デ・ロイテルその12
マルティニーク遠征
 
 イギリスが脱落した後、オランダ海軍は一息つくことが出来ました。しかし、フランスとの戦争が続いている以
上、海軍の任務は終わりではありませんでした。
 第二次ウエストミンスター条約の後、ウィレム三世、ファーヘルらオランダ政府の指導者達は、フランスの兵力
を分散させるため、ブルターニュ半島の南にあるビスケー湾のベル島と、カリブ海のフランス領マルティニークに
対する牽制作戦を立案しました。
 計画は厳重な秘密保持の元に進められたので、ベル島攻撃を指揮することになったトロンプにも、マルティニ
ークを担当するデ・ロイテルにも、作戦発動の直前まで内容が知らされず、補給や事前の研究が不十分のまま
の作戦決行となってしまいました。
 
 マルティニーク遠征に投入されたのは、旗艦「ゼーベン・プロビンセン」以下、エンヘルの指揮する70門艦
「Spiegel 」等、大小併せて48隻の艦船、4000人の水兵と3000人の兵士(海兵隊員?)というかなりの大戦力
でした。数百人の守備隊も含めて当時の人口5000人程度のマルティニークを攻撃するには、充分すぎるほど
の大部隊です。
 1674年5月18日にオランダを出た遠征隊は、カナリア諸島のテネリフェ島を経由して、二ヵ月後にマルチティ
ニーク島に到着しました。しかし、島の周囲を偵察し、海岸に居た人を何人か捕まえて話を聞いたところ、島の防
備が意外と厳重であることが判明します。デ・ロイテルは知る由も無い事ながら、厳重な秘密保持がなされていた
はずの計画は最初からフランスに漏れていて、マルティニーク島は、一ヶ月前に「デ・ロイテル指揮する艦隊、
近々来襲」の警告を受けて防備を固めていたのです。
 とは言え、ここで引き返すわけにも行かないので、上陸地点を島の中心都市フォール・ロワイヤルに定めて、7
月20日、ウィッテンホーフ大佐指揮する1000人の兵士が島に上陸しました。
 上陸地点地点の東側には岬があり、その岬の先端には400人の兵士と20門の砲を備えた要塞がありまし
た。従って、まずはその要塞の奪取が第一目標となったのですが、要塞は遮蔽物の無い急勾配の上にあり、要
塞からの砲火でオランダ兵の接近は阻まれました。さらに、その岬の東側には入り江があって、そこに停泊中の
フランスのフリゲート「Les Jeux」からも砲撃されます。オランダ軍は大損害を受け、ウィッテンホーフ大佐も重傷
を負いました。
 入り江の入り口は閉塞船やら材木やらで塞がれていたので、艦隊はフリゲートを攻撃することが出来ず、浅瀬
のため、岬の西側では大型艦が海岸に近づけないので、上陸部隊への支援が出来ませんでした。橋頭堡の確
保が失敗したと見たデ・ロイテルは、その日の内に上陸部隊を撤退させますが、オランダ軍は死者143人、負傷
者318人の大損害を受けていました。一方のフランス側の損害は死者20人と軽微なものでした。オランダ軍の
大敗です。

 実を言うと、デ・ロイテルも含めた遠征隊の幹部達は、作戦に乗り気ではありませんでした。まず、ハリケーンシ
ーズンの近い7月下旬という到着予定時期が悪く、これが旅を急がなければならない切実な理由となって、テネリ
フェ島でも補給に時間をかけることが出来ませんでした。その結果、人数の多さもあって、マルティニーク島に到
着した時点で飲料水と薪が不足していたのです。占領後の総督となるはずだったストラム男爵という人も、島の
人口が多い反面、補給の問題で島に大部隊を残せないことから、島を統治することが不可能だと考えていまし
た。
 そう言う訳で、オランダ艦隊は作戦放棄に何のためらいも無く、大喜びのマルティニーク島の住人を尻目に、上
陸部隊を収容したデ・ロイテルは、当時スペイン領だったドミニカ島に向かったのでした。

 7月23日にドミニカに到着したデ・ロイテルは、ファーヘルとウィレム三世宛てに作戦失敗の報告書を送りまし
た。この報告書は高速船に乗せられ、8月8日にファーヘルの手元に届いたと言うことですが、大西洋横断二週
間は、いくらなんでも早すぎ!まあ、それはともかく、ドミニカで補給を済ませたデ・ロイテルは、ハリケーンシーズ
ン到来の前にカリブ海を出て、10月1日にオランダへ帰国しました。 

 マルティニークでは、デ・ロイテルは作戦の指揮を息子エンヘルに一任していたとする説もあります。この説に
は確たる証拠は無いのですが、デ・ロイテルはもう67歳であり、年齢的に、引退して後は息子に…、と考えたとし
ても決して変では無いです。とは言え、エンヘルは勇敢な反面、父親の軍事的才能を全く受け継いでいないと言
うのが定説となっています。

 なお、トロンプのベル島攻撃もやはり失敗していました。牽制作戦なので特に成功しなくても良いのかもしれま
せんが、無駄な犠牲を払ったとしか言いようがありません。

カスパール・ファーヘル (Caspar Fagel 1634 - 1688)



デ・ロイテル シチリアに死す

 「ルイ14世のオランダ戦争」は、元々はオランダ侵略に単を発した戦争でしたが、1674年後半になると、ドイ
ツやデンマークとの紛争がらみでスウェーデンがフランス側に立って参戦したので、オランダ、スペイン、デンマー
ク、神聖ローマ帝国対フランス、スウェーデンと言う、ミニ世界戦争の様相を呈しました。

 さて、イタリア半島のつま先にあるシチリア島は、当時はスペイン領(厳密に言うと別の国の領土だが、とにかく
スペイン支配下)でしたが、1674年以降、スペイン支配からの独立を目指す叛乱が発生しており、フランスは反
乱軍を盛んに支援していました。そして、無敵艦隊も今は昔、当のスペインは海軍が非常に弱体で(往時に近い
海軍力を取り戻したのは18世紀後半でした)、シチリア島を封鎖してフランスからの支援ルートを断ち切ることが
出来ませんでした。
 この事態にスペイン政府は、1673年の同盟条約に基づいて、ウィレム三世に対し、指揮官にデ・ロイテルを指
名しての艦隊派遣を要請しました。

 ウィレム三世としては同盟国スペインの要請に応じないわけにも行かず、1675年の夏、18隻の軍艦と何隻
かの小型艦が用意されました。本国の守りは勿論のこと、スウェーデンに対処するためバルト海にも艦隊を派遣
しなくてはならなかったので(←こちらはトロンプが指揮した)、これが限界でした。
 デ・ロイテルは、この遠征に最初から反対でした。フランス地中海艦隊は、スペイン海軍と派遣部隊を併せたよ
りもずっと強力であるし、戦術面でも兵站面でも、弱体なスペイン海軍の支援をあてに出来ないことを知っていま
した。しかし、それでもデ・ロイテルは任務を引き受けました。遠征に乗り気でないデ・ロイテルに対し、批難がま
しいことを言う連邦議会の議員もいたのですが、彼は議員達や、反対する部下達に向かってこう言ったと伝えら
れています。
「(議員)諸君は、私に依頼するのではなく命令しなくてはならない。命令ならば、例え国旗を掲げる艦がただ一隻
でも、私は(命令に従って)海に出る。連邦議会が国旗とともに私に託した命令である以上、私は自分の命を賭け
る。 De Heeren hebben mij niet te verzoken maar te gebieden. En al werd mij bevolen 's Lands vlag op
een schip te voeren, ik zou daarmee naar zee gaan, en waar de Heeren Staten hunne vlag vertrouwen,
zal ik mijn leven wagen! 」
  前半部分は、なんだかアクション映画や戦争小説で聞いたことあるセリフです。ただ、本人はそう言いますが、
海軍の至宝と言えるデ・ロイテルを、オランダの存亡とは直接関係の無い戦場に送り出す措置にはやはり、いさ
さかの疑問を感じます。

 オーバーホールに入った「ゼーベン・プロビンセン」に代わり、デ・ロイテルは、新たな旗艦「Eendracht(76門)」
に座乗して、スペイン派遣艦隊は8月にオランダを出発、9月26日にスペインのカディスに到着しました。
 デ・ロイテルの予想は正しく、スペイン海軍はやはりアテにはならず、合流するはずだったスペイン艦隊はカディ
ス港にいませんでした。色々あったあげくにようやく、12月20日なって、シチリア島のパレルモでスペイン艦隊と
合流しましたが、それは数隻の小さなガレー船からなる戦隊でしかありませんでした。さらに、補給品の手配にも
たついているうちに、アブラハム・デュケーヌ中将(Abraham Duquesne 1610 - 1688)率いるフランス艦隊がメッ
シナに現れました。フランス艦隊の戦力は戦列艦20隻で、フランスからの援助物資を載せた船団の間接支援が
任務でした。

 迎撃に向かったデ・ロイテルは1676年1月7日に敵と遭遇し、翌8日に戦闘になりました。デ・ロイテルには最
初から分かっていたことですが、この時のフランス艦隊は数で勝っていたばかりか、どの船もオランダ艦より大き
くて重武装でした。しかし、デュケーヌの指揮は消極的で、数で勝っていたにもかかわらず、風上から火船攻撃を
かけて接近戦を避けようとします。デ・ロイテルは積極的に攻撃を仕掛け、水兵の訓練に勝ることもあって、デュ
ケーヌの艦隊に打撃を与えます。この「ストロンボリの戦い Slag bij Stromboli 」の結果、オランダ側は80-25
0人の死者を出し、少将一人が戦死、さらに戦闘の翌日、50門艦「Essen」が砲撃による浸水に耐え切れずに沈
没しました。一方、デュケーヌは一隻も失いませんでしたが、400−1500人の死傷者を出してメッシナに引き
返しました。
 この戦闘の翌日になってやっと、9隻からなるスペイン艦隊がデ・ロイテルのもとに到着しました。この艦隊は最
初、モンテセルシオ王子(←Montesarchio 誰だこりゃ?)が指揮官しており、後に海軍中将ドン・フランシスコ・ペ
レイラ・フェレイラ・デ・ラ・ザーダ(Don Francisco Pereire Freire de la Zerda ?-1676)と交代しました。階級で
も実績でも、デ・ロイテルは王子やドン・フランシスコよりも上でしたが、スペインとの協調のため、艦隊全体の指
揮権を彼らに渡しています。
 
 さて、この「ストロンボリの戦い」は勝敗がはっきりせず、双方とも勝ち名乗りを上げました。確定的な資料は無
いものの、人的損害は明らかにフランスの方が多い反面、オランダ側は一隻を失っているからです。しかし勝敗
はどうあれ、スペインでのデ・ロイテルの人気は高まりました。そして彼は、この人気のために、奇妙な事件に遭
遇します。

 スペインと同じくハプスブルグ家を君主と戴くカソリック国家のオーストリアでは、当時、プロテスタント寄りのハ
ンガリー人による叛乱が頻発していました。この前年、オーストリアは叛乱の首謀者として26人のプロテスタント
の牧師を逮捕し、死刑を宣告していました。しかし、プロテスタント諸国の抗議で牧師達は助命され、ガレー船漕
ぎの刑となります。彼らは、ガレー船に乗るためにナポリ(当時スペイン領)まで移動させられ、その途中で三人が
死亡しました。
 この事件を聞いたデ・ロイテルは、同じ敬虔なプロテスタントとして見捨てては置けなかったため、自分の人気
を楯にとってナポリの総督と交渉し、今後、ハプスブルグ家の所領には戻さないという誓約のもと、国外追放とい
うことで、2月11日に生き残っていた23人の牧師の身柄を引き取りました。牧師達はその後もオランダ艦隊と
行動を共にして戦闘にも立ち会っているので、厳密には誓約を守っていなかったようです。しかし、何にせよハン
ガリー人達はデ・ロイテルの行為に感謝し、後にハンガリーのデブレツェンにデ・ロイテルの像が立てられました。


 1676年3月14日、補給と整備のなったスペイン/オランダ艦隊は、再びパレルモ湾を出ました。25日、メッシ
ナに停泊中のフランス艦隊を攻撃しようとしましたが、これは中止されます。その後、いろいろあって反乱軍の支
配下にあるアウグスタ市を攻撃している時、フランス艦隊がメッシナを出撃したというニュースがもたらされまし
た。直ちに指揮権はデ・ロイテルの手に戻され、迎撃に向かったスペイン/オランダ連合艦隊は、4月22日、エト
ナ火山を望む沖合いでフランス艦隊と遭遇しました。
 フランス艦隊の指揮官は前回同様デュケーヌ中将で、その戦力は29隻のグレートシップ、5隻のフリゲートと、
火船とガレー船17隻で、2172門の砲と人員10000人以上でした。しかもグレートシップのうち5隻が90門
艦、そして80門艦が4隻、70−76門艦が11隻もありました。
 スペイン/オランダ連合艦隊の方はと言うと、グレートシップ19隻、フリゲート7隻、スノー(小型の船)6隻、火船
5隻、ガレー9隻で、70門以上の砲を持ったグレートシップはわずかに4隻、砲は1450門(?)で人員は6-7000
人。どの船も弾薬不足で、特にスペイン艦は人手も不足していました。
 フランス側は、前衛はド・アルメエイラ侯爵が指揮し、デュケーヌは中央、ド・ギャバレット中将が後衛を指揮して
いました。連合艦隊は、デ・ロイテルが前衛の位置で総指揮を執り、スペイン海軍のドン・フランシスコが中央で、
オランダのヤン・デン・ハーン中将(Jan Jansz den Haen 1630-1676)が後衛を指揮していました。
 戦闘は午後4時頃に始まりました。デ・ロイテルは、敵艦隊に混乱を引き起こすため、戦力差をものともせず、
敵前衛の戦列の突破を試みます。

 ところが戦闘開始直後、デ・ロイテルは砲弾の直撃を受けて右脚を吹き飛ばされ、艦尾楼から上甲板までの二
メートルを転げ落ちて倒れました。直ちに自室へ運ばれましたが、瀕死の重傷にもかかわらず意識ははっきりし
ており、部屋から部下を励まし続けたとの事です。前衛戦隊の指揮は、旗艦「Eendracht」のジェラルド・カレンブ
ルク艦長(Gerard Callenburgh 1642-1722)が引き継ぎました。カレンブルク艦長はデ・ロイテルの事前の戦闘計
画に従い、微風ながら風上側の優位を活かして戦い、近距離からの砲撃で敵の指揮官ド・アルメイラ侯爵を殺
し、戦列を突破してフランス艦隊を混乱に陥れました。
 フランスの前衛を突破した後、距離が離れ始めていたスペインの中央隊とのコンタクトを失わないよう、中央に
向かって引きかえました。このため、デュケーヌ率いる敵の中央隊とまともにぶつかることになります。スペイン
艦隊は遠距離からの砲撃に終始しており、デュケーヌの戦隊はほとんど損害を受けていなかったので、前衛に向
かって猛攻撃をかけました(←多分、デュケーヌはデ・ロイテルが瀕死の重傷を負っていることなど知る由も無か
ったでしょう)。
 やがて日没が来て、夜7時頃、戦闘は終わりました。優勢だったデュケーヌが、何故かここで艦隊を集合させて
退却を開始したからです。デ・ロイテルを尊敬していたデュケーヌが、負傷を知って戦闘を中断したとの説もあり
ます。連合艦隊はとりあえず一時間ほど追撃しましたが、深追いで罠にはまるのを恐れたデ・ロイテルがシラク
サへ引き返すように命じたので、これ以上の戦闘は発生しませんでした。
 この「エトナの戦いSlag bij de Etna (別名 アウグスタ海戦)」では、戦闘はまた決定的なものとはならず、両方
の艦隊が勝ち名乗りを上げました。双方とも損害は大きく、それぞれ500−700人の死者を出しました。圧倒的
に優勢なフランス艦隊を先に退却させたことから、連合艦隊の、そしてデ・ロイテルの勝利と言えます。しかし、連
合艦隊の被害は大きく、しばらくシラクサの港から動けなくなったので、ツーロンからメッシナまでのフランスのコ
ンボイを妨害することが出来ませんでした。このため、戦略的にはフランス艦隊の勝利です。

 さて、重傷のデ・ロイテルはシラクサ到着後に直ちに病院に収容されましたが、4月29日の朝9時半頃、息を
引き取りました。かくて、稀代の名将にして救国の英雄、ミシェル・アドリアンソーン・"デ・ロイテル"は、祖国オラ
ンダの存亡と関係の無い戦場において、命を落としてしまったのです。
 デ・ロイテルの負傷の状況を考えると、砲弾は低い位置を飛んでいたと考えられ、旗艦が「Eendracht」ではな
く、少し乾舷が高い「ゼーベン・プロビンセン」だったなら、彼の命を奪った砲弾は、舷側にぶち当たっただけだっ
たかも知れません。まあ、運命とはこういうものでしょう。
 
アブラハム・デュケーヌ(Abraham Duquesne 1610-1688)
 
 ディエップ生まれ。1644年から1647年までスウェーデン
海軍に勤務していた。
1650年、ボルドーのフロンドの鎮圧に功績を上げる。オラン
ダ戦争以後は、バーバリ海賊の鎮圧や、ジェノバ侵攻などを
指揮した。1681年に侯爵に叙され、プロテスタントでありな
がらも、ナントの勅令撤廃の例外とされた。


その後
 
 でも、物語はまだ終わらないのです。

 デ・ロイテル本人は任務中で知らなかったようですが、スペイン国王カルロス二世は、ストロンボリの戦いの功
績により、3月18日付でデ・ロイテルを公爵に叙任していたということです。デ・ロイテルはスペインの協力体制の
不備に怒っていたので、生きてその報せを受けても断っただろうと考えられているのですが、このことは、オラン
ダ国内に大問題を引き起こしました。なんとなれば、オランダには公爵位を持つ貴族が居ないため、序列の上で
は、息子のエンヘルがウィレム三世の次のランクとなってしまうからです。いろいろあった挙句、最終的にエンゲ
ルの爵位は男爵ということで落ち着きました。

 さて、デ・ロイテルの遺体は防腐処理され、密封された鉛の棺に入れられてしばらく「Eendracht」の船室に安置
されていました。艦隊の指揮は、大将に進級したヤン・デン・ハーンが引き継ぎ、カレンブルク艦長は中将の資格
で次席指揮官となります。
 デン・ハーン大将は、シラクサに修理用の資材も施設も無いため、パレルモに艦隊を移動させました。しかし、
パレルモでも資材不足で修理は遅々として進まなかったうえに、5月30日、パレルモ沖にフランス艦隊が現れま
した。戦闘の予兆に、デ・ロイテルの遺体は陸上に移されます。
 スペイン/オランダ艦隊の多くの軍艦は、損傷したマストや索具の修理が完全ではなく(←フランス海軍は、マス
トと索具を砲撃する戦術を採っていた)、外洋で戦える状態ではありませんでした。そこでデン・ハーン大将は、要
塞からの援護射撃も受けられることもあって、湾の入り口を塞ぐ配置で艦隊を投錨させて、浮き砲台として戦うこ
とにしました。
 今度のフランス艦隊の指揮官はド・バイヨン公爵という人物で、28隻の大型艦と25隻のガレー船、9隻の火船
という兵力であり、戦闘になったのは6月2日でした。投錨したまま戦うのはやはり無理があったようで、連合艦
隊は火船攻撃で軍艦6隻(スペインとオランダ3隻ずつ)とガレー3隻を失いました。スペイン艦隊の損害は死傷1
700人、オランダ艦隊は250人の死者と多数の負傷者を出し、デン・ハーン大将も戦死しますが、フランス艦隊
の消極性にも助けられ、パレルモ湾を守り抜きました。
 しかし、オランダ艦隊はもうぼろぼろであり、デン・ハーン大将から指揮を引き継いだカレンブルク艦長は、修理
と補給のため、イタリア本土のナポリに艦隊を移動させました。しかし、何を思ったかナポリの総督は修理費用の
立替を拒否します。結局、連邦議会から撤退の命令が来て、艦隊の生き残りは1677年の2月にオランダへ帰
りました(なお、その後も別のオランダ艦隊による支援は続けられ、シチリア島の叛乱は最終的に失敗しました)。
 
  デ・ロイテルの遺体を載せた「Eendracht」は、本隊より先行してオランダに向かいましたが、道中の安全のた
め、デュケーヌが手配した帆を黒く染めた2隻のフランス艦が護衛につきました。英仏海峡では、第二次英蘭戦
争以来デ・ロイテルを尊敬していたルイ14世の命令により、フランスの艦船はトプスルを降ろして「Eendracht」
に敬礼し、海峡沿いの全ての港では、「Eendracht」が通過する際、17発の礼砲(陸海軍大将に対する定数)が
放たれました。まだ戦争が続いているにもかかわらず、デ・ロイテルは敵国から最大の敬意を受けたのでした。
 「Eendracht」は1677年1月30日にオランダに到着しました。デ・ロイテルの遺体はその後暫く安置された
後、3月18日、アムステルダム市ニーウケルク(Niuwe Kerk)に巨大な墓所が建設され、多くの市民に見送られ
ながら埋葬されました。

 デ・ロイテルは見届けることが出来ませんでしたが、1678年、ナイメーヘンの和約によりルイ14世のオランダ
戦争は終わりました。フランスはスペイン領の一部を獲得することになりましたが、オランダは全領土を回復し、
紛争の原因となった1667年の関税を撤廃させました。オランダに限って言えば、戦争に勝ったのです。
  「祖国を敗北から救い、二つの王国を三度屈服させた。Redder van het vervallen Vaderlandt die twee
grote Koninkrijken tot driemaal toe de trotse Vlagh deed strijken」と呼ばれるデ・ロイテルの人生ですが、
時代が人を作ったと言うべきか、第一次英蘭戦争の時に海に出るのを断るか、ヨハン・デ・ウィットの要請を断る
かしていれば、連邦共和国は滅亡していたかも知れないのです。もっとも、第二次英蘭戦争で負けて衰退し、結
果、第三次英蘭戦争が発生しなかったというイフも成り立ちますが…。
 また、デ・ロイテルは優秀な戦術家ですが、戦略に関してはヨハン・デ・ウィットの指示に従うことが多く、「戦略
家」としての才能はいまいち不明です。このため、優秀な戦略家であるネルソンには劣るとの意見もあります。し
かし、海兵隊の創設や第三次英蘭戦争の防御戦略を見ると、決して戦略の才覚に劣るものではなかったと思わ
れます。

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