へっぽこじゃないぞ その1

ピエール・アンドレ・ド・シュフラン
(Pierre Andre de Suffren, de Saint-Tropez 1729-1788)
ピエール・アンドレ・ド・シュフラン、マルタ騎士団の位階からバイイ・ド・シュフラン(Bailli de Suffren)としても知られる彼は、帆船時代のフランス海軍で最も有名な士官であり、歴代のフランス海軍の主力艦の艦名にはもちろんのこと、高級ホテルの名前にもなっていたりします。フランス海軍を取り上げる上では、知名度から言ってトップバッターにはふさわしい。

若手士官の時代

 ピエール・アンドレ・ド・シュフラン・ド・サントロペは、1729年7月17日、フランス南部プロヴァンス地方の、現
在のブーシュ・デ・ローヌ県で、地域の大物貴族サン・トロペ侯爵家に兄弟姉妹14人の三番目に生まれました。
 彼が海軍に入ったのには、別に大層な動機があった訳ではありません。当時、フランス貴族の子弟(特に継承
順位の低い子供)の進路と言えば、聖職者か軍隊がメインだったのです。南仏の場合は、マルタ騎士団と言うオ
プションが加わるのが一般的であり、シュフランの場合、両親の意向により、海軍とマルタ騎士団の掛け持ちに
なりました。

 さて、海軍に限らずフランスの軍組織では、貴族でなければ士官になれませんでした。庶民出身の士官もいなく
はないですが、極めて稀であり、また士官になると同時に貴族に列せられています。フランス海軍では8歳から士
官候補生になることができました。現在では、「少年兵」として大変な人権問題ですが、まあ、当時は仕方が無い
です。
 シュフランの場合、1743年10月、14歳で士官候補生としてフランス海軍に入隊しました。ちなみに、イギリス
の士官候補生の不合格率は高かったのですが、貴族の子弟からなるフランス海軍の場合、不合格率はどうだっ
たのでしょうか?誰か教えてください。
 士官候補生シュフランは、戦列艦「Solide (64門)」に配属されますが、時はオーストリア継承戦争(1740-1748)
の真最中。このプロイセンとオーストリアの戦争が、それぞれの同盟者であるフランス(プロイセン側)とイギリス
(オーストリア側)の軍事衝突を招き、1744年からアメリカとインドの支配権を巡る英仏間の抗争が本格化しま
す。そしてシュフランは、すぐに最初の大海戦に遭遇しました。

オーストリア継承戦争 (War of the Austrian Succession/ Guerre de Succession d'Autriche 1740-1748)
イギリス、オランダ、ハノーヴァー、ザクセン、ロシア

オーストリア
vs
プロイセン

フランス、スペイン、バイエルン、両シチリア、スウェーデン

シュレジエンの領有を領有を巡る普墺間の抗争が発端だったが、同盟者達が独自の事情で別に争い始めた。1744年から英仏は戦争状態に入る。

シュフラン、初陣を飾る

 1744年1月、トマス・マシューズ中将(Thomas Mathews 1676-1751) 率いるイギリス艦隊は、フランス/スペイ
ン連合艦隊がツーロン港から出撃しようとしているとの誤報を受け、ツーロン港を封鎖する態勢をとりました。仏
西連合艦隊はこれを迎え撃ち、2月23日(イギリスの暦ではマイナス11日して下さい)、戦闘になりました。
 イギリス艦隊の編成は、前衛がウィリアム・ローリー少将率いる50門以上の戦列艦9隻とフリゲート以下の小
型艦3隻、中央隊は総司令官、トーマス・マシューズ中将直卒の戦列艦10隻と小型艦5隻、後衛はリチャード・レ
ストック少将(Richard Lestock 1679-1746)率いる戦列艦10隻と小型艦1隻。
 西仏連合艦隊は、前衛はフランスのド・ガバレ侯爵(不詳)率いる戦列艦7および小型艦3隻、中央隊はフランス
のラ・ブリーレ伯爵(Court La Bruyere 1666-1752)率いる戦列艦6および小型艦6隻、後衛はスペイン海軍のフ
ァン・ホセ・ナヴァロ(Juan Jose Navarro 1687-1772)指揮する戦列艦11隻および小型艦2隻でした。
 この日の早朝、マシューズは戦列形成の信号をだしましたが、この時レストックの後衛は遅れていました。しか
し1130時、まだきっちりとした一列縦隊が形成されていませんでしたが、ここでマシューズ提督は、交戦信号を掲
げます。そして6時間の戦闘は不徹底な結末となり、双方は大した戦果も損害もありませんでした。
 しかしマシューズ提督は、翌年の軍法会議で、戦列が組みあがっていない状態で交戦命令を出したことが、「ラ
イン・タクティクス」を金科玉条とする戦闘教則の違反だとして有罪となり、11人の艦長達(そのうち二人は特赦で
復職、一人は軍法会議中に死去)とともにクビにされました。その一方、戦列の維持に汲々として戦闘に参加しな
かったレストックは無罪放免となりました(昇進を巡る私怨が原因で動かなかったとの説が有力です)。
 この「ツーロン沖海戦」は、イギリス側に問題のある戦いぶりでした。これでもフランス・スペイン連合艦隊がイ
ギリス艦隊を撃破できなかったことに、何か根本的な欠陥が見え隠れしているのですが、ともかくシュフランは、
初陣を負け戦で汚す破目にはなりませんでした。
 
 さて、ツーロン沖海戦の後、シュフランはフリゲート「Pauline」に乗り組んで西インド諸島へ向かい、そこでしば
らく任務につきました。それから1747年、イギリスの占領下にあったフランスの私掠船基地、ケープ・ブレトン島
(現カナダ大西洋岸、ノバ・スコシア半島と区別がつきにくい島)の奪回作戦に参加しますが、フランス艦隊は、目
的地にたどり着く前に嵐と疫病で痛めつけられ、島の奪回にも失敗します。例え嵐と疫病が無くても作戦が成功
した可能性は五分五分だと思われますが、まあ、突っ込むのは止めておきましょう。
 無事にフランスに戻ったシュフランは、今度はブレストの74門戦列艦「Monarque」に配属され、船団護衛の任
務にあたることになります。しかし、これが不運の元となりました。

 1747年10月25日(イギリスでは14日)の早朝、西インド諸島へ向かう輸送船団252隻を護衛していた
「Monarque」も含むブレスト艦隊は、シリー諸島付近を航行中にイギリス艦隊に襲われました。そもそも、輸送船
団の集結からしてイギリスに情報が漏れていたのです。
 252隻の大船団に対して、護衛はド・レテンデュール少将(Desherbiers de l'Etenduere 1681-1750)率いる5
0門以上の戦列艦8隻、26門フリゲートと64門搭載のフランス東インド会社の大型船の計10隻と言う陣容でし
た。船団の大きさに対して護衛艦が少ない様に見えますが、80門艦1隻、74門艦3隻を含む戦列艦中心の強
力な編成でした……。と言ってはみたものの、ブレスト艦隊は、5ヶ月前の「第一次フィニステルレ岬沖海戦」でも
コンボイを攻撃され、戦列艦と50門艦各2隻を拿捕された上に、護衛任務にお手ごろなフリゲート艦を8隻も一
度に失っていたので、戦列艦中心以外に編成しようがなかったというのが実情でしょう。
 攻めるイギリス艦隊の方は、海軍少将サー・エドワード・ホーク(Sir Edward Hawke 1705-1781)率いる戦列艦
14隻、フリゲート3隻。イギリス側は数では勝っていますが、戦列艦は64門クラスが中心で、70門以上の砲を
搭載している戦列艦は2隻しかなく、大砲の大きさの差(フランスの70門以上の艦は36ポンド砲主力だが、イギ
リスの64門艦は24ポンド砲が主力)もあって、この時イギリス艦隊は、火力では劣っていたとされています。


グリニッジ海事博物館HPより
エドワード・ホーク 男爵 (Sir Edward Hawke, 1st Baron Hawke1705-1781)

 ロンドン出身。1720年に海軍入りしたが、平和な時代が続いたため、初陣は40歳の時のツーロン
沖海戦。1747年には海軍少将に進級。第二次フィニステルレ岬沖海戦で名をあげ、1759年には
「キブローン湾海戦」でブレストのフランス艦隊を壊滅させるなど大活躍するが、少将以上に進級するこ
とはできず、退役のお祝い人事で1765年にやっと中将になれた。1776年、男爵に叙せられる。







 風は南東方向からで、イギリス艦隊はやや風下側でしたが、ホーク提督は「全艦追撃 General Chase」の信号
を掲げ、戦列を分散させてフランスのコンボイを追いました。
 これに対して、フランスのド・レテンデュール少将は、フリゲート「Castor(26門)」とインド会社の大型武装船
「Content (64門)」をコンボイとともに先行させると、残る戦列艦8隻を率いてコンボイとイギリス艦隊との間に留
まり、敵の攻撃を引き付けようとしました。
 逃げるコンボイに、刻々と迫るイギリス艦隊。距離はついに4マイル。しかしここで、フランス側にチャンスが訪
れました。ホーク提督が戦列形成を命じたため、先頭に立っていたイギリス艦が、定位置につくため減速したの
です。そして、戦列形成のため一時間ほど追跡が鈍りました。この間にフランスのコンボイは無事に逃走しました
が、ド・レテンデュール少将は、イギリス艦隊がコンボイを追った場合には阻止できるようにと、風上の位置を保
って、敵との距離を維持し続けました。
 そして戦列を再形成したホーク提督は、護衛部隊の方を狙いました。午前11頃、ホーク提督は再び「全艦追
撃」の信号を掲げて戦列を分散させたので、3隻のイギリス艦がフランス艦隊の風上側に回り込み、戦闘が始ま
りました。しかしド・レテンデュール少将は、こうしたイギリス側の接敵運動に何ら対処しなかったので、フランス艦
隊は一列縦隊のまま、左右から挟撃されてしまいます。この結果、勇戦敢闘も空しく、フランス艦隊は列の後尾
から順番に撃破されて行きました。戦闘開始から3時間の間に、戦列の後尾3隻が降伏、さらに午後3時半頃、
シュフランの乗艦である「Monarque」も降伏して拿捕され、シュフランは捕虜となりました。フランス側の証言によ
ると、この時イギリス艦隊は、マストと索具を破壊するための鎖付き弾や棒型弾を多用したという事です(←イギリ
ス海軍はこの種の砲弾は数斉射分しか用意しないのが普通で、本当かどうかはわかりません)。
 それから乱戦となりますが、この時点でもはや勝敗は明らかでした。ド・レテンデュール少将の旗艦「Tonnant
(80門)」はマストと索具に大損害を受けつつも、僚艦「Intrepide (74門)」の必死の援護のおかげで風下側へ逃
走、ブレストに帰還しますが、この戦場から逃れ得たのは旗艦「Tonnant」と「Intrepide」のみ。他の艦は全て拿
捕されました。
 この第二次フィニステルレ岬沖海戦では、フランス艦隊は74門艦3隻、64門艦2隻、50門艦1隻の計6隻を
拿捕され、その一方、1隻のイギリス艦を沈めることも拿捕することも出来ませんでした。帆船時代の海戦の場
合、勝った方が大抵は戦場に留まるので、たとえ降伏を余儀なくされた味方艦があってもそのまま回収されてし
まいますから、戦果に大差がつきがちなのは確かです。しかし第一次フィニステルレ岬沖海戦に続いて、フランス
海軍の二回連続の大敗北でした。
 大勝利をあげたホーク提督ですが、彼の艦隊もまた損害が大きく、コンボイ追跡を諦めました。ド・レテンデュ
ール少将は任務を果たしたかに見えるのですが、これをもって「フランスの戦略的勝利」と言えないのが悲しいと
ころで、ホーク少将が高速船を送って警報を発していたので、護衛に見放されたフランスのコンボイは、カリブ海
で大部分が拿捕されたのでした。

 この戦いにおけるド・レテンデュール少将の、任務を全うしようとした責任感は立派ですし、フランスの各艦も奮
戦しましたが、それでも、指揮の拙劣さは素人目でも明らかです。
 まず第一の問題は、ただでさえ少ない戦力を分散させたことです。たかが2隻の護衛がついていたところで、襲
撃に対処できる筈はありません。まさしく申し訳程度の行動でしかありません。しかし、護衛の本隊の方に2隻の
軍艦、特に64門艦「Content」があれば、相変わらず数で劣っているものの、もう少しマシな戦い方が出来たか
もしれません。現実的な選択肢は、一丸となって戦うか、みんなでコンボイにくっついて行くかのどちらかだと思わ
れます。そしてもう一つ、ただ漫然と一列縦隊を保ったまま航行を続け、背後から迫るホークの部隊に対して有
利な位置を保とうと言う動きは何ら見せず、列の後ろから叩かれるままでした(←まあ、この無策がある限り、レ
テンデュール少将が何隻軍艦を持っていようと、大した意味はなさそうですが)。当時のフランス海軍が抱えてい
た問題、すなわち、イギリス海軍に対して士官の質と戦術で劣ると言う問題が、明確に現れています。


シュフラン、また捕虜になる

 1748年1月、オーストリア継承戦争の終結とともに、シュフランは3ヶ月ほどで捕虜の身から解放され、無事に
帰国、いったんフランス海軍を離れてマルタ騎士団で働き、「Caravan」と呼ばれるガレー船でエーゲ海近辺のパ
トロールを行いました。一度だけ海賊と遭遇した以外、極めて平穏な任務だったようです。ただ、専門的なことは
よくわからないのですが、地中海のガレー船と当時の大型帆船とでは性質がまるで違うということであり、シュフ
ランにとっては、艦船運用術の経験を広げる上では有益な経験だったのではないでしょうか。とは言え、マルタ騎
士団で働きつつも、シュフランほど卓越したシーマンシップを発揮しなかったフランス海軍士官も多々居るので、
なんと言うか、天性のものかも知れません。
 1751年までマルタ騎士団で勤務した後、シュフランはフランス海軍に復職、士官(lieutenant)に任官しました。
 しかしこの後、平和は長く続かず、諸般の問題を巡って英仏の対立は先鋭化し、1755年には。ついに植民地
の境界を巡って北米で武力衝突が発生、戦列艦「Dauphin Royal (74)」に乗り込んでいたシュフランは、ニューフ
ァウンドランド沖を航行中にイギリス海軍に攻撃されました。
 そして1756年には、ヨーロッパでも「ドイツ戦争」、後世に言う「七年戦争」が始まり、世界の半分を戦場とする
大戦争となってしまいます。

七年戦争 (Seven Years' War/Guerre de Sept Ans 1756-1763)
イギリス、ハノーヴァー、ポルトガル、ヘッセ・カッセル、ヴルンスヴィック

プロイセン
vs
オーストリア(神聖ローマ帝国)

フランス、スペイン、ロシア、ザクセン選帝侯国、両シチリア、スウェーデン、サルディニア

 ヨーロッパでは、1754年から武力衝突が散発的に発生しており、海上でも1755年から戦闘が発生していた。
 発端はまたしてもシュレジエンを巡る普墺間の抗争であり、同盟者達が独自の事情で別に争い始め、最終的に北米からフィリピンまで、世界の半分を戦場とする大戦争になる(たった8年では人類は進歩しなかった)。フランスは大敗し、海外権益と植民地の大半を失った。

 戦列艦「Orphee(64)」に移っていたシュフランは、緒戦のミノルカ島攻略作戦に参加しました。ミノルカ島はもと
もとスペイン領でしたが、スペイン継承戦争(1701-1714)の結果、イギリス領になっていたのです。
 ただこの時、イギリスはミノルカ島をほったらかしにしていました。そして、イギリス地中海艦隊を指揮するビン
グ中将(John Byng 1704-1757)は無能もしくは無気力な人物で、ミノルカの主都ポート・マオンがフランス軍に包
囲されてからやっとジブラルタルを出たものの、戦列の維持に汲々とするあまり積極的な攻撃を行わず、突出し
た前衛を叩かれるがままにして見捨てました。前衛は信号の誤読で勝手に突出したのですが、ビング提督は、1
744年のマシューズ提督の事件を考えて、戦列を分散させて乱戦に持ち込むことをためらったのでした。いかに
も当時のイギリス海軍らしい失敗です。この戦いの後、ビング提督は軍法会議にかけられ、戦う義務を放棄した
ということで有罪となり、哀れ銃殺刑に処されました。
 フランス艦隊の指揮官ラ・ガリソニエール侯爵(Roland-Michel Barrin de La Galissoniere, Marquis de La
Galissoniere 1693-1756)も、ポート・マオン攻略の支援を重視して、適当に戦った後に退却しました。これまた、
当時のフランス海軍らしい行動ですが、そうでなければ、イギリス艦隊は大損害を受けていたでしょう。この消極
性もまた、シュフランの不満のタネとなりますが、とにかくシュフランは、勝ち戦の場に居ることが出来て幸運でし
た。

 しかし、戦争全体をみると、フランスの優位は長く続きませんでした。
 この戦争におけるフランスの対英大戦略は、ブレストに在泊している大西洋艦隊と、ツーロンを基地とする地中
海艦隊とを合流させて英仏海峡の制海権を奪取(できたらいいなぁ)、イギリス本土もしくはアイルランドへの上陸
作戦を決行(できたらいいなぁ)、と言うものでした。問題は、二つの艦隊が合同したところで数で劣っており、しか
もブレストもツーロンもイギリス艦隊に封鎖されていたと言うことです。それでもこの戦略は実行に移されますが、
結果としてフランス海軍に破滅的惨事をもたらしました。
  先に破滅したのは、シュフランの属する地中海艦隊でした。
 1759年7月、ツーロン港を封鎖していたボスコーエン中将(Edward Boscawen 1711-1761)率いるイギリス艦
隊は、補給と修理のため、いったんジブラルタルに引き上げました。8月5日、ツーロン艦隊司令官ド・ラ・クルー
中将(Jean-Francois de La Clue-Sabran 1696-1764) は、旗艦「オケアン Ocean(80門)」以下、戦列艦10、5
0門艦2、フリゲート3からなる部隊を率いてツーロンから出港します。この時シュフランは旗艦に勤務していまし
た。
 この出港は、即座にイギリスの偵察艦に察知されるところとなりますが、移動手段=通信速度の時代ではあり、
ジブラルタルのボスコーエン提督が警告を受け取ったのは8月17日。イギリス艦隊は直ちに出港しました。
 その8月17日、幸運にもフランスの全艦は、妨害を受けることなくジブラルタル海峡を通過することに成功して
いました。ド・ラ・クルー中将は、可能な限り迅速に大西洋に出ることを第一として、それぞれ船脚も違う全艦船で
一丸となって行動することはせず、スペイン南部のカディス沖を集合地点として、各艦ばらばらの状態でジブラル
タル海峡を通過させたのでした。
 夜半、フランス艦隊は会合点に集合し、西へ向かって航海を続けようとしました。しかしこの時、フランスの幸運
は既に尽きており、ボスコーエン提督のイギリス艦隊が追いつきつつあって、フランス艦隊の後尾では戦闘が始
まっていました。
 フランス艦隊、逃げる、逃げる、ひたすら逃げる。しかし夜間のことゆえ信号が完全に伝わらず、列の後ろにい
た艦は旗艦を見失い、戦いながらスペインのカディス港に逃げ込みました。この行き違いの結果、戦列艦とフリ
ゲート各3隻、50門艦2隻という、かなりまとまった戦力が脱落します。イギリス艦隊が近くにいる状況で、目立つ
ロケット花火や灯火ではなく、号砲だけで信号を送ったことが原因だと言われています。また、ブレストへの安着
を第一と言う命令を受けていたことが、ド・ラ・クルー中将の判断に悪影響を与えたと、後で批判されることにもな
りました。
 翌8月18日、ツキに見放されたフランス艦隊は凪に捕まって距離が稼げず、一方のイギリス艦隊は東の追い
風に乗って距離を詰めました。そしてド・ラ・クルー提督は、迫りくるイギリス艦隊を視認した時、愚かにも前夜に
落伍した味方だと勘違いして接近を許したと言われています。彼は戦死してしまったので、真相は何ともわかりま
せんが、なんであれ速度を落としたのは間違いない事実なので、やはり賢明な判断を下したとは思えません。  
 戦闘は昼頃から始まりました。フランス艦隊は数で絶望的に劣っていましたが、それでも勇敢に戦いました。ボ
スコーエン提督の旗艦「Namur (90門)」は、「オケアン」との戦闘で大破し、折れたマストを海に引きずる状態とな
ったので、ボスコーエン提督は退艦を余儀なくされました。
 その後ド・ラ・クルーは退却を命じ、はた迷惑この上無きことですが、中立国ポルトガルのラゴス港に逃げ込もう
とします。この時、損傷のひどかった74門艦「Centaure」が見捨てられ、イギリス艦隊に拿捕されました。しか
し、肝心の「オケアン」はラゴス湾口で座礁してしまい、イギリス艦隊に追いつかれて降伏、焼却されて、シュフラ
ンも捕虜になりました。ド・ラ・クルー中将は戦闘で重傷を負っており、この時すでにラゴス市内に移送されていま
したが、結局はそこで死亡しました。
 この戦闘の結果、ラゴスまで逃げきったフランス艦は2隻だけで、結局フランス艦隊は、74門艦2隻、64門艦
1隻を拿捕され、「オケアン」と他にもう1隻が座礁/焼却で、計5隻もの戦列艦を一度に失いました。そしてカデイ
スでもラゴスでも、逃げ込んだ艦はそのまま封鎖や抑留の憂き目を見て、動けなくなります。かくしてフランス地
中海艦隊は壊滅しました。

 この時点で、フランスの対英戦略は不成立確定です。それでもなおイギリス本土攻撃をあきらめないフランスで
したが、ラゴス沖海戦のショックも覚めやらぬ10月、「キブローン湾の海戦」でブレスト艦隊までも大敗し、壊滅し
ました。これ以降、どこであろうと制海権は完全にイギリスのものとなり、七年戦争の間、フランス海軍はおおよ
そマトモな作戦行動が出来ないありさまとなり、たまに戦えば必ず負け、予算不足も手伝って一時は稼動する戦
列艦が1隻も無い状態となりました。必死の努力で、終戦の年には艦隊は再建されましたが、それでも戦争には
大敗北。海外植民地や権益のほとんどを失ってしまうのでした。
 しかし、この大敗北の屈辱が、フランスがアメリカ革命戦争に介入する原因となり、アメリカ合衆国誕生につな
がったのは「ジョン・ポール・ジョーンズ」のところで述べたとおりです。


英仏海軍の問題点

 さて、ここらでシュフランが生きた18世紀における、英仏の海軍が抱えていた問題点を整理しておきましょう。

 まずはフランス海軍から。

 ルイ14世の時代、フランスは、財務大臣コルベール(Jean Baptiste Colbert, 1619-1683)の主導の下で一大
海軍力を建設しました。コルベールの死後、海軍は重視されなくなりますが、それでも一時は、数え方にもよりま
すが、ライバルであるイギリスとオランダの海軍力の合計よりも大きな艦隊を整備していました。
 しかし、大同盟戦争(1688-1697)、スペイン継承戦争(1701-1714)など、長期にわたる戦争が続き、どうしても
フランスの死命に直結する(と思われる)陸の戦いが重視されたので、海軍は規模縮小を余儀なくされ、イギリス
海軍の、あとの時代を考えれば緩やかな増強のペースにもついていくことはできませんでした(それでも、オラン
ダ海軍の縮小に伴い、フランスはイギリスに次ぐ海軍国でした)。

 次に、これは海軍の運用に関する方針の問題ですが、海軍の存在は防御的なものであり、また陸軍の戦闘を
補助する手段とみなされていました。帆船時代のフランス海軍とは制海権の奪取を目的とするものではなく、例
えて言えば、どこぞの地域に陸軍部隊を送り込んだり、補給物資を送り届けたりすることが出来れば良く、その
為の航路なり血路なりを開くことが出来ればそれで良いとされていたのです。
 そして、フランス海軍の行動は概して消極的でした。コルベールが生きていた時代においても、ルイ14世の介
入によって消極性の弊害は現れていました。第三次英蘭戦争の時にフランス艦隊が取った行動はその典型で
す。このため、フランス海軍の基本戦術は、敵艦に対して退避しやすい風下の位置をとり、防御的な姿勢で自艦
の安全をはかりつつ交戦せよというものでした(そして交戦に際しても、マスト狙いの砲撃と切り込み戦闘と言う問
題の多い方法でした)。

 シュフランが生きた18世紀後半になると、コルベールの遺産はすっかり食いつぶされており、フランスの海軍
力は、イギリス海軍に対して数で絶対的に劣るようになっていました。逆説的ですが、防御重視の戦略もまた卓
見と言える状況となっていましたが、残念ながら、個人であれ集団であれ、どんな形の争いでも、消極的な側が
積極的な側に勝つことは滅多にありません。
 そして、極めて重大な問題として、フランス海軍のシーマンシップは、全般的にイギリス海軍、そしてオランダ海
軍にかなり劣ると言う点があげられます。
 その最悪な例は「キブローン湾の海戦」であり、この海戦でフランス艦隊は10隻もの戦列艦をいっぺんに失い
ましたが、その内、荒天の中で下層砲門を開けっ放しにしたため浸水して沈没したもの二隻、自国の沿岸、それ
も基地であるブレストのすぐ近くの海域で座礁して焼かれたもの二隻、ジロンド川に逃げ込もうとして自軍の防材
に衝突して沈没したもの四隻と、船乗りとしての職業意識からして疑わしい大失態を演じており、フランス海軍の
艦船運用術、ひいては士官のレベルは、素人目に見てもお粗末、と言っても怒られはしないでしょう。少なくとも、
その職業に対する意識については、我々現代人の目から見ても、正当な批判の対象になると思います。公平を
期すために書いおくと、サー・エドワード・ホーク率いるイギリス艦隊もまた、「キブローン湾の海戦」で2隻の戦列
艦を座礁で失っていますが、悪天候の中、不案内な海域で果敢に敵を追跡した結果であり、フランス艦の事故と
は性質が違います。

 フランス海軍士官の間には、イギリス海軍に対する劣等感と言うべきかも知れませんが、消極的な姿勢がしみ
つき、そこにAncien regime的な貴族人事による平均的な無能さが加わっていたように思われるのです。例えとし
ては間違っているかもしれませんが、最新のステルス戦闘機であっても、パイロットと空軍組織がダメならどうし
ようもないのと同じことです。

 七年戦争で大敗した後、宰相ショワズール公爵(Etienne Francois de Choiseul 1719-1785、そもそもの発端
である七年戦争のマズい戦争指導に突っ込んではいけません)の主導により、造船技術の改善、海軍士官学校
の創設(時期的にシュフランはその恩恵にあずかれなかった)、水兵の専門的な訓練制度(強制徴募に半分近くを
頼るイギリス海軍よりも進歩的)、そして艦名にする名誉と引き換えに都市から建艦資金を募るなど、再建にかけ
るフランス海軍の努力には、並々ならぬものがありました。しかし、アメリカ革命戦争の時期にはまだ効果が十分
にあらわれておらず、相変わらず「慎重、節約、防御戦(B・タックマン 『最初の礼砲』より)」が、フランス艦隊の基本理
念であり、士官の質も改善しませんでした。もちろん、シュフラン、ド・グラース伯爵(Francois Joseph Paul,
marquis de Grasse Tilly 1722-1788 この人もマルタ騎士団員)など、有能な士官も居ましたが、残念ながら、ま
だまだ例外的な存在でしたし、いろいろとしがらみがあったのか、概して昇進も遅い方でした。この後で登場する
デスタン伯爵は、シュフランにはクソミソに言われましたが、当時のフランス海軍では有能で積極的な方だったの
です。
 また、アメリカ革命戦争の最終章で、チェサピーク湾のド・グラース伯爵がイギリス艦隊を追い払えたのは、伯
爵が正しい行動を取った結果であることは間違いない反面、イギリス艦隊の指揮官が、例外的に消極的で、戦
列の維持に汲々としたせいなのも否定できません(要するに、フランス艦隊の能力が敵に勝ったわけではない)

 一方のイギリス海軍の方も、この時代には大問題を抱えていました。

 まずは、伝統的な組織の腐敗と非効率でした。官僚が予算をネコババするのは当たり前で、補給に際して、担
当者が艦長達から賄賂を取るようなことが平然と行われ(艦の準備が整わないと艦長の管理責任が問われる)、
艦長達は艦長達で、主計長と結託して被服や食料を部下達に高値で売りつけたり、架空の乗組員の名で給与を
請求するようなことをしていました(これに関しては、死亡者の遺族を養うためでもありましたが)。
 官僚や士官だけでなく、造船所の工員達は、ひどい時には資材の半分近くをかっぱらい、それで木製品を作っ
て稼いでいました。水兵達だけがワリを食い、遅配が日常的な150年間賃上げ無しの安い給料、劣悪な居住環
境にキツイ勤務、強制徴募(はっきり言って拉致)と悲惨ですが、平時ではロクに訓練もされず、昼間から酒を飲
んでいても士官は咎めなかったと言うから、なかなかです。

 名誉革命(1688年)以降のイギリス海軍には、強敵オランダ海軍が同盟者となり、二度の戦争でフランスとス
ペインの海軍よりも強いことを証明して、さらにスペイン継承戦争以降、宿敵フランスとの間には、オーストリア継
承戦争まで長く友好関係が続くなど、危機感を失う条件が多々ありました。名誉革命以前でも、海軍の運営は大
雑把でいい加減でしたが、それがいっそう酷くなったのも、ある種、自然なことだと言えます。
 そして1770年代になると、七年戦争が大勝利に終わった慢心、戦後の財政難、そしてかの有名なサンドウィ
ッチ伯爵(24時間トランプし続けるためにサンドウィッチを考案したと言われるバカ役人)の登場により、イギリス
海軍の腐敗と沈滞はピーク、ではなく最深点に到達しました。

 予算削減の折にも、強引に戦力を維持しようとしたことが混乱に拍車をかけ、またイギリス国内の森林資源の
枯渇がもう一発拍車をかけた結果、1777年の調査では、「就役中」の戦列艦の半分以上が使用不能な状態で
した。イギリス海軍はもともと物持ちの良い軍隊で、新造するより古い軍艦を大修理して使う傾向がありました
が、このこともまた、就役不能な「就役艦」を多数生み出しました。こうして生じた軍艦不足が、アメリカ革命戦争
においてフランス海軍、および大陸海軍が善戦出来た理由でもあります。
 しかし、このような状態においても、戦闘部隊としてのイギリス海軍はきわめて強力であり、かつライバル海軍
は弱すぎました。これが、問題意識の拡大を妨げていたように思われます。結局、フランス革命とナポレオンの
台頭による危機感が、自然にイギリス海軍を立ち直らせ、1832年にジェームズ・グラハム提督(Sir James
Graham 1792 - 1861 1830-34の第一海軍卿)が海軍本部の改革に成功してようやく、体質的腐敗は姿を消す
ことになりました。

 次に戦術面の大問題として、第一次英蘭戦争では大成果を挙げた「ライン・タクティクス」が硬直化して、「戦闘
教則」としてイギリス海軍の金科玉条となり、その結果、戦いに臨む海軍士官の自由な行動を奪ってしまったと言
うことです。その究極がツーロン沖海戦でのレストック提督であり、銃殺されたビング提督でした。この二人の提
督の例は、士官の多くを委縮させてしまい、この後イギリス海軍では、戦列を組むために交戦のチャンスを逃し
たり、接敵に失敗するという事態が多々発生します。敵たるフランス海軍が概して逃げ腰なことが、さらに敵を捕
捉し難くしていました。
 「ライン・タクティクス」とは火力を最大限に生かせる半面、もともと防御的な戦術でした。そして、彼我が戦列を
がっちり組んだ状態での海戦では、戦術レベルで明確に勝敗がついたものは無く、戦果も損失も極めて少なくな
っています。早い話、ヤバい損害を受けた艦は、敵と反対側に舵を切れば良く、味方の戦列の援護の元で離脱
するなり、応急修理するなりすればよかったのです。第一次英蘭戦争でイギリス艦隊が大戦果を挙げたのは、火
力と射程で劣るにも拘らず攻撃的なオランダ艦隊が、無思慮に突進したせいでもあります。
 そしてこの「ライン・タクティクス」は、戦列を分断されてしまえばもろく、分断された側はほぼ確実に敗北してい
ます。また、18世紀以降、勝敗が明確な形で現れた海戦では(常にイギリス海軍が勝っていますが)、どちらかが
戦列を分散させて乱戦になっています(←分断されるのではなく、意図を持って散開している)。ただ、戦列を崩し
た側が必ず勝つと言う訳では無いのが、悲しい現実なのですが。

 しかしイギリス海軍の場合、戦闘教則の呪縛に苦しみながらも、サー・エドワード・ホーク、ボスコーエンなど、こ
こぞという場面で決定的勝利を挙げる有能な提督達がいました。抽象的ですが、これが伝統に裏打ちされた、フ
ランス海軍との質の違いでしょうか?

シュフラン、艦長になる
 捕虜となったシュフランでしたが、戦争終結2年前の1761年に、捕虜交換で帰国することが出来ました。た
だ、捕虜になった時の扱いがひどかったらしく、シュフランはイギリス人に対して強い反感を持つようになったと言
われています。
 帰国したシュフランは、恐らく釈放時の捕虜宣誓によるものと思われますが、フランス海軍には戻らず、マルタ
騎士団で働きました。ここで初めて指揮権を得た彼は、ジベックの船長に任命されてバーバリ海岸で海賊退治に
いそしみました。それからフランス海軍への復帰し、モロッコのフランス大使館付きなどの経験の後、1772年、
フリゲート艦艦長(Capitaine de fregate)に任じられ、地中海でパトロール任務につきました。ちなみに、当時の
フランス海軍の艦長職は、コルベット艦艦長(Capitaine de corvette)、フリゲート艦艦長(Capitaine de
fregate)、戦列艦艦長(Capitaine de vaisseau)に分かれており、それぞれ少佐、中佐、大佐に該当して、現在で
もこの呼称は受け継がれています。
 さて、そうこうしているうちに、アメリカ革命戦争が始まりました。植民地の肩を持ちつつ態度の定まらないフラ
ンスでしたが、サラトガの戦いの結果、フランスはついにイギリスとの戦争に突入します。
 戦列艦艦長に進級していたシュフランは、64門戦列艦「Fantasque」を指揮し、デスタン伯爵の指揮下に配属さ
れ、1779年、北米への遠征に参加しました。
アメリカ革命戦争 (American Revolutionary War/Guerre d'independance des Etats-Unis d'Amerique 1775-1783)
ヘッセ・カッセル(傭兵の提供のみ)

イギリス、王党派
vs
大陸会議

フランス、スペイン、オランダ

 フランスは七年戦争の復讐のためにアメリカを支援、スペインは半ばフランスの口車に乗った格好で参戦し、オランダは反乱地域との貿易を阻止しようとするイギリスから宣戦布告された。オランダは後に、宣戦布告は間違いだったとイギリスから公式に謝罪される。
 
  アメリカに到着したデスタン伯爵は、まずは大陸会議の要請により、イギリス軍に占領されていたニューポート
の奪回を目指す「ロードアイランドの戦い」に参加して、ニューポート包囲軍にフランス陸軍を合流させると、ナガ
ランセット湾の海上封鎖を行いました。
 この戦いでは、シュフランはその卓越した操船術を発揮し、「Fantasque」でフリゲートの一団を先導してニュー
ポート港に突入して、停泊中のイギリス艦隊を港から追い出しました。この結果フランス艦隊は、フリゲート5隻、
スループ艦2隻、ブリッグ1隻を拿捕するか自沈に追い込むかしました。戦果は計6隻とする資料もありますが、
フランス艦隊の勝利には違いありません。デスタン伯爵は、シュフランの「Fantasque」に向って「ブラボー」と叫ん
だと言われていますが、悲しいことにこれが、デスタン伯爵が大陸会議に直接役に立った唯一の戦闘となったの
でした。

 この後フランス艦隊は、ニューヨークから追いかけてきたハウ提督(Richard Howe 1726-1799)率いるイギリス
艦隊に攻撃されます。この戦闘そのものは大したことはなかったのですが、風上側の優位に立ちつつも、デスタ
ン伯爵は積極的に敵を攻撃しようとしませんでした。そして、うろうろしている間に大嵐に襲われ、喪失艦は無か
ったものの大損害を蒙りました(ハウ提督も引き上げたので、ある意味神風です)。この修理のためということで、
デスタン伯爵は陸軍部隊を撤収させると、ニューポート攻略作戦をほったらかしてボストンに引き上げたので、大
陸会議の怒りを買い、シュフランもデスタン伯爵の無責任さに怒りました。
 11月になると、デスタン伯爵の艦隊は西インド諸島作戦(フランスの介入の本来の目的であり、またイギリスの
戦争経済に重要な地域だった)に向かいました。
 1779年12月15日、デスタン伯爵は、イギリス軍に占領されたセント・ルシア島の奪回を試みました。しかし、
戦列艦7隻の敵に対して12隻の優位にありながらも、フランス艦隊は二度の攻撃を撃退され、島の奪回に失敗
しました。このセント・ルシア島は、フランス領西インドの総督府所在地でフランス海軍の根拠地であるマルチニ
ーク島のすぐ南にあり、距離は50kmほどしかありません。セント・ルシア島の奪回に失敗したことは、フランスに
とって後で大きな禍根となるのですが、まあ、これはシュフランの経歴とは関係ない話です。

ジャン・バプティスト・シャルル・アンリ・エクトール、 デスタン伯爵
(Jean Baptiste Charles Henri Hector, Comte d'Estaing 1729-1794)

 七年戦争が始まるといきなり大佐の階級で陸軍に入っており、階級を金で買ったのは明白。インドでし
ばらく戦った後捕虜になるが、捕虜交換でフランス東インド会社に助けられる。その後はフランス東インド
会社の武装船を指揮してイギリス船を攻撃していたが、1760年にイギリス海軍に捕まり、捕虜生活の
後、1763年にフランスに帰国した。大した手柄も無かったが、海上経験が買われ、七年戦争後の海軍
改革の一環として、陸軍出身ながら海軍少将に任命された。
 アメリカ革命戦争にフランスが介入すると、北米派遣艦隊の指揮官に任命されるが、ニューポートでの
無責任な行動(少なくともそのように見える行動)や、サバナでの拙劣な戦いぶりは大陸会議とフランス
宮廷の大顰蹙を買った。しかし、カリブ海ではそこそこの成功を収めており、タナボタ式ながら戦果も多
く、拿捕したイギリス軍艦の数では、同時代のフランス海軍提督の中でも最多と思われる(少なくともシュ
フランより明らかに多い)。1780年、サバナ奪回作戦で負傷し、本国からの命令で帰国する。宮廷では
冷遇されたが、それでも終戦直前には、フランス・スペイン連合艦隊の総司令官に任命されている。
 革命思想に共鳴していたデスタン伯爵は、フランス革命後は軍の重要なポストを歴任した。しかし、王
室への忠誠は捨てていなかったため、マリー・アントワネット裁判のとばっちりを食い、ギロチンにかけら
れた。
 サバンナの戦いでは、その勇敢さをいかんなく発揮しているが、どう贔屓目に見ても有能ではない。ま
た、海上経験の無さを自覚していたが、傲慢で尊大、独裁的な性格故に、部下の助言を聞き入れないた
め、その行動は慎重すぎ、不徹底すぎだった。戦果をあげているにもかかわらず、当時のフランス海軍の
だめっぷりの代表者とされる。

 その後、あちこちから増援を受けたデスタン伯爵の艦隊は戦列艦25隻の戦力となり、1779年6月18日にイ
ギリス領セント・ヴィンセント島を、6月30日にはグレナダ島を占領しました。さらに7月6日、グレナダ島の奪回
を目指して現れた、ジョン・バイロン提督(John Byron 1723-1786 詩人バイロンの父)率いる21隻の艦隊を追い
払い(グレナダ沖海戦)、占領した島を確保することに成功しました。
 このグレナダの海戦では、デスタン伯爵は敵の行動を読んで待ち構えており、しかも、バイロン提督の拙劣な
指揮でイギリス艦隊の戦列がバラけていたため、極めて有利な態勢で戦いに臨むことができました。にもかかわ
らず、フランス艦隊は敵艦を一隻たりとも拿捕も撃沈もできず、またデスタン伯爵は、敗走するイギリス艦隊を追
撃しませんでした。シュフランはまた、このデスタン伯爵の消極性に対して、強い不満を抱きます。

 ただ、シュフランがいかに不満を述べようとも、グレナダを確保したことで、デスタン伯爵はカリブ海地域におけ
るフランス海軍の優位を確立することに成功しました。このままならば、ニューポートの失敗は、デスタン伯爵にと
っては、多少のバツの悪さだけで済んだかもしれないのですが、そうはならないのが世の中というもの。この後、
アメリカの独立派およびデスタン伯爵にとっては一大不幸となる、「サバナ包囲戦」とあいなるのです。そして、こ
の不幸はある意味、シュフランの昇進の契機となりました。

デスタン伯爵、奮闘するも死にかける

 さてアメリカでは、1778年末、北部で劣勢に陥ったイギリス軍は南部地域に目を移し、ジョージア植民地の制
圧作戦を開始しました。ジョージア植民地は人口が少なくて革命派軍は手薄、また最も歴史が浅いゆえに王党派
人口が多いため(もしくは、多いように見えたため)、反攻拠点として最適だと考えられたのです。1778年12月2
9日、イギリス軍は、当時の植民地首都で重要な港湾都市のサバナ(Savannah)を占領、市民は王室への忠誠
を誓約したので、革命戦争が終わるまで、そのままイギリス軍に確保されることになります。そして翌79年の前
半までに、イギリス軍はジョージア全域から革命派軍を一掃することに成功しました。 
 
 1779年夏、グレナダを確保して一息つける状態となっていたデスタン伯爵は、フランスの外務当局と南部地
域の大陸軍司令官ベンジャミン・リンカーン将軍(Benjamin Lincoln, 1733-1810)から、サバナ市奪回のための
海陸共同作戦を提案されました。
 ニューポートでの失敗に後ろめたさと恥ずかしさを感じていた伯爵は、この提案には熱心すぎるほどに協力し、
軍艦22隻を含む37隻の艦隊と、陸軍部隊4000人をかき集め、カリブ海のフランス支配地域をほとんどガラ空
きにしてまでサバナに出向きました。
 そして1779年9月10日、デスタン伯爵率いるフランス艦隊はサバナ河口を急襲、50門艦1隻を含む何隻か
のイギリス船を拿捕し、要塞を占領して河口を封鎖すると、9月12日から陸軍部隊の上陸が開始されました。
 かくして、サバナ奪回作戦が開始されますが、作戦はデスタン伯爵の並々ならぬ熱意と主導権(でしゃばりとも
言うが、兵力量から言って仕方がない)のもとに進められ、フランス軍は単独でサバナへ移動しました。このため
リンカーン将軍は、デスタン伯爵がフランス国王の名でサバナを占領するのではないか、との危惧すら抱き、準
備不足のまま急いで後を追う破目となります。
 9月16日、デスタン伯爵は、サバナの守備隊に降服勧告を行いました。先方の名誉を慮って、反乱者である大
陸軍ではなくフランス軍に対して降伏するように呼び掛けたのは良かったのですが、守備隊の指揮官、プレブォ
スト将軍(Augustine Prevost 1725-1786)の24時間休戦の申し出を受け入れてしまいます。そしてこの休戦の
間に、プレブォスト将軍は突貫工事でサバンナの防衛を劇的に強化し、さらには援軍との合流も果たしました。2
4時間の間に4箇所だった保塁は13か所になり、1700人だった兵力も2500人になりました。もっとも、こうい
うことをしたおかげでプレブォスト将軍は、女性と子供を市内から退去させるための休戦を断られ、市民に犠牲を
強いることになりました。デスタン伯爵の方は、降伏勧告なんかせずにこの時に強襲していれば、サバナは陥落
していたはずだと非難されました(「釣り落とした魚」効果を考慮しても、攻撃に成功した可能性は高いという)。

 さて、包囲側の兵力は、デスタン伯爵が指揮する仏領西インド諸島の島々から引き抜いた寄せ集めのフランス
軍4000人(合同訓練は全くしていない)と、リンカーン将軍率いる大陸軍、ポーランド人義勇兵、独立派民兵など
これまた寄せ集めの2000−3000人。人数は十分でしたが、馬匹と荷車の不足で攻城装備の揚陸や部隊の
展開は遅れに遅れ、大陸軍が仏軍に合流したのは9月23日、攻囲塹壕の工事が始まったのが9月24日、重砲
の設置が終わったのはやっと10月3日の夜になってからで、その日からサバナ市内への砲撃が開始されまし
た。
 しかし、10月に入った時点で、デスタン伯爵は焦り始めていました。ハリケーンシーズンの到来、艦隊の補給
不足(壊血病の死者が出始めた)、一ヶ月のサバナ滞在で、そろそろイギリス艦隊が現れるのではないかという心
配など、焦った理由はどれも、確かに的を射てはいました。
 そして焦ったデスタン伯爵は、砲撃の効果がまだなく、サバナの防衛施設の破壊にはさらに10日ほどかかる、
と工兵隊から警告されつつも、黎明奇襲で一気にカタをつけようと考え、10月8日、リンカーン将軍からも奇襲作
戦への同意をとりつけました(「押し切った」とも言う)。そして、伯爵自ら指揮するフランス軍3500人と、大陸軍と
ポーランド人義勇兵を中心とする1500人(2100人?)のアメリカ軍が、作戦に投入されることになりました。

 しかし、これが大失敗。脱走兵によって攻撃があることが漏れていたと言われていますが、それでなくとも、真
夜中に沼地を突破すると言う進軍ルートが最悪で、予定時間までに各隊が所定の位置につくことができず、連携
が取れないばらばらの突撃となりました。デスタン伯爵も、作戦実施にあたっての検討や意見交換が不十分だっ
たことを認めています。なんであれ、降服勧告で敵の防備を固めさせたため、時間のかかる正攻法を採らざるを
得なくなり、それで時間切れとなった(少なくとも、伯爵はそう思い込んだ)わけですから、確かにデスタン伯爵は、
どう罵られても仕方がない気がします。
 10月9日の早朝、デスタン伯爵自ら先頭に立ってフランス軍部隊は突撃し、保塁の壁にとりつくもそこで阻止さ
れました。デスタン伯爵はまず腕に被弾して軽傷を、退却中には太腿に被弾して瀕死の重傷を負います。アメリ
カ軍の攻撃も同様にあっさりと撃退されてしまい、2時間の戦闘でフランス軍およびアメリカ軍の死傷者は800人
を超え、作戦は大失敗。一方のイギリスの守備隊の人的損害は死者18人に負傷者39人と、まさに米仏軍の大敗
北です(と言っても、準備砲撃による死傷者を含む数字ではないと思われます)。
 あきらめきれないデスタン伯爵は、重傷をおして再度のサバナ攻撃を計画しましたが、フランス本国からの命
令により、結局はサバナで拿捕した船とシュフランも含む艦隊の半分を引き連れて帰国することになりました。

 しかしながら、サバナ包囲戦の後、イギリス軍は南部の確保に自信を深め、南部作戦へのより一層のテコ入れ
のためにニューポートを放棄して、それで余裕のできた兵力を南部地域へ派遣しました。そう、デスタン伯爵は、
一年越しで大陸軍から要請された作戦を成功させたのです!…なんてことは、誰も思っちゃくれませんでした。ま
あ、デスタン伯爵には何か慰めとなったかも知れません。


シュフラン、伯爵を罵るも昇進する

 デスタン伯爵の無能さに、いいかげん嫌気がさしていたシュフランは、帰国後は伯爵をおおっぴらに非難しまし
た。ニューポートの無責任さに始まり、グレナダ沖で敗走するバイロン艦隊を追撃しなかった消極性、「準備は悠
長、攻撃は性急」と評されたサバナでの拙劣な指揮と、早い話、伯爵のやったことなしたこと全部が非難の対象
でした。
 1780年、シュフランは74門戦列艦「Zele」の艦長としてスペインのカディスに派遣され、スペイン海軍と共同で
船団攻撃に参加したりしますが、この後、シュフランは戦隊司令官として、74門艦「Heroes」の艦長兼任で、オラ
ンダ領ケープタウンの防衛に協力するため、5隻の戦列艦を率いて南アフリカに派遣されることになりました。

 シュフランのこの昇進は、デスタン伯爵の強い推薦があったために実現したと言われています。
 デスタン伯爵の人となりについては、「独裁的」「傲慢」「無能」と言われていますが、フランス国家に対する強い
責任感と忠誠心はあり、シュフランの能力を買っていた彼は、海軍にとって最良の選択としてシュフランを推薦し
たと言われています。またデスタン伯爵は、自分と同年代で、陸と海の違いはあれど似たような経験(イギリスと
戦い、二度捕虜になる)をしているシュフランに、わりと親しみを感じていたようでもあります。ただ、そうは言うも
のの、サバナ作戦の失敗で信用ガタ落ちだったデスタン伯爵の推薦が、どれほどの影響があったのか、私見な
がら疑問に思います。
 この頃になるとシュフランは、 そのでぶでぶな体つきと勤務中のだらしない服装によりその優れたシーマンシップと大胆さにより、フランス海軍の名物男となっていました。 inserted by FC2 system
 ただし、その気短で怒りっぽく、思い通りにならないと周囲に当り散らす性格や、慎重さを欠いた性格を低く評
価する者もまた多くいました。シュフランがフランス海軍で艦長になったのは1772年ですから、当時43歳。マル
タ騎士団での活動や捕虜生活などを考えても、あまり早い昇進とは言えません(デスタン伯爵が、シュフランと同
じ1729年生まれであることに注意して下さい)。しかしそれでも、シュフランこそが新生フランス海軍のリーダー
の器であると嘱望する声もまた多く、一足飛びに、デスタン伯爵の後任に推す声もありました。従って、デスタン
伯爵の推薦があろうと無かろうと、人事の失敗が明らかになったこの時期に、シュフランが昇進したのは間違い
ないと私は考えます。

 とは言え、アフリカと言う任地をはたから見ると、腕を見込まれての栄転か、うとまれて僻地にトバされたのか、
とてもビミョーです。しかしシュフランの場合、そのままヨーロッパやアメリカでデスタン伯爵の後任者達と付き合
っていれば、名を挙げることがかなわなかったばかりか、最悪の場合、「セインツ諸島沖海戦」の大敗で死ぬか
捕虜になるかしたかも知れず、人生、ナニが幸いするかわかりません。


シュフラン、ベンガル湾を征く

 さて、この後のインド遠征は、シュフランの人生の華と言うべき山場です。ベンガル湾での5度の海戦において
シュフランは、フランス海軍士官が決してイギリス海軍士官に劣る者ばかりではないと言うことを証明し、フランス
国内ではもちろん、敵国イギリスにおいても大いに名を馳せ、「サタン提督 Admiral Satan」の異名をとりました
(いささか勝者の余裕の気味もありますが)。元海自海将補の小林幸雄先生は、著書「図説 イングランド海軍
史」の中でシュフランを評し、
「イングランド海軍史は彼(シュフラン)をフランスの最も偉大な提督の一人とするが、むしろフランスが誇るべき唯
一の提督である」としています。
 もっとも、この小林幸雄と言う人が、他のフランス海軍の提督についてマトモに調べたことがあるのか、大いに
ギモンですが(アブラハム・デュケーヌは十分に偉大では?)。

 ただ、本当にシュフランがそこまでの名将か、と言われれば、私はいささか疑問を感じます。私自身の考えは最
後に述べさせていただきますので、皆様も、以下に紹介するシュフランの戦いぶりを見てご判断ください。

 この頃インドでは、イギリス(厳密に言うと、イギリス東インド会社)と、インド南部の勢力「マイソール藩王国」と
の間で「マイソール戦争」が起こっていました。このマイソール戦争について解説し始めると本題から外れてしまう
ので省略しますが、シュフランがインド洋に向かった当時は、第二次マイソール戦争(1780 - 1784)の真っ最中。
マイソールのリーダーであるハイダー・アリー(Hyder Ali 1722? - 1782 本来はマイソール国の将軍でしかない
が、王様同然の絶大な権力を握っていた)は、イギリスとの対抗上、どうしてもフランスの支援を受け入れざるを
得ませんでした。

 しかし、フランスは七年戦争の結果、インドでの根拠地はポンディシェリー、シャンテルナゴールなどの都市を残
すのみになっていました(これらの都市は、講和の差し障りにならないよう、フランスのメンツのために返還された
のです)。そして英仏戦争が始まると、早々にこれらの根拠地はイギリス側に占領されましたが、ポンディシェリー
だけは、1780年に、マイソール軍によって奪回されていました。
 ハイダー・アリーは、それまで目にしたフランス人の戦いぶりから、根本的にフランス人を信用していませんでし
た。しかしシュフランは、その頑健な戦いぶりによって、ハイダー・アリー、及びその息子ティプー・スルタン
(Tippu Sultan 1750-1799 別名「マイソールの虎」。父親と違って正式な王様。有能だが思慮深くない一面もあ
る)から信頼を得ることが出来ました。 

・プラヤ港の戦い
 「プラヤ港の戦い」は、シュフランのインド洋遠征の番外編と言うべき戦いです。

 1781年初め、シュフランは、先任艦長として戦列艦5隻、フリゲートとコルベット各一隻からなる戦隊を指揮し、
イギリスの攻撃が予想されるオランダ領のケープタウンへ増援に向かうことになりました。また、兵員輸送船団の
間接支援も任務だったようです。
 実際、この時にはもうイギリス軍が行動を開始しており、1781年3月16日、ジョンストン戦隊司令官(George
Johnstone 1730-1787) 率いる戦列艦5隻、フリゲート4隻、2500人の陸軍兵士を乗せた多数の輸送船から
なる部隊が、ケープ植民地目指してジブラルタルから出港していました。
 そして4月16日、シュフランの部隊とジョンストンの船団(4月11日に入港)は、中立国ポルトガルの、ヴェルデ
岬諸島のラ・プラヤでばったり出くわしたのでした。
 給水のためラ・プラヤ港を目指していたシュフランは、そこに敵がいようとは全く予想していませんでした。しか
し、先行させたフリゲートから警告を受け、停泊しているのがケープタウンに向かうイギリス艦隊だと判断したシュ
フランは、攻撃を命じました。
 所は中立国ポルトガルの港であり、当然、戦時国際法違反なのですが、シュフランは無視ぶっちぎり、戦列艦5
隻でラ・プラヤに突入します。中立国と言ってもポルトガルは反仏国であるし、またシュフラン自身もラゴス沖海戦
での経験から、ポルトガルがイギリスに肩入れしているように感じていて、ポルトガルに良い感情を持っていなか
ったのが理由だと言われています。いかにもシュフランらしい行動であり、フランス海軍の他のたいていの将官な
ら、封鎖くらいはしても、ここで攻撃しようと言う考えは起こさなかったと思われます。
 シュフランが偵察報告でどの程度まで敵の戦力を把握していたのかわかりませんが、ラ・プラヤのイギリス艦隊
は、50門以上の戦列艦5隻(これだけとれば、シュフラン戦隊の方が60門ほど大砲が多いのですが)と4隻のフ
リゲートに、フリゲート並の東インド会社の武装商船10隻とかなり強力でした。対するシュフランの部隊は戦列艦
5隻(小型艦は戦闘に加わらなかったようです)と劣勢で、しかも、シュフランの方針が周知されておらず、戦闘準
備をしていない艦もあったと言われているくらいなので、実はかなり無謀な突撃でした。
 ただ、攻撃は奇襲となり(何といっても味方も対処出来ないくらいですから…)、さらにシュフランには幸運なこと
に、ジョンストン司令官は上陸中だったので、攻撃に対して適切な対処が出来ませんでした。停泊隊形も悪く、一
部の軍艦は輸送船の列の内側にあって、港外からの侵入者に対して射撃が困難な状況でした。そしてこれらの
効果でもって、シュフランの部隊はイギリス艦隊に十分な打撃を与えることができました。
 とは言え、ジョンストン司令官はボートの上から指揮を執って態勢を立て直し、またイギリスの艦長達の反応も
的確でした。そして、当然の権利として港のポルトガル軍守備隊も、シュフラン戦隊を砲撃します。集中砲火を受
けた旗艦「Heros」ともう一隻の74門艦「Annibal」が大損害を蒙り、特に「Annibal」はマストに損傷を受け、危うく
落伍するところでしたが、それでもどうにか、5隻とも港外へ脱出することに成功しました。
 この戦闘では、双方とも失われた艦船は無く、人的損害はイギリス側は死者45(?)、負傷168(?)、シュフランの
部隊は、死者105、負傷200人強(死傷者の多くは「Annibal」の乗員)と伝えられています。
 この「プラヤ港の戦い」は、シュフランには極めて危険な綱渡りでした。実際シュフランの戦隊は、より多くの人
的損害を受け、かつ一隻の敵艦を沈めることもできなかったわけです。最悪の場合、シュフランの部隊は全滅、
結果としてインドにおけるフランスの海軍力は決定的な劣勢に陥り、ケープタウンはイギリスに占領され、ポルト
ガルは対仏宣戦、と言う結末が考えられました。
 しかし、シュフランの戦隊とフランス陸軍は、修理に手間取るジョンストン司令官の部隊を尻目に、先にケープタ
ウンへ到着しました。このため、イギリスのケープタウン攻略作戦は延期(実質中止)となります。シュフランは、極
めて大きな戦略的勝利を挙げたのです。
 ただし、ラ・プラヤにいた戦列艦とは、再びインド洋で戦うことになりました。
シュフランの戦力(1781年)
 Heros (74門) 旗艦
  Annibal (74)
  Artesien (64)
  Vengeur (64)
  Sphinx (64) 
  以下、フリゲート1(Serapis ?)
  コルベット1
ジョンストン司令官の戦力
Hero (74門 80門?) 旗艦
Monmouth (64)
50門艦 x 3 (Isis, Romney, Jupiter)
36門フリゲート x 3 (Active, Diana, Jason)
24門フリゲート x1
 以下武装輸送船等、多数

 1781年6月21日、シュフラン戦隊はなんとか無事に(とは言い難い気もしますが)ケープタウンに到着。フラン
ス軍部隊の上陸を見届けた後、既にインド洋で行動中のフランス艦隊と合流するため、モーリシャス(当時の呼
称はフランス島 Ile de France)へ向かい、12月6日、フランス艦隊と合流しました。しかし1782年2月6日、艦
隊の指揮官d'Ovres少将が病死。この結果、最先任士官であったシュフランが、少将の資格で艦隊の指揮を執
ることになりました。
 既に50代になり、しかもかなり肥満体形のシュフランにとって、ベンガル湾の気候はかなりキツイものだったと
思われるのですが、前任者と違って、彼は幸運にも健康を損ねることはありませんでした。
 

・サドラスの海戦
 シュフランとヒューズの最初の衝突は、1782年2月17日、マドラスの少し南の町、サドラスの沖で発生しまし
た。
 この時シュフランの戦力は旗艦「Heroes (74)」以下、戦列艦10隻、50門艦2隻(他にフリゲートが何隻か指揮
下にあったが、戦闘には参加していない)。一方のイギリス側は、旗艦「Superb (74)」以下戦列艦8隻、50門艦
1隻で、シュフランは数で優っており、しかも風上側に立って有利な態勢でした。シュフランの戦闘計画は、数の
優位を活かして部隊を6隻ずつに分けて、ヒューズの戦列を挟撃し、後衛部分を重点的に攻撃して撃破する計画
であり、艦長達には、口頭と書面の両方で明確な指令が与えられていました。
 しかし、計画は失敗しました。敵の戦列の向こう側へ回り込むはずだったフランスの6隻は、本隊からやや離れ
てイギリス艦隊の最後尾についていた「Exeter(74門)」への攻撃に手間取ってしまい、役目を果たしたのは64門
艦「Brillant」ただ一隻。「Exeter」に食い止められたのか、単に操船術のまずさを発揮したのかはわかりません
が、そもそも、戦列の向こう側に回り込もうと言う動きを見せたのが6隻のうち3隻でしかなかったと言われてお
り、シュフランの命令が遵守されていなかったのも明らかです。
 それでもシュフランの旗艦「Heroes」以下もう一方の6隻は、風上の優位を生かして、イギリス側の中央以下の
進路をふさぐ位置につけることができました。イギリスの前衛は、風向きが悪くて戦闘可能な位置に間切って戻る
ことができず、ヒューズの部隊は危地に陥ったかに見えましたが、スコールと日没が間をおかずにやってきたた
め、戦闘は物別れとなり、ヒューズは海域を離脱しました。この戦いでは双方とも一隻も失わず、双方ともに死者
30人(仏30、英32?)、負傷者100人ほど(仏100、英83?)ほどの損害を出したのみでした。
 戦闘の後、シュフランは南下してポンディシェリーに向かい、ヒューズの方も、応急修理のため、セイロン島(現
スリランカ)北部のツリンコマリー(オランダ領だがイギリスが占領中)に向かったため、戦闘は発生しませんでし
た。
 シュフランは、命令を遂行しなかった艦長達に怒り、無能だと非難しました。更迭しなかったのは代わりがいな
いからだとまで言っていますが、私見ながら、これは少々酷だと思われます。
 この時代、帆船は木造なので、艦底に海藻が生えたり、フジツボやら貝類やらが住みついて抵抗が大きくなっ
て速度が落ちるので、定期的に艦底を補修する必要がありました。実際、やるかやらないかで、2ノットほど速度
が違ってくると言われています。こうした海の住人の繁茂を防ぐため、1600年代には一時、艦底を鉛の板で覆
う方法がオランダで使われたこともありましたが、重すぎたのですぐに廃れました。そして、ちょうどこのアメリカ
革命戦争の時代から、艦底を銅の薄板で覆う方法が使われ始めていましたが、全ての艦船に銅板被覆は行き
渡っていませんでした(また、技術の限界で銅板がはがれたり、通電作用で船体の鉄釘が腐食したりして、万能
ではありませんでした)。そして、シュフランの艦隊で銅板被覆の艦は半分しかなく、他は喜望峰回りの長い航海
に加えて、フランス艦隊が利用できるドックが当地にない状況のため、この時すでに、銅被覆が無い艦は思うよう
な速度で動けない状態となっていたのです。したがって、シュフランが艦長達を責めたのは、少々酷だと私は思う
のです。
 ただ、これはイギリス側も同様で、戦闘の中心となったインド東部に整備のための施設が無かったため、艦底
の浸食に苦労しています。

シュフランの戦力

Heros (74門)旗艦
Annibal (74)
L'Orient (74) 
Ajax (64)
Artesien (64)
Brillant (64)
Bizarre (64)
Vengeur (64)
Sphinx (64)
Severe (64)
Flamand (50)
Hannibal (50) 
ヒューズの戦力

Superb (74門) 旗艦
Hero (74)
Monarca (68)
Burford (64)
Eagle (64)
Exeter (64)
Monmouth (64)
Worcester (64)
Isis (50)



砲の数は定数であり、実際にはカロネード砲をさらに何門か装備している。


・プロヴィデンの海戦

 ポンディシェリーで応急修理を行った後、シュフランはフランス/マイソール合同軍のカッダロール攻略作戦を支
援し、陸軍の海上移動を護衛しました。カッダロールはポンディシェリーのすぐ南にある町で、1781年2月にイ
ギリス軍(厳密にいえば東インド会社との合同軍)の手に落ちていました。この時は、シュフランがイギリス艦隊を
ツリンコマリーに追い払っていたおかげで、フランス側の海上移動は妨害されず、3月にフランス/マイソールはカ
ッダロールを奪回することに成功しました。サドラスの海戦とこの時の活動により、シュフラン、そしてインドにお
けるフランス軍そのものが、ハイダー・アリーの信頼を得ることが出来ました。

 1782年4月12日、シュフランとヒューズは再び戦います。戦闘の中心は、この年の初めにイギリス軍に占領さ
れていたセイロン島の要港ツリンコマリー(当時オランダ領)で、ツリンコマリーの少し南にある小さな島、プロヴィ
デン岩礁の近くで戦闘になりました。
 シュフランの戦力は戦列艦10、50門艦2でいずれもサドラスの海戦に参加したメンバーです。ヒューズ少将率
いるイギリス側の戦力は戦列艦10、50門艦1で、12隻対11隻と差はわずかですが、今度もまたシュフランは
数で勝っており、さらにまたもや風上側の優位に立っていました。
 サドラス沖で凝った計画が失敗したのに懲りたのか、今回のシュフランは複雑な戦闘計画を考えず、ただ艦対
艦の接近戦に持ち込むつもりでした。ヒューズ提督の方は、前回と同じく、じっとフランス艦隊の接近を待ち受け
ます。無策と言うわけではなく、下手に突進して隊形を乱したり、ヘンな位置に回り込まれたりしないために考え
た結果らしいです。
 しかしながら、シュフランの接敵運動は、銅被覆を持つ艦が突出して他は遅れると言う、やや不揃いなものとな
り、さらに艦長の操船のまずさか、消極性か、後衛の三隻は敵と並走しつつも距離を詰めず、前衛の二隻は勝
手に距離を開けてしまうなど不手際が重なりました。
 それでも、二つの艦隊は、おおむね一列縦隊のまま並走して、旗艦「Heros」も含むシュフランの中央隊と、ヒュ
ーズの中央隊は激しく砲火を交えました。その結果、フランス艦隊は、64門艦「Monmouth」を行動不能にして、
敵戦列から脱落させました。ここで、岸に近づきすぎたと見たイギリス艦隊は、下手回しでコースを変えます。シ
ュフランもそれに追従しますが、この後フランス艦隊は押され気味となり、激しい戦闘の末、シュフランの旗艦
「Heros」はマストを三本とも破損して戦列から脱落、さらに2隻がマストを破壊されました。
 しかし、またも日没とスコールが仲裁役として現れ、その隙にヒューズ少将は艦隊を浅瀬に持ち込んで投錨しま
した。シュフランも、航行不能となった旗艦「Heros」を曳航させつつ退却し、イギリス艦隊の位置から少し離れた
場所に停泊しました。
 その後両者は応急修理を急ぎつつ、互いを視界に捉えたまま一週間過ごします。ヒューズ少将は、大破した
「Monmouth」を内側に守る錨泊隊形で攻撃に備えました。一方のシュフランは、なんとか防御の隙を見つけよう
といろいろ考えたのですが、結局は戦闘を諦めると、オランダが確保しているセイロン島南部を目指して退却し
ました。
 シュフランの艦隊は大きな損害を受けたものの、艦の損失はなく、死者139、負傷者264の人的損害を蒙りまし
た。イギリス艦隊もまた損失艦なし。大破した「Monmouth」は、他艦からの船大工も動員した必死のダメージコン
トロールで生き延びました。ただ、死者137、負傷430と言う人的損害とは別に、補給不足で1000人以上の水兵
が壊血病に倒れ、ツリンコマリーで療養を余議なくされます。このため、艦隊の2隻が人手不足で行動不能に陥
ったのですが、シュフランの退却で危地から逃れることができました。ただ、シュフランがこの情報を得ていれ
ば、強引に戦闘に持ち込んだことは想像に難くありません。どうもヒューズ少将には、こういう幸運が付きまとって
いたように思われます。
 その後シュフランは、補給のためにオランダ領バッチカロアに入港しましたが、この時、インドへ派遣される陸
軍部隊の護衛のためもあって、モーリシャス島へ撤退せよとの命令が届いていました。しかしシュフランは、命令
を無視して、留まって戦う決断を下しました。
 これは極めて重大な違反行為でしたが、後の戦いぶりが評価され、また陸軍部隊も無事にインドに到着したた
め、問題にされることはありませんでした。七年戦争の時、インド洋派遣フランス艦隊は撤退命令に従い、包囲さ
れたポンディシェリーを放り出したため、ハイダー・アリーと現地フランス軍の怒りを買いましたが、シュフランは、
インドにおけるフランスの勝利には、イギリス艦隊を撃破して制海権を確保することが重要であり、それには自分
の海軍力の存在が不可欠であることを正しく理解していました。また当然、ハイダー・アリーとの信頼関係を壊せ
ないのも承知していました。
 そしてシュフランは、マドラスへ向かうイギリス商船を拿捕して物資をまきあげながら、カッダロールへ向かい、
しばらくそこを基地として行動しました。

シュフランの戦力

Heros (74門)旗艦
Annibal (74)
L'Orient (74) 
Ajax (64)
Artesien (64)
Bizarre (64)
Brillant (64)
Vengeur (64)
Sphinx (64)
Severe (64)
Flamand (50)
Hannibal (50) 
ヒューズの戦力

Superb (74門) 旗艦
Sultan (74)
Hero (74)
Monarca (68)
Burford (64)
Eagle (64)
Exeter (64)
Magnanime (64)
Monmouth (64)
Worcester (64)
Isis (50)


・ネガパタムの海戦

 1782年7月6日、ネガパタムの海戦が発生しました。
 本来ならシュフランは前回と同じく12隻の戦力のはずでしたが、前日、突風により「Ajax(64)」がマスト二本を
折って航行不能となったため、数ではイギリスと対等、しかも今回は風下側でした。
 ヒューズは、艦首が斜めの横一列の隊形で、風上からフランス艦隊に接近します。そして、旗艦の後ろの艦
は、旗艦と同じ目標を攻撃するように指示した(敵の旗艦を2隻で叩こうと考えた)のを除き、艦対艦の一騎打ちを
命じていました。
 一方シュフランは、大胆にも敵前で上手回を行い、イギリス艦隊の船尾に回り込んで風上側に出ようとしまし
た。この動きを見たヒューズ提督は直ちに反応し、一斉回頭で戦列の向きを斜めから一列縦隊に変更しました。
これでヒューズの戦隊はやや混乱し、前衛では衝突事故が起き、後衛は距離が詰められず遠距離での交戦とな
りましたが、同航戦にもちこむことに成功します。
 で、例によって中央部分で激しい戦闘となりますが、フランス艦隊は叩かれました。しかし、90分ほどの戦闘の
後に風向きが変わり、そしてまたもやスコールがやってきたので、戦場は混乱しました。この結果、双方とも戦場
を離脱します。
 フランス艦隊は2隻がマストを失い、さらに1隻は損害の大きさに降服したと言われています(結局は味方に回
収された)。イギリス艦隊の損害は航行不能3隻と言われているので、艦船の損害は、双方同程度と思われま
す。しかし人的損害ではイギリス艦隊が死者77、負傷233なのに対して、フランス艦隊は戦死412、負傷676と大
損害を蒙りました。 

 ネガパタムの海戦 1782.7.6
 双方、艦隊運動に知恵を絞った結果、同航戦となる。この戦闘に限らず、なんだかんだと知恵を絞ったシュフランだが、結局は「ライン・
タクティクス」の定石通りの一列縦隊が並走する戦いとなった。
シュフランの戦力

Heros (74門)旗艦
Annibal (74)
L'Orient (74) 
Artesien (64)
Bizarre (64)
Brillant (64)
Vengeur (64)
Sphinx (64)
Severe (64)
Flamand (50)
Hannibal (50) 
ヒューズの戦力

Superb (74門) 旗艦
Sultan (74)
Hero (74)
Monarca (68)
Burford (64)
Eagle (64)
Exeter (64)
Magnanime (64)
Monmouth (64)
Worcester (64)
Isis (50)

 この「ネガパタムの海戦」は、被害から言えば、シュフランが敗北に最も近づいた時だと思われます。しかしこ
の戦いの後の7月26日、シュフランはハイダー・アリーと会見し、その戦いぶりを称えられました。それからフラ
ンス艦隊はバッチカロアに移動し、そこで本国からの船団と会合して補給と人員の補充を受けることもできまし
た。
 シュフランは、船団との会合を良い機会と、気に入らない艦長を4人更迭して本国送還にすると、陸軍部隊を伴
ってツリンコマリー奪回作戦へ向かいました。
 8月25日、シュフランの艦隊はツリンコマリー攻撃を開始し、海岸砲台を制圧の後、26日に陸軍部隊が上陸、
31日にイギリス守備隊は降伏しました。かくしてフランス軍は、ベンガル湾有数の良港ツリンコマリーを占領しま
す。そしてシュフランは艦隊を港外に出し、奪還を試みるであろうイギリス艦隊を待ち受けました。

関連地図 (Google Earth より)

・ツリンコマリーの海戦

 1782年9月3日、ヒューズ少将のイギリス艦隊がツリンコマリー沖に到着しました。この時、シュフランの艦隊
は戦列艦12、50門艦2、フリゲート1の計15隻、ヒューズの艦隊は戦列艦11隻、50門艦1の計12隻。またも
シュフランは数で優位に立ち、風上側でした。
 劣勢と向かい風で接近してこないヒューズに対し、シュフランは風上の優位を利して、積極的に攻撃をかけま
す。この時もまたシュフランは単純な戦法を採り、後衛の二隻は敵の最後尾一隻に砲火を集中させよと言う指示
以外、特殊な命令は出しませんでした。
 しかし、整備の悪さの影響がついに出はじめ、艦底が銅張りの艦8隻と、海藻やらフジツボやらが生え放題の
他の艦との速度の差がモロに出て、シュフランの艦隊は隊形を維持できず、突出する艦と後落する艦が出て隊
形が乱れました。
 この時、フランスの先導艦は既に敵を射程内に捉えつつありましたが、戦列を整えることを優先したシュフラン
は、先導艦に対して敵の戦列から距離を取るように信号しました。しかし、先導艦の注意を引くために発砲したと
ころ、それが全艦に対する交戦命令と誤解されてしまいます。そして、戦列が整わない状態で、何隻かのフラン
ス艦は遠すぎる距離から射撃を開始し、戦闘が始まりました。
 シュフランの前衛4隻は、イギリスの先導艦「Exceter」を集中攻撃して大打撃を与え、戦列から脱落させます。
しかし後衛の戦闘では、2隻共同でイギリス戦列の最後尾の艦を狙えと言うシュフランの命令は無視されました。
そもそも、戦列の不完全さと、望まないタイミングで始まった戦闘のために、後衛は真横に並んだ敵味方2対2の
撃ち合いになっており、シュフランの命令に従うのは賢明な状況ではありませんでした。そしてフランス艦隊の最
後尾「Vengeur(64)」は火災を起こし、退却を余儀なくされます。
 さて、例によって中央では激しい戦闘となり、シュフランの旗艦「Heros」ともう一隻がマストを失いました。
イギリス側の損害はもっと大きく、ヒューズの旗艦「Superb」も含む三隻が大損害を受けて操船不能となり、さら
に三隻が激しい浸水で沈没の危機にありました。マストや索具を狙うと言うフランス海軍の伝統的砲術に反し、シ
ュフランはこの時、船体を狙って砲撃していたと言われています。
 前衛が「Exeter」を脱落させつつあった時、シュフランは前衛に対し、反転して中央を支援するように信号しまし
た。しかし、風が落ちたので、前衛の艦は砲火を浴びつつ、ボートで曳航して艦首の向きを変えなければなりま
せんでした。
 そしてしばらくすると風向きが変わったため、このチャンスにヒューズは下手回しを命じ、操船可能なヒューズの
艦は離脱を試みます。
 シュフランも、航行可能な艦を引き連れて敵を追い、またしばらく戦闘が続きましたが、公平無私な仲裁役と言
うべきか、またしても日没となったため、双方は戦場から離脱しました。
 この戦闘の結果、シュフランの艦隊は、旗艦「Heros」を含む3隻が大破しましたが、損失艦は無し。人的損害
は死者82、負傷255と記録されています。イギリス艦隊の方は、人的損害に関しては死者51、負傷283と互
角ながら、艦船の損害は大きく6隻が大破。しかし、やはり損失艦は無し。戦闘は不徹底な結末となりましたが、
敵艦隊を撃退し、ツリンコマリーを確保することに成功したシュフランの戦略的勝利でした。
 
シュフランの戦力

Heros (74門)旗艦
Annibal (74)
L'Orient (74)
Illustre (74) 
Ajax (64)
Artesien (64)
Bizarre (64)
Brillant (64)
Vengeur (64)
Sphinx (64)
Severe (64)
St. Micheal (60-64)
Flamand (50)
Hannibal (50) 
Consolante (36-40?)
ヒューズの戦力

Superb (74門) 旗艦
Sultan (74)
Hero (74)
Monarca (68)
Burford (64)
Eagle (64)
Exeter (64)
Magnanime (64)
Monmouth (64)
Sceptre (64)
Worcester (64)
Isis (50)




 ただ、この戦闘でもまたシュフランの命令は徹底されず、後衛に関する指示以外でも、「ピストルの射程で交戦
(要は至近距離に喰らいつけ、と言うこと)」、との命令にも関わらず、戦列艦5隻が射程距離まで接近せず、ほと
んど発砲することもしませんでした。
 しかしながら、シュフランの怒りもわからぬではありませんが、隊列の乱れのため、発砲しなかった戦列艦5隻
には、味方艦が射線に入っていたことも考えられるし、また射程距離まで接近しようとすれば、味方の戦列に強
引に割り込む形となり、衝突事故の危険もありました。従って、5隻が戦闘に参加しなかったのは、必ずしも消極
性ばかりが原因と言えない気がしますし、そもそもシュフランにも指示を出すタイミングでミスはありました。
 とは言え、他の艦の戦いぶりから察するに、この5隻が戦闘に参加していれば、シュフランはヒューズの艦隊を
一気に撃滅とはいかないまでも、戦列艦を何隻か撃沈するか拿捕するか出来たかも知れません。この「ツリンコ
マリーの海戦」こそは、シュフランが最も決定的勝利に近づいた瞬間であると思われ、残念ではあります。
 シュフランは、「不幸だった。ひどい不幸だった。不幸はいつものことだけど Mal, tres mal, mal comme
toujours」とコメントしています。

 この後、サイクロンの季節となり、英仏双方の艦隊はベンガル湾を引き揚げました。シュフランの艦隊はスマト
ラ島北端のオランダ領アチェに入港して、そこで冬営します。ヒューズはインド西岸のボンベイ(現ムンバイ)に移
動し、艦船をドック入りさせました。
サー・エドワード・ヒューズ (Sir Edward Hughes 1720? - 1794)
(画像は 「Naval Warfare in the age of sail the evolution of fighting Tactics 1650-1815 p184より)

  庶民の生まれ。1735年に海軍入隊、1740年に士官となり、1758年、64門戦列艦
「Somerset」の艦長に任命された。パナマ遠征、ツーロン沖海戦、カナダ遠征などに従軍。1773
年から77年まで戦隊司令官としてインドに赴任、1782年には少将として再びインド洋艦隊の指揮
を執り、シュフランと対決する。その後、拿捕賞金や投資やらで富豪になって帰国。中将に進級する
も、インド洋で勝てなかったことで冷遇されたため、退役して領地に引っ込み、慈善活動を行いなが
ら1794年に死去した。
 飛びぬけて有能な指揮官ではなかったが、非常に優秀な船乗りで、あくまで命令に忠実な姿勢
と、堅実そのもののシーマンシップで上層部の評価が高かった。




・カッダロールの海戦

 1783年6月20日、最後の戦いとなる「カッダロールの海戦」が起こりました。
 前年末、マイソールの指導者、ハイダー・アリーが死去したため、良い機会と、イギリス軍はカッダロールを包
囲しており、その支援のため、ヒューズ少将のイギリス艦隊も出動していました。
 実際のところ、前年11月30日には、パリで仮講和条約が締結されており、イギリスはアメリカ合衆国の独立を
承認、同時に、細かい条件はまた別途協議するということながら、イギリスとその他交戦国との間も停戦が成立
していたのですが、通信速度=移動速度の時代にはよくある出来事です。
 
 シュフランの艦隊は、本国からの増援も加わって、戦列艦13隻、50門艦2隻、フリゲート1隻の計16隻(ただ
し、実際に戦闘に参加したのは50門以上の15隻のみのようです)。一方、ヒューズ提督の艦隊もまた本国から
増援を受けており、戦列艦16隻、50門艦2隻の計18隻でした。
 この「カッダロールの海戦」に臨むシュフランとヒューズの状況は、対照的ならぬ対称的な状況でした。
 シュフランの艦隊は、極めて劣悪な整備状態にありました。漏水がひどい艦が二隻あり、その他も三年にわた
って艦底の清掃をしていないので、銅被覆のない艦隊の半分は、海藻の束を引きずって走る状態で著しく速度を
落としていました。シュフランがどういう理由で、ちょっとベンガル湾から遠いものの港湾設備の整ったオランダ領
バタヴィアではなく、アチンを越冬地に選んだのかわかりません。一方のヒューズ提督の艦隊は、ボンベイでドッ
ク入りしたおかげで、整備は良好でした。
 しかしながら、イギリス艦隊は食糧と飲料水の不足に悩まされており、壊血病の発生で2000人以上の水兵を
上陸させねばならず、艦の数と状態では優勢ながらも、各艦の定員充足率は2/3ほどでしかありませんでした。
一方シュフランは、確かに最初は人手不足だったのですが、6月17日、ヒューズ提督の封鎖線をすり抜けてカッ
ダロールに入港することに成功、フランス陸軍や地元軍から砲手を動員(と言うか、海上経験の無い兵士は他に
使いようがなかった)することに成功したので、ヒューズの艦隊の5500人に対し、8500人と人手では優位に立
っていました。そう言う訳で、かなりイヤな条件下において、両者の戦闘力はだいたい互角だったと言ってもよい
でしょう。

 シュフランは、ヒューズの後衛に対する集中攻撃にすべてをかける計画でした。艦隊のうち7隻がヒューズの本
隊とはやや距離を開けて並行して戦い、残り5隻の74門艦は、ヒューズの後衛5隻の向こう側に回りこんだ3隻
と共同して挟撃する計画でした。
 しかし戦いの日、風上の優位にあったにも関わらず、シュフランは結局普通に戦いました。そして、後衛に注意
したことは、弱い50門艦は、イギリスの戦列艦との近距離戦闘はさけよというものだけでした。つまるところ、整
備の悪さゆえに、計画通りの艦隊運動が困難だと言うことにシュフランは気がついたようです。彼の計画が実行
に移された場合、結局は各艦所定の位置につけず、普通の一列縦隊で戦うことになったか、あるいは、各艦バラ
バラになってもたつき、最悪の場合、一隻づつ集中砲火を浴びるかしたでしょう。
 午後、英仏双方の艦隊は、互いを射程内に捉えました。この時シュフランは、本国からの命令(ルイ16世から
の勅命?)に従い、フリゲート艦「Cleopatre」から指揮を執っていました。どうやら、「セインツ諸島沖海戦」の大敗
でド・グラース中将が旗艦ごと捕虜になったことを受け、指揮官は逃げ足の早いフリゲート艦に乗るべだと言う考
えが背景にあったと言われています。シュフランは、「最初で最後の経験だろう」とコメントしていますが、しぶしぶ
ながら命令に従いました。
 打たれ弱いフリゲートに乗ったため、シュフランは戦列艦同士の砲戦の場から距離を置かざるを得ず、その結
果、適切な指示が出せなかった、もしくはシュフランがそう感じたであろうことは想像に難くありません。戦闘は2
時間ほど続きましたが、またも日没とともに終了しました。
 双方とも死者100人(英99-102?、仏103?)、負傷者400人(英376、仏429)と同程度の人的損害を蒙り、ま
た例によって艦船の喪失はありませんでした。この「カッダロールの海戦」は、インドにおける一連の海戦で最も
不徹底な戦闘でした。
 しかしながらシュフランは、ここでもまたイギリス艦隊を撃退して、戦略的勝利を挙げることになりました。実際
のところは、ヒューズ少将は決して戦いに負けたとは考えていなかったのですが、もともと人手不足のイギリス側
には、敵と同程度の人的損失もより大きな痛手であり、補給不足(特に飲料水)と壊血病の多発も加わって、ヒュ
ーズ少将はついに撤退せざるを得なくなったのです。

シュフランの戦力

Heros (74門)
Annibal (74)
Illustre (74) 
Argonaute (74)
Fendant (74)
Hardi (64)
Ajax (64)
Artesien (64)
Brillant (64)
Vengeur (64)
Sphinx (64)
Severe (64)
St. Micheal (60-64)
Flamand (50)
Hannibal (50) 
Cleopatre (36-40)旗艦

ヒューズの戦力

Gibraltar (80門)
Bristol (74)
Cumberland (74)
Defence (74)
Superb (74) 旗艦
Sultan (74)
Hero (74)
Monarca (68)
Africa (64)
Inflexible (64)
Burford (64)
Eagle (64)
Exeter (64)
Magnanime (64)
Monmouth (64)
Sceptre (64)
Worcester (64)
Isis (50)
 
 このヒューズ少将の行動には、カッダロール包囲軍を見捨てたと言う非難も予想されましたが、数日後に和平
成立の報せが来ます。ヒューズ少将は直ちにカッダロールへフリゲート艦を送り、6月29日、シュフランは停戦を
知りました。
 なおハイダー・アリーの息子、ティプー・スルタンは、和平成立により仏軍の支援を受けることが出来なくなった
ので、不本意な和平を強いられることになります。結局マイソールは、フランスに裏切られたわけです。

シュフラン、英雄となるが…

 帰国の途についたシュフランとその艦隊は、フランス島、ケープタウンと、寄港地では大歓迎を受けました。こと
に、在泊のフランス商船に歓迎されことが一番うれしかった、とコメントしています。
 また、彼らの奮闘は、本人達の帰国よりも先にフランスへ伝わっていました。シュフランはその不在中に海軍中
将(vice-amiral d'escadre)に昇進し、マルタ騎士団からはバイイ(Bailli)の称号を授けられました。Bailliとは、英
語のBailiffに当たり、本来は執行吏と言う意味ですが、騎士団の階級では管区(bailiwicks)の長を意味します。し
たがって、日本語では「管区長」とすべきでしょう。実務が伴うのか (実務が生じる管区に実質があるのか?) はわ
かりません。たぶん、伴わないと考えられますが、バイイの地位は、騎士団の総長とそのスタッフに次いで、上か
ら三番目くらいの地位にあたります。そして以後、シュフランはバイイ・ド・シュフラン(Bailli de Sufrren)と呼ばれ
るようになりました。

 さて、帰国したシュフランは、イギリスから返還されたセネガルを確保する任務などの後、ブレスト艦隊の司令
長官に任じられますが、実際に赴任する前の1788年12月8日に急死しました。享年59歳。死因は、当時に言
う「卒中」、つまり心臓発作が脳溢血ですが、でぶでぶのシュフランが突然死と言うのは、当時の健康知識でも大
いに納得できる話でした。補給不足のインド洋でも、シュフランの体重が減った様子はありません。確かにシュフ
ランの健康に対して、その体重がかなりの負担になっていたのは間違いないでしょう。
 しかしながら、シュフランの従僕の証言によると、素行不良で免職になった王族の復職を強い態度で拒んだた
めに決闘になり、それで死んだということらしいです。
 この証言の信憑性については、実際のところはよくわかりません。本当に決闘で死んだとすれば、現代人の視
点から見れば、マルタ騎士団の高位の騎士にしてフランスの貴族、海軍の将官で、しかも60歳に手が届こうとい
う立派な大人が、切りあいか至近距離でのピストルの撃ち合いをやったということであり、「アホかい」ということ
になります。決闘は名誉の問題であり、シュフランのような地位の人間には断ることが難しい性質のものでした
が、それでもやはり、この時代にあっても決闘に対して「アホかい」と言う批判はありました。ただ、キレやすいシ
ュフランの性格を考えれば、決闘による死も確かに「ありそう」と思われます。
 ただし、決闘には必ず双方の介添え人が少なくとも一人、そして仲裁兼審判役が一人、場合によっては医師も
同伴しますが、こうした人々からの証言が無く、従僕の証言、しかもフランス革命後の証言と言う点では、信憑性
に疑問を感じざるを得ません。もちろん、決闘に立ち会う人ならば、当事者にそれだけ信用されていたということ
なので、秘密を墓場まで持っていくことはあり得ますが。
 どちらにせよシュフランは、その能力をフランス海軍全体の改革に役立てる前に死んでしまったのでした。病死
なら仕方ないですが(個人の自由の範囲だと思うので、ダイエットしろ、とはさすがに言えないでしょう)、決闘で死
んだとすれば、シュフランは自らの責任を放棄したということになりはしないでしょうか?
 そしてその後、フランス革命の混乱と粛清により、フランス海軍の改革の芽はあっさりと吹っ飛びました。その
結果フランス海軍は、イギリス海軍との戦列艦のキル・レシオは1 : 90と言う、投入された資材と人手についてだ
け考えれば、革命政府やナポレオンにとって、無かった方が良かったとしか思えない集団になり下がりました。
 この海軍の惨状に、ナポレオンは、シュフランが早くに亡くなったことを嘆いたということですが、革命派だった
デスタン伯爵も処刑されたくらいですから、ばりばりの貴族でマルタ騎士でもあるシュフランが、革命後の貴族狩
りを生き延びた可能性は高くは無いでしょう。


 最後に、後知恵と、時代も状況も違う他者との比較と言う乱暴さを承知で、シュフランの海軍士官としての私な
りの評価を書いておきます。
 シュフランが有能な海軍士官であり、また、消極的な戦い方が基本であるフランス海軍にあって、シュフランが
異色の士官であることは間違いありません。インド洋では何度も戦略的勝利を挙げ、和平が遅れれば、インドに
おけるイギリス勢力を大きく削ぐことができたかも知れません。
 しかし、ここではっきり言っておかねばならないのは、艦隊司令官としてのシュフランは、戦術的に言うと、イギ
リス軍艦をただの一隻すら拿捕も撃沈もしていないということです。
 インド洋における一連の戦闘では、数でも態勢でも優位に立ちながら、敵艦隊を撃破することに失敗していま
す。そのためイギリス艦隊は、シュフランの前に何度も立ちふさがりました。部下の艦長達の消極性にシュフラン
の不幸の原因を求める意見は多く、またシュフランも艦長達の能力に不満をもらしていますが、誤解しているの
も承知で敢えてきつい言い方をすれば、そんなもんは、シュフランの指導力不足でしかありません。実際シュフラ
ンは、思い通りにならないとすぐにキレてわめき散らす人間であり、人使いが上手なタイプだったとは考えられま
せん。
 もちろん、先述のように、防御的なライン・タクティクスの採用のため、当時の海戦は不徹底な結末に終わるこ
とが多い、と言うか、それがむしろ普通でした。しかしそんな中でも、イギリス海軍には、思い切った行動に出て
敵艦隊に決定的勝利を収める提督達が居ました。シュフランも思い切った行動に出ようとはしていますが、うまく
はいきませんでした。彼の大胆さよりも、ヒューズ少将の堅実そのものの戦術が勝ったということではないでしょう
か。
 また、シュフランは「部下からの信頼は厚かった」とする記録もありますが、でぶでぶのシュフランの姿を見る
と、補給不足のインド洋で、苦労を分かち合うタイプの人間では無かったように思われます(この点に関しては、
よく分かりません。情報希望)。
 かの名将、ホレイショ・ネルソンはもともと体が弱く、痩せていました。それが故に、水兵の健康に対する配慮も
忘れず、艦隊での病死者を劇的に抑制しています。オランダの英雄デ・ロイテルも、肖像を見るとなかなか貫禄
のついた体つきですが、彼の場合、自らの商才で築いた財産で太ったのですから問題は無いし、庶民の生まれ
である彼は、貴族的な高慢さは持っていませんでした。
 
 残念ながらシュフランは、フランス海軍でこその英雄、まさにローカル英雄であり、もしイギリス海軍に所属して
いたなら、名もない一勇者として終わった可能性が高いでしょう。もちろん、無名の勇者が居なければ、英雄も活
躍できないわけであり、そうした人々は決して、歴史に名を残す英雄に劣るものではないのですが。

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