オランダ名海将列伝その5 ヤコブ・ファン・ヘームスケルク (Cornelis Tromp 1567-1607) wikipediaより ヤコブ・ファン・ヘームスケルクは、1567年3月13日(旧暦)、スペイン・ハプスブルグ家支配の時代にアムス テルダムで生まれました。 この1567年と言う年は、オランダ建国史で極めて重要です。スペイン国王フェリペ二世の即位(1555年)以来 のカソリック妄信の宗教政策と、自治権のためスペインへの帰属意識が薄く、新教徒の影響力が強いネーデル ラント(現在のベルギー、ルクセンブルク、オランダを含む地域)との対立が決定的となったのでした。スペインか らは、悪名高いアルバ公(Fernando Alvarez de Toledo y Pimentel 1507-1582 3代目アルバ公爵)がネーデ ルラント摂政として着任して、治安任務へのスペイン本国軍の投入、異端禁止令の徹底(発令は1520年でした が、それまでは空文に近いものでした)、そして「血の法廷」と呼ばれる宗教裁判と新教徒の処刑(最終的には 8000人以上が犠牲となる)が始まったのでした。 3月、ブレードゥローデ伯爵(トロンプの有名な旗艦の名前になった人、のご先祖)がホラント州で最初の反乱を 起こすも失敗。オランダ建国の父、「沈黙公」ことオランニェ公ウィレムは、亡命と蜂起の準備を兼ねてドイツに脱 出します。翌68年、ユグノーの支援で集められた軍隊が、オランニェ公の二番目の弟、ルートヴィヒ・フォン・ナッ サウ伯爵(ウィレムよりもかなり前から武装闘争路線だった)の指揮でフリースラントを占領、断続的に1648年ま で続く、オランダ独立80年戦争(Tachtigjarige Oorlog)が始またのでした。 1572年、アルバ公はネードルラント領内に、固定資産、取引に重税を課します。確かに戦争の発端は宗教対 立でしたが、拡大の燃料はこの重税であり、カソリック市民もスペインの敵にまわりました。 ヤコブ・ファン・ヘームスケルクの少年時代には不明な点が多く、どんな人生を歩んだのかはっきりしていませ ん。元来ヘームスケルク家は、ホラント州南部の都市デルフトを地盤とするプロテスタントの貴族で、ホラント州 の要職を歴任する地位にありましたが、カソリック勢力による迫害でアムステルダムに逃れ、すっかり没落してい ました(異端禁止令も都市によって温度差がありました)。 父親は貧しく、製帆職人として生計を立てていたと言われています。対照的に父親の弟は、弁護士や州の財務 官として活躍していたのですが、なんであれ家が貧しかったのは確実であり、おまけに14歳で孤児になっていま す。それから、アムステルダムの航海士養成学校に通ったと言うことですが、彼は非常に教養深い人物と評され ているので、他にも学歴があると考えられています。 学校を出た後は商船に乗り、貿易業に従事していたとされますが、順当な人生コースであることと、後に主計長 や通商業務担当の士官として働いていることから、なんとなく確実視されているに過ぎません。ヘームスケルクの 名前が、歴史の中にはっきり登場するのは1595年、28歳の時です。
北東航路 さて、ここで別の人物が登場します。その名はヴィレム・バレンツ(Willem Barentsz 1550頃-1597)。海運業が 本業ですが、同時に当代オランダを代表する地理学者/探検家であり、その名の通り、バレンツ海に名を残す人 物です。 ヘームスケルクとは旧知の友人同士だったとされ、その縁でバレンツはヘームスケルクを探検に参加させまし た。ただ、バレンツは1594年、95年、96年に三回の探検を行いましたが、ヘームスケルクは一回目の探検航 海には参加していません。しかしそれでも、一回目の探検を全く無視することはできないので、簡単にふれておき たいと思います。 ヴィレム・バレンツ(Wikipediaより) この当時、ヨーロッパから東洋へ至るアフリカ周りの航路は、ポルトガルの支配下、もしくは影響下に入ってい ました。航海時代に出遅れながらも海外進出を狙うイギリスとオランダは、ポルトガルとの抗争をさけるため、地 図上の最短距離である北極海を通ってアジアへ至る、いわゆる「北東航路」の探検に力を入れました。 この「北東航路」は、1525年にロシアで提唱されたのが最初とされていますが、その400年ほど前、ロシア人 が北極海沿岸に移住した頃から、沿岸航路が探査されており、ノバヤ・ゼムリャその他、北極海に点在する島の 幾つかが、名も知れぬ探検家によって発見されていました。 1550年代には、イギリスのカボット、チャンセラー、サー・ヒュー・ウィロビーと言った名だたる探検家/実業家 達が北東航路探検を目指しましたが、結局は氷に邪魔されて、白海から東に進むことはできませんでした。それ でも当時の理論では、夏の北極圏では太陽が沈まないので、北へ行くほどカンカン照りになって、邪魔な氷が溶 けるだろうということになっていたのです。 そんなもん、ロシア人なりラップ人なりに尋ねれば、すぐに間違いだとわかりそうなもんです。また、たとえ本当 に氷が無いとしても、そもそもアジアへ通じる水路の存在自体が不明だったのですが(例えば、ベーリング海峡が 確認されたのは1648年になってからです)、信者たちは本気でした。 オランダにおけるブームの発端は、ヤン・ヒュイヘン・ファン・リンスホーテン(Jan Huyghen van Linschoten 1563-1611)と言う人物です。ハーレム出身の商人である彼は、その来歴を見る限り、相当に「ふてぇヤツ」です。 まず1579年、既に故郷オランダでは、スペインとの戦争が本格化している最中でしたが、スペインのセビリア に移住して貿易業に従事しました。その仕事が思わしくなくなると(←オランダの私掠船も原因の一つ)、リンスホ ーテンは伝手を頼ってポルトガル(当時、スペインと同君連合中)へ渡り、1580年にカソリックの大司教ヴィンセ ンテ・ド・フォンセカの秘書となりました。 そして1583年、ゴア大司教となったフォンセカに従い、インドへ渡ったリンスホーテンでしたが、ゴアでは、大 司教の信頼と秘書の地位を濫用したと言うか、悪用したと言うか、とにかく最大限に利用して、トップシークレット だった海図の複写も含む、ポルトガルのアジア貿易に関する機密情報の収集に勤しみました。 1587年、リンスホーテンの行為を知ってか知らずか、彼を気に入り、何かと後ろ盾になっていたフォンセカ大 司教が死去。その後はポルトガル本国でしばらく貿易業に従事したり、海賊に船を奪われて、アゾレス諸島で2 年間も島流し状態になったりした後、1592年、オランダに帰国しました。 そして1594年、リンスホーテンは、ゴアでため込んだ秘密情報をまとめて、対日貿易も含むアジアにおけるポ ルトガルの経済活動について記した「東方旅行記 Itinerario,voyage ofte Schipvaert」を出版しました。この本 は当時としてはベストセラーとなり、オランダのビジネスマン達に東洋熱(←最終的にポルトガルと対決する道)を 巻き起こします。そしてリンスホーテンは、北極海北東航路が喜望峰周りよりも容易にアジアに到達できると主張 し、熱心な北東航路論者だった大商人バルタザール・デ・ムヘロン(Balthazar de Moucheron 1552-1630)と地 理学者ペトルス・プランシウス(Petrus Plancius 1552-1622)の賛同により、1594年春、ゼーラント州とホラント 州が一隻ずつ、アムステルダム市が二隻の船を用意して、探検隊が組織されました。 バレンツは、アムステルダムの貿易商達の代表者と言う立場で、この探検に船長として参加しました。四隻は 無事にスカンジナビア北方海域に到達し、そこで二手に分かれました。バレンツが指揮する二隻(アムステルダ ム市が用意した方)は、ノバヤゼムリャの西岸に沿って北上し、列島の最北端、北緯77度に到達しました。これ ははっきり記録が残っている中では当時の最高記録でした。またこの時、沿岸の小島にセイウチの大群がいた ので、一行はセイウチ狩りに挑戦しました。しかし、ボテボテの外見を侮ったのか、意外にセイウチが強敵だった のか、数匹しか倒せませんでした。この時のバレンツ一行が、生きたセイウチに遭遇した初の西欧人であるとさ れています。その後、さらに北緯78度あたりまで到達したようですが、そこで嵐と濃霧に阻まれ、退却を余儀なく されました。 一方、コルネリス・ネイ船長(Cornelis Corneliszoon Nay 生没年不詳)が指揮し、リンスホーテン本人が事務長 として乗り組む残り二隻は、ノバヤゼムリャの南で、ヴァイガチ島とロシアの間にあるヴァイガチ海峡(オランダ人 達はナッサウ海峡と呼んでいた)を通過してカラ海に進入することに成功、さらに150マイル東進したものの、そこ で氷原に阻まれて退却しました。 ヘームスケルクの登場 さて、バレンツらの最初の探検は、多大な宣伝の結果、カラ海に進入したことが成功と評されました。探検は夏 真っ盛りの時期に行われましたが、それでもなお、氷に阻まれて退却を余儀なくされた。それで望みがあると考 える神経には、相当なギモンを抱かざるを得ません。また、北東航路が商売に使えると本気で考える神経にも、 相当なギモンを抱かざるを得ません。はっきり言って、何を考えていたのか分かりません。案外と、地理学の探 検が目的で、資金確保のために商売に使えると吹いて回ったのではないかとすら思われます。事実、総督フレデ リク・ヘンドリク公は大袈裟に期待しすぎだと苦言を呈したようですが、連邦議会は探検を支援する決定を下し、 ヘンドリク公もそれに引きずられました。 なんであれ、2回目の探検には大いに期待が寄せられて、最大でも100トンの小型船ですが、7隻もの船が用 意されました。そして1595年7月2日、バレンツの指揮の下、北極地域めざしてテキセル島を出港しました。リ ンスホーテン、そしてヘームスケルクは、船団の旗艦である「グレイハウンド」の事務官として探検に参加していま した。船団には、首尾よく中国に到達した場合の貿易品として、ビロードやガラス製品など多くの貿易品が積み込 まれていました。もともとが商売のための遠征なので、探検用の装備と補給品を充実させようと言う発想は無か ったようです。 そして8月19日、船団は無事にヴァイガチ島に到達しました。海岸には、地元民サモエド族の橇の一団がいま したが、上陸しようと接近すると、みんな橇を放り出して逃げ出してしまいました。 地元民との接触を求める探検隊は、橇のそばに贈り物としてパンとチーズを置いて船に戻りました。高価な貿 易品を渡せばもっと喜ばれると思うのですが、ここで突っ込むのはやめておきましょう。 翌日、贈り物が功を奏し、確かに探検隊はサモエド族と接触することに成功。ロシア語が通じたため、サモエド 族から周辺の地理に関する情報を得ることができましたが、その中にバレンツに期待を抱かせるものが含まれ ていました。 船団は気持ちを新たに東進し、カラ海への進入を試みましたが、どうやらこの年は冷夏だったらしく、今回は氷 が分厚くて進むことができず、船団はカラ海に入ることができませんでした。そしてサモエド族との接触から数日 後、船団は氷原と濃霧に阻まれ、ノバヤゼムリャ南端で完全に停滞してしまいました。 そして、事件は9月6日のことだと記録されていますが、ノバヤゼムリヤ南端には水晶の出る島(オランダ人達 はStaten eilandと呼んだ)があると言うので、停滞の退屈しのぎに、水夫達が水晶採集のため島に上陸しまし た。そして、確かに水晶は見つかったようですが、水晶拾いの最中にシロクマの襲撃を受け、水夫が一人殺され ました。仲間を助けんと駆けつける水夫達ですが、なぜか誰も銃を持っていません。それでも彼らは束になり、オ ールやらボートフックやらでシロクマに殴りかかりますが、シロクマのパワーにはとてもかなわず、あっさり撃退さ れたあげく、転倒して逃げ遅れた水夫がまた一人殺されました。結局、シロクマは射殺されて毛皮になりました が、この事件は、探検隊の士気を阻喪させるのに十分すぎました。 事件の二日後、士官達の会議が開かれ、引き返すことが決定さけました。バレンツとヘームスケルクは、翌年 の探検のため、二隻ほど船を残して越冬させることを主張しましたが、さすがに賛成する者はおらず、船団はそ のままオランダに引き返し、10月末、オランダに帰還しました。 バレンツ、懲りずに再挑戦する さて、二回目の探検は誰がどう見ても失敗でした。前回の探検では、少なくともカラ海に侵入し、ノバヤゼムリャ の北端にも到達したわけですが、今回はカラ海の手前、かつノバヤゼムリャの南端で行き詰ってしまったのです (ヘームスケルク個人にしても、特に活躍した訳でもない)。また、死者が出たことも問題になって、連邦議会は、 成功に25000フルデンの賞金を懸けつつも、今後は北東航路探検事業への支援は行わないと宣言しました。 しかしプランシウス、リンスホーテン、バレンツは北東航路を諦めず、再度の探検のため、スポンサー探しに奔 走しました。その結果、アムステルダム市がスポンサーとして名乗り出て、何人かの商人から集めた資金で二隻 の小型船が用意されました。シロクマ事件のため、水夫の集まりは悪かったのですが、40人ばかりの水夫達は そんな中で集まってきただけあって、勇敢な水夫達ばかりだったということです。 かくして1596年5月10日(15日説もあり)、探検隊は出発しました。二隻の船はそれぞれ、ヤン・コルネリス・ ライプ船長(Jan Corneliszoon Rijp 1570頃-1613?) とヘームスケルクが指揮を執り、バレンツは水指揮案内 人兼総指揮官として、ヘームスケルクの船に乗り込みました(リンスホーテンは、これまでの探検記の編纂のため 不参加)。例によって、船には布製品を中心として多くの貿易品が積み込まれていましたが、結果的にヘームス ケルクらは、この貿易品によって生死を分かつとまではいかなくても、大いに助けられることになりました。ただ奇 妙なことに、多くの記録が残されている割には、二隻の船名が伝わっていません。 この探検では、ヨーロッパからまっすぐ北上する新しいルートが選ばれました。そのため前二回よりも大きな成 果があがります。北上した一行は、6月9日、小さな不毛の島を発見しました。上陸したところシロクマに遭遇、生 けどりにしてオランダへ連れて帰ろうとしましたが、船の上で暴れたために射殺しました。この事件にちなみ、バ レンツはこの島を「クマ島 Veere eiland (現代オランダ語ではBereneiland)」と命名しました。航海者の夢、未知 の陸地の発見であり、現在のノルウェー領ビュルネイ島です。 その後もさらに北上し、北緯80度40分に到達しましたが、そこで氷原に阻まれました。迂回路を探しているうち に、北緯80度10分のところで、南方に陸地を発見しました。バレンツは、でこぼこの山がちな地形を見て、オラン ダ語でとがった山を意味する「スピッツベルゲン Spitzbergen」と名付けました。現在のノルウェー領スバールバ ル諸島の北端です。そしてこの島に上陸した一行は、ガンの群れに遭遇しました。ヨーロッパに渡ってくるガンの 夏の営巣地を発見したのです。もっとも、当人達はその重要性に気が付いていなかったようですが。 その後、探検隊は氷を避けるために南下を余儀なくされ、気が付けばビュルネイ島に戻っていました。ここでリ ーダー間に意見対立が生じます。 バレンツとヘームスケルクは、進路を東に転じて、これまでも成功しかけたノバヤゼムリャに沿って北上する航 路に向かうことを主張しました。しかし、これは思い入れの差か、ライプ船長に言わせれば、「成功しかけ」とは失 敗と同義で、ノバヤゼムリャは遠すぎて危険すぎでした。 この意見対立は解消されず、ヘームスケルクとバレンツの船は単独でノバヤゼムリャへ向かうことになりまし た。ライプ船長はしばらく近海を探査した後、諦めてオランダに戻りました。 さてヘームスケルクの船は、まさしく運命のイタズラか、はたまた悪魔の微笑みか、氷に邪魔されながらも順調 に航海を続け、7月17日、ノバヤゼムリャの西岸に到達。その後は、濃霧と浮氷に悩まされつつも海岸に沿って 北上しました。 その途中、島に上陸しての探査を終えてみると、ボートを置いた場所に二匹のシロクマが頑張っていると言う事 件に遭遇しました。 この時ヘームスケルクは、部下の水夫に対し、「クマの目をまっすぐ睨みつけろ」との、まことに的確に指示を 下します。にらめっこの隙に、水夫の一人がボートまで走って船を取り戻しました。 8月15日、ヘームスケルクの船は、ノバヤゼムリャの北東端の島(オランダ人達はオランニェ島 Orange eilande と呼んだ)に到達、そしてバレンツが喜んだことには、そこから東の海域には氷がありませんでした。 で、一行はさらに東へ向かいますが、もちろん、たまたま視界内に大きな氷原が無かっただけの話で、一日も 経たずして氷原に進路を阻まれてしまいました。延々と広がる大氷原にバレンツは敗北を認め、ノバヤゼムリャ の東岸を探査しつつ南下し、ヴァイガチ海峡を通過して帰国する決断を下します。船長であるヘームスケルクも、 既に乗組員から退却を進言されていたので、バレンツの決定に異議はありませんでした。 しかし、この決定は遅すぎました。船よりも氷の展開の方がずっと速く、ヘームスケルクの船はがっちり氷に押 さえ込まれました。そして、氷によって入り江に押し込まれてしまい、船は解氷まで動けないことが明白になりまし た。 8月31日の夕刻、氷の圧力に船がきしみ始めたので、一行は退船を余儀なくされ、食料を積んだ二隻のボー トを引きずりつつ上陸しました。船としては完全にドツボにハマッていましたが、陸地の近くに押し込まれたこと は、乗員にとっては極めて幸運でした。ここに至ってバレンツは、陸上で越冬する決断を下します。 1598年にオランダで発行された北極海域の地図。1596年のバレンツの探検の報告から作製された Development and Achievements of Dutch Northern and Arctic Cartography. in the Sixteenth and Seventeenth Centuries GUNTER. SCHILDER より 越冬 さて、バレンツ、ヘームスケルクを含む16人(20人とする資料もあるが、多分間違い)が放り出されたのは、ノ バヤゼムリャの東岸、北緯76度の地点でした。ノバヤゼムリャは当時でも人跡未踏の地と言う訳ではなかったの ですが、荒涼たる無人島には違いありません。 ヘームスケルクは、これは神から与えられた試練である、各人がベストを尽くすことが、神から与えられた我々 の義務である、と演説して、不安におののく水夫達を励ましました。 バレンツ達はツイていました。周辺を探査したところ、上陸地点から2マイルばかり離れた所に大量の流木が あって、暖房用の燃料と、越冬用の建物の資材に困ることはなさそうでした(←ヘームスケルクは、これを「神の 御意志」として、士気を鼓舞するのに利用しました)。 ただ、船の近くにキャンプ地を設定したのは仕方がないことなのですが、素手と徒歩以外に流木を2マイル運 ぶ手段が皆無なこと、周辺をうろつくシロクマの妨害、吹雪、専門家である船大工の病死などの悪条件が重なっ て、作業は遅れました。さらにヘームスケルクは、吹雪で閉じ込められる可能性も考慮して、貯蔵スペースも兼ね た大きな建物にするように命じていました。これは適切な判断でしたが、さらに完成を遅らせたと思われます。そ して工事の途中、もはや船での脱出は不可能と覚悟を決めた一行は、材料集めのために船を解体しました。 そして、テントと地面の穴の生活に耐えること一か月以上、10月半ばにようやく小屋は完成しました。分厚い壁 と中央の大きな暖炉、空樽を利用した煙突を備えた立派な小屋で、「避難所 Het Behouden Huys」と名付けら れました。しかし、建設中にキャビンボーイの少年が死亡。バレンツの健康状態も悪化して、ヘームスケルクの 責任は一段と重くなりました。 ド・フェールの著書の表紙に描かれたHet Behouden Huysの絵 Development and Achievements of Dutch Northern and Arctic Cartography. in the Sixteenth and Seventeenth Centuries より さて、10月になると、夜が長くなり、寒さが厳しくなってきました。シロクマの毛皮はもちろん、貿易品として持っ てきた布製品が、防寒具として大いに役に立ちました。 ヘームスケルクは、冬の暗黒で照明用の燃料が不足するのを見越して、毛皮と食糧以外に、シロクマの脂肪を 燃料に利用することを思いつきました。このため、ヘームスケルクらはより積極的にシロクマを狩るようになり、 そのうちにシロクマに対する有効な戦術を発見しました。 ある時、ヘームスケルクと二人の仲間は、何匹かの白熊に襲われました。全員でマスケット銃の斉射を加えま したが、これが一発も命中しません。猛突進するシロクマチーム、石ころやら棒きれやらを投げて必死の抵抗の 人間チーム。そして棒きれを投げた時、シロクマは投げつけられたものを追いかけたので、一部の者が物を投 げ、残りがマスケットに再装填して射撃を加え、なんとかシロクマを倒しました(実戦で試して失敗したとしても、抗 議は私ではなくヘームスケルクにして下さい。また、シロクマは保護動物なので、喧嘩は売らないでください)。 11月4日、太陽が姿を現さなくなり、極夜が始まりました。暗黒と同時にシロクマは姿を消し、代わってホッキョ クギツネが出没するようになりました。キツネはシロクマよりもはるかに与しやすい獲物であり、ヘームスケルクら は多数の罠をしかけてキツネを狩り、食料と毛皮をとりました。 とは言え、シロクマの危険が去った代わりに、恐るべき寒さが襲ってきました。雨風はしのげても、急ごしらえの 小屋は寒さまで防いでくれず、夜は温めた石や砲弾を抱いて眠らねばなりませんでした。またある時は、大吹雪 で小屋の入口が雪に埋まってしまい、外へ出るのに何日もかかってトンネルを掘らねばなりませんでしたが、ヘ ームスケルクの先見の明が光り、屋内の燃料のおかげで隊員達は凍死せずに済みました。 バレンツとヘームスケルクは、くよくよ考えて絶望するヒマが無いように、水夫達を時間つぶしの仕事で手いっ ぱいにしました。キツネ狩りに衣服作り、薪拾いなどのやるべきことの他に、レスリング大会や球ころがし(ゴルフ の原型、コルフか?)などの余興も忘れませんでした。 やがてクリスマスを迎え、1597年の元旦も迎えました。ここで一行は、苦難の峠を越えたと考え(少なくとも、 そんな気がした)、水夫達の発案で1月6日、12日節を記念してのパーティーが行われました。 乏しくなる食料ではありましたが、ビスケット(現代のセンスで言えば乾パンのでかい奴)をワインに浸して突き崩 してパンケーキを作り、その日だけは配給制を無視してワインとビールで騒ぎました。そして王様ゲームのくじ引 きの結果、甲板長デ・フェール(Gerrit de Veer 1570?-1598)が「ノバヤゼムリャ国王」に選ばれました。後に デ・フェールは、この旅に関する詳細な日記を出版しており、この探検の貴重な資料となっています(ただし、書く ものが豊富だったとは思えないし、錯綜している資料も多いので、全部がリアルタイムに書かれたかは不明)。 しかしながら、お祝いはいささか早計で、寒さの山場はこの時からでした。デ・フェールの日記によると、ビール 樽が凍結して破裂し、火に当たっても「靴下が焦げても足は冷たいまま」、皮で作った靴は凍って履けなくなり、 木の板でサンダルを作らなければならなかった、ということです。 そしてバレンツ一行は、極めて重大な危機に陥りました。とある夜、非常に寒かったため、バレンツらは、1)煙 突を塞いでドアに目張りし、2)暖炉で石炭を燃やしながら、3)そのまま就寝する、と言う極めて愚かしいことをや ってのけました。真夜中、ヘームスケルクは眼をさましました。息をするのがやっとで、手足は硬直していたという ことです。一酸化炭素中毒の初期症状と考えて間違いありません。 ヘームスケルクは大声で叫びましたが、返事をする者は誰もいない。彼は必死にベッドから這い出し、ドアを開 けて外へ這い出た後、意識を失いました。外から吹き込む「冷たい風」に隊員達は目を覚まし、全滅をまぬかれ ました。 1597年1月24日、キツネの罠を調べに外へ出たヘームスケルクと、ノバヤゼムリャ王デ・フェールは水平線 上に太陽を発見しました。バレンツの計算では太陽が出るまで6週間あり、病床の中で「ありえん」と言ったそうで すが、デ・フェールの日記によると、確かに平たくつぶれた形の太陽が水平線上に見えたとあります。逆転層の 作用で太陽が皿状に見える、「ノバヤゼムリャ効果」の最初の観測例でした。もっとも、この時は珍しさに騒ぐだ けであり、謎を解いたのはティコ・ブラーエです。 太陽とともに、シロクマも戻って来て、一人が殺られました。残りの者も栄養失調と壊血病の兆候で弱り始めて いましたが、太陽が戻ったことで士気は高まります。 4月17日に解氷が始まり、バレンツとヘームスケルクは協議のうえ、5月の末までに島を脱出する決断を下し ました。船はもう使えないので、彼らには二艘のボートしか脱出手段はありませんでした。そして、体力が低下し た一行にとっては、雪の下からボートを掘りだし、シロクマに注意しながら食料と燃料を集めるのは難事業でした が、6月14日、一行はボートでノバヤゼムリャを出発しました。 出発に先立ってバレンツは探検記録を三通書き、一通は小屋に残し、二通はそれぞれのボートに載せました が、それは事実上の遺書となり、出発から6日後の6月20日、バレンツはついに死去しました。彼の遺体につい ては、水葬に附されたという説と、ノバヤゼムリャに埋葬されたと言う説がありますが(←遺体は発見されていま せん)、水葬説にちなんで、この海域は後に「バレンツ海」と名付けられました。 ヘームスケルクも他の水夫も既に壊血病を発症しており、いつでもバレンツの後を追える状態でしたが、幸い にもそれ以上の死者は無く(実は、4人の死者はこの航海中にまとめて出たとする資料もあり)、7月28日、ロシ アの漁船に遭遇しました。一行は漁船から食糧とワインをもらい、その案内でナッサウ海峡を通過。8月25日に はコラ半島へ到達して、ついに文明圏への帰還を果しました。 ここでヘームスケルク一行は、商用でロシアに来ていたライプ船長にばったり出くわしました。お互いにとって、 非常に気まずい再会だったと思われるのですが、何はともあれ、ヘームスケルクら生存者12名は、10月30日 (11月1日説もあり)にアムステルダムに帰還。手製のシロクマの毛皮のコートと、木のサンダルの姿で市内を行 進しました。 死んだと思われていたバレンツ一行の帰還にアムステルダムは沸きかえり、ヘームスケルクは、偉大なリーダ ーとしての名声を確固たるものにしました。実際、当時の貧弱な知識と装備で、10ヶ月に及ぶ越冬を16名中12 名が生き延びたのは実に驚嘆すべきことです。幸運に見舞われたこと(特に一酸化地炭素中毒のところ)もある でしょうが、バレンツとヘームスケルクの適切な判断と指導によるところが大きいのは明らかです。 この三回目の航海は、意図したところとはかなり違いましたが(←そもそも北東航路そのものに無理があること は突っ込んではいけません)、大きな成果が上がりました。まずは、ビュルネイ島とスバールバル諸島の発見で す。当時はおおらかなもので、オランダが声高に領有権を主張するようなこともありませんでした(そもそも、オラ ンダはまだ国家として承認されていませんでした)。これらの島々は、12世紀頃のバイキング達は存在を知って いたようで、バレンツの探検は「再」発見の可能性が高く、またスピッツベルゲンが独立した島なのか、グリーンラ ンドの一部か明確な判断を下せなかったようですが、とにかく海図に記載されました。島に人が住みつくようなこ とはありませんでしたが、スバールバル諸島には17世紀初頭よりオランダの捕鯨船の基地が設置され、商業利 用が始まりました。また小ネタとしては、ガンの営巣地の発見、ノバヤゼムリャ効果の観測、ド・フェールの日記 のビタミンA過多症を示す記録(シロクマの肝臓の生食いのせいだと考えられています)などがあります。 なお、バレンツの越冬小屋「Het Behouden Huys」は、1871年にそのままの形で発見されました(←と言うこと は、一酸化炭素中毒で全滅していても、そのまま発見された可能性が高い)。そして1875年の調査で、バレンツ とヘームスケルクの自筆の文書も含む100点以上の遺品が回収され、建物自体も解体されてオランダに運ばれ ました。遺物は現在、ハーグの博物館に展示されています。 また1979年には、ソ連(当時)の科学者チームの調査でヘームスケルクの船の残骸が発見され、引き上げら れた遺物はペテルブルグの博物館に収蔵されています。 最後の戦い さて、バレンツの3回目の探検の顛末は、オランダにおける北東航路ブームにひとまず終止符を打ちました。オ ランダの貿易業界は、喜望峰周りの正攻法で東洋を目指します。有能なリーダーとし大いに名を馳せていたヘー ムスケルクは、この遠征に参加しました。 1598年5月1日、ヤコブ・コルネリスゾーン・ウァン・ネック(Jacob Cornelisz van Neck 1564-1638 のちに アムステルダム市長)指揮する8隻の商船隊が、東洋目指してアムステルダムを出港しました。ヘームスケルク は最初は事務長として、旅の途中からは副司令官として働きました。これは、オランダの国家的事業としては、1 596年(←北東航路探索の意味は追及しないでください)に続く二度目の東洋遠征であり、インドネシアのバンタ ム、テルナーテ、ティドールを訪問して、現地の王様と貿易協定を締結、アンボン島とバンダ島に商館を開設する と、1600年5月19日、多量の高価な香料とともに無事に帰国しました。この航海での利益率は100%強に達し たと言うことです。 翌1601年、今度は13隻の商船が東洋へ派遣されることになりました。ヘームスケルクはそのうち4隻の指揮 を任され、4月23日にアムステルダムを出港、バンダムに向かいました。 アジアでは、ジョホール(現マレーシア)の王様と国交を結んだり、マカオで明朝と通商協定を締結したりしまし た。また1603年2月には、マラッカ海峡でポルトガルのカラック船St. Catherineを拿捕して、高価な香料を大量 に奪い取るなどの活躍の後、1604年7月、オランダに帰国しました。 翌1605年、まだ北東航路をあきらめていなかったヘームスケルクは、プランシウスとともに探検計画を立て、 スポンサー探しを始めました。またこの年に結婚もしましたが、この年の内に、出産時に妻子ともども亡くなって います。 さて、ヘームスケルクの北東航路探検は実現しませんでした。オランダがヘームスケルクに求めたのは、意外 な役割でした。 1606年、オランダとスペインの宣戦布告無き戦争は、40年近い泥沼にはまり込んでおり、オランダ国内では 和平論が台頭していました。しかしながら、和平交渉のための決定打を欠いていました。そんな中、スペインが新 たにネーデルラント地域へ派遣する艦隊と陸軍部隊を準備中、との情報が連邦議会へ持たされました。連邦議 会は、スペインの作戦を阻止し、かつ和平交渉のための一撃として、この艦隊を攻撃する計画を立て、艦隊を編 成しました。これは、オランダ史上初めての連邦議会の発案による海軍部隊でしたが、用意されたのは、何れも 商船に大砲を増載しただけの小型船26隻。そしてヘームスケルクは、この艦隊の指揮官に任命されたのでし た。 ヘームスケルクの経歴については、動向不明の若い時に軍隊勤務の可能性もありますが、船長としてのキャリ アは探検と貿易業のものであり、海軍司令部に勤務したことは確実に無く、マラッカ海峡でポルトガル船を襲撃し たの(およびシロクマとの戦い)を除いて戦闘経験もなかったとし思われます。しかし、遠征に参加することになっ た艦長達からの強い推薦があったようです。現在では、トロンプやデ・ロイテルの陰にすっかり隠れた感がありま すが、当時のヘームスケルクの名声とは、それほどのものだったのです。 1607年1月18日、ヘームスケルクは連邦議会の要請を遠慮勝ちに受諾し、この作戦に限定された臨時の 「ホラント州および西フリースラント海軍中将」に任命されました。 ヘームスケルクは、無給でこの任にあたるつもりで、海軍中将としての給与の受け取りを拒否しました。しか し、それはあんまりだと周囲に勧められ、無給で働く代わりに、拿捕賞金の通常の割け前(3%)を13%にするように 連邦議会に申し出ました。 ただ、これはあまりに図々しい要求と受け取られ、ヘームスケルクは連邦議会で大ヒンシュクを買ってしまいま した。なんとなれば、もしスペイン艦隊を全部拿捕した場合、ヘームスケルクの取り分は500万フルデン(純金換 算で5t、小さな艦隊が整備できる金額です)に達すると考えられたからです。もっとも、スペイン艦隊全体が売却 可能な状態でそっくり拿捕されると言う状況は、どう考えても非現実的です。また、後の戦闘計画と戦いから察す るに、ヘームスケルク本人も拿捕賞金をとろうと考えていなかったと思われます。要はタダ働きと言う前例を作っ てしまうとマズいと言う体裁の問題でした。 1607年3月25日、旗艦「イオラス Aeolus」に座乗したヘームスケルクは、最後の航海へと旅立ちました。ス パイ活動により、スペイン艦隊はリスボンへ向かっていると言う情報を得ていたオランダ艦隊は、まずはポルトガ ルへ向かい、4月10日、首都リスボンを望むテーショ河口に到着しました。 そこでヘームスケルクは、通りかかったイギリス商船に頼んで偵察員を乗せ、リスボン港へ送り込みました。そ の結果、地中海から帰還するオランダ商船隊を攻撃するため、スペイン艦隊はジブラルタルへ引き返したとの重 要情報を得ました。 艦隊は直ちに地中海へ向かいます。4月22日、スペイン艦隊から逃走してきた地中海帰りのオランダ商船に 出くわし、リスボンでの情報が正しかったことが証明されました。さらに4月24日、今度はフランスの商船に遭遇 し、その船から、スペイン艦隊はまさしくジブラルタルに停泊中で、その戦力は大型艦21隻であるとの決定的な情 報を得ました。 その日、全艦長(←かのマールテン・トロンプの父、ハルペルト・トロンプも含む)を集めたヘームスケルクは、情 報の説明と、オランダ人水夫の勇気と技量を称える演説で艦長達の士気を鼓舞(←もともと十分に高かった)した 後、戦闘計画を説明しました。 ヘームスケルクの戦闘計画は、艦隊を二列に分けてジブラルタル湾に突入して、一列になって停泊しているス ペイン艦隊を左右から挟撃すると言うものでした。この作戦は、戦闘の規模こそ小さいものの、アブキール湾でフ ランス艦隊を壊滅させた時のネルソン提督の戦術とよく似ています(ネルソンがヘームスケルクの事例を意識し ていたことは無さそうです)。 それからヘームスケルクは、信仰心厚き男として神に祖国の栄光を祈り、艦長達 全員と握手を交わしました。 翌4月25日午後1時ごろ、オランダ艦隊はジブラルタル湾口に到達し、スペイン艦隊を視認しました。 スペイン艦隊は半円状の一列縦隊で、ジブラルタルの埠頭の全面に停泊中でした。スペイン艦隊の戦力は、大 型ガレオン船10隻を含む21隻で、水兵に加えて4000人の兵士も配置されていました。大砲の数はオランダ 艦隊の倍以上で、さらに埠頭の砲台や湾の入り口の要塞もありました。またこの時、湾内には拿捕されたドイツ 商船1、オランダ商船3、フランス商船4が停泊中であり、場合によってはこれらの船を攻撃する必要も考えられま した。オランダ艦隊の戦力は圧倒的に劣っていましたが、それでもジブラルタル湾に突入しました。 旗艦「イオラス」の乗員達とともに神に祈り、ワインの杯を回した後、ヘームスケルクは兜と革鎧を着けて後甲 板に立ちました。恐らくは砲煙で視界を悪くしないためと、相手に迷いを生じさせるためと考えられますが、オラン ダ艦隊は射撃を控えて、戦闘計画の通り二列になり、静かに進撃しました。 これを見たスペイン艦隊の指揮官、ドン・ファン・ド・アルバレズ・ド・アヴィラ(Don Juan d'Alvares d'Avila ?- 1607)は、オランダ艦隊の意図を量りかね、捕虜になっていたオランダ人船長を呼ぶと、オランダ艦隊が戦おうと しているのかどうか、意見を求めたということです。 「そのようにみえますな。」 と答えた船長に対し、ド・アヴィラ提督は自信たっぷりだったということです。 「なんと、そいつはばかげてる。私のガレオン船一隻で、一なめに出来るだろう。」 とかなんとか言ったらしいですが、スペイン艦隊は油断しきっていました。一部の艦では水兵が休暇で上陸して おり、戦闘開始後に乗艦しようとしていたとまで言われてます。 さすがにド・アヴィラ提督は反応が速く、旗艦「サン・アウグスティン San Augustin」は錨綱を切断して動き出 し、要塞の援護をあてにして、湾の奥に退避しようとしました。 このため、列の先頭にあった「イオラス」の艦長は、次席指揮官の旗艦を目標にしようとしましたが、ヘームス ケルクはあくまで「サン・アウグスティン」を追うように命じ、また改めて、至近距離まで射撃を控えるように命じま した。 そして、副司令官の船を左に見て傍を通過して、「イオラス」は「サン・アウグスティン」を追います。ド・アヴィラ は逃げ切れぬと悟り、交戦を命じました。 この時、「サン・アウグスティン」はオランダ艦隊に船尾を向けていたので、撃てるのは二門のスタンチェイサー のみ。一発目は「イオラス」の船首楼にめり込んだだけでしたが、しかし、その二発目の砲弾が水兵一人を直撃 して真っ二つしたうえに、さらにヘームスケルクの左脚をもぎ取り、致命傷を負わせてしまいました。 倒れたヘームスケルクは、駆け寄ってきた艦長の手を握り、どんなことをしてでも戦いに勝てと告げると、祈り を捧げながら息絶えました。 その後、「イオラス」は将旗を降ろすことなく戦い続け、「サン・アウグスティン」を座礁させたあげくに火を放ち、 ド・アヴィラ提督を戦死させ、その息子である艦長を捕虜にしました。他のオランダ艦も呵責ない戦いぶりを見 せ、火薬庫直撃の爆沈一隻を含む3隻の敵艦を撃沈、2隻を座礁させ、拿捕されていた外国商船も含む湾内の 全ての敵艦を炎上させます。4時間の戦闘で、スペイン艦隊は文字通り全滅しました。戦死者はおよそ4000人。 一方のオランダ艦隊は、奇襲とヘームスケルクの挟撃作戦が功を奏し、失われた艦は無く、人的損害はヘーム スケルクも含む戦死100、負傷5-60人。オランダ艦隊の一方的大勝利です。 この「ジブラルタルの海戦 Slag bij Gibraltar」の結果、スペインは和平交渉の席に着き、1609年、オランダ とスペインは21年間の休戦に合意しました。この休戦協定をもって、オランダは事実上の独立国としての地位を 確立したと評価されています。 ヘームスケルクの遺体はアルコールで防腐処理され、6月8日、艦隊とともにアムステルダムに戻りました。ア ムステルダム市は栄誉礼で彼の遺体を迎え、盛大な葬儀を催しました。ヘームスケルクの遺体はアムステルダ ムのオード・ケルク(Oude Kerk)に葬られ、現在に至ります。 ジブラルタルの海戦 (オランダ国立博物館 Rijksmuseum HPより)
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