マールテン・トロンプ (Maarten Harpertszoon Tromp 1598-1653)
+:名将

-:晩年の軽率さと攻撃性が、オランダにとっても大きなマイナス


 マールテン・ハルペルトスソーン・トロンプは、17世紀のいわゆる「オランダの黄金時
代」を築いた名将の一人です。「ロイテルとトロンプ」のセットで、もしくは太平洋戦争初期
の軍艦として、名前くらいはお聞きになった方も多いでしょう。以前、「オランダ名海将列
伝」のコーナーで取り上げていましたが、「一からげにして欲しくない」とのご要望をいただ
いたため、独立させます。


幼少時代

 マールテン・ハルペルトスソーン・トロンプは、スペインからの独立戦争の最中である1598年4月23日、軍艦の
艦長だったハルペルト・トロンプの長男として、ブリエル(Den Briel)に生まれました。1606年にトロンプ一家はロ
ッテルダムに移り住みますが、同じブリエルの出身で、後にトロンプとともにオランダ海軍を支えることになる、名
将ヴィッテ・デ・ウィト(Witte Cornelis de With 1599-1658)とは、どうやら家が近所だったらしく、本当のところは不
明ですが、幼馴染だったようです。
 マールテン・トロンプが最初に海に出たのは、1606年、8歳か9歳の時で、父の艦のキャビンボーイとしてです
(艦名は「Olifantstromp?」 オランダ語のtrompには、「銃口、砲口、長い鼻」の意味があり、「ゾウの鼻」を意味
する船名です)。
 そして翌1607年、初めての大海戦に参加する機会が巡ってきました。当時、オランダはスペインとの和平を検
討し始めていましたが、交渉を有利にするための一撃を計画します。そして3月25日、ヤコブ・ファン・ヘームスケ
ルク少将(Jacob van Heemskerck 1567-1607)率いる、トロンプ父子も含む26隻の小型艦はスペインのジブラル
タル(当時はまだスペイン領 爆!)に向かって出撃しました。
 マールテンは既に何度か小戦闘を経験していたようですが、この遠征には格段に大きな危険が予測されます。し
かし、父ハルペルト・トロンプ艦長は厳しい父親だったのか、息子を連れて行くことにいささかの躊躇も無かったよ
うです。もっとも、いざ戦闘となると、「船室から出るな」と命じたのですが。マールテン自身はと言うと、大喜びで遠
征に参加したようです(←大作戦に参加できる喜びとかはともかく、かなりのお父さん子だったらしいです)。
 さて、4月25日にオランダ艦隊はジブラルタル沖に到着しました。この時ジブラルタルには、スペイン領ネーデル
ラントへ軍隊を輸送するための、ドン・ファン・アルバレス・ド・アヴィラ提督指揮する大型のガレオン船10隻と小型
艦11隻からなる艦隊が停泊中でした。
 戦闘は午後一時ごろに始まりましたが、スペイン艦隊は完全に不意を突かれ、戦闘開始直前にようやく水兵が
艦に乗り込んだ状態でした。スペイン艦隊は、湾の入り口にある要塞を頼みにして湾の奥に逃げ込みましたが、ヘ
ームスケルク少将は、要塞の砲火をものともせずに艦隊をジブラルタル湾に突入させました。ド・アヴィラ提督は戦
死し、その旗艦「San Augustin」は座礁したあげくに火を放たれて自沈。夕刻までにスペイン艦隊は全滅させら
れ、4000人が戦死しました。オランダ艦隊の損害はヘームスケルク少将も含む死者100人、負傷者60人、失
われた艦は無く、まさに完勝でした。
 さて、戦闘中のマールテン・トロンプはと言うと、父から絶対に船室から出るなと命じられていたので、最初はそ
の言いつけに従っていました。しかし、戦闘が激しくなり、被弾の衝撃で窓が割れ、硝煙が流れ込んできてとても部
屋に居られなくなり、そこへ折りよく、水兵が大砲の弾込めのための人手を集めて回って来たので、甲板に飛び出
します。
 しかし、甲板に出て向かったのは大砲ではなく、先ずは父ハルペルト艦長のところでしたが、その瞬間、ハルペ
ルト艦長は銃弾を受けて即死しました。トロンプは、父の死体にキスして別れを告げると、次席士官のところへ走
っていって、
「あんたは、俺の父の死に復讐しないのか!」
 と叫び、悲しみの涙と怒りの炎に満ち溢れた目で、スペイン艦をキッとにらみつけました。艦長の死に意気粗相し
かけていた水兵たちは、その言葉を聴いて勇気を取り戻しました……。と、Jacob de Lifde著、「The Great
Dutch Admirals(1873年)」には、その目で見たかのようにカッコいいことが書いてあるのですが、ハルペルト・トロ
ンプ艦長がジブラルタルの海戦で戦死したという記録は見当たりません。
 この「ジブラルタル海戦」の結果、スペインは和平交渉の席につくことを余儀なくされ、オランダは1609年から1
2年間の休戦を勝ち取りました。残念ながら独立は承認されませんでしたが、この時点で、オランダは独立国とし
ての待遇を与えられたのでした。 
 さて、休戦が発効すると、ハルペルト艦長は商船の船長に転職したので、11歳のマールテンもそれに従いま
す。しかし、1610年、トロンプ父子の船も含んだオランダの商船隊は、ヴェルデ岬の沖で、バーバリ海賊とつるん
でモロッコを根城にしていた、イーストン(Easton)というイギリス人が指揮する7隻の私掠船に襲撃されます。そし
て父ハルペルトは砲弾の直撃で死亡。マールテンも捕虜になって、イーストンの海賊船で奴隷暮らしをすることに
なります。トロンプはイギリスに対して常に攻撃的であり、再三にわたって主権をないがしろにする行動をとるので
すが、背景にはこの少年時代の体験があったのは間違いないと思われます。2年の奴隷生活の後、イーストンの
私掠船がイタリアに移動したのを期に釈放され、トロンプはようやくオランダに戻ることが出来ました。
 帰国したトロンプは、しばらくロッテルダムの造船所で船大工見習いをしていたようですが、後にお舅さんとなる
Cornelis Corneliszoon de Haes船長と出会い、1616年から彼の船で働くようになりました。
 どちらかと言うと不幸な少年時代であり、コネが使えなくなったので、父の死後は一から船乗りとしてのキャリアも
積み直さねばならなかったのですが、こうした少年時代の苦労を通じて、後に部下の下級船員から慕われる善良
で温厚な性格が形成されたものとも思われます。


青年時代

 1617年、トロンプは海軍に入隊し、水夫長(kwartiermeester)として、商船隊の護衛任務で地中海に派遣され
ました。1618年には、操舵手に昇進し、アルジェとチュニスへ海賊討伐の遠征に参加しました。その後、1619
年5月からまた商船に乗りましたが、1621年、船がチュニスの海賊に襲われ、トロンプはまたも捕虜の身となり
ます。
 一年余の捕虜生活の間、チュニスの太守ユースフはトロンプを優遇し、自分の艦隊で働かないかと何度も持ち
かけました。しかし、トロンプは断固として拒否。その意志の強さに感動したユースフは、トロンプを釈放しました。
トロンプは無事に帰国しましたが、二度の捕虜生活で懲りたのか、その後二度と地中海に足を踏み入れることは
ありませんでした。

 1622年7月23日、25歳のトロンプは再度海軍に入隊し、マース司令部(De admiraliteit van de Maze 在ロッ
テルダム)の士官に任命され、ブリッグ艦「Bruynvisch」に乗務しました。この時は休戦切れの翌年で、スペインと
の戦争が再開しており、ただでさえ頭の痛い問題だったダンケルク(当時はスペイン領)を根拠地とする私掠船の
活動が余計に活発化していたので、その対策がオランダ海軍の急務でした(オランダ語では、私掠船をさしてズバ
リ"Duinkerker"と言います)。
 その後トロンプは、「Bagijn 」という艦の士官として、ニシン漁船団の護衛についていましたが、1624年5月7
日、以前に務めていた船の船長の娘、Brielse Dignom Cornelisdochter de Haesと結婚しました。そして、結婚の
一ヵ月後の6月6日、連邦共和国総督マウリッツ公の任命により、艦長に昇進したトロンプは、武装ヨット「St.
Antonius」の指揮を執りました。翌1625年2月には、フリゲート「Gelderland (当時のフリゲート Fregat とは一般
的に言う帆船時代のフリゲートではなく、中型の軍艦くらいの意味です)」の艦長となり、ダンケルクの封鎖任務に
あたりました。1627年には、この「Gelderland」で、一度に5隻の私掠船と交戦して撃破するという活躍を見せて
います。
 当時のオランダ海軍(に限ったことではありませんが)では、士官が一艦の艦長以上に昇進するのは非常に困難
なので、多くの士官は概して艦長を経歴の頂点と考え、そこで満足してしまう傾向があり、艦長に昇進したとたんに
向上心を失って、地位を失わない程度しか勉強しないケースが多々あった(前出「Great Dutch Admiral」)とされて
います。さらに、当時のオランダでは常設の海軍兵力が少なく、士官にもパートタイムの商船乗りが多かったた
め、海軍の任務だけに精励する必要性も感じていなかったのでしょう。
 しかしトロンプはというと、まだ若年ということもあったのでしょうが、艦長になってからも常に自信の技能や知識
に磨きをかけ続けていました。特別に野心家だったのかと言うとそうではなく、むしろ反対で、生来の遠慮がちで謙
虚な性格により、自虐的と言うか何と言うか、自分の能力に対して常に「これで良いのか」との疑問を持ち続けて
いたようです。人間、美談やら褒め言葉やらばかり聞いていれば、得てして増長してしまいます。現状への疑問
や、失敗の分析からこそ進歩があるのです。酷い劣等感を感じない程度に自虐的になって、常に向上心を持つべ
く心がけるべきでしょう。
 で、話がそれたので繰り返しますが、マールテン・トロンプ艦長という人は、自分の能力に対して常に「これで良
いのか」との疑問を持ち続けて、勉強を怠らなかったのでした。さらに、軍隊というものの任務は過酷であり、当時
のような戦時では特に酷くなるのですが、トロンプはその優しくて温厚な性格故に、部下に対して過酷な要求が出
来ず、いきおい、些細なことまで自身で目を配って、なんでも自分で背負い込んでしまう傾向がありました。それで
いて常に完璧に任務を遂行しようと心がけていたので、尚更トロンプは、船乗りとしてリーダーとして、自分を高め
る努力を払い続けたのでした。
 こういう性格のリーダーというのは、部下にしてみれば、得てして自分の仕事にまで口出してくるうるさいボスとい
うことになるのでしょうが、マールテン・トロンプ艦長はと言うと、性格温和にして、非常に優れたシーマンシップを
備えており、その上で些細な事柄に目を配るのだから、部下に慕われないはずは無いです当然、上司からの評
価も高いわけでして、1629年4月、トロンプは新任のオランダ本国艦隊最高司令官、ピート・ヘイン(1577-1629 
「オランダ名海将列伝」参照)の旗艦艦長に任命されました。オランダ海軍の艦長達の中で、トロンプは特に大きな
武勲を挙げていた訳ではなかったのですが、艦長達の中で唯一、全くミスや失敗が無かったことがヘインの目に
止まり、旗艦艦長に選任されたのです。
 また、この年の9月3日、次男が生まれますが、この男の子こそ、名将コルネリス・トロンプ。でも、彼が歴史に登
場するのはまだ先の話です。
 

マウリッツ公 (Maurits van Nassau 1567-1625)
ピート・ヘイン(Pieter Pieterszoon Heyn 1577-1629)


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