーブルに10万人の兵士を乗せた船団を集結させ、そこか
らポーツマスを狙う、同時にスコットランドに小部隊を派遣し、ジャコバイト(スチュワート王家支持者。スチュワー
ト王家はスコットランド出身なのでスコットランドに多い)の反乱を扇動し、イングランドを南北から挟撃する、とい
う作戦でした。

 そんな中でスルットは、海軍大臣に対して、スコットランド北部や北アイルランドへの上陸作戦を提案しました。こ
の提案は、当のスルットが、気軽にスコットランド北部や北アイルランドの入江に入り込んでいたことから、十分
に実現可能だと受け取られましたし、準備中の英本土上陸作戦の陽動作戦とも合致していました。
 フランス宮廷では、イギリス本土上陸作戦そのものに反対論が根強かったのですが、そこはベルイル伯の影響
力があったのと、実際の航海経験が買われ、スルットはフリゲート艦艦長(Capitaine de frégate)に進級の上
に、陽動作戦の指揮官に任命されたのでした。

 さて、肝心の上陸作戦はと言うと、上陸用船団の建造はけっこう順調に進んでいたのですが、陸軍部隊の集結
に手間取ったり、ジャコバイトの反乱を扇動するにあたって、スチュワート家当主のチャールズ・エドワード・ステ
ュアートを担ぎ出すかどうかで揉めたりして、作戦準備は遅れに遅れました。そうしているうちに、まずル・アーブ
ルが英海軍の攻撃を受け、多数の輸送船が破壊されました(1759.7.3-5)。おまけに、「ラゴス沖海戦」(1759.8.18
-19)で、フランス地中海艦隊が大敗、壊滅的打撃を受けました。
 こうなると、上陸作戦の成功そのものがだいぶアヤしくなってきます(と言うか、最初から怪しい)。そこで、まず
はスコットランドに部隊を送り、陽動作戦の成否を判断してから、主作戦を発動しようということになりました(な
お、当人が乗り気ではない事もあって、チャールズは担ぎ出さないことになった)。

 かくして1759年9月5日、フランソワ・スルットは、戦隊を率いて遠征に出発するよう命令を受けました。
 彼の戦隊は、おなじみのベルイル「ベルイル Marechal de Bell-isle(44)」以下、「Begon(36)」「Blonde(32)」
「Terpsichore(26)」のフリゲート4隻、コルベット2隻「Amarante(18)」「Faucon(18)」の計6隻からなり、さらに、
近衛連隊からの分遣隊も含む1200-1300人の陸軍部隊が乗り組みました。
 陸軍部隊を指揮するのは、ベテランの貴族軍人ド・フロベル准将(de Flobert 不詳)。陸軍部隊の規模から言っ
て、将官級が指揮に当たるのはおかしくないのですが、問題は、年齢、軍歴の長さ、階級の全てでスルットよりも
はるかに上のド・フロベル准将が、現代の佐官相当でしかないスルットの指揮下に置かれたことです。このこと
は、感情的対立を招き、遠征をぐだぐだにしてしまいました。

 封鎖線の突破に必要な荒天を待って待機した後、1759年10月15日、フランソワ・スルットはダンケルクを出
港し、最後の航海へと旅立ちました。ちなみにこの1ヶ月前の9月15日、スルットには娘が産まれていました。恐
らく、娘とともに暮らした時間はほとんどなかったでしょう。出発の命令を受けたのは9月5日でしたから、下手を
すればスルットは、生まれた子の性別すら知らずに死ぬ破目になったかもしれません。

  さて、封鎖線の突破に成功したスルットは、その日の内にオステンドに入港すると、地元の新聞社にこれから
スコットランド北部に向かうと言う手紙を送りつけました(そして、実際に記事になりました)。まことに大胆な行動
ですが、陽動作戦と言う性質を理解した上での行動でしょう。新聞予告するまでもなく、フランスの作戦計画は概
ねイギリスに漏れていたことには(だからこそ、ダンケルクに封鎖部隊が現れたのです)、ツッ込まないでおきまし
ょう。
 
 10月18日、スルットの戦隊はオステンドを出港しましたが、まずはスウェーデンのイェーテボリへ向かいまし
た。道すがら2隻のイギリス商船を拿捕しつつ、スルットの戦隊は22日にイェーテボリに入港。そこで11月14日
まで滞在して情報収集に努め、また、連絡船「Homard」とも合流しました。
 その後、スルットの戦隊は荒天をついて北上しました。しかし、この荒天ゆえに、フリゲート「Begon」とコルベッ
ト「Faucon」が損傷し、フランスへ帰投を余儀なくされました。このため、陸軍部隊の数も減ってしまいます。
 それからスルットの戦隊は、離散した場合の集合点であったベルゲンに入港し、そこで12月5日まで待ったあ
と、いよいよイギリスへと向かいました。

 しかし、例によって嵐にもまれる航海の果てに、12月28日にたどり着いたのは、中立国デンマーク領フェロー
諸島は、ストレモイ島(Streymoy)のヴェストマンナ(Vestmanna)。
 この時、スルットの戦隊は食糧不足に陥り、配給を制限していました。だからスルットは、ここで食糧を調達しよ
うとしたのですが、何と言っても、人口希薄な地であるため、事態を解決できるほどの食糧を調達することはでき
ませんでした。
 そしてもっと悪いことに、この地でついに、スルットとド・フロベル准将が衝突しました。

 当時にあっては、軍艦に限らず、どんな船でも居住環境は劣悪でした。プロの船乗りがどうにか我慢できるくら
いのレベルですから、海上経験のない陸軍兵士が、船の居住環境をどう感じるかは、推して知るべしです(しかし
それでも、フランスの軍艦はイギリス艦よりも居住性は良かったようです)。
 おまけにこの時は冬の嵐。プロの船乗りですらうんざりするものです。かてて加えて食糧不足と来たので、陸軍
に不満がたまらないはずはありません。陸軍部隊の士気はこれ以上にないほど低下し、病人も続出していまし
た。
 この状況を見かねたド・フロベル准将は、作戦は中止すべきだとスルットに提案しました。しかしスルットは、食
糧は英国領を襲って調達する、作戦は続行と反論しました。そしてさらに、部下に対する扱いが酷いと訴えた陸
軍士官(←少なくとも、陸軍の基準では酷いと感じた)を、スルットが相談なく譴責処分にしたことから、メンツをつ
ぶされたと感じたド・フロベル准将がついにブチきれ、スルットを逮捕すると騒ぎだしました。
 だいたい、当時は庶民だ貴族だとうるさいうえに、特にスルットは密輸商人あがりだということで、ド・フロベル准
将にはことさら不信感と蔑視があったようです。
 とは言え、国王の命令書が、明確にスルットを指揮官としていたことで、ド・フロベル准将はしぶしぶながら矛を
収めましたが、これでスルットと准将の対立は決定的なものになります。

 さて、そんなこんなで、フェロー諸島で天候が回復するのを待つうちに、年が明けました。スルットの戦隊がフェ
ロー諸島をようやく出港したのは、1760年1月24日(26日とも)。
 順風のおかげで航海は順調であり、1月30日には北アイルランドを望む海域まで到着しましたが、すんなりア
イルランド上陸…とはいきませんでした。またも戦隊は嵐に襲われ、外海へと吹き流されました(こんなのばっか
り)。そんでもって、スルットがブリテン島に再接近したのは2月10日頃でした。
 この間、ついに陸軍部隊の反乱が発生します。いつ騒動が起こったのかは、資料によってまちまちなのです
が、事実らしいことだけを述べれば、集合を命じる「ベルイル」の信号を無視して、コルベット「Amarante」が、トン
ズラしてフランスへ帰国しました。単に嵐ではぐれただけという話もありますが、なんであれサン・マロで座礁して
沈没したらしいです。残る「Blonde」と「Terpsichore」も信号を無視したため、スルットが「ベルイル」を接近させ
て、命令に従わねば撃沈すると脅して、艦長達を呼び出したということです。

 二隻の艦長が言うには、陸軍士官達が反乱を起こし、フランスに帰国するよう脅迫しているとのことでした。「ベ
ルイル」に集められた士官達が、事態収拾のためワイワイ騒いでいる中、ド・フロベル准将がまたもブチ切れて、
今度はスルットのみならず、海軍士官全員を拘束して指揮権を奪おうとしました。
 本当のところはわからないのですが、スルットは、自分を逮捕しようとやってくる兵士にピストルを向けて追い払
ったとのことです。なんであれ、これは極めて危機的な状況でした。「ベルイル」の乗組員は、なんだかんだあって
もスルットを信頼している1758年からの者が大半だったので、船長が捕まったとなったら、黙ってはいなかった
でしょう。
 一方、ド・フロベル将軍以外の陸軍士官達は、さすがにそのような過激な行動には賛成せず、みんなでド・フロ
ベル准将を説得しました。そしてスルットは、「ベルイル」の全乗員を甲板に集合させると、彼らの前で、作戦の指
揮官がスルットであることを明記した国王の命令書を読み上げ、ド・フロベル准将をまたもやりこめました。その
上で、各艦長に命令書の写しを配布して、海軍側の権威を明確にすることで、反乱を抑えたということです。なか
なかのリーダーシップです。とは言え、食糧不足で、一日パン5-8オンスに制限されている状況では、どこへ行く
にも食糧が足りず、もはや敵地に食糧を求めるしかない、という状況も説明しました(笑)。
 ド・フロベル准将は、またもしぶしぶと矛を収めましたが、こういう事態を招いたのは、スルットがあちこち寄り道
して時間を空費したことが原因だとして、フランスに帰国したら正式に告発すると言いました。実際、食糧不足に
関しては、スルットの計画が杜撰だったと批難されても仕方がありません。

 とは言え、とにかく反乱鎮圧に成功したスルットは、戦隊をスコットランド西岸に向かわせました。2月10日、穀
物を輸送していた商船を拿捕しましたが、食糧不足の解決には焼け石に水でした。そこでスルットはヘブリディー
ズ諸島の一つ、アイラ島に上陸部隊を送り、食糧を購入しようとしました。フランス当局がジャコバイトの反乱に
望みをかけていたため、スコットランドで略奪することはできなかったからですが、取引を拒否されたので、結局
は、無理やり家畜と穀物を奪い、代金を押し付けることになりました。
 この後、「ベルイル」と「Blonde」が座礁したため、一部の重砲を海に捨てる破目になりました。ここで火力が減
じたことが、後の海戦で命取りになったのかもしれません。

 さて、ヘブリディース諸島でようやく、スルットは「キブローン湾海戦」でフランス大西洋艦隊が大敗を喫し、英国
本土上陸作戦が、異次元の彼方に吹っ飛んだことを知りました。その反面、イギリス側は、陽動部隊(←つまりス
ルットら)も作戦を中止しただろうと考え、警戒を緩めていることも知りました。
 スルットはこれを好機として、積極的に行動すべきと考え、防備が貧弱で、かつフランス軍捕虜の収容所がある
というベルファストを攻撃して、食糧の確保と捕虜の救出を行おうと考えました。そして、色々と文句の多いド・フ
ロベル准将も、どうやら同じ考えに至ったようです。艦の離散や逃亡、それに病人続出で、陸軍部隊はすっかり
数が減り、士気も下がりきっていましたが、とりあえず戦う意志はありました。
 スルットは、最初はベルファストへの敵前上陸を考えていたようですが、さすがに無理があるということで、実際
の上陸地点や進軍ルートについては、ド・フロベル准将の意見を採用しました。
 
 そういうわけで、スルットの戦隊はクライド湾を出て南西に向かい、その途中で大型船「Ingram」を拿捕しまし
た。積み荷はオレンジとワインで、おかげでスルットの戦隊は、食糧不足の中でも壊血病の心配はしなくて良くな
ります。

関連地図 (google earthより)

 2月20日、スルット戦隊はベルファスト湾口に到着しました。そして、ド・フロベル准将率いる陸軍兵士600人
と大砲4門は、全く抵抗を受けることなく、ベルファストの北東十数kmのキルルートの町に上陸すると、直ちにキ
ャリクファーガスへと進軍しました。
 対するキャリクファーガスの守備隊は、民兵主体の200人ほどで、大砲も無かったようですが、果敢に防戦し、
フランス軍の二回の突撃を撃退します。しかし、弾薬不足でもはやこれまでと、守備隊は休戦を願い出て、降伏
条件の話し合いとなりました。
 交渉の結果、キャリクファーガスは、指定する数量の食料品をフランス側に提供する、守備隊は武装したまま
城と町から退去するが、その名誉の代償として、現地で拘束中のフランス軍捕虜を釈放する、という降伏条件を
呑みました。
 この戦闘での損害は、英守備隊のが死者4負傷12、フランス側は死者19負傷34。これが多いか少ないかは、
何とも判断しかねますが、ド・フロベル准将が、不平が多かった割には勇敢に陣頭に立って、脚に銃弾を受けて
重傷でした。

 かくして、上陸部隊はキャリクファーガス占領に成功しました。スルットは、直ちにベルファストへ進軍するように
命じ、同時に重傷のド・フロベル准将の交代を指示しました。
 しかし、ド・フロベル准将はその命令に抵抗し、降伏条件が履行されるまではキャリクファーガスから移動する
つもりはないと言います。准将は、既に警報が発せられているだろうから、ベルファスト攻撃の成算は低いと見て
いました。また、公平に言って、食糧も確保したし、キャリクファーガス守備隊と同数という条件付きながら、フラ
ンス軍捕虜の釈放も勝ち取っていたので、無理にベルファストを攻撃しなくても、目的は既に達成していたと考え
るべきでしょう。
 しかしながら、スルットとド・フロベル准将が争っているうちに、当たり前ですが、イギリス軍の反撃が始まりまし
た。イギリス側は混乱していて、キャリクファーガス占領は陽動で、フランスの主攻撃がアイルランド南部に向け
られるという憶測も流れていたので、大軍が向かって来るということはありませんでしたが、それでも、陸軍の増
援と、近海のフリゲート戦隊がベルファスト湾へと向かいます。

 結局、スルットはベルファスト攻撃をあきらめ、上陸部隊を収容して出発することにしました。この際、人質とし
てキャリックファーガス市長と地元の名士3人を連行しましたが、ド・フロベル准将も含む重傷者は、航海に耐え
られないということで市内に残され、英軍に降伏しました。

 そんでもって2月27日、スルットの戦隊はベルファスト湾を出て、その対岸のルース湾の湾口に移動しました。
しかし、イギリス側は、スルット戦隊の目的地を察知していたようであり、2月28日、停泊中のスルット戦隊は、
先任艦長ジョン・エリオットが指揮する「Æolus (エリオット艦長の艦 36)」「Pallas (32)」「Brilliant (32)」のフリゲ
ート三隻からなる戦隊に急襲されました。

 スルットは、陸兵の多さを頼みに、接舷、切込みで敵を圧倒しようと考えたようです。そして、「ベルイル」を「Æ
olus」に向かって突進させ、片舷斉射でバウスプリットをへし折られつつも接舷しようとします。しかし、「Æolus」か
らのマスケット銃の斉射を受け、スルットは腹に被弾して戦死しました。享年33歳。
 この後、もう一度片減斉射を食らった「ベルイル」は降伏、「Æolus」に拿捕されました。陸兵で過密気味だった
ことに加えて、突入のため甲板に人を集めていたことが災いしたのか、「ベルイル」の損害は、死者だけで160人
に達したということです。対する「Æolus」は、死者4負傷11でした。
 また、戦意なく逃走を図った「Blonde」と「Terpsichore」は、これもあっさりと拿捕されてしまい、ここにスルット
の戦隊は全滅しました。

 スルットの遺体は、他の戦死者ともども水葬に伏されましたが、陸の近くのことなので、遺体はすぐにマル・オ
ブ・ギャロウェイ岬に打ち上げられました。
 そして、敵ながら天晴な船乗りということで、地元の領主、サー・ウィリアム・マックスウェルが喪主をつとめる
中、スルットは栄誉礼でもって葬られました。
 そして、スルットと親交のあったイギリス人、ジョン・フランシス・デュラント牧師は、スルットを追悼するためなの
か、早くも1760年6月にスルットの伝記を出版しました。残念ながらこの伝記、明らかに急ぎ仕事な上に、開戦
以来、デュラントとスルットは当然ながら疎遠になっていたため、スルットがイギリスに住んでいた時期以外のこと
以外に関しては信用できない内容ですが、「こんな立派な敵もいた」ということで、それやこれやで、スルットはイ
ギリスの方で有名であり、フランスではかなりマイナーな存在です。

 勿論フランスにおいてもスルットは、敵国に上陸を果たした英雄でした。しかし、その名声も一時的であり、はっ
きり言って今も昔も影は薄いです。(時代が変わったとは言え)スルットの軍艦との交戦に消極的な姿勢は、ジャ
ン・バール、トルーアン、カサールらに比べて、確かに、英雄的華々しさを欠く要因なのは否めません。
 実際、現在のフランス海軍には、スルットの名を冠した軍艦はありません。昔はあった…と私は思っていたので
すが、うろ覚えだったので、改めて調べてみれば、過去の軍艦、少なくとも戦闘艦には見当たりません(汗)。まだ
支援艦艇は調べていませんが…。
 時代が近い、王政末期からナポレオン時代のフランス海軍には、ジャン・バール、トルーアンなどの名を冠した
軍艦が既に登場していますが、スルットの名前は見当たりません。そして、明らかにスルットよりも戦果の無い提
督の名前があったりするので、彼のフランスでの評価はその程度、と言うことなのでしょう。
 経済的に苦しんでいたスルットの遺族に対する政府の支援もなく、1790年になって、やっとスルットの娘に対
して年金が支給されました(それも、軍功のためではなく、いつぞやの密輸船騒動の賠償のような形でした)。

 さて、こういう「もしも」を持ち出すのは意味のないことですが、もしスルットが、ルース湾の戦いを生き延びてい
たらどうなったでしょうか? 
 僚艦2隻の戦意の無さもあって、まずスルットが捕虜になったのは間違いないでしょう。脱走の前科もあります
から、多分、監視は厳重であり、七年戦争中は捕虜収容所で過ごす破目になったと思われます。
 しかし、年齢的に言ってアメリカ革命戦争に参加することは十分可能だったはずです。そうなると、経験から言
って、間違いなく、かのジョン・ポール・ジョーンズの遠征に参加していたと思われます。これは面白い想像ではあ
りますが、しかし、伝説の「フラムボローヘッド沖海戦」は、ジョーンズとスルットの連係プレーであっさりと勝ってし
まい、ジョーンズの名言は生まれなかったかも知れません。なお、ジョーンズの名言事態がアヤシイことには突っ
込まないで下さい(笑)。
 

表紙へ

inserted by FC2 system