オランダ名海将列伝その3
コルネリス・トロンプ (Cornelis Tromp 1629-1691)



 コルネリス・トロンプは、名将マールテン・トロンプの次男で、第二次、第三次英蘭戦争で大活躍しました。しか
し、欧米の史書では父親と混同されたりしていて、あんまり存在感がありません。

 コルネリス・トロンプは、1629年9月9日、ロッテルダム市で生まれました。父、マールテン・トロンプは当時、
ピート・ヘインの旗艦艦長を勤めていました。やがて、マールテン・トロンプがスペイン艦隊を撃破し、オランダ随
一の名海将として名を上げると、海軍入りしたコルネリスは父親の七光りでかなりひいきにされ、二十歳にして最
初の指揮艦を得ました。
 しかし、父マールテン・トロンプが温厚な人柄で慕われていたのに対し、コルネリス・トロンプはと言うと、「自分
勝手」「傲慢」「尊大」とおよそ慕われることが無さそうな人物像が伝えられています。加えて、「勇敢だが無鉄砲」
「目立ちたがり」「無規律」「軽率」と、軍人としてもかなりマイナスの性格でもありました。
 あくまで私見ですが、これはマールテン・トロンプの息子であることが災いしたのではないでしょうか。コルネリス
は早くから提督候補として扱われていたはずで、しかも父親はかなり慕われていましたから、コルネリスに対して
厳しく接する者が居なかったのではないでしょうか。帆船時代のイギリス海軍の例に出せば、勇敢さや優秀さと同
様に、水兵に対する横暴な振る舞いでも知られるイギリス海軍の士官達は、12歳程度から候補生として軍艦に
乗り組んで、水兵達に権力を振るう立場にいることが大半でした。十分な判断力が伴わない幼少期から人をあご
で使う権力を得るわけで、例え優秀な海軍士官になったとしても、おおよそ人間としては最悪な部類の大人にな
るわけです。恐らく、コルネリスのひねくれた性格も同様にして形成されものと思われます。
 

コルネリス・トロンプの第一次英蘭戦争

 第一次英蘭戦争が勃発した時、コルネリス・トロンプは地中海に派遣されていました。17世紀のオランダにとっ
て、地中海はバルト海程ではないにせよ、経済的に重要な地域だったので、当然地中海航路はイギリス海軍の
攻撃対象となり、多くのオランダ商船が拿捕されました。オランダ政府は地中海に14隻からなる艦隊を常駐させ
ていましたが、この事態に連邦議会は、さらに22隻の武装商船を増派しました。指揮官は、地中海での海賊対
策に経験のあるヨハン・ファン・ガレン戦隊司令官(Johan van Galen 1604-1653)でした。
 対するイギリス地中海艦隊は、軍艦と武装商船からなる15隻で、リチャード・ボドレイ中将(Richard Badiley?
Bodley? )の指揮下にありました。第一次英蘭戦争当時の例に漏れず、いずれもオランダ艦より大型で重武装で
したが、しかし、イタリア半島の西部海域を担当するヘンリー・アップルトン少将のグループと、レパント諸国沿岸
をパトロールするボドレイ中将のグループに分かれていました。このため、イギリス側は最初から不利を強いら
れ、増強されて数で勝るオランダ艦隊は、アップルトン少将のグループをレグホン港で封鎖しました。アップルト
ン少将は正規の海軍軍人ではなく、本業は水先案内人協会(Trinity House)の役員であり、戦闘には消極的でし
た(←武装商船の船主代表だったのでしょうが、ロバート・ブレークが指摘した弊害の代表例です)。
 そこで1652年9月6日の午後4時頃、エルバ島沖で、味方を解放すべくレグホン港に向かおうとするボドレイ
中将の艦隊と、ファン・ガレン司令官直卒のオランダ艦隊が遭遇し、翌日の早朝に戦闘が始まりました。
 風は弱い南東の風したが、オランダ艦隊は風上側に立っていました。オランダ艦隊の戦力は旗艦「Jaarsveld
(44門)」以下軍艦8隻。イギリス艦隊はと言うと、旗艦「パラゴン Paragon (52門)」以下軍艦4隻と武装商船4隻
でした。数では同等ですが、イギリス艦隊が砲の数と火力で勝っていました。そういう安心があってか、ボドレイ中
将は、軍艦4隻でオランダ艦隊の攻撃を支えつつ、その間に武装商船をレグホン港に向かわせ、アップルトンの
グループと合流させようと考えました。
 一方、ファン・ガレン司令官の戦闘計画は、攻撃を敵の旗艦「パラゴン」に集中することでした。しかし、第一次
英蘭戦争の例に漏れず、イギリス艦の火力は接近/切り込み戦術中心のオランダ艦隊に大打撃を与えます。フ
ァン・ガレンの旗艦「Jaarsveld」は索具に大損害を受けて「パラゴン」に接近することができず、「Maan(40門)」、
「Prinses Royaal(34門)」「Wapen van Zeeland(32門)」「Zeven Provincien(40門。勿論、デ・ロイテルの有名
な旗艦とは違う艦)」の四隻では艦長が戦死。特に「Maan」は、その場で降伏して戦闘を放棄しました。トロンプが
指揮する「Maagd van Enkhuysen(34門)」に至っては撃沈されてしまい、彼は泳いで脱出する破目となりまし
た。
 しかし、最終的にはオランダ側の数が勝り、ボドレイ中将はエルバ島に向かって逃走し、レグホンに向かおうと
していた武装商船もそれに続きました。オランダ艦隊はそれを追撃し、36門フリゲート「フェニックス Phoenix」を
拿捕します。かくして、損害は大きかったものの、敵艦隊との合流を阻止したので、この「モンテ・クリストの海戦
(別名 エルバの海戦)」はオランダ艦隊の勝利でした。
 ただし、トロンプが乗艦を沈めてしまったことは、いささか問題になったようで、彼の猪突猛進の向こう見ずな性
格も明らかになりましたが、何はともあれ勇敢だったこと、そして二ヶ月ばかり後に、父マールテンがダンジュネ
ス沖でイギリス艦隊を撃破したことに鑑みて不問に付され、彼は新たに「Maan」の艦長に任命されました。

  さて、その後オランダ艦隊は、レグホン港に加えて、ボドレイ中将が逃げ込んだエルバ島も封鎖しましたが、封
鎖だけでは根本的な解決にならないため、ファン・ガレン司令官は一気にイギリス艦隊の撃滅を策します。その
ため、ファン・ガレンはエルバ島沖から離脱してレグホンを封鎖中のグループと合流しました。ボドレイ中将がエ
ルバ島を出て、レグホンに向かおうとするだろうと見越しての行動です。すると案の定、ボドレイ中将はエルバ島
を出てレグホン港に向かいましす。
 そして1653年3月13日、レグホン港沖で再び英蘭艦隊は遭遇しました(レグホンの海戦、もしくはリボルノの
戦い)。ボドレイ中将はどうにかレグホン港と連絡をつけていたようで、アップルトン少将に対し、夜陰にまぎれて
レグホンから出港するように指示していました。ところが、何を思ったかアップルトン少将は真昼間にレグホンを
出港します。ファン・ガレンは、まずは南方から接近しつつあるボドレイの戦隊に集中攻撃をかける予定にしてい
たのですが、これを見てアップルトンの戦隊に目標を変更します。
 アップルトン少将の戦力は軍艦2隻と武装商船4隻で、軍艦と武装商船合わせて15-16隻のオランダ艦隊は圧
倒的に有利でした。先ず、アップルトン戦隊の先導艦だった「ボナベンチャー Bonaventure(44門)」が、ファン・
ガレンの旗艦、「Vereenjgde Provincien(40門)」の砲撃を受けて爆沈します。生存者はわずか5名という惨状で
した。さらに、旗艦「レオパルドLeopard(48門)」も拿捕されました。トロンプも、武装商船「サンプソン Sampson 
(40門)」を撃破し、火船攻撃で撃沈しました。結局、アップルトンのグループでボドレイと合流できたのはわずか
に一隻。 戦況不利と見たボドレイ提督は退却しました。この後、イギリス艦隊は地中海からも撤収し、第一次英
蘭戦争中は戻ってきませんでした。オランダ側に軍艦の損失は無く、ファン・ガレン司令官が「ボナベンチャー」の
砲撃で脚を吹き飛ばされており、9日後に死亡しましたが、本国海域の戦闘とは正反対の大勝利でした。
 コルネリス・トロンプはこの海戦の功績で戦隊司令官に昇進し、6隻からなる戦隊を指揮して引き続き地中海で
任務についていましたが、父マールテンが戦死すると、その後任候補ということで本国に召還されました。

コルネリス・トロンプ、クビになる

 さて、本国に呼び戻されたものの、いくらなんでも25歳のトロンプが最高司令官と言う訳には行きませんでし
た。しかしそれでも、少将(schout-bij-nacht)に昇進しましたが、うぬぼれの強いトロンプはかなり不満だったよ
うであり、特に最高司令官候補に挙がったデ・ロイテルを敵視して、しばしば彼の命令を無視していたようです。
 やがて、1665年、第二次英蘭戦争が勃発。トロンプは後衛戦隊の指揮官として「ローストフト沖海戦」に参加
しますが、オランダ艦隊は大敗。しかし、退却中のトロンプの意外に冷静な指揮が評価されます(←猪突猛進ば
かりが能ではないと自ら証明した)。そして、最高司令官のオブダムは戦死。ヤン・エベルトセンは軍法会議でイ
ケニエとなって退役を勧告されたので、トロンプが最高司令官に就任しました。
 しかし、トロンプがこの人事が最終的なものだと考えていたのに対し(←そう考える根拠は客観的に見て何も無
かったのですが・・・)、共和派筆頭でオランダ連邦共和国の実質的な最高指導者であるヨハン・デ・ウィットとして
は、トロンプはあくまでデ・ロイテルが本国に戻ってくるまでの代行のつもりでした。加えて、トロンプの冷静さを欠
く性格と、オランニェ家支持者であったことも問題だったのでしょう。従って、デ・ロイテルがオランダに戻ってくる
と、トロンプは解任されてしまいます。これでますます、トロンプはデ・ロイテルに敵意を抱くようになりました。
 そして、1666年6月の「四日間の海戦」では、前衛戦隊を指揮したトロンプは奮戦しますが、二日目の戦闘で
はデ・ロイテルの命令を無視して突出し、大損害を受けて、旗艦「Hollandia (80門 この直前までデ・ロイテルの
旗艦だった)」を大破させてしまいます。結局、デ・ロイテルの救援でピンチをしのいだものの、どうやらこの時の
被害の修理に手間取ったため、オランダ艦隊は退却するイギリス艦隊を取り逃がしたようです。また、三日目の
戦闘では、座礁していた敵のグレートシップ「ロイヤル・プリンス」を巡って、拿捕しようとしたトロンプと焼却を命
ずるデ・ロイテルが対立します(←敵艦隊を追跡中のことなので、どう考えてもデ・ロイテルの方が正しい)。結局、
「ロイヤル・プリンス」は火船攻撃で焼かれてしまい、トロンプはまたデ・ロイテルに遺恨を抱きました。
 「四日間の海戦」はオランダの大勝利に終わったので、トロンプの命令違反は問題になりませんでした。しか
し、8月の「セントジェームズデーの戦い」では大いに問題になります。後衛を担当していたトロンプは、隊形を維
持せよとのデ・ロイテルの命令を無視して敵の後衛を追跡し、敵の旗艦を大破させてもう一隻を撃沈するという
奮戦しましたが(←この戦いでのオランダ艦隊の戦果の全て)、本隊とのコンタクトを失いました。その間デ・ロイテ
ルは大苦戦を強いられ、名将ヤン・エベルトセンを含む多数の人命と、軍艦2隻を失っていました。どうにか無事
にオランダにたどり着いたものの、デ・ロイテルはついに堪忍袋の緒を切り飛ばし、トロンプの命令違反が敗戦の
原因だとして、連邦議会に告発しました。トロンプの方も負けずに、自分は後衛の任務を果たしていた、デ・ロイ
テルこそ後衛を見捨てて逃げたのだと非難して、連邦議会に告発しました。
 で、どっちが正しいのかと言うと、トロンプの命令無視は明らかで、また、トロンプは戦闘の状況を全く把握して
おらず、フリシンゲンに戻った時、自分の戦闘が好調だったのでデ・ロイテルも勝ったと思い込んでおり、デ・ロイ
テルに呼ばれた時は意気揚々としていたとも言われています。そういうわけで、デ・ロイテルを非難する根拠はは
なはだ薄弱と言わざるを得ません。彼の出身地でもあり、所属司令部もあるロッテルダム市は熱心に弁護し、抗
議もしましたが、トロンプは有罪を宣告され、海軍から追放されました。
 この一件、特に冷静に考えなくともトロンプに非があります。しかし、トロンプはそうは考えなかったようで、そろ
そろ、共和派とオランニェ支持者との対立激化の兆しが見えていた頃ではあり、自身がオランニェ家当主のウィ
レム三世と親しかったこともあっていろいろと勘ぐり、もともと好感を抱いていなかったヨハン・デ・ウィットに対し、
さらに激しい敵意を抱くようになりました。

コルネリス・トロンプ、復帰する

 それ以後、トロンプは海に出ることなく、地上でオランニェ家支持者としての活動していましたが、「災厄の年」1
672年を迎えました。この年の6月、デ・ロイテルはソール湾で、数にして1.5倍の英仏連合艦隊を撃破し、海
からの脅威を取り除きました。しかし、オランダが存亡の瀬戸際で戦っている中でも、トロンプには海軍復帰の声
がかからなかった事からして、よほど嫌われていたのでしょう。
 しかし1672年8月、オランニェ家支持者によるクーデターが発生(ヨハン・デ・ウィットがリンチを受けて殺され
たと聞き、トロンプは人目もはばからずに喜んだらしい)。個人的にも親しいオランニェ公ウィレム三世がオランダ
各州の総督に就任したことで、トロンプにも海軍復帰の道が開けました。そして、トロンプ本人に代わってウィレ
ム三世がデ・ロイテルに頭を下げたので、この年の末、ソール湾で戦死したファン・ヘント大将の後任として、ロッ
テルダム司令部の大将として海軍に復職できました。この時、さすがに反省はしていたのか、デ・ロイテルに対し
て「セントジェームズデーの戦い」の不手際を認めて謝罪したので、どうにかデ・ロイテルとも和解しました。
 そして1673年6月7日の「第一次スホーネベルト海戦」では大奮戦し、一時は15隻の兵力で40隻のイギリス
艦と戦い、旗艦「Gouden Leeuw (金のライオン、の意。82門)」も大破しますが、駆けつけたデ・ロイテルの救援
でどうにかピンチをしのぎました。14日の「第二次スホーネベルト海戦」では、トロンプは至近距離での攻撃と遠
距離からの砲撃を組み合わせてイギリス艦隊を追い立てました。この時のトロンプの戦いぶりは、トロンプの攻
撃を受けた英仏連合艦隊の後衛の指揮官、サー・エドワード・スプレーグによると、
「彼(トロンプ)の砲火と獰猛さに、我々皆、生きたまま喰われそうだった by his vapouring and fierceness we
were to be eaten all alive.」
 と言う恐ろしさだったようです。その後の戦闘ではまたもデ・ロイテルの命令を無視し、独断で何時間か余分に
敵を追撃したりましたが、トロンプは自身の手で名誉を回復しました。
 
 遠距離からの砲撃で何時間も追い立てられたサー・エドワード・スプレーグは、トロンプのことを卑怯だとか勇気
が無いとか言ってあざけり、トロンプに激しい敵愾心を抱いて、次の戦いで殺すか、捕虜にすると公言しました。
まあ、トロンプの方はスプレーグのことをなんとも思っていなかったので、これは単なる片思いのライバル意識で
したが、1676年8月19日の「ケイクダインの戦い」で、この二人は再び対決します。で、トロンプの旗艦
「Gouden Leeuw」と、スプレーグの旗艦「プリンス Prince (100門)」の一騎打ちとなりました。トロンプは、この
「プリンス」を、「四日間の海戦」の時に拿捕しそこねた「ロイヤル・プリンス」と同名の艦だと勘違いしていたようで
す。
 普通に考えると、82門艦の「Gouden Leeuw」は不利なはずですが、しかし、水兵の訓練で勝り、砲の操作が
早くて発射速度が2−3倍勝る「Gouden Leeuw」は、「プリンス」を滅多撃ちにしました。まあ、こうした水兵の訓
練度は、トロンプがクビになっていた間にデ・ロイテルが仕上げたものですから、トロンプの実力とは言えません
が、三時間程の戦闘で「プリンス」は大破、マストと操舵装置を破壊されて航行不能となり、スプレーグは別のグ
レートシップ「セント・ジョージ St George (70門)」に移動しました。しかし、その「セント・ジョージ」もまた、二時
間後には「Gouden Leeuw」の砲撃で大破して火災を起こします。「Gouden Leeuw」もまた大破して、トロンプは、
「Comeetstar(70門)」に移動する破目になりましたが、サー・エドワード・スプレーグの方はもっと不運で、「セン
ト・ジョージ」を退艦した後、ボートに直撃弾を受けて溺死してしまいました。反対にトロンプはこれらの戦いで大い
に勇名を馳せます。

 
 トロンプの旗艦「Gouden Leeuw」(wikipedia より)


コルネリス・トロンプ、最高司令官となる
 
 1675年、初めて独立した指揮権を得たトロンプの任務は、フランスに対する牽制攻撃の一環として計画され
たブルターニュ半島のベル島攻略でしたが、これは失敗。そしていかにも彼らしく、その後で独断で地中海に進
出したりしましたが、そこでもフランス艦隊とは遭遇せず、空しくオランダに引き返しました。が、この後トロンプに
は、意外な活躍の場が待っていました。
 1674年、フランスの同盟国であるスウェーデンは、ブランデンブルグ選帝侯国との領土紛争からスコーン戦
争(Schonen War 1674-1679)を引き起こしていました。ブランデンブルグ選帝侯国とオランダは対仏戦争で同盟
していたので、オランダもスウェーデンと戦争状態となります。そこで連邦議会は、貿易ルートを防衛するために
もバルト海への艦隊派遣を決定するとともに、友好国であるデンマークにも支援を要請しました。デンマーク国王
クリチティアン5世(1646-1699)は、しばしためらった後に要請を受け、オランダ艦隊と連合艦隊を組織します。
指揮官には、デンマーク海軍の最高司令官であるCurt Sivertszoon Adelaer 提督(1622-1675)が就任しまし
た。
 当時のデンマークは結構な海軍国でしたが、オランダ海軍に学ぶところが多く、士官や水兵にもオランダ人が
多く居ました。また、Adelaer提督は、デ・ロイテルやコルネリス・トロンプの下で勤務していたこともあり、トロンプ
とも個人的に親しかったので、両国海軍の連携は上手く行っていたようです。1675年中は大きな戦闘は無く、
冬の訪れとともにオランダ艦隊はいったんバルト海から引き上げました。ところが、この中休み中にAdelaer提督
が急死してしまいます。デンマーク海軍には他に人材が居なかったので、国王クリスチアン5世は、トロンプに最
高司令官就任を要請しました。オランダの連邦議会もこの要請を承認したため、トロンプは、異国の地で念願久
しい最高司令官の地位を手に入れたのでありました。
 1676年に入ると、オランダ海軍は再び、フィリップス・ファン・アーモンド少将(Philips van Almonde 1644-
1711)率いる9隻の軍艦と何隻かの小型艦をバルト海に派遣し、デンマーク艦隊とは5月24日に合流しました。
この連合艦隊はトロンプが直接指揮を執ることになっていましたが、この時はまだ現場に居らず、スウェーデン艦
隊がかなり強力だという情報を得ていた彼は、コペンハーゲンで増援の手配をしていました。
 そして、トロンプがまだコペンハーゲンに居た6月4日、連合艦隊はボルンホルム島沖でスウェーデン艦隊を視
認します。この時スウェーデン艦隊は、Lorentz Creutz提督指揮する、134門搭載!!!!の旗艦「Kronan (Stora
kronan もしくはRiks-Kronanとも。勿論、当時は世界最強)」以下45隻。翌日、圧倒的劣勢にも関わらず、オラン
ダ艦隊は勇敢にスウェーデン艦隊に立ち向かいましたが、トロンプの増援が到着するまでは戦闘を避けよと命じ
られていたデンマーク艦隊が、オランダ艦隊を支援しようとはしなかったので、結局オランダ艦隊は退却を余儀な
くされました。
 一方、ボルンホルム島沖での戦闘を知ったトロンプは、戦力不足を認識しながらも急遽コペンハーゲンを出港
し、4隻のデンマークのグレートシップと、オランダ艦3隻と火船2隻を率いて6月7日に本隊と合流しました。この
時点でのトロンプの戦力は、旗艦「クリスティアン5世Christianus Quintus (86門)」以下、フリゲート以上の戦列
艦(←1676年当時の分類)33隻、火船6隻、そしていくつかの小型艦艇で、まだまだスウェーデン艦隊よりも劣
勢でした。
 6月9日、連合艦隊は再びスウェーデン艦隊を視認しました。スウェーデン艦隊はまだなお数で優位を保ってい
ましたが、トロンプ来るのニュースに恐れをなし、戦闘を回避して逃走を図ります。しかし6月11日、トロンプはエ
ーランド島沖でスウェーデン艦隊を捕捉し、正午頃に戦闘が始まりました。
 戦闘が始まると、トロンプは、いかにも彼らしく「全力攻撃」の信号を出します。一方のスウェーデン艦隊には、
大アクシデントが発生しました。スウェーデン艦隊の旗艦「Kronan」が、最初の片舷斉射の後にいきなり転覆し、
爆発して吹っ飛んだのです。これは連合艦隊の攻撃によるものでないらしく、片舷斉射の直後であったため、衝
撃で重砲の固定が外れて船体が傾き、その拍子に点火した火縄でも火薬庫に転げ込んだのではないか、と当時
の専門家は推測しています。もっとも、スウェーデンの軍艦は、処女航海で転覆した「ヴァーサ Wasa(引き上げ
られ、当時のまま現存)」が有名なように、傾斜時の復元性がかなり悪かったようで、単純に片舷67門の大砲の
一斉射撃による反動でひっくり返っただかも知れません。まあ、なんであれ世界最強の軍艦は、司令官Creutz提
督と800人以上のクルーとともに吹っ飛んだのでした。
 この大惨事にスウェーデン艦隊の士気は完全に粗相し、本国に向かって逃走を始めます。トロンプは追撃し、
副司令官の旗艦「Svardet(94門)」を攻撃して、メインマストをへし折りました。「Svardet」は降伏し、トロンプもそ
れを確認しましたが、行き違いでオランダの火船が「Svardet」に突っ込み、爆沈させてしまいます。これで500
人以上のスウェーデン兵が死亡したため、トロンプは、オランダ本国で厳しい批難を浴びました。
 しかし、それやこれでスウェーデン艦隊は11隻の軍艦と数千人の兵士を失いました。一方、デンマーク/オラン
ダ連合艦隊に軍艦の損失は無く、数百人が死傷しただけでした。純粋に実力で勝ったのかと言えば、いささかギ
モンではあるのですが、この「エーランドの戦い Salg bij Oland」は、トロンプの大勝利に終わりました。バルト海
の制海権は完全にオランダ/デンマークの物となり、本国との連絡を絶たれたスウェーデン軍は、ドイツでの軍事
行動を縮小せざるを得なくなります。この功績により、トロンプはデンマークの伯爵に叙されました。
 余談ながら、この戦いで、陸軍の精強さや艦のカタログデータとは反対の、スウェーデン海軍の士官の無能や
情実人事のダメダメぶりが白日にされされたので、生き残った士官達は全員、軍法会議で死刑を宣告されまし
た。
 トロンプはその後もデンマーク海軍の指揮を執ることになっていましたが、しかし、4月29日に既に救国の大英
雄デ・ロイテルが地中海で戦死していました。こうなると、デ・ロイテルに代わる人材となればトロンプしか居ない
ので、彼は本国に召還され、デ・ロイテルの後任としてLuitenant-admiraal-generaalに昇進し、オランダ海軍の
最高司令官に就任しました。

 しかし、その後はトロンプの活躍の場はありませんでした。フランスとの戦争は1678年に終わってしまいま
す。1688年11月には、イギリス「名誉革命」に伴う、ウィレム三世のイギリス本土上陸作戦という大事件があり
ましたが、イギリス人への政治的配慮によって、艦隊の指揮官にはイギリス人の提督が据えられました。と言っ
ても、実質的な指揮官は副司令官のコルネリス・エベルトセン(←名将ヤン・エベルトセンの甥で、彼の弟の同名
の息子)でしたが。それに、9月にフランス軍がドイツに侵攻し、いわゆる「ファルツ継承戦争(大同盟戦争)」が始
まっていたので、本国防衛のためトロンプがオランダに残るのは当然と言えば当然でした。
 そして、フランス国王ルイ14世は、ウィレム三世がイギリス国王に就任したことに対して、英蘭両国に宣戦布
告。1690年7月10日、フランス艦隊77隻と、英蘭連合艦隊56隻(英34 蘭22)が英仏海峡で交戦する「ビー
チー・ヘッドの海戦 Battle of Beachy head」が発生しました。この時、連合艦隊の総指揮官であるイギリス人
のトリントン提督は、イギリス艦隊を戦闘に参加させず、オランダ艦隊を見捨てて逃走します。結局、フランス艦
隊は一隻も失わなかったのに対し、オランダ艦隊は16隻を失って大敗しました。オランダの激怒とイギリスの顰
蹙を買ったトリントン提督は解任され、逮捕されます(この時の彼の弁明から「現存艦隊 Fleet-in-being」という
言葉が生まれたらしい)。そして、後任としてトロンプが候補に挙がりました(何の功績があったのかはわかりませ
んが、彼はイギリスの男爵に叙されていた)。オランダとイギリスの同盟条約では、海上での軍事行動ではイギリ
ス海軍から指揮官を出すことになっていたのですが、オランダの世論を宥和するためにも、また、現実にトロンプ
以上の人材が居ないこともあって、仕方が無かったのです。しかし、トロンプはこの任命が現実になる前に死去し
ました。享年69歳


 
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