オランダ名海将列伝その4
ヴィッテ・コルネリスゾーン・デ・ウィト 
(Witte Corneliszoon de With 1599-1658)




 端的に言うと、マールテン・トロンプの嫌われ者バージョン。
 ヴィッテ・デ・ウィトは、トロンプと同時期に活躍した人物であり、その優れたシーマンシップと勇敢な戦いぶり、
輝かしい武勲から、もしかしたらトロンプ以上の名将になれたかも知れないのです。しかし、どうにも影が薄い。
実際のところ、オランダへの貢献度という点で見れば、トロンプよりも長生きした分だけ、デ・ウィトの方が大きい
のですが。
 いろいろと重複するところがありますので、適宜ローカル英雄伝の「デ・ロイテル」や「マールテン・トロンプ」の
項を参照してください。


クソガキ時代
 1599年3月28日、ヴィッテ・デ・ウィトはブリエルの農家に生まれました。三歳くらいの時に父親が亡くなり、以
後は母子家庭で育っています。マールテン・トロンプとは家が近所であり、トロンプ一家がロッテルダムに引っ越
すまでは、よく一緒に遊んでいたとのことです。生活は母親の内職の収入だけで支えられており、貧しかったとい
う説もあるのですが、実際のところ、デ・ウィトは奉公に出ることも無く卒業するまで学校に通っていることから、
母子家庭とは言え普通の暮らし振りだったと思われます。
 ただし、デ・ヴイスは学校ではほとんど勉強せず、ひたすら問題行動を繰り返していました。これはデ・ロイテル
の少年時代に共通したものがあるようですが、デ・ロイテルほど可愛げが無く、どちらかと言うとイタズラよりも
「非行」の類だったようです。そして11歳の時、喧嘩沙汰が母親に知れるところとなりました。彼は家はバプティ
ストであり、暴力は大罪なので、母親はデ・ウィトを厳しく咎めました。
 そこで彼は、「二度と喧嘩はしません。」と母親に誓い、しばらく大人しくしていたようですが、そのためにいじめ
られたらしく、机の中にネコの死体を突っ込むというバカをやったガキをぶちのめすとともに、以後、バプティスト
としての信仰を捨てる!と公衆の面前で宣言したらしいです。事の善悪はどうあれ、やはり、歴史に名を残す人
物はやることが豪快です。
 
 さて、学校を出たデ・ウィトは、いよいよ就職、とあいなったのですが、どこへ行っても長続きせず、ロープ工場、
ボタン工場、仕立て屋など職を転々とします。相変わらず素行は極めて悪く、喧嘩してクビになるか、自分からや
めるかのどちらかでした。なんとなく人生に疲れたダメ男を連想させますが、これが12歳から16歳までの出来
事だというのだから、驚きです。
 そして彼は、どうやら自分は船乗り向きだと悟ったらしく、17歳の時、東インド会社船のキャビンボーイとして最
初の航海に出ました。
 そして、航海した先はジャワ島。当時はまだオランダの植民地として有名なバタヴィア市はまだ無く、「ジャカル
タ要塞」という交易ポストしかなかったのですが、彼はそこの長官、ヤン・ピータースソーン・クーン(Jan
Pieterszoon Coen 1587-1629)に見いだされました。一介のキャビンボーイでしかなかった彼が、いかにして東
インド会社の交易ポストの長官の目に止まったのかはよく分かりませんが、実際デ・ウィトは、素行の悪さとは裏
腹に、周囲の誰にでもその高い知性と能力を感じさせる人物だったようであり、彼自身もそれを認識していまし
た。まあ、このこともまた、反発を買う原因のような気がしなくも無いですが。
 その後、デ・ウィトはクーンの秘書やボディガード役として、時には現地人との戦闘などにも奮闘し、1619年の
バタヴィア市建設に当たってはかなりの働きがあったと言うことです。


ヤン・ピータースゾーン・クーン (Jan Pieterszoon Coen 1587-1629)


若手士官の時代
  デ・ウィトは東インド会社で急速に昇進し、1622年には東インド会社の旗艦艦長に、1625年には中将の資
格で東洋への貿易船団を指揮しました。デ・ウィトの人物像に関しては、「粗暴」、「粗野」、「厳格」、「傲慢」、「尊
大」、「無慈悲」、おまけに「嫉妬深い」など、何とも素晴らしい人格者ぶりが伝わっており、おおよそリーダー向き
とは思えないのですが、何と言うか、この世の中「大事なのは人柄」なんて甘っちょろいものではなく、やっぱり有
能さが全てで、人柄は二の次なのでしょうか。とにかく、デ・ウィトの場合、性格的な欠点を全て無視できるほど有
能な船乗りだったようです。
 その後、1628年、東インド会社を退職し、ロッテルダム司令部所属の艦長となりますが、そこで彼は、かのピ
ート・ヘインの旗艦艦長に任命され、財宝船団捕獲で有名なカリブ海遠征に参加しました(←一応、これはオラン
ダ西インド会社の軍事行動でしたが…)。
 そこで彼は、素晴らしい操船術で高速ヨットを拿捕します。このヨットは、スペインの財宝輸送船団にヘインの艦
隊の接近を警告しようとしていたので、これはデ・ウィトの大手柄ではありました。しかし、彼がこの件を盾にとっ
て分け前の割り増しを要求したため、ピート・ヘインの怒りと連邦議会のヒンシュクを買いました。しかしそれで
も、500フルデンの追加手当を貰ったのですが、彼は満足しませんでした。
 1629年、オランダ本国艦隊最高司令官に就任したピート・ヘインが、トロンプを旗艦艦長に選んだのもけだし
当然であります(マールテン・トロンプの項参照)。
 もっともこの件に関しては、デ・ウィト自身が旗艦艦長という役割に嫌気が差しており、自分は外してくれとフレ
デリク・ヘンドリク総督に申し出ていたと言われています。「嫉妬深い」と言われつつも、同郷の幼馴染の故か、ト
ロンプの人格的包容力のおかげか、デ・ウィトとトロンプは意外に仲が良かったようです(←と言うか、トロンプが
ほぼ唯一の友人だった)。現在ではすっかりデ・ウィトは影が薄くなっていますが、この当時、能力も実績も、デ・
ウィトの方がトロンプより上だと見なされていましたし、トロンプが旗艦艦長として出世した後でも、彼とトロンプが
若手幹部のツートップとして海軍内部ではよく知られた存在でした。
 しかしデ・ウィトは、優秀な艦長として腕を振るう一方、「粗暴」、「粗野」、「厳格」、「傲慢」、「尊大」、「無慈悲」
という、性格の悪さが災いし、友人は全く出来ず、同僚の艦長達とは揉め事が絶えず、士官からキャビンボーイ
まで、上下の別なく部下から嫌われていました。加えて、優秀な海軍士官としてオランダ海軍の問題点を遠慮なく
指摘したので海軍司令部の委員達の怒りも買い、1634年には辞職を余儀なくされます。
 その後は結婚し、蓄財に励み、さらにはブリエルの役人になろうとしたりと色々がんばっていましたが、同じく辞
職に追い込まれて陸に上がっていたトロンプとは、互いに尊敬しあい、友人として、また良きライバルとして親しく
付き合っていたようです。
 そうこうしているうちに、海軍へ復帰するチャンスが巡ってきました。1637年、時の本国艦隊最高司令官フィリ
ップ・ファン・ドープ提督自ら率いるオランダ艦隊は、スペインの輸送船団の阻止に失敗します。このため、ドープ
提督以下、オランダ艦隊の首脳陣はほとんど総入れ替えとなります。ここでデ・ウィトは、オランダ艦隊を指揮で
きるのは、自分とマールテン・トロンプのみであると主張し、自身は最高司令官、トロンプは次席指揮官として、総
督と連邦議会に運動しました。しかし、本国艦隊最高司令官に就任したのはトロンプで、デ・ウィトは次席司令官
になります。この時から彼は、トロンプに対してライバル意識を持ち始めたようですが、それでも仲たがいまでに
は至らず、二人は協力してオランダ艦隊を支え、任務を完璧に遂行しました。
 
嫌われ者の時代
 そして1639年9月、スペインの大艦隊が来襲でオランダは重大な危機にさらされました。スペインの大艦隊を
前にして戦闘を回避しようとするトロンプに対し、デ・ウィトは断固攻撃を主張し、トロンプを押し切りました。そし
て、その後の戦闘では乗艦が大破するまで奮戦し、スペイン艦隊をダウンズ泊地に追い込むに当たって、極めて
大きな役割を果たしました。
 ダウンズ泊地にスペイン艦隊を追い込んだトロンプは、デ・ウィトを増援要請のため帰国させましたが、これは
彼の押しの強さが見込まれてのことで、手早く増援部隊の手配をしてくれるだろうと期待されたようです。そして
デ・ウィトはその期待に応えたうえに、「ダウンズの海戦」でも大活躍し、名将としての名声を確固たるものとしまし
た。
 
 さて、1639年末のある時、ダンケルクを封鎖中のデ・ウィトの艦隊は大嵐に遭遇し、配備点から流されてしま
うという事がありました。1640年になって、この件に関する査問会が、トロンプを議長として開かれました。しか
し、この査問会ではデ・ウィトに対する不利な証言が続出します。そしてトロンプは、デ・ウィトの友人としてではな
く、職務上、あくまで判事の一人として行動したことから、デ・ウィトは、ライバルである自分を追放するために、ト
ロンプが自分に不利な証言を艦長達に強制したのだと邪推しました。
 実際のところ、伝えられているデ・ウィトの性格が話半分だとしても、不利な証言が続出したのは「日頃の行い
が悪かったから」としか言いようがありません。また、結局は嵐のせいですから、デ・ウィトが重い処分を受けた形
跡も無いのですが、デ・ウィトはこれでトロンプに対してかなり恨みを抱くようになりました。
  そしてさらに、トロンプが大富豪の娘と結婚し、大英雄として国中に祝福されながら派手な結婚式を挙げたこと
(マールテン・トロンプの項参照)がデ・ウィトは気に入らず、しかも、その結婚式の費用が、ダウンズ沖海戦の拿
捕賞金からトロンプが不当に多くの分配を得たためだと邪推します。これに関しては、当時、トロンプの資産は約
80,000フルデンと見積もられていたのに対し、結婚式には16,000フルデンもかけているので、邪推するのもあな
がち無理な話ではありませんが、分配に不公平があったということは無いようです。
 しかし1640年以降、デ・ウィトは、トロンプを非難、中傷するパンフレットを出版しはじめました。潔いと言うか
何と言うか、デ・ウィトの偉いところは、実名で出版したことであります。もっとも、これは別にトロンプに対してだ
けではなく、もともとデ・ウィトには、人の失敗をパンフレットに書いて触れ回るというイヤな癖があっで、それでヤ
ン・エベルトセンをも怒らせています。他にもこの時代、いくつか匿名でトロンプを非難するパンフレットがあり、確
たる証拠はないものの、デ・ウィトが書いたと言われています。しかし、既に実名を出している彼が、匿名にする
理由は無さそうなので、共和派とオランニェ家支持者との対立が始まっていた頃のことではあり、恐らく、オラン
ニェ家支持者の中の大物であるトロンプを貶めようとする共和派の誰かの手になるものでしょう。ま、なんにせ
よ、トロンプの名声は絶大であり、こうした中傷がトロンプに対して悪影響を及ぼしたことは無かったようです。
 
 1640年代後半、デ・ウィトはブラジルのペルナンブーゴ(当時はオランダ領)の防衛のため、ブラジルで艦隊を
指揮していました。ここでも彼は、その過度の厳格さと冷酷さで部下の全てに嫌われ、おまけに、粗野で乱暴な
態度によってペルナンブーゴの当局者にまで嫌われて、補給品の調達を妨害されました。
 現地当局の非協力振りに対し、デ・ウィトは、
「最も卑しい奴隷、いや、犬ですら私よりまともな扱いをしてもらえるだろう」
 とコメントしていますが、自分の態度の悪さについては言及していない(←笑)。これに関して、「The Great
Dutch Admirals(Jacob de Lifde著 1873)」は、
「最も狭量な小役人と、最も嫌われている男の争い」
 だと容赦は無いけど爆笑もんの評を下しています。しかし、何にせよ巻き込まれる部下達はたまったもんでは
ありません。
 さて、そんなある時、夫人の死去のニュースがデ・ウィトにもたらされました。彼にはまだ幼い子供がたくさんい
たため(10人ほどいたらしい)、心配になったデ・ウィトは交代帰国を願い出ますが、却下されました。デ・ウィトが
いかに嫌われ者とは言え、海軍提督としての能力は高く評価されていましたから、恐らく、おいそれと交代させる
には惜しかったのでしょう。
 そういうわけで、帰るに帰れず、ペルナンブーゴからはつまはじき、そして部下には嫌われるという状況の中、
海軍本部とペルナンブーゴ当局の仕打ちに腹を立てたデ・ウィトは、部下に当たりちらすようになり、その多彩な
人物評価へ新たに「横暴」の語を加えました。そして6回目の帰国要請が拒否されると、ついにデ・ウィトは堪忍
袋の緒を切り飛ばし、1648年末、無断で艦隊をブラジルから撤収させ、1649年の夏、オランダに帰国しまし
た。
 デ・ウィトが無断で帰国したことは、本人よりも先にオランダに伝わっており、帰国と同時に彼は、連邦議会での
釈明を求められました。そこでデ・ウィトはハーグに行きましたが、彼は釈明の間もなく逮捕され、反逆と抗命、敵
前逃亡などの罪で起訴されて有罪となり、全資産没収の上で死刑を宣告されてしまいました。
 しかし、妻が死んで幼い子供だけが残された状況で、何度も帰国要請を出していたことは充分に情状酌量に値
しました。加えて、デ・ウィトの能力と功績は、死刑に処するにはあまりにも大きすぎ、なんやかやと揉めた末に、
裁判費用と収監中の生活費の負担、および収監中の給与の没収という罰金刑だけで放免になって、海軍中将の
地位にもとどまりました。
 ところがデ・ウィトは、この裁判において自分に不利な判決を出そうとした連邦総督をひどく恨むようになり、もと
もとやや共和派びいき、くらいの政治姿勢だったのが、これ以後は熱烈な反オランニェ家活動家となります。共
和派の人々も、何はともあれ高名な軍人であるデ・ウィトを喜んで仲間に加えました。
 
 1652年、第一次英蘭戦争が勃発しました。開戦のすぐ後、共和派の策謀によりトロンプが解任されたので、
デ・ウィトはついに、念願久しい最高司令官に就任します。
 しかし、本国艦隊の旗艦であった「Brederode」に乗り込もうとしたところ、乗組員達はデ・ウィトにロープもハシ
ゴも出さず、彼の乗艦を拒否します。もともと「Brederode」は1647年からトロンプの旗艦であり、それまではデ・
ウィトの旗艦だったのですが、古巣に拒否された彼は、別の旗艦を探さなくてはなりませんでした。そして1652
年10月8日、「ケンテイシュノックの海戦」にのぞみましたが、戦闘中に部下に逃げられ、大敗を喫します。デ・ウ
ィトは逃亡した艦長達を厳しく責め、死刑も含む厳罰に処しましたが、敗戦の責任は免れず、デ・ウィトは最高司
令官職を解任されて海軍中将に降格となり、トロンプが再度、最高司令官に復帰しました。
 1653年8月、「テル・ヘイデの戦い」でトロンプが戦死しました。、トロンプの戦死を察した艦長達が逃走を始
めたため、艦隊の指揮を引き継いだデ・ウィトは「最後の一弾まで戦わない者は絞首刑だ!」と脅しましたが、効
果はあまりなく、後で何人かを本当に処刑しています。
 その後、デ・ウィトが最高司令官を一時代行し、バルト海への船団護衛を指揮しましたが、大嵐で酷い損害を蒙
りました。
 バルト海から戻り、トロンプの後任人事が問題になると、当然、デ・ヴイスが第一候補となります。しかし、デ・ウ
ィト本人が、続く敗戦と海軍司令部の保守的な体質にうんざりしていたので、最高司令官職に興味を示しません
でした。また、彼が共和派支持者であるため、オランニェ家支持者達が彼の起用に猛反対します。さらに、旗艦
候補となる大型艦6隻の乗組員は、デ・ウィトを拒絶する意向を明確にしたので、改めて言うまでも無く、人望の
無さがはっきりしました。
 で、いろいろあったあげく、政治的な妥協人事として、トロンプの後任には、共和派支持者である元騎兵大佐の
ヤコブ・ファン・ヴェッゼナー・ファン・オブダム(Jacob van Wassenaer van Obdam 1610 - 1665)が就任しま
す。意外にも、最初のうちデ・ウィトとオブダムの仲はそれほど悪くなかったようです。オブダムは有能で勇敢な陸
軍軍人でしたが、海に関してはズブの素人だったため、デ・ウィトにしてみれば大した競争相手ではなく、いかよう
にも操縦できると考えていたようです。

最期は英雄として

 第一次英蘭戦争終結後も、オランダ海軍は、ポルトガルとの紛争や、スウェーデンのバルト海南岸地域への侵
攻等の危機のため、けっこう忙しく活動しており、デ・ウィトはオブダムとともに上手くに任務を果たしていました
が、そうこうしている内に、スウェーデンとデンマークの間で戦争が勃発します。
 スウェーデン軍はユトランド半島の北部、ユトランド半島とシェラン島(首都コペンハーゲンがある)の間にあるフ
ュン島を占領し、コペンハーゲンも包囲する態勢をとり始めました。バルト海交易はオランダ経済の生命線の一
つであり、デンマークがスウェーデンに征服されて、バルト海の出入り口がスウェーデンに押さえられるような事
態は、オランダにとって看過し得ない重大な脅威でした。そして、国家存亡の危機に立たされたデンマークは、オ
ランダに支援を要請したので、連邦議会は直ちにデンマーク側に立っての軍事介入を決定しました。
 この頃、オブダムは健康を損ね、最高司令官としての職務を果たせる状態ではなく、デ・ウィトと交代しようとし
ていたのですが、時の連邦共和国の最高指導者であるヨハン・デ・ウィットの意向で強引に留任させられていまし
た。そして、このことがこじれたらしく、デ・ウィトはオブダムとかなり仲が悪くなっていました。しかし、マールテン・
トロンプは既に戦死、コルネリス・トロンプはまだ若過ぎ。ヤン・エベルトセンはホラント州で今ひとつ評判が悪く、
後の大英雄デ・ロイテルも、まだまだデ・ウィトよりも下だと見なされていたこの当時、オブダム提督としてもデ・ウ
ィトに頼らざるを得ませんでした。そして1658年10月、35隻の軍艦、および輸送船20隻からなるオランダ艦
隊がオブダムの指揮の下にバルト海へ派遣され、デ・ウィトは副司令官として遠征に参加しました。
 11月3日に艦隊はカテガット海峡に入り、11月8日、シェラン島とスウェーデンの間の狭い水路で、スウェーデ
ン艦隊と遭遇しました。
 スウェーデン艦隊はカール・グスタフ・ウランゲル提督(Karel Gustaaf Wrangel 1613-1676)に率いられた45
隻の戦力で、オランダ艦隊には数で勝っており、しかもスウェーデン側の海岸の要塞から援護射撃を受けること
も出来ました。
 自ら前衛を買って出たデ・ウィトは、旗艦「Brederode」(←なんとか乗せてもらったらしい)で先頭に立ちました。
そして先ずは、オブダムの旗艦「Eendracht」と協同でウランゲル提督の旗艦を撃破し、戦線から脱落させまし
た。次にデ・ウィトは、副司令官Bielkenstiern中将(不詳)の旗艦を狙い、その途中、敵艦一隻を降伏させて拿捕
し、もう一隻を火薬庫直撃で爆沈させました。デ・ウィト強い!強すぎます!これで人柄が良ければもっと良い…
…。
 しかし、追跡中に「Brederode」は、敵艦ともども座礁してしまいました。さすがのデ・ウィトも救援を求める信号
旗を掲げさせましたが、既に乱戦になっており、オランダ側が数で劣っていることもあって、救援に来る味方はあ
りませんでした(←嫌われたあまりに見捨てられたのでは決して無さそうです。イギリスには部下に見捨てられた
提督が居ますけど…)。
 そして座礁した者同士、「Brederode」と敵艦との間で激しい銃火の応酬となりますが、別のスウェーデン艦が
「Brederode」の艦尾に接舷して切り込みをかけてきました。この後、2時間に及ぶ白兵戦となりましたが、デ・ウ
ィトは足に銃弾を受けて倒れました。
 デ・ウィトは士官達に助け起こされ、下甲板に避難する様に勧められましたが、彼はそれを拒み、指揮を執り続
けます。そこへもう一発、今度は胸に銃弾を受け、デ・ウィトは致命傷を負いました。しかしなおも彼は剣を振る
い、指揮を執り続けました。
「戦うことを恐れるな! 偉大なる主は覚えていてくださる。諸君らが、妻と子供達のために戦ったことを!」
 子供の頃のことではありますが、「信仰を捨てる!」とか言った男が偉大なる主を持ち出すのが何ともアレで
す。また、デンマーク支援の戦いが、直接、オランダの海軍士官達の妻や子供のためになるかどうかもギモンで
はありますが、とにかくデ・ウィトは死の瞬間まで戦い続けたのでした。デンマーク人のために戦え!と言ってい
れば、デンマークでも英雄になれたかもしれませんが、何はともあれ、この勇敢さがあったればこそ、部下達は
彼を心底嫌いつつも、その指揮に従っていたのです。
 戦いは多勢に無勢であり、結局「Brederode」はスウェーデン軍に制圧され、後ではついに沈没してしまいます
が、デ・ウィトは死に瀕しつつも降伏を拒み、剣を手放さずに息を引き取りました。享年59歳。
 さて、他のオランダ艦隊はどうしていたかと言うと、乱戦の中、ピーター・フローリス中将が戦死し、オブダム提
督の旗艦「Eendracht」もスウェーデン艦隊の中に孤立して叩かれるなどひどい戦いぶりでしたが、痛風でダウン
していたオブダムの代わりに、「Eendracht」のコルテノール艦長が奮戦したおかげで、スウェーデン艦隊を撃退
し、失った軍艦も「Brederode」だけですみました。
 この「海峡の戦い Slag in de Sont」の結果、6−8隻を失ったスウェーデン艦隊は海峡から撤退し、デンマー
クは危機を脱しました(←これ以降もデンマークは、様々な状況でオランダの足を引っ張ります)。
 また、スウェーデン国王カール10世(←海岸で海戦を見物していたらしい)は、デ・ウィトの最期の様子を聞いて
強い感銘を受け、軍艦を仕立ててデ・ウィトの遺体を丁重にデンマークに滞在中のオプダムのもとに送り返しまし
た。カール十世の厚意に、ありがた迷惑…、と正直な感想を持ったオランダ海軍士官も一人二人では無かったと
思われますが、ここはやはり、ヴイッテ・デ・ウィトはオランダ海軍を支えた名将に相応しい葬礼でもって、オラン
ダへ戻され、ロッテルダムのラウレンス教会(Laurens kerk)に葬られました。
 ただし、死んだからと言って、全てが美化されるわけではありません。生前の嫌われ者ぶりに加えて、40年代
末からの共和派への急激な傾斜が、オランニェ家復権以降の時代において、彼の評価に対して大きな傷となり
ました。従って、今もオランダでは影が薄い人物であります。

 で、こういう人物にはありがちな話ですが、後世の人がことさら悪く言ったのではないか、との疑問は沸きます
が、しかし、デ・ウィトの手になるトロンプその他海軍士官を中傷するパンフレットが多く残っているようなので、ど
うやらイヤな性格は間違いなくホンモノのようです。
 しかし、デ・ウィトについていくつか弁護しておきましょう。まずデ・ウィトの勇敢さやシーマンシップについては、
疑問の余地は全く無く、デ・ウィトを嫌う部下達でも、これに関しては認めるのにやぶさかではありませんでした。
そして、生真面目な性格であり、任務に精励するあまり友人を多く作っているようなヒマが無かったことが、孤立
を招いた要因の一つと言われています。
 また、少なくともペルナンブーゴ沖の騒動まで、デ・ウィトは理由無く部下を罰するようなことは無かったようです
し、家族や友人(←少なくともデ・ウィトが友人だと認識している期間中)に対して誠実さを欠く事も無かったようで
す。また、ケンティシュノックの海戦やテルヘイデの海戦で、敵前逃亡した艦長達は厳しく罰しましたが、
「Brederode」の乗艦拒否事件では、特に乗組員達を処罰した様子はありません(←提督の乗艦を拒否したりす
れば、反乱と見なされて死刑になっても文句は言えない)。ここにデ・ウィトの人間性の一端が伺えるのではない
でしょうか?
 デ・ウィトは、単に部下に厳しすぎただけであり、権力を理不尽に振りかざす暴君では無かったのだと思いま
す。

(* なお、「船の歴史事典(アティリオ・クカーリ、エンシォ・アンジェルッチ著 原書房)」には、デ・ウィトが帆や索具を効果的に破壊するた
めの「鎖付き弾」を考案したと受け取れる記述があります。本当だとしたら帆船時代の大発明なのですが、確認が取れませんでした。)

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