へっぽこじゃないぞ フランソワ・スルットその2

七年戦争

 さて、スルットが獲られた船を取り戻そうとしている間に、北米での国境を巡る英仏の衝突と、シュレジエンを巡
るオーストリアとプロイセンの衝突があわさって、北米からインドまでを戦場とする大戦争が勃発しました。後の
世に言う「七年戦争」です(当時はドイツ戦争とか呼ばれていたらしい)。

 既にオーストリア継承戦争について長々書いてしまったので、七年戦争については簡単に済ませますが、その
七年戦争の開戦に前後して、オーストリア継承戦争では敵対したイギリスとプロイセンが同盟関係になり、その
一方で、長く抗争を続けて来たオーストリアとフランスが同盟関係になりました。
 これらはヨーロッパ国際関係の一大転機となり、「外交革命」と呼ばれます。またこの影響によって、基本的に
反仏のドイツ諸邦が反オーストリア気運を強めたり(結果として、ドイツ統一運動からオーストリアがハブられるこ
とにもつながる)、長らくイギリスの同盟国だったオランダが中立を維持するようになるといった事態も発生しまし
た。

 「外交革命」には、各国にだいたい以下のような事情が背景にありました。
イギリスの事情
1. オーストリア継承戦争の結果、オーストリアは同盟相手として頼りないと見た。

2. それまでは、ヨーロッパ内でのフランスの拡張主義(大同盟戦争やスペイン継承戦争)が対立要因だったのに対し、この時は、遠く北
米はカナダでの領土争いがフランスとの対立要因であり、ぶっちゃけて言えば、シュレジエンがプロイセン領でもオーストリア領でも、ど
っちでも良くなっていた。

3. フランスとの対立激化により、ハノーヴァー選帝侯でもある英国王ジョージ2世としては、故郷ハノーヴァー選帝侯国をフランスの攻
撃から防衛する同盟国が必要だった。また、政府部内においても、北米での戦闘に集中するため、同盟国の存在によってドイツでの戦
争を抑止したいと考えがあった。

4. プロイセンはフランスの同盟国であるうえに、イギリスは、フリードリヒ2世がハノーヴァーに領土的野心があると見ていた(シュレー
ジエン戦争での難癖の付け方からして、このような見方をされるのもフリードリ二世の自業自得だし、ジョージ2世とフリードリヒ2世
は、叔父甥の関係ながら仲が悪かった)。そこで、プロイセンを牽制すべく、反プロイセンのロシアと交渉し、戦争になった場合は年50
万ポンドの資金援助と引き換えに、プロイセンを攻撃するという条約に調印した(1755.9.19 条約の名前は分からない)。

5. しかし、4.の条約にはロシアのエリザベータ女帝が慎重で、批准が1756.2.1まで遅れた。このため、イギリスはプロイセンに直接ア
プローチして、プロイセンとの間で条約を締結した(ウェストミンスター条約 1756.1.16)。プロイセンを警戒してイギリスとの条約を批准
したエリザベータ女帝は、このイギリスの動きを知って怒り、オーストリアに接近する。
プロイセンの事情
1. シュレージエンに対するオーストリアの返還要求に脅威を感じた。

2. フランスと同盟していたが、フリードリヒ2世はフランスを信用していない。またフランスの方も、北米でのイギリスとの対立に集中す
るため、ドイツでの抗争には巻き込まれたくなく、1756年5月期限のプロイセンとの同盟更新には消極的だった。

3. そんな中、イギリスがロシアと同盟関係になるが(イギリスの事情4.)、これを重大な脅威と見たフリードリヒ2世は、イギリスとの同
盟を望むようになり、英普双方の方針が一致して、ウェストミンスター条約締結の運びとなった。
 この条約により、プロイセンがハノーヴァー選帝侯国をフランスから防衛する見返りとして、シュレージエンを巡る戦争の際には、イギ
リスがオーストリアを支援しないことになった(←戦争を抑止しようという当初のイギリスの考えは、もはやウヤムヤである)。
オーストリアの事情
1. オースストリア継承戦争の結果、シュレージエンを奪ったプロイセンに対し、フランスに対する以上の敵意と怨念を抱いた。

2. オーストリア継承戦争でのイギリスの支援が(実際はどうあれ)不十分で、信用ならないという印象を抱いた。

3. そのプロイセンが、ウェストミンスター条約でイギリスと同盟したので、マリア・テレジアはイギリスも完全に敵と見た。

4. こうなると、イギリスの代わりとなりえる強力な同盟国はフランスだけであり、フランスとの間にヴェルサイユ条約(1756.5.1)を締結して同盟関係となる。
フランスの事情
 オーストリアとの同盟には乗り気ではなかった。しかし、(同盟更新に消極的だった事は棚に上げて)友好国だと考えていたプロイセンが敵国イギリスに接近したことから、フランスはフリードリヒ2世に裏切られたと考えて反プロイセンになったうえに、ドイツでの紛争に対処する同盟国が要るということで、オーストリアの同盟打診に応えた。
 
 1755年9月、セントローレンス川(現カナダ)、オハイオ川流域の境界争いは、北米の支配権を巡る英仏戦争
へと発展しました(フレンチ・アンド・インディアン戦争 フランスでは征服戦争Guerre de la Conquêteと呼ばれ
る。征服されたのがフランス側だというとか)。

 一方ドイツでは、オーストリアが、プロイセンに獲られたシュレジエンを奪回せんとの意気に燃え、プロイセンに
対する攻撃意図を明確にしており、1754年あたりから小規模な衝突も発生していました。
 このため、プロイセン国王フリードリヒ2世は先制攻撃を決意し、1756年8月末、プロイセン軍がザクセン選帝
侯国に侵攻しました。
 翌1757年に神聖ローマ帝国(≒オーストリア)はプロイセンに宣戦布告。続いてフランス、ロシアが参戦し、さら
にスウェーデン(ポメラニアの旧スウェーデン領地区を巡りプロイセンと対立)。1762年にはスペインも戦争に加
わりました。さらに、インドではムガール帝国がイギリスの敵に回ります。
 イギリスとプロイセンの二国は(ポルトガルやハノーヴァーなど小さな同盟国もあったものの)、中国を除く当時
の大国全てと戦う破目になったのです。

 当初、イギリスはフランスの攻勢に苦戦しました。プロイセンも、人口にして20倍(8000万人)の敵国に囲まれ
たうえに、イギリス国内には、ハノーヴァーの存在でヨーロッパの抗争に巻き込まれることを嫌う勢力があり、一
時イギリスからの援助が停止されたので、フリードリヒ2世は自決を考えるほど追いつめられました。
 しかし、七年戦争はプロイセン、イギリス側の大勝利に終わりました。プロイセンのシュレジエン領有が確定す
るとともに、イギリスは、カナダをはじめとしてフランスの海外領土の大半を奪ったのでした。

スルット、海軍士官になる
 北米でフレンチ・アンド・インディアン戦争が始まると、フランソワ・スルットは再び私掠船稼業に戻りました。
 貧しさと窃盗疑惑から私掠船へと逃げた少年時代とは違い、今やスルットには、豊富な自己資金、共同出資し
てくれる商売仲間、宮廷の大物ベル=イル伯の後ろ楯と、三拍子揃っていました。
 
 1755年、スルットはブローニュの海軍監督官の命令により、「Friponne」という小型艦の指揮を任されたという
ことですが、この船での活躍がどの程度のものだったのかは、記録が失われていて不明です。
 とは言え、1756年12月に、戦列艦海尉(Enseigne de vaisseau 少尉相当)として、スルットはフランス海軍に
任官しているので、何らかの活躍はあったのでしょう。勿論、ベル=イル伯の意向が相当働いた人事なのも確か
ですが。

 海軍士官任官に当たり、スルットは、ポーツマス港にボートで侵入して造船所に放火する作戦を海軍省に提案
したということです。
 この計画は、情報漏れと、「平民に手柄は立てさせまいという貴族軍人の妨害」で中止になったとのことです
が、実際のところは分かりません。「Study of Naval History」は、「スルットなら考えそうな提案」としています
が、私の個人的意見では、スルットは、私掠船としての活動にあたって、はっきりと効率重視の姿勢を示している
ため、海軍省からの命令でならばいざ知らず、敵地の造船所に放火などという、危険な割に儲けが少ないこと
を、自分から申し出るとは思えません。

 なんであれ、ベル=イル伯の強い推薦により、スルットは階級に不釣り合いな戦隊を指揮することになって、サ
ン・マロへ向かいました。
 スルットの戦隊は、フリゲート艦「Maréchal de Belle-Isle (以下『ベルイル』36門 乗員140人 400t)」
「Chauvelin(36 『ベルイル』の同型艦)」、小型ブリガンティン「Gros Thomas(6門 30人)」、大型カッター
「Bastien(10門 60人)」からなっていました。小型の二隻は連絡船であり、食糧と飲料水の輸送とともに、拿捕船
の回航の護衛し、回航要員を戦隊に連れ戻す役目を帯びていました。
 
 1757年7月12日(16日?)の夜明け、スルットの戦隊はサン・マロを出港しました。しかし、その日の日没頃、
戦隊は早速、イギリスの戦列艦と大型フリゲート各一隻に追跡されました。スルットはサン・マロに引き返そうとし
ましたが、進路を塞がれてしまい、「Bastien」を拿捕されたあげくに、サン・マロから西30kmほどのところ、フレー
ル岬の要塞の射程圏に逃げ込む破目になりました。

 スルットの戦隊は、その後一週間ほどフレール岬沖に閉じ込められましたが、嵐で英艦が吹き流された隙をつ
いて、なんとか逃げ出しました。
 そして7月24日か25日に、カリブ海セント・ヴィンセント島からサザンプトンへ、砂糖とコーヒーを運んでいたブ
リッグを拿捕しました。同じ日の午後、スルットはまたも大型船を視認し、商船だと判断して「ベルイル」だけで接
近したところ、それはイギリスのフリゲート「サザンプトン(32門)」でした。

 「サザンプトン」はこの時、給料用の現金を輸送していたらしく、スルットに大きな利益をもたらす可能性があり
ました。しかし、指揮下のフリゲートは2隻とも「サザンプトン」より大型であったにもかかわらず、「ベルイル」がメ
インマストに損傷を受けると、スルットは、「Chauvelin」の来援を待たずに戦闘を打ち切って逃走しました。
 「ベルイル」は死者7-14、負傷26の損害を受けた一方、「サザンプトン」の損害は死傷60だったということです。
 もしジャン・バールやデュゲイ・トルーアンならば、恐らく、自艦が大破しようとも、「サザンプトン」を拿捕するま
で戦い続けたでしょう。
 ただし、これがスルットが積極性に欠けることを示しているわけではないと思います。スルットには、バールとト
ルーアンには無い経験、すなわちビジネスマンとしての経験があるので、このあたり、費用対効果というほど大げ
さな物ではないにせよ、効率というものをしっかり考えていたのだと思います。
 たとえ、どんなに有利な状況で大物を拿捕出来そうだったとしても、自艦が大損傷を受けて修理に時間をかけ
る破目になるよりも、損傷を避けて航海を続け、弱い商船を狙った方がトクだと考えていたのでしょう。
 また、この時代になると、フランスの海軍力は、質量ともにイギリス海軍に絶対的劣勢だったので、フランス海
軍が、全体としてこういう消極的な戦い方になっていたことを考慮すべきかも知れません。

 「ベルイル」の応急修理が終わると、スルット戦隊をカレーに入港させ、負傷者を入院させるとともに、欠員を補
充しました。また、カレーへ向かう途中で、イギリスに拿捕されて回航中のオランダ船(オランダはこの戦争で中
立でした)を捕獲しています。スルットが損傷と戦果についてどう考えていたにせよ、これはトクをした場面かも知
れません。

 そしてカレーを出港した後の7月30日、オステンデからドーバーへ向かっていた小型船を拿捕しました。幸先
の良いスタート、と思いきや、その翌日、「ベルイル」は突風でマストが倒れました。「サザンプトン」との戦闘で受
けた損傷が応急修理だけだったからだとも、転覆を避けるためにマストを自ら破壊したとも言われていますが、こ
れで「ベルイル」は航行不能に陥り、「Chauvelin」に曳航されて、中立国オランダのフリシンゲン(デ・ロイテルの
故郷です)に向かいました。

 その途上の8月1日、スルットの戦隊は、オランダ沖で小型フリゲート「シーホース (Seahorse 24門)」および小
型艦「Raven」と「Bonetta」の三隻からなるイギリス戦隊に攻撃されます。ここでは、航行不能のスルットに代わ
り、僚艦「Chauvelin」が大奮戦して、イギリス戦隊を撃退しました。特に「シーホース」は全てのマストを失い、大
破、航行不能で、拿捕する絶好のチャンスでしたが、スルットは攻撃中止を命じ、フリシンゲンへの航海を続けま
した。
 このあたり、切り込み戦で受ける損害の可能性や、航行不能の船をもう一隻抱え込む手間を考えて、スルット
は「シーホース」を捨てたのでしょう。
 このあたり、大破した獲物を持ち帰ろうとして苦労したトルーアンと比べれば面白いのですが、スルットのような
方針は、ともすれば「消極的」との批難を招きかねません。事実、乗員達の士気は下がり始めました。

 スルットの戦隊は、9月18日までフリシンゲンに滞在して、「ベルイル」の修理を行った後に、オステンドとダン
ケルクの水先案内人を乗せて出港しました。
 フランスの歴史家によると、フリシンゲンを出港した直後、戦列艦3、フリゲート2からなるイギリス戦隊に攻撃さ
れ、激しい戦闘の末に、「ベルイル」が前部トプスルヤードを破壊されたため、戦隊は辛うじてフリシンゲンに逃げ
戻る破目になったとのこと。
 しかしながら、「Study of Naval History」によると、この時、オランダ沖に展開中のイギリスの戦列艦は無いと
のことであり、また同日に戦闘の記録も無いようです。その一方、フリシンゲンを監視中の小型艦が、「ベルイ
ル」と思しきフリゲートが、トップマストを折ってフリシンゲンに引き返して投錨する場面を目撃しているので、「ベ
ルイル」がまたマストを折ったのは確かです。ただ、原因は戦闘ではなく事故の可能性が高い。

 フリシンゲンに逃げ戻ったのかどうはか別として、スルットは同地で「ベルイル」の修理を行う一方、ここは効率
を重視して、無傷の「Chauvelin」と「Gros Thomas」だけを航海に出しました。
 残念ながらこの航海は、戦果が無かったばかりか、「Gros Thomas」がイギリスのフリゲートに拿捕されるとい
う、大黒星に終わっています。この判断もまた、乗員の不満を高めることになりました(←戦列艦を含む戦隊に攻
撃されて逃げ込んだ後で、2隻だけを海に出すと言うのは考えにくいので、やっぱり9月18日に戦闘は無かった
と見るべきでしょう)。


関連地図(Google Earthより)

 10月初め、再装備を終えた「ベルイル」と「Chauvelin」は、スコットランド東岸を目指して北上しました。道々で
何隻か拿捕したようですが、残念ながらはっきりしません。
 10月5日、悪天候に遭遇したスルットは、バンフ沖に逃げ込みました。そしてついでに、町を脅迫して補給品を
せしめようとします。
 しかし、悪い事は出来ないと言うか、不運にも夜中の嵐で「Chauvelin」が流されてしまいました。翌朝、仕方なく
スルットは、「Chauvelin」を捜索に出かけましたが、「Chauvelin」はフランスに向けて帰途についていたので、発
見することは出来ませんでした。
 かくして、スルットの戦隊はとうとう「ベルイル」一隻となったのですが、スルットはなおも航海を続けます。オラン
ダ国旗で地元民を騙して、シェトランド諸島で補給した後、バルト海航路の商船を狙おうと考えて、中立国ノルウ
ェー(デンマークと同君連合中)のベルゲンへ向かいました。
 10月19日、スルットはイギリスの武装商船か私掠船(26門)に遭遇して、簡単にこれを拿捕(フランス側の記録
では、海軍のフリゲートと言うことになっている)。この戦果のおかげでスルットは、打ち続く事故と悪天候で、いい
加減士気が下がっていた「ベルイル」の乗員達からの信頼を取り戻しました。

 10月30日、「ベルイル」はベルゲンに入港し、船の修理と整備に取り掛かりました(ついでに、ノルウェー人の
コルセール志願者を集めたらしいです)。
 修理用の資材に不足をきたしていたスルットは、ベルゲンに寄港中のフランス商船から資材を強奪しました。現
地の商人を仲介に、その船から資材を買い取ろうとしたところ、船長から拒否されたためです。

 12月15日(25日?)、「ベルイル」の修理は終わり、スルットはベルゲンを出港しました。そして不運にも、出港
直後にまたもや荒天に見舞われ、さらにオークニー諸島沖では、またもやマストが折れ、「ベルイル」は航行不能
となります。寒さと荒天の中、大変な苦労の末に応急マストを立てた「ベルイル」は、1758年2月1日にスウェー
デンのイェーテボリにたどり着きました。
 言うまでもない事ですが、この航海の戦果は皆無でした。


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