アニー・ベサント
(Annie Besant 1847-1933)


+: 社会改革者
   インド独立の母?


-: ちょっとヘンな人?



 アニー・ベサント博士は、非常に奇妙な人物であります。少女時代は敬虔なキリスト教徒として過ごし、その後は無神論者、そして社会主義者として社会改革に尽力し、それから「あっちの世界」に頭を突っ込んでインドに渡り、最終的にはインド独立に至った政治運動を指導しました。ハイ、なんのことやら分かりませんが、しかし、興味深い人生であります。
 なお、日本では彼女に関する研究が無く、わずかな知名度も、「あっちの世界の人」としてのみ認識されているようです。と言うわけで、いささか記述不足ではありますが、その激動(というか浮動)の人生を追ってみましょう。
 
 なお、ベサント博士の旧姓はWoodですが、結婚後の姓の方が通りが良いので、以後、「アニー」もしくは「ベサント Besant」で統一します。また、日本語では「ベザント」という読みがあり、神智学協会日本ロッジでも「ベザント」でしたが、英語の正しい発音に近い「ベサント」を使います。

少女時代

 アニー・ベサント博士(旧姓ウッド)は1847年10月1日、医師である父ウィリアム・ウッドと、母エミリー・モリス・
ウッドの次女として、ロンドンで生まれました。ウッド家はいわゆるヨーマンの家柄であり、ロンドン市長も輩出し
たような良い家柄で、彼女が生まれた時もそれなりに裕福ではありましたが、家柄に相応しい資産家というわけ
でもなかったようです。
 父ウッド医師は母親がアイルランド人であり、母エミリーは生粋のアイルランド人でした。このことに関して、ベ
サント博士は1893年の自伝「An Autobiography」の中で、
 「血統の3/4と心の全てがアイルランド人である私にとって、ロンドンの旧市街で生まれたことはいつも不満だっ
た(原文ではborn in London, "within the sound of Bow Bells," つまり旧市街のSt. Mary-le-Bow 教会の鐘
の音が聞こえる範囲で生まれたということで、生粋のロンドン子とみなされる出生地であること)。」
と述べており、イギリス人と呼ばれることを嫌い、常に自身をアイルランド人だと認識していました。

 ウッド医師はたいへんな知識人だったようで、数学に通じ、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、ポル
トガル語をマスターしていて、さらにヘブライ語とゲール語も読めました。そして多くの書物を家に持ち込み、英語
に訳して妻に読み聞かせるのが大好きでした(←奥さんにはけっこう迷惑だったかも…)。そして、哲学の研究を
通じて無神論者になっていたので、この点に関しては、アイルランド人で厳格なカソリックだったエミリーとは意見
が合わなかったようです。しかし、これがアニーの後の人生に大きな影響を与えたことは間違いありません。
 さて、そのウッド医師は雨に濡れたことで肺炎を起こし、2ヶ月ほども患った後、1852年10月に死亡しました
(臨終でも無神論者であり、祝福を与えに来た司祭を追い返した)。母エミリーはウッド医師を献身的に看護し、そ
の姿にアニーは強い感銘を受けた、と自伝に記しています。

 ウッド医師はかなり収入が多かったのですが、その死により、アニーの一家は収入が無くなりました。そして、
なぜか遺産はごく少額でした(アニーは自伝の中でも理由は不明と言っています)。そこで、父方の親戚であるウ
エスタン・ウッドとサー・ウィリアム・ウッドは、アニーの兄ハリーを引き取ってビジネスマンとして教育しようと考え
ましたが、母エミリーはその方針に反発しました(生前の夫の意思と、アイルランド人としての誇りが関係している
らしいです)。で、色々あったあげく、ハリーは親戚の援助を受けつつ名門パブリックスクールのハーロー校に通う
ことになりました。
 アニーは貧乏暮らしを3年ばかり経験しますが、8歳になった時、母エミリーがハーローの生徒の親に雇われ
て、子守りの仕事(と言うほど相手は子供では無いのですが)を始めます。そして、エミリーはでっかいガキどもの
世話で、自分の娘の世話が出来なくなります。そんな時、エミリーの友人であるエレン・マリアットという人が、ア
ニーの教育係(と言うか、ほぼ養育係である)になることを買って出ました。このマリアットさんは、親戚の女の子
の教育係をすることになっていたのですが、アニーのことを妙に気に入っており、一人も二人も同じだというの
で、教育係を申し出たのです。

 この後エレン・マリアットは、貧しい家庭の子供達(主に没落した紳士階級の子弟だったようです。当時、教育の
必要性を認識しているのは、ほぼ上流階級の人々だけでした)を集めて教育を引き受けるようになります。そし
て、エレン・マリアットはかなりの教養人であり、しかも非常に優秀な先生であったようで、音楽以外は何でも教え
てくれたということであり、アニーは、自伝の中で大いに感謝の意を表しています。

 エレン・マリアットは、子供達に狭い宗教観を押し付けることは無かったのですが、厳格なカルヴァン派信者でし
た(だから、日曜日には聖書以外の読書を許可しなかった)。そのため、アニーも敬虔なキリスト教徒となり、聖人
の伝記、特に殉教者達の伝記に夢中になり、殉教という死に様に憧れを抱いたということです。また、教会を通じ
て貧困層への慈善活動にも熱心でした。
 1861年、マリアットは白内障の甥っ子の治療でドイツへ行くことになり、アニーもついていきます。そして、ドイ
ツとフランスに一年ほど滞在し、その間、ドイツ語とフランス語の勉強は勿論のこと、ルーブル美術館やその他宗
教施設を訪れて、大いに見聞を広めます。
 こうしてアニーは、エレン・マリアットの指導の下、知的で聡明で、信心深く、かつ独立心旺盛な女性に成長しま
した。

フレデリック・マリアット(Frederick Marryat 1792-1848)

 イギリスの著名な作家。海洋冒険小説というジャンルを確
立した人物である。海軍士官でもあり、ナポレオン死去のニ
ュースを伝える連絡船を指揮していた人。アニー・ベサント博
士との直接の接触は無かったが、実はエレン・マリアットの
兄。


結婚とその破綻

 1866年のイースターの日、19歳のアニーは、英国国教会の若い牧師、フランク・ベサント師と知り合いまし
た。そして一週間後、ベサント師はアニーにプロポーズしました。つまるところ、ベサント師の方がアニーに一目
ぼれしたようです。実際、残されている肖像や写真を見ると、アニーは端的に言って美人です。それでいて聡明
で、知的で、信心深いとくれば、牧師が一目ぼれするのも無理は無いでしょう。また、様々な団体の指導者として
の後の活躍を考えれば、人の心を惹き付けるところが大いにあったのは間違いないと思われます。
 一方のアニーはと言うと、たった一週間でプロポーズされて、随分と困惑したようです。その上、自分が何か、
ベサント師を惑わせるようなバカなことをしでかしたのではないかと、何ヶ月も悩むことになりました。それに、結
婚ということには全く乗り気ではなかったのですが、結局は、アニーの当時の熱心な信仰が決定打となり、聖職
者の妻として、教会と貧しい人々の為に働ける、と考えたアニーは牧師のプロポーズを受け入れ、この年の夏に
婚約しました。
 また、自伝によると、1866年のイースターの前、四つの福音書(イエス・キリストが復活するまでの7日間を記述
した物。ヨハネ、マタイ、マルコ、ルカの四つ)の内容が微妙に食い違っていることに気がついて、「聖書」の内容
の正確さに疑問を抱いていたということであり、これに罪悪感を覚えて、聖職者との結婚に慰める気持ちがあっ
たのかもしれません。

 結婚直前の1867年には、アニーにとって重大な出来事がありました。この年の秋、アニーは母とともに、母の
友人であるマンチェスターのロバーツ夫妻の家に長期滞在することになりました。このロバーツという人は弁護士
で、労働者階級の権利擁護に尽力しており、貧しい人のためならば報酬無しで働くことを厭わず、マンチェスター
近辺の貧しい人々の間では良く知られた人物でした。
 マンチェスターに滞在中、アニーはロバーツと行動を共にします。この時ロバーツ弁護士は、女性や子供の炭
鉱労働の問題に取り組んでおり、アニーは、炭鉱の悲惨な労働環境について話を聞かされました。また、貧しい
人々を施しの対象として見ていたアニーに対し、ロバーツ弁護士は、貧しい人々とはまっとうな労働者なので、彼
らは施しや慈悲を受けるのではなくて、自立する権利を持っている、と諭すのでした。アニーは自伝の中で、初め
て急進主義(Radicalism)を教わったのはロバーツ氏からであり、自分は良い生徒だったと書いています。そして
この時以来アニーは、慈善活動だけではなく、貧困層のための政治運動に興味を抱くようになるのでした。

 また、この1867年には、アイルランド独立を目指す秘密結社、フェニアン団の活動が活発であり、アイルラン
ド人であるアニーも注目していたと思われます。そして、アニーが滞在中のマンチェスターでは、2人のフェニアン
団メンバーの裁判が行われており、ロバーツが弁護を担当していました。
 で、このフェニアン団が逮捕された事件というのは、仲間を救出しようとして警察の護送車を襲ったというもので
した。フェニアン団は仲間を解放するため、格好良く護送車の錠前をピストルで撃ちました。しかしこの時、鍵穴
から外の様子をうかがっていた男がいたもんですから、悲劇です。中の男は頭部に被弾して即死しました。この
後、救出を試みたフェニアン団員達は殺人罪で逮捕されたのですが、「ナショナル・リフォーマー National
Reformer」という週間新聞が、事件はどう見ても故殺であり、殺人罪での逮捕は不当であると警察を非難する記
事を掲載します。それを読んだアニーは、ナショナル・リフォーマーと、その発行人チャールズ・ブラッドローに共
感を抱きました。もっとも、後に自分がブラッドローの相棒になって、ナショナル・リフォーマーの編集長を務める
なんて全く想像していなかったのですが、これも、後の活動の契機の一つです。

 1867年12月。ついにアニーは、ベサント牧師と結婚しました。
 この結婚についてアニーは、
「結婚の持つ意味には絶望的に無知で、ありえない夢を見ていて、妻と言う役割には全く不適だった 
hopelessly ignorant of all that marriage meant, so filled with impossible dreams, so unfitted for the
role of wife. 」
 という強烈な後悔の言葉を残しています。また、恋愛小説なんて読んだことは無く、少女時代の空想は、恋愛で
はなく宗教論だったとも語っており、要するに、ベサント師と結婚したこと自体が勘違いだったと結論づけていま
す。

 で、結婚して早々にアニーは後悔しました。夫フランク・ベサントは、夫の権威と妻の服従というものに頑固でし
た。まあ、それでも上手く行く夫婦はあるのでしょうが、フランク・ベサントはかなり横暴で怒りっぽい性格であり、
そのうえアニーは、自伝の中で、離婚調停の時に友人の医師が証言してくれた、と、家庭内暴力までほのめかし
ています(要するにフランク・ベサントは、人格的にも、それから知性や教養の面でも、アニーには遠く及ばない人
物だったようです)。ただ、この結婚が、良くも悪くも、アニー・ベサントの人生の方向を決定付けたのは間違いな
いです。

 1868年、結婚生活の無聊のためか、アニーは「The Lives of the Black Letter Saints」という短編小説を書
いて、ファミリー・ヘラルド紙に投稿しました。この小説は30シリング(現在の感覚では7万円くらい)で売れたとい
うことであり、後にアニー・ベサントは多くの著作を著しましたが、自身の執筆活動の中でこの時に優る喜びは無
かった、と述べています。ただ、当時の法では、既婚の婦人が稼いだお金は、夫のモノだということをこの時に知
り、アニーは唖然としたということです。しかしまあ、アニーはその後も宗教をテーマとした短編小説を幾つか書い
ていて、いずれもファミリー・ヘラルド紙に掲載されており、この時期に、後の文筆家としての方向性が決定付け
られたようです。
 1869年1月には息子が誕生し、1870年8月には娘が生まれますが、1871年の春、この子供達が2人とも
百日咳にかかり、一時は医者も見離すほどの重態となります。で、結局は2人とも回復しましたが、看病疲れでア
ニーは寝込んでしまいました。そして、この時に色々と考えるところがあったようで、敬虔なキリスト教徒だった自
分が、無神論者(と言うか、特にキリスト教を否定する考え)に変わった契機だったとアニーは述べています。
 夫の横暴の前にかなり萎縮していたアニーも、寝込んだために却って元気を回復したようで、その独立心旺盛
な性格が、夫の保守性とは相容れないことが明らかになりました。また、牧師と暮らす内に、国教会に限らず、キ
リスト教の教義の矛盾や、理不尽な因習(女性に対する差別だけと言うわけではなく、全般的な)に対する反感が
頭をもたげてきました。ただ、一気に不信心に至ったわけではなく、最初は矛盾や因習の理由を理解したがって
いただけでしたが、これが夫ベサント師との間に、それまで以上に深刻な対立をもたらします。

 結局、キリスト教の非論理性の前に、アニーは疑問の明確な答えが得られず、彼女は礼拝に出席するのを拒
絶するようになりました(自伝の中でW.D−と名が伏せられている人物の影響もあったようです)。これは聖職者で
ある夫ベサント師には、かなり世間体にイタい問題です。夫婦仲は最悪となり、ベサント師はどうやら暴力行為に
も及んだようで、アニーは絶望し、服毒自殺を図ります。
 そして、いざ毒薬を飲もうとした時、彼女の頭の中に、厳しく叱責する「声」が聞こえてきました(本人談)。
「この臆病者、臆病者め、殉教を夢見るあまり、ほんの数年の悲哀にも耐えられないのか。O coward, coward,
who used to dream of martyrdom and cannot stand a few years of woe. 」
 マルコーニが無線通信を発明するのはまだ先のことなので、これは電波ではないでしょう。アニーはキリスト教
を否定しても、既存の宗教とは違う、こういう「声」のような、精神的な拠り所となる何かを求め続けたようで、それ
が後半生の活動の原動力となるのですが、それはまた後の話。「声」のおかげで気を取り直した彼女は、自殺を
思いとどまりました。

 1872年の秋、アニーはトーマス・スコット(不詳)という人物と出会いました。この人についてはよく分かりません
が、アニーの自伝によれば、裕福な家柄の出で、かなりの年配ながらハンサムでがっしりした感じの人で、娘くら
いの歳の若い奥さんとともに異端に関する研究と出版を続けている人であり、彼の編集した本にアニーは論文を
寄稿するようになります。
 そして1873年、離婚こそ出来ませんでしたが、法的に別居(legal separation)することとなり、養育権を取った
娘メイベルを連れて、アニーはロンドンに帰りました。


1869年のアニー・ベサント。









サー・ウォルター・ベサント(Sir Walter Besant 1836-1901)

  日本ではあまりポピュラーではないが、小説を芸術だと主張した最初の人物で、ディケンズと並ぶ偉大な文学者である。アニー・ベサント博士と何の関係があるのかと言うと、実は義兄(フランク・ベサントの兄)。なお、サーの称号は、文学上の功績では無く、社会活動に尽力したためなので、アニーとは決して相容れない人物ではなかったと思われるが、弟とともに嫌われているのか、自伝の中では全く言及されていない。


セキュラリズム

  ベサント家を出てロンドンに戻ったアニーは、1874年、全国セキュラリズム協会(National Secular Society)
に加入し、しばしの就職活動の後、チャールズ・ブラッドロー(Charles Bradlaugh 1833-1891)が主催する週間新
「ナショナル・リフォーマー National Reformer」の編集者となります。しかし、アニー・ベサント博士のその後の
人生を追う前に、セキュラリズム(Secularism)を説明しなければなりません。

 「世俗主義」「非宗教主義」とも訳されるセキュラリズムは無神論から発生した哲学で、19世紀中盤から西欧で
流行した思想です。科学技術の発達により、人間は神無しでも生きていけるという考え方で、無神論と重なる部
分が多いのですが、必ずしも神の概念を否定してはいません。ただ、神様やら天国なんてものは生きている間に
ゃ意味は無い、ということで、主に教育分野からの宗教の影響を排除することを目的としていました(←僕はこの
方面には全く無知なので、間違っていれば教えてください m(_ _)m )。
 発祥はイギリスであり、1841年11月、ブリストル出身の二人の無神論者、チャールズ・サウスウェル
(Charles Southwell 1812-1860)とウィリアム・チルトン(William Chilton 1815-1855)が、「理性の託宣 Oracle
of Reason」という雑誌を発刊し、全ての宗教を迷信だと非難したことに始まるようです。
 そして、聖書を批判してしまったため、名誉毀損や冒涜の罪で1年の禁固刑をくらったサウスウェルに代わり、
シェフィールドの教師ジョージ・ホリオーク(George Jacob Holyoake 1817-1906)が「理性の託宣」の新たな編集
長となりました。このホリオークも6ヶ月の禁固刑をくらいますが、出所した後、「運動 The Movement」という新し
い週刊新聞を発刊しました。この「運動」は、三年後、「理性の人The Reasoner」と名を代えますが、この週間新
聞を通じてホリオークは、キリスト教を「理性の発展に対する妨げ」であると攻撃し、キリスト教は「時代遅れの空
論」なので、理性と科学に基づいた新たな信仰と交替すべきだと主張しました。ホリオークはこの新しい理論を
「セキュラリズム(非宗教主義)」と名づけますが、これは進歩的な知識人の間に大きな支持を集め、1850年代
の初期、イギリス各地で「非宗教協会 Secular Society」と称する団体が設立されました。

 1853年、「理性の人」の売り上げは5000部(←よく分かりませんが、当時のジャーナリズムではこれがメジャ
ーか否かの境界のようです)に達し、地方の非宗教協会は40以上になります。しかし、運動の支持者の中でも特
に無神論的な人々は、ホリオークの宗教を容認する考え方に批判的であり、早くも1854年頃から独自の活動を
開始しはじめます。
 そして、後にアニー・ベサントと共に働くこととなったチャールズ・ブラッドローは、ホリオークのキリスト教会に対
する考え方に賛成できなかった一人でした。シェフィールドの非宗教協会のリーダーであったブラッドローは、理
性の発展を妨げるのは宗教そのものであると主張し、1858年にロンドンの全国セキュラリズム協会(National
Secular Society)の会長に就任して独自の運動を続け、1860年には、ジョセフ・ベーカーという人物ともに週間
新聞「ナショナル・リフォーマー National Reformer」を創刊しました。
 しかし、ブラッドローの活動はセキュラリズムの普及に止まらず、婦人参政権、共和主義などの政治運動や、産
児制限のような社会運動にも手を広げました。もっとも、これらはブラッドローの自発的なアイデアではなく、当時
あった運動に賛同して深入りしたからなのですが、このため、彼はロンドンを中心として労働者階級の支持を集
めます。
 しかし、そのためにホリオークとはかなり仲が悪くなったし、産児制限に関する考え方の相違で、早くも1861
年にベーカーがナショナル・リフォーマーの編集から降りたりしたのですが、1866年、ブラッドローはさらに新し
い団体「全国自由思想連盟 National freethought organisation」をロンドンに設立して会長に選ばれて、セキュ
ラリズムの新しい指導者として注目されました。「自由思想(Freethought)」という語は、特に宗教に関しての伝統
や権威に拘束されない立場をさしており、「思想」では無く「思考」の方が適当だと思うのですが、「自由思想」が
一般的な訳語なので、それで行きます。

 
チャールズ・ブラッドロー(Charles Bradlaugh 1833-1891)

 ロンドンの貧しい事務員の息子として生まれ、15歳の時に
信仰を捨てて無神論者となる。1850年から53年までのアイ
ルランド駐留軍勤務中に独学で語学と法学を修め、その後は
無神論運動家として活動した。1880年、ノーザンプトン選出
の下院議員となるが、就任時の神への宣誓を拒否したため、
その後も下院議員に4回当選するも、死の直前までついに議
席を認められなかった。
ジョージ・ホリオーク(George Jacob Holyoake 1817-1906)

 バーミンガムのブリキ職人の家に生まれる。1836年よりチャーチスト運動に参加。その後は「セキュラリズム」の創始者として活躍した。ブラッドローとはライバル関係にあった。





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