へっぽこじゃないぞ フランソワ・スルットその1

フランソワ・スルット
(François Thurot 1727-1760)
 フランソワ・スルットは、シュフランと同世代のコルセールであり、オーストリア継承戦争と七年戦争の前半で活躍しました。

短いお医者さん時代

 1726年7月21日(or 22日)、フランソワ・スルットは、フランス東部ブルゴーニュ地方の小さな村、ニュイ=サン
=ジョルジュ(Nuits-Saint-Georges)に生まれました。スルット家は、アイルランド人傭兵の血が入った家系と言わ
れる、地主にしてニュイの宿駅長(Maitre de poste)を務める裕福な家でした。
 ニュイは、現在でも人口5千ほどのコミューネですが、ワイン用ブドウの一大産地です。スルットが生まれた当
時もそれは変わらず、スルット家はワイン畑を所有していました。しかしながら、スルットの生誕後は不作続きで
家計は苦しかったらしく、加えて1735年(39年?)に父親が死去すると、スルット家は経済的に困窮しました。こ
の困窮が、フランソワ・スルットをコルセールの道に駆り立てたのは間違いないところで、明確に金目当てという
ところが、富豪出身のトルーアンや、わりと裕福な家に生まれたジャン・バールとは違っており、内陸部の生まれ
で一族に船乗りがいないことも、他のコルセールの英雄達と違うところです。


関連地図(EURATLAS PERIODIS BASIC, PERIODICAL HISTORICAL ATLAS OF EUROPE 1 - 2000より)

 さて、彼はディジョンのイエズス会のカレッジで教育を受けましたが、少年時代のフランソワ・スルットは、本人
の弁でも攻撃的で喧嘩っ早い気質だったとのことです。つまり、聖職者向きの性格では無く、実際の素行もかな
り悪かったようで、1743年、16歳の時に、追い出されたのか、自分から出たのかはともかく、カレッジをやめま
した。
 聖職者養成コース脱落というのが、トルーアンと似通っていますが、これは別に偶然ではないでしょう。当時に
あっては、これが教育と出世の早道だったのです。
 学校をやめた後、スルットはディジョンの薬剤師に弟子入りしましたが、父が残した負債に苦しんでいた母の立
場を思って、叔母の家から勝手に銀の皿を持ち出して、質入れしました。こういうことをすれば、叔母さんが相当
に優しい人でなくては大問題ですが、生憎と銀皿は叔母さん所有ではなく、ディジョンの役人の物だったため、厄
介事が倍加しました(よくわかりませんが、叔母さんの家は銀細工師か何かだったのでしょう)。
 そしてこの世の中、「ついでに燭台も持っていけ」と言ってくれる、(「レ・ミゼラブル」の)神父さんのような人ばか
りでもありません。窃盗罪に問われることは無かったようですが、せっかくの転職も、スルットは僅か数ヶ月でディ
ジョンから逃げねばなりませんでした。故郷のニュイ(ディジョンから僅か10kmほど)にも帰れなくなったスルット
は、以後、ブルゴーニュの地を無視していたというこです。
 
 この時、折からのオーストリア継承戦争(1740-1748)により、フランスはまた英蘭と戦争になり、コルセールが
活動を開始していました(対英宣戦は1744年ですが、既にコルセールは活動を開始していた)。そして、内陸のブ
ルゴーニュにもジャン・バールらの成功物語は知れ渡っていたので、経済的苦境にあり、盗人容疑で故郷にもい
られない身のスルットが、コルセール稼業で一発当てようと考えたのは、自然なのことなのでしょう。
 1744年夏、スルットはダンケルクに現れました。彼はもうすぐ18歳になろうかと言う年齢であり、当時、船員
を目指す者は10歳くらいから船に乗るのが普通だったので、船員修行には歳を取りすぎているとされました。し
かし、薬剤師の弟子だった経験が買われ、船医として私掠船に乗り組むことが出来ました。何でも、酒場での喧
嘩の場に居合わせ、重傷を負った私掠船員を助けたので、その伝手で乗りこむことが出来たらしいです。
 薬剤師の弟子だったといっても、スルットの経験は一年に満たないので、医師の資格と訓練が厳密ではなかっ
た当時においても、スルットは最も頼りない医者の一人だったのは間違いないです。しかし、当時は正規の軍艦
にも医官が乗務していないことがあったので、未熟な医師でも歓迎されました。
 1744年8月、スルットは最初の航海に出ました。彼が乗り組んだ「Cerf (もしくはCerf Volant=凧 とも)」は、4
ポンド砲4門、乗員28人の小さなラガーで、まことに頼りない船であり、案の定、出港後数日を経ずしてイギリス
のフリゲート艦に出くわし、短い戦闘の後に拿捕されました。当然ながらスルットも捕虜の憂き目を見るわけで、
ドーバーへと連行されたのでした。

 オーストリア継承戦争

 さて、先を続ける前に、オーストリア継承戦争(War of the Austrian Succession 1740-1748)について説明し
ておきましょう。この戦争は、スペイン継承戦争(1701-1714)の遺恨と、当時の国際情勢が生んだ複雑なもので、
いくつかの別々の戦争が一つにあわさったものです。そして、スペイン、オーストリア、フランス、イギリスを中心
にしてみると、そこに至るまでの歴史の流れは、だいたい以下のようになります。

1. 四カ国同盟戦争 (War of the Quadruple Alliance, 1718-1720)
 ルイ14世の孫であるスペイン王フェリペ5世(Felipe V, 1683-1746 在位1700-1746)は、スペイン継承戦争の
結果、スペイン王として国際的承認を得たものの、ヨーロッパでは本国以外の領土の大半をオーストリアに奪わ
れました。これは、スペインの意向がユトレヒト条約(スペイン継承戦争の講和)に容れられず、フランスが勝手に
条約を受け入れたせいだというので、フェリペ5世は深い遺恨を抱きます(客観的に言って戦争に負け気味だっ
たことは無視しよう)。
 失地回復を目論むフェリペ5世は、オーストリアがトルコと戦争している隙をつき、1717年、シチリア島(当時
はサヴォイ公国領だった)とサルディーニャ島を奪取しました。当然、この動きは反発を買い、イギリス、オラン
ダ、オーストリア、そしてフェリペ5世の本家フランスまでもが加わって、反スペイン同盟が結成されました(←戦争
の名の由来)。当然ながら、スペインが戦争に勝てるはずも無く、失地回復の目的も果たせませんでした。
 ここで重要なのは、フランスの対外政策の転換であり、フランスとスペインの対立です。
 当時のフランスでは、少年王ルイ15世(1710-1774, 在位1715-1774)の摂政として、オルレアン公フィリップ2
世(Philippe II d'Orleans, 1674-1723)が権力の座にありました。オルレアン公は、疲弊したフランスの再建に苦
心していたので、スペインに味方して英国と戦争するなど考えられませんでした。
 また、オルレアン公の摂政の立場は、ルイ15世が成人するまで安泰なのですが、若きルイ15世にもしもの事
があれば、ウマが合わないスペイン国王フェリペ5世が玉座に座る可能性が大いにあったし、実際にフェリペ5世
もフランスの王座を狙っていたようです。従って、自分の権力のためにも、オルレアン公はスペインと仲良くする
気が無く、さらに1718年には、チェッラマーレ工作(Conspiration de Cellamare 暗躍した駐仏スペイン大使が
チェッラマーレ公だったから)と呼ばれる、真相はどうあれスペインの差し金らしい摂政引き下ろしの陰謀が発覚
したとなれば、どうあってもオルレアン公がスペインに味方するはずありませんでした。

 1723年、ルイ15世が成人に達し、オルレアン公は宰相となりますが、同年中に死去。後任のコンデ公ルイ4
世は、1726年に辞任。その後で権力を掌握したフルーリー枢機卿(←ジャック・カサールに殴られそうになった
あの人)は、平和主義外交を推進して、イギリスとの関係改善に力を注ぎました。
 イギリスの方でも、第一大蔵卿(First Lord of the Treasury)としての立場で、1721年から事実上の首相を務
めたロバート・ウォルポール(Robert Walpole, 1676-1745、在任1721-42)が、事なかれ主義と言われつつも、フ
ランスとの協調、平和政策を推進しました。この結果、英仏関係は極めて友好的となり、以後ながく英仏の友好
関係が保たれました。

2. 1727年の英西戦争
 この短い限定戦争は、日本ではあまり知られていませんが、英仏の友好とスペインの孤立という、新たな国際
関係の効果が如実に現れました。
 フランスとの対立が続くスペインは、新たな同盟者として宿敵オーストリアを選び、1725年、素晴らしい外交手
腕によってウィーン条約を締結、同盟関係となりました。これに対してイギリスは、フランス、プロイセンその他と
の間にハノーヴァー条約を締結して対抗します。
 さて、ジブラルタルの帰属は、現代でもスペインの大問題ですが、この時はもっと大問題でした。オーストリアと
の同盟に力を得て、1727年2月、スペインは懲りずにイギリスに宣戦して、ジブラルタルを包囲しました。しか
し、肝心の同盟国オーストリアは、英仏との対決に恐れをなし、中立を維持したたので、同盟は破棄されました。
 対するイギリスは、貿易上の対立も絡んで、遠く中米パナマ地峡のカリブ海側、ポルト・ベロを封鎖するととも
に、スペインの海外貿易ルートを攻撃します。
 しかし、双方とも大きな戦果があがらぬまま、フルーリー枢機卿の仲介で翌28年2月には停戦となり、1729
年にセビリャ条約が締結され、スペインは、ユトレヒト条約(スペイン継承戦争の和平条件)をこれ以上文句を言
わずに受け入れ、ジブラルタルをイギリスが統治することを承認しました。

3. ポーランド継承戦争(1733-1738)
 この「ポーランド継承戦争」は、名前と違って基本的にフランスとオーストリアの争いであり、戦闘の大半はドイ
ツ西部とイタリアで発生しました。そして重大なのは、フランスとスペインが再び同盟関係になったことです。
 1733年、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世にしてポーランド・リトアニア共和国国王アウグスト2世
(August II Mocny 1670-1733, 在位1697-1706, 1709-1733)が薨去しました。「共和国」というだけあって、ポー
ランドでは貴族達の選挙で国王が選ばれるのですが、国が弱体化したこの時代では、候補者の背後にある外国
の圧力がモノを言うようになっていました(そうなるに至ったポーランドの歴史は、説明しだすと長くなるので割愛し
ます)。
 この時、有力候補は2人いました。
 一人目はポーランドの貴族スタニスワフ・レシチニスキ伯爵(1677-1766)。娘マリーはなんと、ルイ15世の王妃
であり、当然ながらフランスの支持を受けていました。さらに、フランスの外交努力によって、スペイン、スウェー
デン、サヴォイ公国及び新興のサルディーニャ王国(→国王はサヴォイ大公である)にも支持されていました。実
はこのレシチニスキ伯、大北方戦争(1700-1721)の最中の1704年から09年まで、ポーランドに侵攻したスウェ
ーデンのあからさまな傀儡として王位についており、和平とのからみで貴族達からそっぽを向かれたこともあった
のですが、なんだかんだと、伝統的に反ロシアで親フランスなポーランド系貴族達から支持を集めていました。
 もう一人の候補は、前国王の息子であるザクセン選帝侯フリードリッヒ・アウグスト2世(Friedrich August II,
1696-1763)。こちらは、本国のザクセン選帝侯国は無論のこと、神聖ローマ帝国(≒オーストリア)とロシアがバッ
クについていました。国内的にはリトアニア系貴族の支持を集めていましたが、レシチニスキ支持派が1万人以
上なのに対して、リトアニア系は少数派で、アウグスト支持派は3000人程度でした。

 1733年9月4日、フランスは大っぴらにレシチニスキ支持を宣言し、御者に変装してワルシャワ入りしたレシ
チニスキ伯は、9月12日に国王に選出され、即位しました。
 しかし、既にロシア軍がワルシャワ目指して進軍している状況だったので、早々に支持者達とともにグダニスク
へ逃げ込み、少数のフランス軍とともに立て篭もる破目となりました。
 ロシア軍に包囲されたクダニスクは、翌1734年6月30日に降伏。時を同じくして、ワルシャワではザクセン選
帝侯アウグスト2世が、ポーランド国王アウグスト3世(←ややこしいが書き間違いではない)として即位しました。
その後、レシチニスキ派の抵抗はあっさりロシア軍に撃破され、これでポーランド国内での大きな戦闘は終わり
ました。
 レシチニスキ王は、農民に変装して陥落前のグダニスクを脱出して、プロイセンのケーニヒスベルグへ逃げ込
み、そこからフランスの軍事介入を要請しました。しかし、フランスには(と言うかフルーリ枢機卿には)、軍隊をポ
ーランドに送る意思も、ロシアと対決する意思もなく、レシチニスキ王に対しては、資金援助と亡命受け入れだけ
でカタをつけました。その反面、フルーリー枢機卿は、対英政策では平和第一でも対オーストリアは厳しく、この
機会にオーストリアの勢力を削ぐつもりでした。 
 神聖ローマ帝国(≒オーストリア)は、ポーランドの危機に対処するため、ライン河谷のフランス国境と北イタリア
の守備隊を引き抜いていました。ルイ14世時代以来、ライン川西岸地区を狙っていたフランスには、これが思惑
通りだったのです。そしてスペインも、ここにスペイン継承戦争で失ったイタリア奪回の好機を見ました。
 
関連地図
@ロレーヌ公国
薄水色のパッチワーク状の
部分

Aミラノ公国

Bナポリ/シチリア王国

Cトスカーナ大公国
ロレーヌ公フランツ・シュテ
ファンが代償にもらった

Dパルマ公国
 スペインがナポリの代わ
りに割譲した

(画像はWikipediaより)

(画像はWikipediaより)
スタニスラウ・レシチニスキ(1677-1766)

神聖ローマ帝国の伯爵
ポーランド国王(在位1704-1709,1733-1736)
ロレーヌ公(1736-1766)
フリードリッヒ・アウグスト2世(Friedrich August II, 1696-1763)

ザクセン選帝侯(在位1733-1736)
ポーランド国王アウグスト3世(August III Sas, 在位1733-1763)
その他いろいろ称号多数

 そういうわけで1733年10月10日、フランスは、サヴォイ公国/サルディーニャ王国とスペインを誘って、オー
ストリアへ宣戦布告しました。11月7日には、スペインとフランスの間にエスコリアル条約が締結され、再び同盟
関係となりました(ブルボン家同士なので、「家族協定 Pacte de Famille」と呼ばれる)。

 ロレーヌ公国へ侵攻した仏軍は、数週間で全土を占領するともに、ライン川を越えてドイツに侵入しました。翌
1734年春、オーストリア軍には大英雄オイゲン公子(Prinz Eugen, 1663-1736)が再登場しますが、かつての無
敵の名将も、この時既に71歳とあって精彩を欠き、オーストリア側の準備不足もあって、フランス軍の阻止でき
ませんでした。翌1735年、オイゲン公子は、ロシア軍やドイツ諸邦からの援軍とともに反撃に転じ、ライン川西
岸へとフランス軍を押し戻しました。しかし、ロレーヌ公国を奪回することは出来ませんでした。

 一方、北イタリアでは、1733年10月24日、サヴオイ公/サルディーニャ国王カルロ・エマヌエーレ3世(1701-
1773)率るフランス/サボォイ公国連合軍5万人が、ミラノ公国に侵攻しました。対するオーストリア軍は1万2千
人であり、フランス/サヴォイ軍は簡単にミラノ公国を占領しましたが、その後は、エマヌエーレ3世とフランス軍
首脳部との意見対立で行動が鈍り、オーストリアの援軍を阻止することが出来ず、一進一退の戦いの末、オース
トリアは北イタリアの維持に成功しました。
 南イタリアでは、スペイン軍(フランスとサヴォイの兵が少数いた)の作戦が順調に進み、シチリア島とナポリ王
国を容易に占領(スペインの視点では奪回)しました。
 そいでもって1735年、予備和平条約が締結されて停戦し、1738年11月18日、ウィーン条約で正式に戦争
は決着しました。フランスは、念願だったロレーヌ公国を併合しました(ルイ14世時代に占領しましたが、大同盟
戦争の時期に返却していました)。スペインもめでたく、シチリア島とナポリ王国を取り戻し、代償にパルマ公国を
オーストリアへ譲りました(相手の王様に不必要な屈辱感や敗北感を与えないよう、こういうメンツの立てあいが
当時はよくありました)。サヴォイ/サルディーニャには得るところがありませんでした。
 そして、発端であったポーランド王位問題はどうなったかと言えば、ザクセン選帝侯アウグスト2世のポーランド
王位が承認され、レシチニスキは王位放棄の代償として、死後はフランス王に委譲するという条件で、フランスか
らロレーヌ公国とその近くにあるバール公国を与えられることで決着しました。本来のロレーヌ公で、オーストリア
皇女マリア・テレジアの夫、フランツ・シュテファン(Franz Stephan von Lothringen 1708-1765)は、ロレーヌ公
国を放棄する代償として、空位となっていたトスカーナ大公位を与えられ、トスカーナ大公国の領主となりました。
しかし、故郷ロレーヌを奪われた彼の遺恨は深く、後の戦争では、フランスに復仇せんとしていろいろ頑張ったの
ですが、妻マリア・テレジアの意向で軍務に就かせてもらえませんでした(哀)。

3. ジェンキンズの耳戦争(1739-1748)
 さてイギリスでは、フランスとの友好関係が続いたために、中南米に広大な植民地を持つスペインが、新たなラ
イバルと目されるようになっていました。

 この当時、保護貿易は世界の常識でしたが、中南米のスペイン領は極端な貿易規制が敷かれていて、諸外国
に対して閉鎖的なのは無論のこと、植民地間の貿易もスペイン本国を経由せねばならない時代もあり、内部にも
閉鎖的でした。そのため、スペイン植民地は慢性的な物資不足に悩んでおり、カリブ海では昔からイギリスやオ
ランダの商人が盛んに密貿易を行っていました。そして、どちらかと言うと、密輸商人はスペイン領では歓迎され
ていました。
 スペイン継承戦争の結果、イギリスは、カリブ海のスペイン領植民地にアフリカ人の奴隷を供給する権利(アシ
ェント)を得ましたが、これを、奴隷以外も含む完全な貿易の権利と勝手に解釈して、好き放題やるイギリス商船
が増えたため、スペイン側が取り締まりを強化しました。そのためカリブ海では、スペイン艦船による公海上での
イギリス商船の臨検/拿捕事件と暴力沙汰が何件か発生したため、イギリスでは貿易業者を中心として反スペイ
ン感情が高まりました。
 そして1739年、ロバート・ジェンキンズという船長が、1731年にスペイン沿岸警備隊に臨検された際に左耳
を切り落とされたと議会で証言し、その後で、未来の名宰相ピット(William Pitt, 1st Earl of Chatham 1708-
1778, 大ピット William Pitt, the Elderとも)が開戦論に熱弁をふるったため、 議会は反スペインで盛り上がりま
した。
 言うまでも無いことですが、当の植民地の住人にとっても悪法と言えど、スペインの定めたルールを、スペイン
領でイギリス商人が破った事に根本原因があるわけなので、この開戦気運は、どちらかと言うと貿易業者の「逆
ギレ」の類でした(ピットは貿易で財を成した家の出身であり、商工業者からなる圧力団体のメンバーです)。さら
に、ジェンキンズ船長が耳を失った理由には異説もあります。とは言え、盛り上がった好戦論はどうしようもなく、
平和主義外交を推進してきたウォルポールも押し切られます。1739年10月23日、イギリスはスペインに宣戦
布告しました。
 当初、イギリスの大きな軍事行動は、カリブ海と太平洋に限られていました。ジョージ・アンソン戦隊司令官
(George Anson, 1697-1762)の部隊が、スペイン領やスペイン船を略奪しつつ、大変な艱難辛苦の上に世界一
周を果たしたのもこの時です。しかし、オーストリアをめぐる情勢と、スペインとフランスの同盟が絡んで、英仏の
全面対決に発展していきます。

4. シュレージエン戦争からオーストリア継承戦争へ
 1740年10月20日、神聖ローマ皇帝兼オーストリア大公カール6世(Karl VI, 1685-1740)が薨去し、娘マリ
ア・テレジア(1717-1780)が、オーストリア大公及びハンガリー国王その他諸々の爵位や称号を襲名しました。男
児が無かったカール6世は、事前にハプスブルグ家領の女子相続を認める「国事詔書 Pragmatische
Sanktion」を制定して、多大な外交努力で関係諸国に承認させていましたが、実際に弱冠23歳の美女が大公位
につくや、関係国がインネンつけて喧嘩を売った、というのが、オーストリア継承戦争の端的な説明です。ある意
味、「女帝」マリア・テレジアの度胸と能力を完全になめきったふるまいでした。
 最初にインネンをつけたのは、啓蒙専制君主の代表で、自称「国家第一の下僕」の「大王」プロイセン国王フリ
ードリヒ2世(1712-1786)でした。フリードリヒ2世は、シュレージエン公国のホーエンツォレルン家の領有権を主
張し、マリア・テレジアのオーストリア大公位の承認と、マリアの夫フランツ・シュテファンの神聖ローマ皇帝即位を
支持する代償として、オーストリアに対してシュレージエン公国の割譲を要求しました。シュレージエンの地は、大
規模な炭田があり、鉄鉱石も豊富。産業は盛んで、水運の要所もあるという豊かさに加え、プロイセンからしてみ
れば、オーストリアと対抗する上では山脈を楯に守りやすい地形でもあり、富国強兵を目指すフリードリヒ2世
は、是非とも手に入れたかったのです。
 ただ、フリードリヒ2世の言い分の正当性に関しては、「ビミョー」から「完全に無法」まで幅はあれど、当時にあ
っても評価は概して否定的でした。シュレージエンは確かに、ホーエンツォレルン家領だった時代もありました
が、領有主張を撤回して久しく、また、既に承認した事案を蒸し返して後から条件をつけるなど、当時の習慣やら
外交の慣例は別としても、王者の振る舞いではないのは確かです。実際、フリードリヒ2世は自著「マキャヴェリ
駁論」で権謀術数に否定的見解を示していたので、この時の行動と著書との矛盾を、親交のあった哲学者ヴォ
ルテールに非難されています。

関連地図
プロイセン王国とは、1618年から同君連合していたプロイセン公国とブランデンブルグ選帝侯国が主体となり、スペイン継承戦争での働きで王号を許されたブランデンブルグ選帝侯フリードリヒ3世(1657-1713)が、1701年に「プロイセンの王 König in Preußen」フリードリヒ1世として即位して成立した国です。ちなみに、彼以降の称号は、前置詞が違う「プロイセン国王 König von Preußen」です。

@シュレージエン公国 A上オーストリア B下オーストリア Cバイエルン選帝侯国 Dザクセン選帝侯国

(画像はwikipediaより)

(画像はwikipediaより)
マリア・テレジア 
(Maria Theresia 1717-1780)
オーストリア大公/ハンガリー王
(在位1740-1780)
ボヘミア王(在位1743-1780)
マリー・アントワネットの母親である。
プロイセン国王フリードリヒ2世
(Friedrich II, 1712-1786 在位1740-1786)
 「大王」と呼ばれるが、けっこうセコイ。



 当然ながら、オーストリアはフリードリヒ2世の要求を拒絶しますが、しかしまあ、要求拒否も織り込み済みであ
り、1740年12月16日、プロイセン軍はシュレージエンに侵攻し(第一次シュレージエン戦争)、一ヶ月ほどで大
半の地域を占領しました(この間、プロイセン軍の戦死者は20人ほどだったという)。12月という真冬に新たな戦
役を起こすなど、当時のヨーロッパの常識に反していましたが、フリードリヒ2世の父、「兵隊王」ことフリードリッ
ヒ・ヴィルヘルム1世(Friedrich Wilhelm I, 1688-1740)の指導のもと、当時のヨーロッパで最も効率的な軍事国
家となっていたプロイセンには、それが可能でした。
 対するオーストリアは、大国と言えども、トルコとの抗争で軍事的にも財政的にも疲弊していました。翌41年春
に反撃に出るも、4月10日、オーストリア軍はモルビツの戦いで撃破されました。人的損害の点ではプロイセン
の方が多かったようですが、大国オーストリアが、いまいちぱっとしない(と見られていた)新興国プロイセンに敗
れたというので、オーストリアの弱体化を確信した反オーストリアの各国は、オーストリアの領土を奪取しようと動
き始めます。ここで最も派手に動いたのはフランスでした。

 この時フランスでは、「ジェンキンズの耳戦争」のため、ヨーロッパ域外におけるイギリスの勢力増大への懸念
が強く、40年8月以降、宣戦布告の無いまま、スペインを支援してイギリスに敵対行為に及んでいました。従っ
て、ヨーロッパでの新たな抗争は避けるべきという意見も強く、それがルイ15世やフルーリー枢機卿の意向でも
あったのですが、90歳近くになって往時の勢いはないフルーリー枢機卿には、有力な軍人/外交官ベル=イル伯
を中心とする強硬論を押さえる事が出来ませんでした。このベル=イル伯爵という人物は、主人公フランソワ・
スルットの後援者になった人であり、また後で解説します。

 1741年6月5日、ブレスラウ条約でフランスとプロイセンは同盟関係となり、フランスはプロイセンのシュレー
ジエン領有を承認しました。さらに、国事詔書に不満をもっていたバイエルン選帝侯カール・アルブレヒト(Karl
Albrecht 1697-1745)を支援してオーストリア、ハンガリー、ボヘミアといったハプスブルグ家の心臓部を狙わ
せ、ザクセン選帝侯国(選帝侯はポーランド国王アウグスト3世でもある)のボヘミア侵攻を助け、ライン地方の宗
教選帝侯を抱き込み、さらにロシアの介入を防ぐため、スウェーデンを抱き込んでロシアを攻撃させます(Hats'
Russian War 1741-1743)。あげくにスペインを焚きつけて、イタリアのオーストリア領を攻撃させました。
 つまりオーストリア継承戦争とは、シュレージエン戦争、ジェンキンズの耳戦争、バイエルン-オーストリア戦争
等々を一緒くたにした総称です。

 イギリスが、フランスのこのふるまいを無法極まりないと見たのは当然です。そしてオーストリアも、イギリスの
支援を期待しました。しかし、イギリス国王ジョージ2世はハノーヴァー選帝侯でもあり、故郷ハノーヴァーが戦争
に巻き込まれる事を恐れる国王の意向によって、イギリスはただちにオーストリア情勢に介入できませんでした。
 そうしている間にも、フランス=バイエルン連合軍は快進撃を続け、1741年夏には上オーストリアを占領し、ボ
ヘミアを経て11月にはプラハを占領しました。この結果、フリードリヒ2世は、もともと長期戦は想定していないこ
とに加えて、オーストリアの敗北は決定的との判断からフランスを裏切り、41年10月、イギリスの仲介でオース
トリアと講和して、シュレージエンの一部を確保しました。この講和は、クラインシュネレンドルフの密約
(Geheimkonvention von Klein-Schnellendorf)と呼ばれ、両国は戦争継続中としてふるまうと言う、いかにも近
世らしい秘密外交でした。
 一方、ハプスブルグ家は滅亡の危機に瀕し、マリア・テレジアはウィーンを脱出してハンガリーへ逃れます。と
は言え、ここにいたると、地元での防衛作戦となったオーストリア軍に対し、フランス側では、遠征につきものの
補給不足に加えて、寄り合い所帯の足並みの乱れが表面化しました。さらに、多分に伝説的なところもあります
が、うら若き女王の涙ながらの訴えにハンガリー貴族達が大いに発奮し、ハンガリー軍も大奮戦。反撃に転じた
ハプスブルグ家軍は、フランス=バイエルン軍を占領地から駆逐するや、翌42年1月24日には、バイエルン選
帝侯国の首都ミュンヘンを落としました。
 ミュンヘンを落とされた同じ日、間抜けにもバイエルン選帝侯カール・アルブレヒトは、弟(ケルン大司教で選帝
侯)の一票と、バイエルン選帝侯位と自称ボヘミア王(一応は正式)の自分の二票で、神聖ローマ皇帝カール7世
(在位1742-1745)に「選出」されました。この人、スペイン継承戦争でも国を占領されているので、国を獲られる
のは二度目です。 
 こうしたオーストリアの怒涛の大反撃に、プロイセンのフリードリヒ2世は危機感を募らせ、1742年初頭、また
もオーストリアを攻撃します(大義名分は、オーストリアがクラインシュネレンドルフの密約を公表したこと)。そして
7月のベルリン条約でシュレージエン全体を確保しました。この後、プロイセンはいったんお休み→オーストリアが
優勢になると参戦、のパターンを繰り返します(1744年以降は「第二次シュレージエン戦争」と呼びます)。

 1742年5月、イギリスは対仏宣戦のないまま、オーストリア領ネーデルラントで、英軍、オーストリア軍、ハノー
ヴァー選帝侯国軍、ドイツ人の傭兵、オランダ軍(イギリスとの同盟に従って参戦)などからなる「プラグマティック
軍」を編成し、指揮権で揉めつつも、43年中にフランス軍をドイツから駆逐しました。
 一方、フランス側は、プラグマティック軍が当初はフランス本土侵攻を計画していたこともあって、イギリス本土
への奇襲を計画しました。しかし、情報漏れで作戦は中止(情報漏れがなくても成功した可能性は低いですが)。
結局、用意した兵力はオランダ領ネーデルラント攻略作戦に転用されることになり、1744年3月、フランスは正
式にイギリスに宣戦布告します。
 
フランソワ・スルット、スポンサーを得る

 さて、スルットの話を続ける前に、ベル=イル伯爵シャルル・ルイ・オーギュスト・フーケ(Charles Louis
Auguste Fouquet de Belle-Isle 1684-1761)という人物について解説しておかねばなりません。
 フーケと言う名前でお気づきかと思いますが、ベル=イル伯は、ルイ14世時代の大物政治家、かのニコラ・フー
ケ(Nicolas Fouquet 1615-1680)の孫にあたります。

画像はWikipediaより
画像はWikipediaより
ベル=イル伯爵シャルル・ルイ・オーギュスト・フーケ
Charles Louis Auguste Fouquet de Belle-Isle 1684-1761
ニコラ・フーケ(Nicolas Fouquet 1615-1680)
獄中では、かの「鉄仮面」氏が従者として仕えていたらしい。

 ニコラ・フーケの人物像については、説明すると長くなるので簡略に済ませますが、この男、財務総監と検事総
長を兼任して辣腕をふるっていたものの、その間、収賄、恣意的な売官、公金横領などの汚職疑惑が絶えず、フ
ランス王国が慢性的な財政窮乏に悩む中、ヴェルサイユ宮のデザイン的原点とも言われる豪勢なヴォー=ル=
ヴィコント城(Chateau de Vaux-le-Vicomte)をおっ建てたり、ベル島を買い取って要塞化するなどして、表向き
の資産では絶対に賄い切れない散財をして、ルイ14世の不興を買っていました。さらに、ルイ14世が国王親政
を宣言した後でも、ロコツに宰相の地位に色気を示して反感も買ったところで、KY甚だしき事に、過度に贅沢な
宴会に招待して、ルイ14世を完全にキレさせました。そして、かの有名なダルタニヤン氏に逮捕されたあげく、
終身刑に処せられたのです。
 フーケの汚職は事実でした(例え告発の全てでないにしろ)。その一方で、裁判手続きの不正や、ルイ14世の
介入で国外追放から終身刑(それも、死刑からの恩赦減刑)に変更されたことで、フーケに対する同情的な世論も
あったのですが、それでも、ベル=イル伯シャルルが生まれた時、フーケ家は、図々しい陰謀を企んだ男の一族
として、恥辱の中にありました。

 しかし、恥辱を雪がんとの意気に燃えるベル=イル伯シャルルには、没収を免れた資産もシコタマありました。2
4歳の時、彼は竜騎兵連隊の大佐の地位を買い、スペイン継承戦争や四カ国同盟戦争で大活躍します。ルイ15
世に代替わりしていたことも手伝い、宮廷ウケも良く、さらにフルーリー枢機卿の引き立てもあって、ベル=イル伯
は陸軍内の地位と影響力を高めました。
 ポーランド継承戦争でもベル=イル伯は活躍し、軍事作戦のみならず、ロレーヌ公国の割譲をオーストリアに認
めさせる外交手腕を発揮しました。このことはルイ15世に高く評価され、ベル=イル伯には、ドイツ国境沿いの重
要拠点であるベルダン、メッツ、トゥールの統治権が与えられます。ここに祖父の代からの恥辱は完全に雪がれ
たわけで、宮廷でのベル=イル伯の影響力は巨大なものとなりました。

 さて、そうこうしている内にシュレジエン戦争が始まると、ベル=イル伯は対墺主戦論者の急先鋒となり、フルー
リー枢機卿一派の消極論を押し切りました。
 かくしてベル=イル伯は、一団の外交官とともにドイツを歴訪し、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトに対する
支持を取り付けて回り、フリードリヒ二世(プロイセン)との同盟も締結しました。それから、フランス派遣軍の指揮
を執ってプラハを占領しました。しかしその後、前述の通り、フリードリヒ2世がフランスを裏切ったので、ベル=イ
ル伯は、オーストリア軍の怒涛の大反撃のどまん中に放り出されました。
 プラハからの「名誉の撤退」を拒否されたベル=ルイ伯は、厳冬期の隙をつき、動ける兵士14000人を率いて
包囲線をすり抜けると、プラハを脱出。軽騎兵の追撃を受けながらも、厳冬の森林地帯を突破し、凍死者も含む
1500人の犠牲を出しつつも、ベル=イル伯は部隊を自軍の支配地域へと撤退させました。
 この撤退行は、軍人としてのベル=イル伯の非凡さを示すものですが、残念ながら、ぶち壊しにして余りある要
素が多々ありました。
 そもそもベル=イル伯は、オーストリアは崩壊寸前で短期間で敗北する、プロイセンとフランスの同盟は有益で
あると説いて、フランスを戦争へと導いたのですが、そのご本人が、オーストリアの大反撃とプロイセンの裏切り
に遭って逃げてきたわけですから、当然、ごうごうたる批難を浴びます。またベル=イル伯は、プラハ脱出の際、
行軍に堪えられないと見られた5000人を市内に残したのですが、その5000人が、果敢な防戦と市内に放火
するという脅迫の結果、オーストリア側から「名誉の撤退」を許されたため、傍から見れば、苦難の撤退行は単な
る愚行となってしまいます。

アンドレ=エルキュール・ド・フルーリー枢機卿 (Andrè Hercule de Fleury, 1653-1743)

 プラハ包囲の際、枢機卿は知人であるオーストリアの国防大臣に対して、「自分に開戦責任は無い、だから私の顔に免じてプラハのフランス軍を撤退させてくれ」と言う、無責任かつ、フランス国家の体面を傷つける交渉を行って評判を落とし、そのまま死去していた。このことも、ベル=イル伯の復活に関係があるかも知れません。

 そういうわけで、ベル=イル伯は宮廷からホされました。しかし1744年、フリードリヒ二世が再度オーストリアを
攻撃したことから、外交官として表舞台へ復帰します。そして、大使としてベルリンへ向かったベル=イル伯でした
が、任務の帰り道にハノーヴァー選帝侯国で拘束され、イギリス本土へ捕虜として連行されてしまいました。

 当時、イギリス国王ジョージ2世は、ハノーヴァー選帝侯であったため、英国とハノーヴァー選帝侯国は同君連
合でした。だから、いかにベル=イル伯が大使級の外交官で、安導権を申請していたとは言え、ハノーヴァーに踏
み込んだのは、不注意としか言いようがありません。
 ベル=イル伯の拘束に対し、フランスはイギリスに抗議しましたが、イギリスは無視します。
 しかし、一年ほど過ぎた1745年5月11日、名将モーリス・ド・サックス(1696-1750 Hermann Maurice de
Sax, ザクセン選帝侯/ポーランド国王フリードリッヒ・アウグスト2世の息子)率いるフランス軍が、ベルギーのフォ
ントノワでプラグマスティック軍を撃破し(フォントノワの戦い, Battle of Fontenoy)、大量の捕虜を得ました。これ
で捕虜交換の話が進み、結局ベル=イル伯は、大使としての礼遇のもとにイギリスから解放されたのでした。

 さて、スルットとベル=イル伯の縁は、間違いなくこの捕虜時代に始まっています。
 「Cerf」があっさり拿捕され、捕虜の身となったスルットでしたが、船医としての務めを果たし、自船の負傷者は
勿論、英艦の負傷者も治療したということです。このおかげでスルットは、逃亡を図らないという宣誓の下に行動
の自由を許され、ドーバーの病院で働きつつ、一年余の捕虜生活を送りました。
 その間に英語を覚え、最終的には、外国人と分からないレベルに達しました。一方、医術についての経験も積
みましたが、こちらはあんまり興味は湧かなかったようです。
 そして、フォンティノワの戦いが終わり、捕虜交換の話がスルットにも聞こえて来ましたが、結局、釈放されたの
は正規のフランス陸海軍軍人だけで、コルセールは捕虜交換の対象外ということになりました。
 そしてスルットは、ロンドンで拘束されていたベル=イル伯に面会すると、軍人と同じくフランスのために戦ったコ
ルセールの釈放に助力を願い、ベル=イル伯は願いを聞き入れ、海軍大臣に進言すると約束したらしいです。ら
しい、というのは、この会見が実際にあったかどうか分からないからです。
 ともあれ、コルセール達がすぐに釈放されることはなく、しびれを切らしたスルットは、8月のとある夜(日時不
明)、ドーバーの港でボートを盗み、シャツの帆とオールの力でドーバー海峡を渡り、翌朝にカレーに到着しまし
た。
 この脱走劇はフランス中の評判となり、ベル=イル伯の耳にも入ります。そして、ベル=イル伯はスルットと会見
して(今度は確実)、彼のことを大いに気に入り、航海術を勉強して本格的に船乗りの道を行くように勧めました。
 スルットはその勧めに従いました。まずはボーイとして私掠船に乗り組みましたが、たった2航海でブローニュ
籍の小型ラガーの船長になっていました。船乗りとしてのスルットの優秀さはともかく、ベル=イル伯の後援が絶
大な力を発揮したのは間違いないでしょう。
 オーストリア継承戦争中のスルットの戦果は、全く不明です。しかし、1748年に戦争が終わった後、スルットは
22歳にして自分の商船を購入しているので、かなりの拿捕賞金を得ていたのは間違いありません。スルットは、
ベル=イル伯の期待に十二分に応えたのです。

フランソワ・スルット、密輸商人になる

 オーストリア継承戦争が終わると、スルットはダンケルクに籍を置く160tの「Argonaute」の船主兼船長として、
イギリスとの貿易を始めました。そしてすぐに、より儲けが大きい密輸に手を出しました。
 この当時、英仏間では密輸業者がはびこっていましたが、密輸と言っても、取引するのはごく普通の貿易品で
あり、麻薬や武器を扱うわけではありません。保護貿易が当然で、国内的にも規制が多い時代だったので、密輸
業者は、(税関以外には)けっこう歓迎される存在であり、かなり大っぴらに活動していました。
 1748年から1752年までの大部分、スルットはロンドンに住み、イギリス人の友人も多くできて、サラ・ヘンリ
エッタ・スミスと言う女性(Sarah Henriette Smith イギリス人、もしくはイギリス人と結婚していたフランス人の未
亡人)と結婚しています。また、この時に友人となったイギリスの聖職者、ジョン・フランシス・デュラント(John
Francis Durand)はスルットの伝記を著し、1760年に出版しています。スルットが、どちらかと言うとイギリスの
方で知名度が高いのは、こういう経緯があるからでしょう。
 ただ、デュラントの伝記は信頼に足るものではありません。この伝記では、スルットはドーバー海峡沿いの港町
ブローニュの出身とされ、15歳の時、アイルランドから来た祖父の親戚にあたる密輸業者に誘われて船乗りに
なり、その後は親戚と別れると、アイルランドとウェールズ一帯で密輸で儲けた、ということになっています。これ
は、デュラントの記述が不正確と言うよりも、恐らく、スルット自身が自分の経歴をこのように語っていたのでしょ
(確かに、ドロボーして故郷を追われた、捕虜収容所から脱走した、私掠船の船長として、自分の船を買えるほ
どイギリス船を襲った、とは流石に言えないでしょう)。
 しかし1753年7月、スルットの「Argonaute」は、アイルランド南部で地元ボルチモア地区税関事務所に拿捕さ
れました。彼はフランスへ送還され、事実かどうかは不明ながら、ダンケルクとパリでしばらく収監されたらしいで
す。
 スルットの主張によれば、単に嵐を避けるためにアイルランドの入江に停泊していただけで、密輸は行っていな
い、ということであり、実際、税関事務所は密輸の証拠を見つけることは出来ませんでした。とは言え、スルットも
認めるように、その前にアイルランドで羊毛の密輸(「密買」か?)をやっており、税関はその事実を掴んでいたよう
です。結局イギリスは、外国船の入港が規制されている港にいたから船を差し押さえた、とフランスに通告したよ
うです。
 スルットは船の返却を求めていろいろ運動しましたが、北米で国境を巡る英仏の武力衝突が激化したため(後
にフレンチ・アンド・インディアン戦争となる)、英仏の外務当局者には、拿捕された密輸船なんぞに関わっている
ヒマはなく、結局この問題はウヤムヤになりました。

comipoで作りました

因果応報で自業自得である。


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