デ・ロイテルその11
スホーネベルト

  開戦直後の1672年5月6日、オランニェ家の親戚であるブランデンブルグ選帝侯はオランダと同盟しました。
ブランデンブルグ選帝侯国は、当初対スペイン同盟と騙されてフランスと組んでいたのですが、さすがにフランス
との同盟を破棄して、オランダ側についたわけです。また、ブランデンブルグ選帝侯を通じ、中立の姿勢だった神
聖ローマ帝国もはっきり反フランスの姿勢となったので、この脅威に対処するため、フランスはオランダから兵力
を引き抜かなければなりませんでした。こういう情勢のおかげで、ウィレム三世はどうにかフランス軍の前進を阻
止し、オランダは1672年をしのぎました。
  1673年になると、スペインもオランダ側に立って参戦しますが(←正式な宣戦布告は10月)、6月にはフランス
軍の猛攻により、飛び地の要塞都市、マーストリヒトが陥落します(有名なダルタニヤン氏が戦死したのはこの戦
闘中です)。ケルンではフランスとの和平交渉が行われていましたが、フランスはまたも屈辱的な要求を突きつけ
るばかりでした。オランダはまだ危機の中にありました。

  1673年4月、イギリスでは再びオランダに対する上陸作戦の準備が開始され、5月には侵攻軍のための輸送
船の集結が始まりました。しかし、侵攻軍は前年末に編成された新しい連隊で構成されていて、士官も兵員も訓
練不足でした。ルパート王子も、上陸部隊の一部を水兵でまかなおうと考えており、かなり雑な準備だといえま
す。これには、1672年のパニックの際には、カソリックのフランスに支配されるよりはマシと、海岸のいくつかの
都市が英国の占領下に入ろうと防衛を放棄したという背景があったようですが、ウィレム三世が総督になってか
らは士気が上がり、状況は変わっていました。
 とは言え、何にせよまずはオランダ艦隊を撃破しなくてはならず、これがルパート王子の最重要任務でした。
  デ・ロイテルは、1673年になってから、スヘルデ河口、ワルヘレン島の西側にあるスホーネベルト水道に艦隊
主力を配置していました。ここは多くの浅瀬が入り組んでいて接近が難しく、イギリス側が「狭い穴 narrow-hole」
もしくは「海の穴 sea-hole」と呼ぶ、「現存艦隊」戦略には絶好の泊地でした。5月になると、デ・ロイテルは一
時、先手を討ってテームズ河口を強襲する考えに傾いたこともありましたが、結局はスホーネベルトで英仏連合
艦隊を待ち受けることにしました。

  英仏艦隊は6月7日にオランダ沿岸に現れました。ルパート王子には、オランダ艦隊と直接対決しようという気
は無く、フリゲートで護衛した火船を送って、スホーネベルト水道を攻撃しようとしました。これでオランダ艦隊を
撃破できれば良し、悪くてもオランダ艦隊はスホーネベルト水道を出てスヘルデ川に逃げ込むので、効果的に封
鎖出来るだろうと踏んだのです。
  まことに手前勝手に予想であり、勿論、オランダ艦隊はあっさり火船攻撃をかわして、フリゲートも撃退しまし
た。そしてデ・ロイテルは、英仏艦隊を迎撃するためにスホーネベルト水道から出撃します。

  デ・ロイテルの艦隊は52隻で、前衛はトロンプが指揮し、中央はデ・ロイテル、後衛はアドリアン・バンケルトが
指揮していました。ルパート王子の艦隊は81隻(英54仏27。計76隻との資料もあり)で、ルパート王子は前衛の
位置で総指揮に当たり、デストレ伯爵のフランス艦隊は中央に配置され、チャタム遠征の時のシェアネス防衛司
令官だったサー・エドワード・スプレーグ(?-1673)が後衛を指揮していました。フランス艦隊が中央に置かれた
のは、ソール湾海戦の時に逃げられたからで、信号が読み取り易いようにとの配慮でした。
  戦闘は午後1時頃に始まりました。ルパート王子は、最初の攻撃に失敗してケチがついており、スホーネベルト
水道から逃げ帰ってきたフリゲート艦グループに邪魔されて、戦列がばらけてしまいました。よって、ルパート王
子の前衛は30隻近くあったのですが、最初はトロンプの15隻に対して数の優位を生かすことが出来ませんでし
た。

  乱戦状態となった双方の前衛二つを除き、艦隊の残りは北東方向に向いた一列縦隊で並行して進みました。
デ・ロイテルはド・エストレ伯爵の戦隊を攻撃し、バンケルトは、スプレーグの戦隊と本隊から脱落した何隻かのフ
ランス艦と戦っていました。英仏艦隊は風上側にありましたが、波が高く、「四日間の海戦」と同様に一部の艦は
下層砲甲板の砲が使用出来ない状態でした。
  フランス艦隊は3時間ほどデ・ロイテルと交戦しました。この戦いでのフランス艦隊の行動は消極的だと批難さ
れていますが、この段階においては、普通に勇敢だったと言えます。
  後衛のバンケルトは押され気味でした。バンケルトの危難を察したデ・ロイテルは、フランスの戦列を突破して
後衛の救援に向かおうと、全艦一斉回頭してフランスの戦列に突進しました。フランス艦隊はずたずたに分断さ
れ、見事に追い散らされてしまい、逃げたフランス艦隊は戦場に戻って来ませんでした。
  そして午後5時ごろ、フランス艦隊を片付けたデ・ロイテルの来援によって後衛の形勢は逆転し、スプレーグは
ルパート王子の前衛と合流すべく北方へ逃げました。
  このため、トロンプは一時40隻の敵と戦わねばならなくなり、旗艦「Gouden Leeuw (82門)」も大破して危地に
陥りましたが、6時ごろ、デ・ロイテルとバンケルトの戦隊が救援に現れました。この時デ・ロイテルは言いまし
た。
「最も重要なことが最優先されねばならない(←ヘンな日本語ですが、オランダ語の成句なのです)。敵に打撃を
与えるよりも友人を助けるほうが良い。't zwaarst moet zwaarst wegen t'is beter vrienden te helpen dan
vyanden te deren.」
 トロンプは晴れてデ・ロイテルの友人となっていたようです。

  戦闘はその後も4時間ほど続きましたが、デ・ロイテルらオランダ沿岸を知り尽くしたオランダ艦隊ががっちり戦
列を組んでいるのに対し、水路情報が不十分なイギリス艦隊(←フランス艦隊は既に逃げていたので)は戦列を
組んでの行動が制約されており、とてもオランダ艦隊には対抗できず、夜10時ごろ、イギリス艦隊は外洋に逃れ
ます。オランダ艦隊も深追いせず、スホーネベルトに戻りました。
  この「第一次スホーネベルト海戦 First Battle of Schooneveld/Eerste Slag op het Schooneveld」で、オラ
ンダ艦隊はフランス艦2隻を沈め、英仏艦隊に多大な人的損失を与えました(具体的な人数に触れた資料は何
故か残っていません。また、双方とも一隻も失わなかったとする資料もあり)。オランダ艦隊は「Deventer」が戦闘
で大破し、後に沈没しましたが、オランダ側の主張では荒天が直接の原因だということです。なお、デ・ロイテル
の息子エンヘルは、この戦いでは「Waasdorp」という艦を指揮していたので、「Deventer」には乗っていません。

  一方ルパート王子は、何故かオランダ艦隊に大ダメージを与えたと信じ込んでいたので、外洋で応急修理を行
いつつ、オランダ艦隊を外洋におびき出してさらなる戦いを挑もうと考えていました。狭いオランダ沿岸と違い、
外洋ならば数の優位も生かせるはずでした。
  デ・ロイテルはと言うと、わざわざおびき出されるまでも無く、英仏艦隊を追撃して最後の仕上げをするつもりで
した。しかし、修理の都合と悪天候のため、行動に移ったのは6月14日になってからでした。

  オランダ艦隊が攻撃をかけたのは正午ごろで、その時スプレーグはルパート王子との会合に出るため、ボート
で二時間かけてルパート王子の旗艦「ロイヤル・ソブリン」にたどり着いたところであり、彼はまた二時間かけて
自分の隊に戻らなければなりませんでした。ルパート王子は直ちに出帆を命じましたが、フランス艦隊に信号が
伝わらなかったようで、ルパート王子の戦隊は、無理矢理フランスの戦列を通り抜ける形となりました。スプレー
グの不在も手伝い、必然的に英仏艦隊は大混乱となりました。
 デ・ロイテルとバンケルトは、ごっちゃになったルパート王子とデストレ伯爵の部隊を攻撃し、前衛のトロンプ
は、敵の後衛であるスプレーグを攻撃しました。
  今回のデ・ロイテルは、一週間前の損害があったためか、あまり積極的ではなく、混乱して逃げるばかりの英仏
艦隊に対し、ひたすら遠距離からの砲撃に終始しました。
 反対にトロンプは、最初は接近して砲火を浴びせ、スプレーグは「彼(トロンプ)の砲火と獰猛さに、我々皆、生き
たまま喰われそうだった by his vapouring and fierceness we were to be eaten all alive」と述べています。そ
の後、トロンプは距離を開け、遠距離からの砲撃に終始しました(スプレーグはこれを「勇気が萎えた」とか「卑怯
だ」とあざけりました。そんなに言うなら何故反転して戦わなかった?)。

  夜11時過ぎ、イギリスの近くまで英仏艦隊を追い立てた後にデ・ロイテルは反転を命じ、オランダに戻りまし
た。トロンプはまたも命令を無視したのか、夜間だから本当に信号が見えなかったのかはわかりませんが、独断
で翌朝の三時ごろまで追撃してからオランダに戻りました。

  この「第二次スホーネベルト海戦 Second battle of the Schooneveld /Tweede Slag op het Schooneveld」
では双方とも一隻の船も失いませんでしたが、デ・ロイテルは優勢なはずの英仏艦隊をイギリスまで追い払い、
またも戦略的勝利を収めました。
 ルパート王子はこの時のフランス艦隊の行動を厳しく批難し、「予想したとおりに振舞った behaved as well
as could be expected」と皮肉にコメントしています。とは言うものの、確かに問題となる行動がありましたが、こ
の時のフランス艦隊はデ・ロイテルとそれなりに勇敢に戦っているので、多分に負け惜しみも含まれていると思わ
れます。ただ、ソール湾に続くフランス艦隊の不甲斐無さに、フランスとの同盟関係を疑う声が出始めました。

  デ・ロイテルは、フランスの脅威が深刻となった1671年より、艦隊同士の模擬戦闘も含めた厳しい訓練を課し
ていました。おかけで、レーダー完備の現代の軍艦でも二の足を踏むであろう、夜間、浅瀬が多くて陸にも近い
海域での大艦隊の行動も完璧にこなせるようになり、自国の沿岸で戦うとなれば、英仏艦隊に対して大きな優位
性を発揮しました。さらに、厳しい訓練は水兵達の砲の操作の早さにも結実し、もともと、オランダ艦隊の平均的
な火砲は、英仏よりも火力で劣るぶん、軽量で取り回しが良いこともあって、発射速度は英仏艦隊の2−3倍に
達し、数の劣勢も火力の弱さもあっさり覆したのでした(これは、18世紀後半以降、イギリス海軍が他国を圧倒し
たのと同じ要因です)。
  また、第三次英蘭戦争時のデ・ロイテルは、信号法が未発達だったこともあって、自分の戦闘計画を部下に徹
底しました(←「セントジェームズデーの戦い」の苦い経験も当然、考慮していたでしょう)。これは、ホレイショ・ネ
ルソンとも共通する一面であり、通信手段が発達した現代においても、事前の打ち合わせが不十分な軍事作戦
は往々にして失敗するので、当たり前と言えば当たり前なのですが、その当たり前のことが出来ないのが「普通
の人」なのでしょう。このため、バンケルトやトロンプ(←もともとこの人は、何があっても逃げそうにないですが)は
勿論、それぞれの艦長ですら、本隊とコンタクトを失ってもデ・ロイテルの意図に沿って行動し、かつ厳しい訓練
の成果もあって、適宜自身の裁量も加えて恐ろしい戦闘力を発揮したのでした。このあたりに関するオランダの
資料はやや褒めすぎという観もありますが、現実に勝ったのだから仕方ありません。




アドリアン・バンケルト(Adriaen Banckert 1615 - 1684)

 ゼーラント州出身。父はカリブ海で活躍した海軍中将だった。第一次英蘭
戦争ではヤン・エベルトセン指揮下の艦長で、「スヘーヴェニンゲンの戦
い」では乗艦を撃沈されている。1664年に少将に進級。1666年以降
は、ゼーラント州司令部の大将として、ヤン・エベルトセン亡き後のゼーラン
ト、フリースラント司令部所属の艦隊を指揮した。


危機は続く

  ルパート王子はノア泊地に逃げ込み、そこで修理と補給を行いましたが、フランス艦隊の資材不足もあって、再
出撃の準備に手間取りました。だから、7月6日にデ・ロイテルの艦隊が現れ、テームズ河口を封鎖する構えを
見せた時も対処できませんでした。
  ただ、この時のデ・ロイテルには艦隊を危険にさらすつもりが無く、すぐにオランダに引き上げました。この行動
はあくまで示威が目的だったようであり、イギリスの世論に対して、政府が発表したスホーネベルト海戦の「勝利」
が間違いであると認識させました。

 そうしている間にもイギリスでは上陸作戦の準備が進められており、上陸地点もゼーラント州のどこかと決定さ
れましたが、準備はあまり順調ではありませんでした。
 部隊の輸送用として集められたのは沿岸用の石炭輸送船がほとんどで、小型で航洋性を欠いていました。当
時、艦隊の基地はヤーマスにありましたが、ソール湾海戦のような急襲を恐れて、輸送船団はまずハリッジ港に
集結したため、ヤーマスへ移動する短い航海だけで兵士の士気が低下しました。オランダ艦隊がテームズ河口
に現れたことも、スケジュールを遅らせました。
 上陸部隊の指揮を執るフランスのフリードリッヒ・ションベルグ将軍は、もともとドイツ出身ですが、フランス国籍
を取得するまではオランダ、スウェーデン、フランス、ポルトガルの4カ国の軍隊を渡り歩いた武勲の持ち主で、
能力的には申し分ありませんでした。しかし、ルパート王子の父、ボヘミア王フリードリヒとも親しかった反面、ル
パート王子とは仲が悪かったのです。ションベルグ将軍がヤーマスに移動する際、自分の石炭輸送船に旗を掲
げたところ、船のマストに旗を掲げられるのは海軍の将官だけであるという理由で、ルパート王子は威嚇射撃を
行い、石炭船の船長を逮捕するという事件まで起こっています。加えて、階級が同等で権限が重複していたこと
もあって、陸海軍間の協調はうまくいっていませんでした。また、ヨーク公の意を受けたチャールズ二世が、艦隊
運用の瑣末事にまで口出ししたため、ルパート王子はかなり制約を感じており、これが原因で、ヨーク公と親しい
サー・エドワード・スプレーグとも仲が悪くなっていました。

 さて、ウィレム三世はイギリスに多くの工作員を送り込んでプロハガンダ活動を行い、イギリス人一般のカソリッ
クに対する反感を利用して、英仏間の離間を策していました。しかし、この段階ではまだ効果があがっておらず、
イギリスの議会でも、戦争は概ね不評でしたが、「カルタゴは滅ぼさねばならない」などと戦争遂行に反対する空
気はまだ弱く、「信仰自由宣言(←ここでは詳しく述べません)」の撤回と引き換えに戦費支出を認めていました。
オランダはまだ危機の中にありました。


決戦 ケイクダイン

 8月になると、英仏軍のオランダ上陸がいよいよ現実のものとなりました。ルパート王子は修理の終わった艦隊
を率いて出撃し、8月1日にスホーネベルト沖に現れました。デ・ロイテルは直ちに迎撃に出ましたが、ルパート王
子は戦おうとせず、すぐに方向転換して逃げます。デ・ロイテルは、これが上陸作戦のためにオランダ艦隊を沿
岸から引き離す欺瞞行動だと見抜いていたので、深追いせずにスホーネベルト水道に引き返しました。

 その後、ルパート王子はテキセル島沖に艦隊を留めますが、上陸作戦を決行するかどうかで迷ったようで、チ
ャールズ二世に手紙を送って指示を仰ぎました。チャールズ二世は、まずはオランダ艦隊を撃滅せよと返事を送
ってきましたが、このやり取りの間に貴重な時間が失われ、封鎖や沿岸防衛の偵察などの行動は不十分なもの
となりました。
 とは言え、それでもイギリスの偵察隊が陸岸近くに現れたので、オランダ国内では上陸作戦近しとの観測が広
がり、沿岸部は大騒ぎになりました。さらに、8月3日にスヘーベニンゲンが艦砲射撃を受けるにおよんで、オラ
ンダ政府は危機感を深めます。連邦議会とホラント州法律顧問カスパール・ファーヘル(ウィレム三世の相談役)
は入れ替わり立ち代り、デ・ロイテルに何通も手紙を送って何とかしろとせっつきました。これに対し、7月に積極
策に出た後だったこともあってか、デ・ロイテルはあくまでスホーネベルト水道から動かず、「現存艦隊」に徹しよ
うとしました。

 しかしこの時、東インド会社の商船隊の帰国予定が近づいていました。この商船隊は、国土の半分以上を失っ
たオランダの戦争経済に死活的な重要性を持っていたのは勿論のこと、運航が妨害された場合、オランダ全体
の士気にも重大な影響が懸念されました。
 そういうわけでウィレム三世は、8月7日のデ・ロイテル宛ての書簡で、東インド会社船団の安全を計るために
も、外洋に出てテキセル島沖に居座っていた英仏連合艦隊を攻撃するように命令し、併せて、上陸作戦がどこで
開始されても対処可能なように、(まだ連邦共和国の手に残っている)オランダの海岸線のほぼ真ん中であるマー
ス河口に艦隊を移すようにも命じました。

 さすがにウィレム三世には遠慮したのか、翌8日、デ・ロイテルは、トロンプ、バンケルト、自分の次席指揮官で
あるアート・ファン・ネスらと、ウィレム三世の命令に従うべきか協議しましたが、敵の上陸予定地点が、防備の手
薄なゼーラント州か、ホラント州南部であるとの情報を掴んでいたので、皆、一様に外洋に出た間隙を突かれる
ことを警戒し、上陸予想点に近いスホーネベルトから離れたがりませんでした。トロンプですら、ウィレム三世の
命令に従うのに乗り気ではありませんでした。
 しかし、今回ばかりはウィレム三世も自分の命令に固執します。8月9日、ファーヘルと、ロッテルダム司令部
の書記ピーター・ファン・ロードスタイン(ウィレム三世の海事に関する相談役)が、「ゼーベン・プロビンセン」に乗
り込んできてデ・ロイテルと会見し、上陸作戦に対処できるように海岸防衛を強化すると確約したので、デ・ロイテ
ルもついに折れて、ウィレム三世の策に従うことに同意しました。

 そして、艦隊がスヘーベニンゲンに移動した8月12日、海岸の防衛線の視察中のウィレム三世が、チャーター
した漁船に乗って「ゼーベン・プロビンセン」を訪問し、デ・ロイテルと会見しました。水兵達は熱狂し、「プリンス万
歳! Lang leve de Prins!」の大歓声でウィレム三世を迎えました。
 ウィレム三世は、デ・ロイテルに対し改めて東インド会社の船団の件を要請した上に、秘密工作によりイギリス
で反仏感情と反戦気運が高まっている状況なので、イギリスはあと一回海戦に負ければ戦争から脱落するだろう
という観測を伝えました。要するに、次こそ決戦、とハッパをかけたのです。

 ウィレム三世との会見の翌日、デ・ロイテルはテキセル島へ向けて出撃しました。
 ところが、荒天のため艦隊がばらけてしまい、再集結したのは8月19日でした。対する英仏艦隊も、嵐で吹き
払われており、両者が遭遇したのは8月20日の夜でした。
 そして、多くの市民、民兵、陸軍兵士らが見守る中、テキセル島の南、ケイクダインの砂丘の沖合いで決戦が
始まりました。

 双方が接触した20日夜、英仏艦隊は海側(西)、オランダ艦隊は陸側(東)を航行しており、海岸線に沿って南
に並行していました。英仏艦隊の戦力は86隻(軍艦92隻、火船28隻との資料もあり)で、前衛はデストレ伯爵指
揮するフランス艦隊。第二次スホーネベルト海戦でルパート王子の邪魔をしたので、今回は前衛に回されたので
す。中央はルパート王子が指揮し、後衛はサー・エドワード・スプレーグが指揮していました。
 オランダ艦隊は60隻(軍艦75隻、火船30隻との資料もあり)。前衛はアドリアン・バンケルト、中央はデ・ロイ
テル、後衛はトロンプという態勢でした。中央隊にはエンゲルが指揮する「Waasdorp(68門)」と、妻の連れ子の
ヤン・ファン・ヘルダーが指揮する「Steenbergen(68門)」がいて、それぞれ旗艦「ゼーベン・プロビンセン」の前
後を固めていました(これは身内偏重か、はたまた信頼できる人物に任せたのか・・・)。例によって数では劣って
いましたが、ウィレム三世の訪問の後ではあり、艦隊の士気は最高でした。
 この時の風は北東で、オランダ艦隊は風上側でした。ルパート王子は、オランダ艦隊の東側に回り込み、風上
側を確保するとともに、海岸との間に入り込もうと試みましたが、オランダ艦隊の方が早く180度旋回して、さら
に海岸に近づきました(フランス艦隊がもたついたからだと言われているが、ルパート王子の言い訳の可能性も
あり)。
 翌21日朝、風向きが南東になって、一転、英仏艦隊が風上側となります。そして、靄と雨で視界が悪い中では
ありましたが、朝8時ごろに戦闘が始まりました。双方とも180度回頭していたので、前衛が後ろになり、後衛が
前になっていました。

 デ・ロイテルの戦闘計画では、ルパート王子の中央隊の撃破に戦力を傾注することになっていました。また彼は
フランス艦隊の行動が消極的なのを見越しており、デストレ率いる後衛を攻撃したのはバンケルト大将直卒の1
0隻(イギリスの資料では7隻)だけで、後衛戦隊の残りの艦はデ・ロイテルの隊に合流しました。
 当初、フランス艦隊は勇敢でしたが、バンケルトの三倍近い戦力を有し、しかも風上側に立っていたにも関わら
ず、正午頃にデストレ伯爵は反転して南西へ逃れました。これに関しては、デストレ伯爵がルイ14世より、艦船
を危険にさらすな(無駄な危険、という意味ではない)という秘密の命令を受けていたと言われています。これが事
実だとすると、私見ですが、デ・ロイテルは何らかの手段でルイ14世の命令に関する情報を得ていたのかも知れ
ません。

 デ・ロイテルは、自分の中央隊と前衛の残りを率いてルパート王子と戦いました。風向きが変わった時、オラン
ダ艦隊は戦列を維持していたのに対し、ルパート王子の戦隊は戦列を維持できなかったので、その隙を見逃さ
ず、デ・ロイテルは敵戦列の前の方を分断します。激しい戦闘になりましたが、午後になって、フランス艦隊を片
付けたバンケルトの10隻が戦闘に加わると、ルパート王子にとって形勢はさらに悪くなりました。それでも彼は2
時間ほど頑張っていましたが、午後3時ごろ、スプレーグの支援を受けるため、ついに北へ向かって逃げ出しま
した。
 
 さて、ルパート王子が当てにしていた後衛では、個人的な確執もからんで、帆船時代を通じての名勝負の一つ
とされる、凄惨な戦闘が発生していました。スホーネベルトでトロンプに追いまくられたサー・エドワード・スプレー
グは、戦いの前、トロンプを殺すか捕虜にするとの誓いを立てて、それを公言していました。一方のトロンプは、
スプレーグ個人に遺恨は無かったようですが、スプレーグの旗艦の100門艦「プリンス」を、「四日間の海戦」の
時に拿捕しようとして、デ・ロイテルの命令で焼かれた「ロイヤル・プリンス」と同名の艦だと勘違いしていたらし
く、今度こそ、と意気込んでいたということです。
 そういう訳で、今度はスプレーグも満足するフェアな距離で、トロンプの旗艦「Gouden Leeuw(82門)」と「プリン
ス」の一騎打ちとなりました。しかし「プリンス」は、訓練で勝る「Gouden Leeuw」に滅多撃ちにされました。「プリ
ンス」が一発撃つ間に、「Gouden Leeuw」は二−三発撃ってきたとのことであり、砲の数の優位も、火力の優勢
も、あっさりと覆りました。「誰それ、お前と決着をつけてやる」という誓いは、映画や小説の中では格好良いかも
知れませんし、一対一の決闘なら良いかもしれませんが、現実の戦闘で実行されると、巻き込まれる一般兵士は
たまったもんではありません。
 午前11時頃、「プリンス」のメインマストとミズンマストが粉砕され、操舵装置も破壊されて行動不能となりまし
た。トーマス・オソリー少将の旗艦「セント・ジョージ St George (70門)」が現れ、トロンプとの間に入り込まなけ
れば、「プリンス」は危なかったでしょう。スプレーグは退艦して「セント・ジョージ」に移動しましたが、その新しい
旗艦もまた、二時間後には「Gouden Leeuw」の砲撃で大破して火災を起こします。スプレーグはまた退艦しまし
たが、移動中のボートに直撃弾を受け、哀れサー・エドワード・スプレーグは、「血のように真っ赤な波間に」沈ん
でいったとのことです。
 一方、トロンプもまた、旗艦「Gouden Leeuw」から退艦しなくてはならず、「Comeetstar(70門)」に移動しまし
たが、まだ浮いていた「プリンス」を拿捕しようとし試みます。しかし、何隻かのイギリス艦がうまく「プリンス」を曳
航したので、「プリンス」はなんとか戦場から逃げおおせました。
 午後6時ごろ、ルパート王子の戦隊と、それを追いかけるデ・ロイテルが後衛同士の戦場に到着し、また激しい
戦闘になりましたが、夜7時過ぎに戦闘は下火となり、8時ごろ、ついにイギリス艦隊は撤退しました。
 それにしても、英仏艦隊にとって、オランダ艦隊と陸岸の間に入り込めなかったのは、後の展開を考えると大い
なる幸運でした。もしもルパート王子の計画が成功していたら、21日には風下側に立つこととなり、陸岸に追い
込まれて壊滅していたかも知れません。

  この戦いでは、両艦隊とも失ったのは火船のみで、軍艦の損失はありませんでした。しかし人的被害は大き
く、一説には死者だけで英仏艦隊2000人、オランダ艦隊1000人と言われています(←とは言え、信頼のおけ
る資料は無いとのことです)。しかしなおデ・ロイテルとオランダ艦隊は健在であり、上陸作戦はついに取り止めと
なりました。この「ケイクダインの戦い Slag bij Kijkduin (英語ではテキセル沖海戦 Battle of the Texel)」は、
戦術的にも戦略的にも、オランダ海軍の勝利に終わりました。

 この戦勝のニュースにオランダ全土は喜びに沸きかえり、多くの都市では祝砲を撃って勝利を祝いました。い
ろいろあって決して人望磐石とは言えないデ・ロイテルでしたが、これによって(やっと)国家的英雄としての名声を
不動のものとし、無敵の名将(←本当のところそうでも無いのですが)として全ヨーロッパにその名が轟くことにな
りました。


ケイクダインの戦い 1673.8.21


第二次ウエストミンスター条約
 
 「ケイクダインの戦い」の敗戦で、イギリスはついにオランダ上陸作戦を放棄しました。
 海戦の度に見られたフランス艦隊の消極的で臆病な行動は、ルパート王子は勿論、イギリス国民の憤激も買
いました。「ケイクダインの戦い」の後、ルパート王子からの抗議に対し、デストレ伯爵の部下が、交戦を避けよと
いう伯爵の内密の命令を受けていたと釈明したことから(←実はルイ14世の意向だったというのが定説です)、イ
ギリスでは一気に反仏世論が盛り上がりました。ウィレム三世のプロパガンダも効果を上げ始め、フランスが占
領したオランダ領でカソリックへの改宗を強要しようとしていることも手伝って、プロテスタントであるイギリスが、
カソリックのフランスと同盟していることへの批判が強まります。10月になって、フランスがスペインに宣戦布告
すると、議会は、ルイ14世の野心で巨大化する戦争にこれ以上巻き込まれることを嫌い、翌年度の戦争経費の
支出を否決します。また、「ケイクダインの戦い」の少し前の8月9日、オランダ艦隊がニューヨークを占領してお
り、その返還を条件に持ちかけられていた和平交渉も開始されました。

 そして1674年2月19日、第二次ウエストミンスター条約が締結され、英蘭間の講和が成立しました。オランダ
船は相変わらずイギリス船に敬礼しなくてはならず、ニューヨークもイギリスに返還されましたが、結局のところ、
これは戦前の状態の回復でした。大局的に見てオランダの立場は弱かったので、オランダは20万ポンドの賠償
金を支払うことになりましたが、オランダにとってははした金であり、しかも、スチュワート王家にはオランダ亡命
中の負債があったので、賠償金のかなりの部分はまたオランダに戻って来ました。
 つまるところ、オランダはイギリスに勝ったのでした。ソール湾、スホーネベルト、ケイクダインとデ・ロイテルの
功績によるところが大きく、「二つの王国を三度屈服させた」と言われるデ・ロイテルは、イギリスを二たび屈服さ
せたのでした。
 
  大陸でも、1673年11月にウィレム三世がケルン選帝侯の首都ボンを陥れ、ケルン選帝侯を降伏させます。
このため、それまではフランスを恐れていたドイツの小国は、一気に反仏側へ傾きました。こうした情勢に加え、
スペインに対しても戦力を割かねばならないフランスは、ついにオランダからの撤退を検討しはじめました。そん
なところへのイギリスの脱落は、フランスとその同盟国には大きな衝撃であり、ケルンとミュンスター司教領は、
開戦前の状態回復を条件に戦線離脱しました。オランダ国内でのウィレム三世の反撃も成功しており、ルイ14
世もついにオランダ征服を諦め、フランス軍は、1674年初頭までにほぼ全ての占領地を放棄してオランダから
撤退しました。

 講和は無かったので、オランダはまだフランスと戦争しなくてはなりませんでしたが、主戦場はドイツ(神聖ロー
マ帝国対フランス)、スペイン領ネーデルラント(←ルイ14世は本来、スペイン領ネーデルラントの征服が主目的
で、オランダ攻撃はその足がかりを作るつもりだったと言われています)に移りました。連邦共和国は生き延び、
この時点で、実質的にフランスとの戦争に勝ったのでした。対フランスに関しては、ウィレム三世の手腕によると
ころが大ですが、それでも、海からの侵攻を阻止したデ・ロイテルの功績は大きく、イギリスの二回にフランスを
加えて、ここに「二つの王国を三度屈服させた」のでありました。

@ ソール湾海戦 1672.6.8
A スホーネベルトの戦い 1673.6.7, 6.14
B ケイクダインの戦い 1673.8.21

 

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