デ・ロイテルその10
相続戦争

  1659年、ピレネーの和約によってスペイン/フランス間の戦争が終結し、その和平条約の一部として、フラン
ス国王ルイ14世と、スペイン国王フェリペ4世の娘マリア・テレサが結婚しました。この際、マリア・テレサはスペ
イン王位の継承権を放棄していましたが、宰相マザランの差し金で、フランス側はマリア・テレサに50万エキュの
持参金を付けさせました。これは、当時の価値でも10t以上の金地金に相当する額であり、スペインの財政状態
ではとても支払えないのは最初から分かっていました。要は、持参金の不履行を理由に、後で継承権の放棄を
無効にする算段だったのです。

 1663年春、持参金の不履行を口実に、ルイ14世は王妃の相続権放棄の無効を宣言しました。そして、166
5年9月にスペイン国王フェリペ4世が死去すると、ルイ14世は王妃のスペイン領ネーデルラントの継承権を要
求しました。
 スペインは慢性的な財政難に苦しんでいたうえに、ポルトガルとの抗争でスペイン領ネーデルラントの兵力も引
き抜かれていたので、フランスはスペインと戦うことなど全く恐れていませんでした。
 とは言え、さすがにいきなり喧嘩を売るほど厚顔ではなかったのですが、その点、第二次英蘭戦争はチャンス
でした。南ネーデルラントと国境を接するオランダは同盟国だし、イギリスはオランダとの戦争で手が一杯です。
 そういうわけで1667年5月24日、フランスはスペインに宣戦布告すると、テュレンヌ将軍指揮するフランス軍
がスペイン領ネーデルラントに電撃的に侵攻しました(相続戦争 Devolution War)。これらの地域のスペイン軍
は8000人しかおらず、35000人のフランス軍にはとても対抗できませんでした。一応デ・ウィットは、事前にフ
ランスから侵攻作戦の連絡を受けてはいたのですが、オランダの安全保障上、フランスと国境を接する事態は看
過できませんでした。

 このため、デ・ウィットは急遽外交方針を転換し、イギリス、およびスウェーデンと協力してフランスの拡大主義
を抑止しようとします。その結果、本土攻撃の壮挙も空しく、ブレダ条約は後一押しが足りない結果となってしまっ
たわけなのですが、1668年1月、オランダ、イギリス、スウェーデンとの間で三国同盟(Triple Alliance)が締結
されました。それでも1668年2月、今度はコンデ候の率いるフランス軍が、フランス東部国境のスペイン領フラ
ンシェ・コンテにこれまた電撃的に侵攻し、三週間で全土を制圧しました。
 しかし、三国同盟に気兼ねしたフランスは、ローマ教皇の仲介によって和平をのみ、スペインとの間でアーヘン
の和約(エクス・レ・シャペルの和約)が締結されました。この結果、フランス−スペイン領ネーデルラント国境のい
くつかの都市を獲得したのみで、フランシェ・コンテもスペインに返還しました。このため、同盟国のオランダに裏
切られたと感じたルイ14世は、オランダに対して非常な悪感情を抱くようになり、オランダ征服を決意しました。
 しかし、いかに大国フランスと言えども、外国の支持の無い戦争は危険だと悟っていました。だから先ずルイ1
4世は、外交攻勢でオランダ征服の地ならしを始めました。まず、進撃路にあたるオランダ東部国境沿いのドイ
ツ諸邦を抱き込み、神聖ローマ皇帝や、オランニェ家の親戚であるブランデンブルグ選帝侯国も中立化させまし
た。

 三国同盟の切り崩しも怠りありませんでした。三国同盟の一方であるスウェーデンは、もともと同盟発動の際の
資金負担について悶着を起こしていたし、親オランダ諸侯も多いドイツ方面でも色々と紛争を抱えていたため、ド
イツでの紛争に際しての資金援助を条件に、開戦ギリギリの1672年4月、三国同盟を破棄してフランスにつき
ました。
 イギリスに対しても、国王チャールズ二世の仲の良い妹である、オルレアン公妃アンリエット・アンヌの仲介によ
り、フランスがオランダに宣戦布告した場合、年300万リーブル(1ポンド=12リーブルで、イギリスの歳入の約
20%)の資金援助と引き換えにイギリスもオランダに宣戦するという内容の「ドーバーの密約(1670年6月1日)」
が締結されました。チャールズ二世はあまりフランスを信用していなかったのですが、デ・ウィット政権を打倒して
親戚筋のオランニェ家の支配体制を復活させることが、イギリスの国益にかなうと考えたのでした(←ただし、こ
の考えは大間違いだった)。また、フランスの資金援助は金欠で苦しむチャールズ二世にとって、ヨダレだらだら
の好条件でした。


第三次英蘭戦争

  第二次英蘭戦争はオランダの勝利に終わりました。デ・ロイテルは、「二つの王国を三度屈服させた」男と言
われていますが、ここにイングランド王国を一回屈服させたわけです。が、第二次英蘭戦争終結から第三次英蘭
戦争の始まる1672年までデ・ロイテルの特筆すべきエピソードは無いので、話は一気に1671年まで進みま
す。

 ドーバーの密約以後、イギリスはオランダとの戦争の口実を探し始めました。
 先ず1671年8月、イギリスのヨット「マーリン Merlin」のクロー船長は、ハーグ駐在英国大使テンプル卿の夫
人を乗せて帰国する際、オランダ艦隊を見つけて敬礼を要求し、もしオランダ艦が拒否すれば、砲撃して、相手
の旗を撃ち落すように命じられていました。イギリス側の理想的な展開としては、オランダ艦が怒ってヨットを撃沈
してくれることであり、テンプル卿は親オランダ派でチャールズ二世と仲が悪かったため、夫人はもともとイニケエ
だったのです。そしてクロー船長はゼーラント州の沿岸でファン・ヘント大将の艦隊を見つけ出し、この命令を実
行しました。しかし、問題はファン・ヘント大将がテンプル卿夫人と個人的に親しかったことであり、ファン・ヘント
大将はヨットに乗り込んで来て、何で砲撃してくるのか問いただす以外の行動を執りませんでした。クロー船長も
その海域を去ったため、国王の期待に背いた船長は、哀れロンドン塔送りとなりました。
 1671年12月、テンプル卿に代わり、親仏派で、反オランダ派の急先鋒でもあるダウニング卿がハーグ駐在
大使に任命されました。当時の英蘭関係には、スリナムのイギリス系入植者の権利保障、関税、イギリスにして
は国辱もんの、ドルトヒト議事堂の「ロイヤル・チャールズ」拿捕の場面を描いたタペストリー、などが紛争の火種
としてありましたが、どれも戦争の口実として貧弱でした。従ってダウニング卿の任務は、とにかくオランダに言い
がかりをつけて相手を挑発することでした。そして、着任早々の1672年の1月11日(ただし、イギリスの暦では
元日)、彼は連邦議会に対し、オランダの軍艦が海外(主権を主張している海域の外?)でもイギリス国旗に対し
て敬礼せよという要求を突きつけ、これを何度も繰り返しました。

 黒幕であるフランスにも、経済的にオランダと対立するところがありました。財務総監兼海軍大臣のコルベール
(1669年に、ヨーロッパの船20000隻の内15000-16000隻がオランダ船、という有名だが根拠の無い発言をし
た人)の推進するフランスの重商主義は、世界最大の商業国家である必然的にオランダと対立することになりま
した。コルベールと言う人は、経済面で有能な反面、外交的なセンスが皆無だったらしく、国家間の経済摩擦を
無視していました。オランダとの同盟が有効だった時でも、彼はオランダと対立する経済政策を推進しており、対
立が決定的になった1671年には、オランダ船が持ち込むニシン、スパイスに重税を課し、同時にオランダ船に
よって再輸出されているフランス産ブランデーの輸出に重禁止税をかけました。

 しかし、戦争の本質的な原因は、結局のところイギリスとフランスの国王のメンツのようです。チャールズ二世
は、第二次英蘭戦争の大負けで傷ついた威信を回復させねばならず、ルイ14世は、相続戦争で邪魔された遺
恨を晴らしたがっていただけなのです。

 敵意剥き出しの英仏でしたが、ヨハン・デ・ウィットは相変わらず1662年のフランスとの防御同盟を維持しよう
と試みていました。その結果、数々の警告を、それもスペイン領ネーデルラントの総督、コローニュの市長、ウィ
レム三世の親戚であるブランデンブルグ選帝侯、個人的に親しかった駐仏大使のデ・フロート等などの確かな筋
から、フランスの意図に関する多くの警告を受け取っていたにも関わらず、フランスの意図を読みきれず、1671
年後半まで陸軍の強化や国境の防備、それに外交を怠っていました。
なんだか1941年のソビエトとよく似ています。実際の所、ドイツでの外交交渉に手間取って一年延期となったの
ですが、ルイ14世は当初、侵攻作戦を1671年に予定していたので、オランダは極めて危険な状況だったので
す。結局オランダは、軍事的に頼りないスペインを唯一の同盟国(しかも、参戦義務は無し)として戦うことになり
ました。そしてヨハン・デ・ウィットは、失政のツケをその命で払う破目となったのでした。

 1672年3月23日、サー・ロバート・ホームズ(←またこの人)率いるイギリス艦隊が、ワイト島沖でオランダ東イ
ンド会社のコンボイを襲いました。結局、口実を見つけるのは諦め、自分達の側から攻撃に出たわけです。
 オランダの船団は70隻の商船に対して6隻の護衛しかなく、ホームズの艦隊は圧倒的に有利だったのです
が、2隻の軍艦を大破させられたあげく、襲撃は失敗しました(3隻拿捕したという説もある)。この四日後、オラン
ダのコンボイが抵抗したことを理由に、イギリスはオランダに宣戦布告しました(第三次英蘭戦争)。4月6日、フラ
ンスもオランダと戦争状態となりました。このフランス-オランダ間の戦争には、オランダ侵略戦争、ルイ14世の
オランダ戦争などの呼称があります。なお、ルイ14世は何故か国内向けにオランダとの戦争状態を宣言しただ
けで、オランダに対する正式な宣戦布告は行っていません。


災厄の年

 さて1667年、ホラント州議会は、総督職を廃止する一方、オランニェ家当主には軍総司令官のポスト(オラン
ニェ家は代々、海軍総司令官Admiraal-generaal と陸軍総司令官 Kapitein-generaalを兼任していた)を用意す
るという「永久令(恒久令)」を採択しました。これは、「相続戦争」でフランス脅威論が高まった結果、リーダーとし
てのオランニェ家の人気が高まり、さすがのヨハン・デ・ウィットも、オランニェ家を公職から排除するわけにはい
かなくなったのです。オランニェ家当主ウィレム三世は当時18歳になるかならないかの少年であり、優れた知性
と高い教育をさずかってはいたものの、政治の経験も軍隊経験も全く無く、指導者としての力量は全く未知数だ
ったのですが、要はオランニェ家の信望とはそれほどのものだったのです。その一方でデ・ウィットは、オランニェ
家の独裁を避け、かつオランニェ家支持者を満足させるため、軍総司令官と国家元首の明確に分離したのでし
た。
 
 1671年になってフランスの脅威が現実味を帯びてくると、ウィレム三世の軍総司令官就任を求める声が高ま
りました。永久令の規定では、ウィレム三世は22歳になるまで総司令官職につくことが出来ないので、ヨハン・
デ・ウィットはこの原則を楯にとってウィレム三世の総司令官就任を阻止しようとしました。ウィレム三世は当時2
1才。しかしまあ、一才くらいどうだって良いという意見が勝ち、結局1672年2月、総督職は提供されても断ると
の宣誓の上で、ウィレム三世は、デ・ロイテルに遠慮して陸軍総司令官ポストのみの任命を受けました。しかし、
ウィレム三世には万事に決定権が無く、実権は連邦議会から派遣された委員が持っていました。
 デ・ウィットとしては、オランニェ家支持者の勢力拡大を阻止すると共に、実務経験の全く無いウィレム三世に軍
を任せることへの不安がありました。ウィレム三世が見事に祖国を侵略から守りぬくばかりか、1689年には宿
敵イギリスの国王となり、さらにはフランスの覇権主義にもトドメを刺すようなスーパーヒーローになろうなど、
様でもない限り予期できるはずはありませんでした。加えてウィレム三世は、栄養不良で背が低く、脊椎側湾で、
おまけに喘息持ちと、およそ健康的とは言いがたく、ぱっと見、戦争の激しいストレスに耐えられそうな人物でも
ありませんでした。友清理士先生の最近(2004.7)の著書「イギリス革命史」の中でも、外見的にウィレム三世は
「少女が夢見る王子様ではなかった」と評されています。
 ま、そんなこんなで、ヨハン・デ・ウィットの対応は当然と言えば当然なのですが、しかしこれもまた、後でデ・ウィ
ットの失政の一つに数えられることとなりました。

 1672年5月、ルイ14世も加わった12万人のフランス軍は、オランダ国境目指して進撃を開始しました。とは
言え、さすがにスペイン領ネーデルラントから攻撃するわけにも行かないので、スペイン領ネーデルラントの南部
を通過し、5月24日、ミュンスター司教領とケルン選帝侯の軍隊も加わって、フランス軍はオランダの東部国境
を突破しました。1672年は「災厄の年 Rampjaar」と呼ばれ、ここに、連邦共和国の苦難の日々が始まります。

 一方のオランダ陸軍の兵力は4-5万人。それも予備兵力まで洗いざらい動員したらの話で、すぐに動ける兵力
は侵攻軍の1/10ほどでしかなく、それもまた国境線の守備のために分散していました。後の大英雄、ウィレム三
世もこれにはさすがになすすべなく、退却を繰り返すばかり。しかもフランス軍は、守りの堅い要塞都市を迂回し
て、17世紀の輸送手段が及ぶ限りの電撃作戦でオランダの深部まで侵入しました。一ヶ月もしないうちに、オラ
ンダの国土の70%近くが占領され、さらに、オランダの心臓部であるホラント州にもフランス軍が迫りました。
 兵力は段違いであり、占領地からの避難民で混乱する中、とてもまともな防衛は不可能だったため、ついにウ
ィレム三世は、独立戦争以来の必殺技、洪水作戦を開始しました。土地の水没を恐れる地元住民の抵抗もなん
のその、水門が開かれたり堤防が爆破されたりして、ホラント州とその近辺を囲うように水の防壁が作られまし
た。この結果、どうにかフランス軍の前進は阻止されましたが、この時点で、連邦共和国を構成する7州のうち、
完全なのはホラント州のみで、南部のゼーラント州は一部を、北部のフリースラント、フロニンゲン州は大部分を
占領されてしまい、残りの州と国境沿いの連邦直轄地は完全にフランスに制圧されていました。 

                 
             オランニェ公ウィレム三世(1650-1702)
イギリス国王ウィリアム三世としてのほうが有名か?「名誉革命」であまりにも有名で、解
説は要らない人物。
 なお、オランニェ公の称号の由来であるオランニェ公国は南フランスの小さな領土であ
り、オランダでの代々のオランニェ家当主の地位は、法的には行政長官に過ぎない。ちな
みに、オランニェ公国は早々にルイ14世に占領されている。
 
ソール湾海戦

 宣戦布告された時、ヨハン・デ・ウィットは(主として自分の責任で)陸軍が全くあてにならず、海軍のみが唯一の
対抗手段であることをよく認識していました。しかし、その海軍にしても、英仏の海軍力の半分しかありません。
開戦の年の資料は見つかりませんでしたが、1670年時点での100t以上の在籍艦は、イギリス海軍102隻
83900t、フランス海軍120隻114500tに対し、オランダ海軍は129隻102100tです(意外にもイギリスが最弱です
が、財政難で予備艦扱いの軍艦が多かったからです)。従って、デ・ウィット兄弟はデ・ロイテルと相談し、英仏の
艦隊が合流する前に攻撃して各個撃破しようと考えました。

 ところが、悪天候と、弱小司令部であるフリースラントとホラント州ノールトカターの準備不足のため、艦隊はす
ぐに出動することができませんでした。そして5月14日に、ヨーク公率いるイギリス艦隊と、海軍中将ジャン・デス
トレ伯爵(Comt Jean D'Estrees 1624-1707)率いるフランス艦隊はワイト島沖で合流をはたしてしまいます。

 英仏連合艦隊は、ゼーラント州もしくはホラント州に対する大規模な上陸作戦を企図していました。陸では既
に、オランダ東部および南部国境からフランス軍とその同盟軍が侵攻を開始していました。スペイン領ネーデル
ラントと接する西部国境は無事でしたが、仮にスペインが参戦したとしても、スペイン領ネーデルラントが無防備
な地域なのは相続戦争で証明済みであり、西部国境も塞がれたも同然でした。この上さらに上陸作戦が行われ
たりすると、オランダは四方を完全に包囲されることになるのです。しかし、上陸作戦のためにはまず、オランダ
艦隊を撃滅しなくてはなりません。よって、ドッカーバンクあたりでオランダ艦隊の出撃を待ち、本国との間を遮断
するように移動して艦隊決戦に持ち込むのが英仏連合艦隊の計画でした。
 しかしながら、チャールズ二世が議会の閉会中に宣戦布告していたので、イギリスの議会は宣戦を承認してお
らず、戦争遂行の経費支出も渋っていました。よって、例のごとくイギリス艦隊は人員と資材が不足していたの
で、ヨーク公は先ず、補給と整備のために艦隊をサフォーク沿岸のソール湾(別名サウスウオルド湾)に移動させ
ました。ソール湾は緩やかで大きなカーブの入り江で、向かい風でも間切って外洋に出られるだけの操船余地も
あるので、大艦隊が停泊するには理想的な泊地でした。この時、オランダ艦隊はまだ自国の沿岸に待機中だっ
たので、ヨーク公はしばらく敵の出動は無いものと判断していたのです。

 英仏連合艦隊の戦力は、フリゲート以上の主力艦95隻、小型艦54隻(計152隻とする資料もあり)、兵員40
000人で、総砲門数6158門。中央隊(赤色)は総司令官であるヨーク公が指揮し、前衛(白色)はデストレ伯爵率
いるフランス艦隊で、後衛(青色)はサンドウィッチ伯爵が指揮を執っていました。なお、フランスの艦の数は常に
イギリス艦の半分ほどで、やや出し惜しみの感があります。
 対するオランダ艦隊は、主力艦75隻、小型艦54隻(計133隻という資料もあり)、兵員20732人、砲4484
門と、かなり不利でした。しかし、総司令官のデ・ロイテルを初めとして、前衛のファン・ヘント大将、後衛のアドリ
アン・バンケルト大将と言った、いずれも経験を積んだ歴戦の将官が指揮しており、英仏連合艦隊に多少なりと
も彼らに匹敵しそうなのは、サンドウィッチ伯爵ただ一人しかいませんでした(←なお、数字を見て分かるように、
オランダの軍艦は英仏の同クラスの艦と比べて乗組員が少ないです。人口が少ないこともあるかも知れません
が、一般にオランダの船は操船が容易で人手がかからないと言われています)。
  
 6月7日朝、東風が吹き始めました。ソール湾を攻撃するには絶好の追い風です。さすがにサンドウィッチ伯は
危険を察知し、ヨーク公と会見して、直ちに全艦隊を外洋へ出すように具申しました。しかし、この時艦隊はまだ
人員の割り振りや補給/整備に忙しく、中には船底の修理のため、装備を下ろして傾船中(文字通り、浅瀬で船を
横倒しにする作業)の艦もあって、すぐに出動できる状態ではありませんでした。ヨーク公もまた、心配しすぎだと
サンドウィッチ伯の意見を一蹴します(←もともとこの二人は仲が悪い)。しかしヨーク公は、どちらかと言うと聡明
な人物であり、一応は警戒のため、偵察部隊を送り出しました。
 デ・ロイテルは、ゼーラント州のワルヘレン島の泊地に待機し、ずっと攻撃の機会を伺っていました。そして勿
論、彼はこの東風を見逃したりはしませんでした。この時既に、オランダは国土の深くまでフランス軍に蹂躙され
ていました。陸軍がほとんど役に立たないので、海軍はオランダの唯一の反撃手段で、もはやデ・ロイテルとオラ
ンダ海軍に敗北は許されませんでした。しかも、その艦隊の戦力もかなり劣勢です(おまけに、過去の英蘭戦争
では、オランダ海軍は必ず初戦で大負けしています)。
 こうした事情を鑑みて、英仏艦隊が合同して戦力で負けている以上、防衛に徹すべきという意見もありました。
しかしデ・ロイテルは、敢えて攻勢に出ます。そして彼は旗艦「ゼーベン・プロビンセン」に座乗し、瀕死の祖国を
救うべく、70隻の軍艦を率いて一直線にソール湾に向かいました(←なお、連邦議会の代表としてコルネリス・
デ・ウィットも同行していたようですが、今回は何もしていません)。
 6月8日早朝、オランダ艦隊は、偵察に出ていたフランスのフリゲートと遭遇しました。ヨーク公がオランダ艦隊
接近の警告を受けたのは朝四時頃で、彼は動ける艦を直ちに出撃させますが、錨綱を切断して緊急発進した
り、帆を張るのも忘れてボートで引っ張られたりと大混乱の出撃であり、しかも、オランダ艦隊はもう、北東方向
に視認出来るまでに接近していました。
 
 さてデ・ロイテルは、このソール湾で国の命運を賭けた戦いに望みました。イギリスの歴史家はこれをホレイシ
ョ・ネルソンの「トラファルガー沖海戦」と対比しますが、しかし、トラファルガー沖のネルソンの場合、例え西仏連
合艦隊の捕捉に失敗しても、イギリスにはまだ海峡艦隊が控えていました。これと比べると、デ・ロイテルとオラン
ダの状況は遥かに厳しいものでした。ついでに、世界三大提督のうちの二人、ネルソンと東郷は、決戦に望んで
名言を残していますが、敵艦隊を視認した時のデ・ロイテルはと言うと、操舵主任を呼んで針路を指示しただけ
で、かっこいい名言は残していません。

 海に出た英仏連合艦隊は約90隻。数では勝っており、オランダ艦隊を迎撃するため、取りあえず北に向かっ
て移動しましたが、各艦ばらばらの状態で戦列を組んでおらず、不利な態勢でした。
 ファン・ヘント大将に率いられたオランダの前衛、−艦長に昇進したエンゲル・デ・ロイテルが指揮する60門艦
「Deventer」と、メドウェイ川の英雄ファン・ブラーケル艦長の60門艦「Groot Hollandia (←元コルテノールの旗
艦)」も含む−は、サンドウイッチ伯率いるイギリスの前衛を攻撃しました。
 この直後、風が落ちて大型艦はうまく動けない状態となってしまい、戦闘は非常に血なまぐさいものとなりまし
た。この戦いで、砲弾の直撃を受けたファン・ヘント大将は戦死し、エンゲル・デ・ロイテルも重傷を負いました
が、サンドウィッチ伯の旗艦「ロイヤル・ジェームズ(1671年に建造された100門艦で、メドウェイで燃えたのとは
別)」は、1000人近い乗組員のうち7割が死傷する猛攻撃を受けた挙句、火船攻撃で炎上、サンドウィッチ伯は退
艦を拒み、炎に包まれた旗艦と運命を共にしました。「ロイヤル・ジェームズ」は爆発を起こさなかったので、サン
ドウィッチ伯の遺体は数日後に海岸に打ち上げられました。爆発しなかった理由については、弾薬が尽きるまで
奮戦したからと言われていますが、補給不足でもともと積んでいた弾薬が少なかったのが真実でしょう。

 アドリアン・バンケルト大将率いるオランダの後衛20隻は、敵の後衛であるフランス艦隊に向かいました。しか
し、ド・エストレ伯爵は旋回して進路を南に変えると、ロクに戦うことなく逃げ出しました(信号を誤読した、とも言わ
れていますが、後々のフランス艦隊の行動からして単に逃げた可能性も大)。

 デ・ロイテル率いる中央隊は、ヨーク公の中央隊を攻撃しました。ばらばらで混乱しているヨーク公の部隊に対
し、デ・ロイテルは数の上でも2:1で優勢となっていました。風が弱く、戦場から逃げることが出来ない状態で、「ゼ
ーベン・プロビンセン」はヨーク公の旗艦「プリンス(100門。オランダの資料では「ロイヤル・プリンス」と誤記され
ている事が多い)」と一騎打となり、砲撃と海兵隊のマスケット射撃の猛攻撃を加え、「プリンス」は大破、艦長も
戦死させました。さらに、デ・ロイテルは火船を突っ込ませたので、ヨーク公は退艦し、ボートで「セントマイケル 
St. Michael」に移動しました。しかし、この艦もまた「ゼーベン・プロビンセン」の砲火にさらされて大破。ヨーク公
はまたボートで「ロンドン(←90門艦。メドウェイで撃沈された「ローヤル・ロンドン」を再建したもの)」に移動しなく
てはなりませんでした。
 イギリスのグレートシップは32ポンド砲を、フランスは36ポンド砲を主力火器(一部の100門艦に42ポンド砲
もあり)としており、オランダの主力火器の24ポンド砲(「ゼーベン・プロビンセン」など一部大型艦は36ポンド砲
搭載)に火力で勝っているはずでしたが、第二次英蘭戦争と同じく、結局のところは軽量で取り回しの良いオラン
ダの24ポンド砲が、発射速度で英仏艦隊を圧倒したのでした。

 その後、霧や突風で条件が悪くなったこともあって、夜7時ごろ、デ・ロイテルは戦闘を打ち切り、バンケルト大
将と合流するために南に向かい、英仏連合艦隊もソール湾に引き返しました。
 この「ソール湾の海戦 Battle of Solebay/Slag bij Solebay」では、英仏側、オランダ側双方とも勝ち名乗りを
上げました。英仏艦隊が失ったのは「ロイヤル・ジェームズ」一隻(「プリンス」はボートに曳航されて何とか火船を
かわした)のみなだったのに対し、オランダ艦隊は「Jozua (60門)」 と 「Stavoren (48門)」の2隻(3隻沈没? 2
隻拿捕、数隻沈没?)を失っていたからです。
 しかし、オランダ艦隊の戦死者が数百人(死傷者合計1800人?)なのに対し、英仏艦隊の損害は戦死者だけ
で3000人(英軍2500人 仏軍450人? 死傷者合計5000人?)に上りました。しかも、イギリス艦のほとんど
が損傷を受けて一ヶ月間行動不能となり、準備中だった上陸作戦も一年延期となります。このように、海からの
脅威を取り去ったことはオランダの生存にとって極めて重要であり、どう考えてもオランダの戦略的大勝利でし
た。
 なお、戦いの最中、デ・ロイテルの元に「エンゲル戦死」の誤報が伝えられました。この時デ・ロイテルは取り乱
し、「おお神よ! 私の息子、私の息子が死んだ! 死んだ! oGod, mijn jongen, mijn jongen gevallen!
Gevallen!」と騒いだと言われています。これを普通の父親と見るか、祖国の命運を賭けた戦いの中で責任感に
欠く行動と見るかは見解が分かれるところでしょうが、「セントジェームズデーの戦い」でもパニックを起こしたよう
に、意外にもデ・ロイテルとは、わりと簡単に混乱する人物だったのかも知れません。
 戦闘が終わり、基地に戻った後、デ・ロイテルは例によって水兵達の「万歳、じいさん!」の声に迎えられてエン
ゲルの艦「Deventer」を訪問すると、息子を見舞って言いました。
「こんにちはエンゲル、こんにちは息子!愛する息子よ、確かに大した怪我では無いようだな、ん? Dag Engel,
dag jongen! Toch niet zwaar gewond, lieve jongen, he? 」
 エンゲルは「こんにちは父さん、私は元気です」と返事をしたそうですが、実のところ、軍医からしゃべるのも禁
止されていたくらいに重傷だったので、名将デ・ロイテルは軍医に怒られてしまいました。

ソール湾海戦。 「ロイヤル・ジェームズ」炎上の図

ウィレム・ファン・ヘント(Willem Joseph Baron van Ghent 1626-1672)

 オランダ海兵隊の父。

オランダ国内の出来事

 さて、「ソール湾海戦」の勝利は、瀕死の連邦共和国にとって唯一の明るいニュースでしたが、そうこうしている
うちに、オランダ国内ではデ・ウィットの責任を追及する声はますます高くなり、同時にウィレム三世の人気が急
上昇しました。
 6月にはヨハン・デ・ウィットの暗殺未遂事件があり、銃撃された上にぶん殴られて、彼は重傷を負いました。兄
コルネリス・デ・ウィットも、痛風の療養(←と言うことになっているが、本当のところは分からない)で故郷に引っ込
みました。それでも共和派は、ルイ14世が示したばかげた講和条件、賠償金1000万リーブル、ヘルダーラント
州と国境地帯の連邦政府直轄地の割譲、連邦共和国の存続はフランス国王の慈悲のおかげであると刻んだ金
メダルの毎年贈呈、を検討しはじめたので、共和派も含む徹底抗戦派が反発しました。
 そして7月、ついにオランニェ家支持者によるクーデターが発生し、ウィレム三世は以前の誓約を撤回させら
れ、親戚筋の家が総督を務めていたフリースラント、フロニンヘンを除く五州の総督に就任、併せて海軍も含め
た全軍の総司令官として、事実上の連邦共和国の最高指導者となりました(翌年、これらの職責はオランニェ家
の世襲とされました。なお、クーデターは自然発生的なもので、ウィレム三世当人の関与は無さそうであります)。

 ですが、こうなってもオランニェ家支持者の、特に一般市民のデ・ウィット兄弟に対する怒りはおさまりませんで
した。8月、コルネリス・デ・ウィットがウィレム三世の暗殺を謀った容疑で逮捕され、ヨハン・デ・ウィットも公金横
領の容疑をかけられました。兄コルネリスは、弟ヨハンほど国政に関わっていたわけではないので、弟の巻き添
えと言う気がしなくもありませんが、デ・ウィットはホラント州法律顧問の職を辞任しました。
 しかし、それでもなお民衆の怒りはおさまりませんでした。8月20日、ハーグのビネンホフ宮殿の監獄に収監中
の兄と面会していたヨハン・デ・ウィットは、オランニェ家支持者市民による暴動に遭遇しました。暴徒は監獄の警
備兵を追い払い、デ・ウィット兄弟を引きずり出します。そして、名作「黒いチューリップ(←勿論、怪盗じゃないほ
う)」にもある、「デ・ウィット兄弟、群集にボコられる」のシーンとなり、哀れ二人は惨殺されました。ヨハン・デ・ウィ
ットは、その業績はともかくとして、結局のところは門閥市民の代表者でしかなく、傲慢でエリート意識にかぶれた
鼻持ちならないタイプであり、一般市民をはっきり「卑しい」と蔑んでいたと言われているので、このような最期も
また自業自得だったのかも知れません。
 なお、ヨハン・デ・ウィットとウィレム三世は学問の師弟(←と言うか、デ・ウィットが無理矢理ウイレム三世の教
育を監督した)でもあり、個人的に仲は悪くは無かったので、ウィレム三世のデ・ウィット兄弟殺害への関与は無
いようです。


 さて、オランダ艦隊がソール湾で英仏艦隊に一撃を加えたとは言え、北海の制海権は英仏の手にありました。
背に腹は変えられず、祖国の危機に際してデ・ロイテルは、海兵隊は勿論のこと、水兵の一部や艦載砲までも地
上の防衛ラインに提供しなくてはならなくなり、傷の癒えた息子エンゲルも、地上部隊の指揮官として駆り出され
ました(←海兵隊の父、ファン・ヘント大将の薫陶があったため?)。ウィレム三世が総督に就任すると、陸軍に志
願する水兵がさらに増えます。こうして生じた人員不足を補う予算も無いため、デ・ロイテルは軍艦の1/3を解役
しなくてはならず、泊地に閉じこもって、いわゆる「現存艦隊 fleet-in-being (←ただし、この言葉が歴史に登場
するのは1690年からと言われている)」の戦略をとる以外、出来る事はありませんでした。

 その代わり、私掠船が大活躍します。主に、出港できなくなった商船や民間の資金で復活した解役軍艦からな
る私掠船は、イギリスの沿岸で猛威を振るい、時には30隻からなるイギリスのコンボイを全滅させたこともありま
した。第一次/第二次英蘭戦争では、多くのオランダ商船がイギリスの私掠船に拿捕され、イギリスの商船の損
害はかなり少ないものでした。しかしこの第三次英蘭戦争では、明確な数字こそ残っていませんが、イギリスは
捕獲したオランダ船よりもずっと多くの商船を失っています。
 また、天候がオランダに味方しました。1672年の夏は全般的に荒天が続いたため、英仏連合艦隊の行動は
消極的でした。そうして秋になって海が荒れ始めると、越冬のためフランス艦隊はブレストに戻り、イギリス艦隊
も大型艦をドック入りさせたので、オランダの危機はひとまず過ぎ去りました。10月にはオランダ商船の運行も
再開されました。

軍艦
ゼーラント
私掠船
アムステルダム
私掠船
ロッテルダム
私掠船
英商船
37
151
42
16
246
仏商船
10
150
4
3
167
英仏のどちらか不明
17
125
49
4
195
中立国商船
2
11
12
25
633
第三次英蘭戦争(1672-1674)中のオランダ私掠船の戦果 
拿捕賞金が支払われた商船の数で、漁船、破壊された船、釈放された船は含まれていない(Pirates and privateers from the low countries c.1500-c.
1810より)


 デ・ロイテルは、旗艦「ゼーベン・プロビンセン」上でオランダ国内の混乱を眺めていました。デ・ウィット兄弟殺
害のニュースを聞いたデ・ロイテルは、個人的な悲しみを日記に書き残しましたが、彼にも危険が迫っており、他
人の死を悲しんでいる余裕などはありませんでした。これまで、デ・ロイテルは海軍政策に関してデ・ウィットと協
力してやってきました。デ・ロイテルは政治的に中立だったのですが、おかげで彼は、世間から共和派と見なさ
れ、デ・ウィットの一味だと思われていたのです。
  デ・ウィットの失脚と相前後して、デ・ロイテルは、ソール湾での戦いぶりが積極性を欠いたという中傷を受けま
した(ソール湾に限らず、この後の戦いでも、デ・ロイテルは戦力の温存を図る傾向が見られたので、まあ、わか
らなくも無いですが・・・)。
 9月になると、誰の差し金によるものか不明ですが、フランスと通じた容疑でデ・ロイテルが解任/逮捕されたと
いう噂が流れました。これは、デ・ロイテルが防衛戦略に徹して艦隊を動かさなかった(動かせなかった)ことへの
不審と不満、第二次英蘭戦争でルイ14世から叙勲されていることなどが背景にありました。アムステルダムで
は、この噂に触発されて暴動が発生し、暴徒は口々に「裏切り者」とわめきながら、イエ湾のデ・ロイテル邸に押
し寄せました。デ・ロイテル本人は任務中で不在であり、家族も間一髪で陸軍に救出されましたが、屋敷は焼き
討ちにされてしまいます。さらに10月、デ・ロイテルが連邦議会の聴聞会のためにハーグを訪れたところ、なんと
暗殺の陰謀が発覚しました。こうした敵意に対し、デ・ロイテルは自らの行動でオランダへの忠誠を証明しなくて
はなりませんでした。
 とは言え、このような事態はあくまで一時の混乱であり、ウィレム三世(←彼は共和派に対して悪意は抱いてい
なかった)がデ・ロイテルを解任しなかったこともあって、幸いなことに、デ・ロイテルに向けられた敵意はいつの間
にやら立ち消えとなりました。

 冬の間、デ・ロイテルはアムステルダムの防衛司令官を務め、年が明けた1673年2月24日、デ・ロイテルは
ウィレム三世により、海軍大将よりも一つ高い地位、ホラント州と西フリースラントのLuitenant-admiraal-
generaal(←どう訳して良いのやら)に任命されました。これは、階級的に海軍総司令官(Admiraal-generaal)を補
佐する役職ですが、ウィレム三世は海軍に関してほとんどデ・ロイテルに任せきりにしていたので、デ・ロイテル一
人に、アムステルダム、ロッテルダムなどの五つの海軍司令部と同等の権限が与えられました。

 同じ頃、ウィレム三世の口利きにより、コルネリス・トロンプが海軍に復帰しました。「セントジェームズデーの戦
い」以来、デ・ロイテルとトロンプの間にはわだかまりがあったのですが、トロンプもさすがに反省していたのか、
それともウィレム三世の説得も効いたのか、本心がどんなもんかは別として、トロンプは「セントジェームズデーの
戦い」の時の自分の不手際を認めて謝罪し、デ・ロイテルの命令に従うことを約束しました。

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