オランダ名海将列伝
 17世紀はオランダの「黄金時代」とされています。この時代のオランダの繁栄は、世界の海上交易を支配する
ことで成り立っていました。とは言え、その成立過程は決して平和だったわけではなく、当時のオランダを支えた
名将達を紹介します


目次

ピート・ヘイン(1577-1629)
ヨハン・エベルトセン(1600-1666)
コルネリス・トロンプ(1629-1691)
ヴィッテ・デ・ウィト(1599-1658)
ヤコブ・ファン・ヘームスケルク(1567-1607)


ピート・ヘイン (Piet Heyn, Pieter Pieterszoon Heyn 1577-1629)

 ピート・ヘインの通称で知られる、ピーター・ピータースゾーン・ヘインは、オランダの独立運動(80年戦争)後半
期に活躍した私掠船の名指揮官であり、トレジャーハンティングのターゲットとして今も名高い、スペインの財宝
輸送船団を丸ごと捕獲して勇名を馳せました。

 彼は1577年11月25日にデルフトスハーフェンで生まれました。父親はニシン漁船団の護衛をしている小型
艦の艦長でしたが、後に商船に転向しました。ピート・ヘインは幼い頃から青年期まで父と同じ船で働いていまし
たが、おかげで1598年に親子ともどもスペイン人に捕まり、ガレー船漕ぎをやらされました。1602年、捕虜交
換で釈放されましたが、不運にもヘインはすぐにまた捕虜になり、1607年まで捕虜生活を送る破目となりまし
た。
 解放後は東インド会社に操舵手として雇われて、インドネシアへ航海しましたが、船の上級士官がどんどん死
んでいったため、帰りの航海では船長になっていました、翌年より、地中海航路の船長として働きました。
 1622年、45歳になって充分な資産を築いていたヘインは引退を考えましたが、休戦明けでスペインとの戦争
が再開していたので、1623年から少将として西インド会社に雇用されました。後にオランダ西インド会社は奴隷
貿易で悪名を馳せますが、当時はまだカリブ海、南米地域での対スペイン(および、同君連合のポルトガル)私掠
船事業を第一とする軍事的性格の強い会社でした。
 ヘインは、ブラジルのバイーア(現サルバドル)攻撃の命令を受け、1623年12月にバイーアに到着しました。
しかし、市街を砲撃しても効果がなかったので、小型船を潜入させて停泊中の商船を拿捕し、その後、自分の直
接指揮の下に城壁を乗り越えて市内に突入、バイーア市は特に抵抗することなく降伏しました。
 バイーアを占領中、知らずに入港してきたポルトガル商船は全部拿捕され、砂糖、タバコ、獣皮など莫大な物
資がオランダへ送られました。
 1624年8月5日、アフリカのポルトガル領ルアンダ(現アンゴラ)占領の命を受けたヘインは、7隻を率いてバイ
ーアを立ち、10月に現地に到着しました。最初の予定では、先にルアンダを攻撃して失敗していた別の3隻と合
流することになっていたのですが、会合に失敗したヘインは、単独でルアンダを攻撃します。
 しかし、港外の浅瀬で何度も座礁して攻撃は失敗します。その後もアフリカに留まって地元勢力の動員も試み
ましたが、これも失敗。ヘインは空しくバイーアに引き返します。1625年4月末にバイーアに到着しましたが、既
にそこはポルトガル軍に奪回されていたので、ヘインはオランダに帰国しました。
 1626年から1627年にかけて、ヘインはまたカリブ海に派遣され、2隻の船を失ったものの、 38隻の敵船を
拿捕しました。この成功に気をよくした西インド会社は、あの有名なスペインの財宝輸送船団の襲撃計画を立
て、1628年、三つの私掠船団をカリブ海に派遣しました。
  一番手の船団を率いていたのはピーター・アドリアンスソーン・イタ(Pieter Adriaensz Ita 1597-1638)と言う
人物でしたが、彼の行動はスペイン側に漏れていたので、財宝輸送船団は護衛の強化を待つため、ハバナに閉
じこもりました。このため、イタの船団はホンジュラスで何隻かのスペイン船を拿捕して帰国しました。
 ピート・ヘインは二番手であり、1628年5月にオランダを出立しました。道中に何度か他の西インド会社船と
合流し、9月初旬にキューバ北方海域に到着した時、ヘインは私掠船31隻、人員4000人の大船団を率いてい
ました。
 さらに、ヘインはツイていました。スペイン側はイタの船団に関する情報を得ていたものの、ヘインの船団に関
しては何も知らなかったため、イタの船団が引き上げて安心し、護衛をつけないで財宝船団を送り出したので
す。9月8日(6日?)、ヘインの船団は、ハバナを出港したばかりの15隻からなるスペイン財宝船団と出くわしま
した。
 たちまちヘインは、9隻の輸送船を拿捕しました。残りはハバナに向かって逃走しましたが、ヘインは既に一部
の船を分離してハバナへの針路を塞いでいました。そこで船団の残りは、ハバナの東にあるMatanzas湾に逃げ
込みましたが、ヘインの追跡を振り切ることが出来なかったので、翌日、戦わずに降伏しました(スペインの船団
指揮官は終身刑になりました)。
 ヘインはすぐに財宝を自分の船団に移し、オランダに帰国しました。捕獲した財宝は莫大で、金、銀、真珠など
総額1200万フルデンに上りました。純金に換算すれば14t強となります。この金額にどのくらいの価値があった
かといいますと、100門以上搭載の戦列艦(当時はまだ「グレートシップ」と呼ばれていましたが)が10隻ほど建
造できました。
 とは言え、ヘインは分け前を巡って西インド会社と対立し、辞職を余儀なくされます。その後1629年1月、彼は
連邦共和国総督フレデリク・ヘンドリクの要請を受けてホラント州および西フリースラントの海軍大将(Luitenant-
admiraal)として、オランダ本国艦隊の最高司令官に任命されました。ピート・ヘインはもう引退しようと考えてお
り、最初は要請を断りました。そこで、総督は高い給料で釣ろうとしたのですが、もう大富豪のピート・ヘインを金
では動きません。で、総督は仕方なく、最初は単なる海軍提督への任命だったのを、オランダ本国艦隊最高司令
官のポストを用意したのでした。
 残念ながら、ヘインの海軍での活躍は半年ほどでしかなく、6月に、スペインの私掠船の基地であったダンケル
ク(当時はスペイン領)の封鎖任務中、10隻の私掠船と戦って戦死しました。しかし、後の英雄マールテン・トロン
プを旗艦艦長に任命して、彼の出世の足がかりを作りました。また、船員の能力を引き出すのは、厳格な規律で
はなく、良い食料と高い給料だと言う信念の元、短い間にオランダ海軍の改革に尽力しました。その結果、食料
の質についてはなんとも言えませんが、少なくとも給料に関しては、オランダ海軍の水兵は他国の1.5-2倍を、常
に現金で受け取ることが出来る様になりました。


 
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