デ・ロイテルその9 チャタム遠征 その1 1666年冬、財政難が極限に達したイギリス政府は、背に腹は変えられず、戦時としては空前絶後の大軍縮を 断行しました。海軍はフリゲート以下の軍艦からなる小さな戦隊が二つだけ残され、残りの軍艦はみんな係留処 置とされます。勿論、反対意見は多くありましたが、金が無いのはどうしようもありませんでした。また、全般に和 平機運が高まり、実際に4月からオランダのブレダで和平交渉も始まったので、油断もありました。 とは言え、これで無事に済むはず無く、フランス海軍はこれ幸いとカリブ海のイギリス植民地を攻撃しまくります が、イギリスは全く対処できませんでした。 ヨハン・デ・ウィットも、これをチャンスと見ました。イギリス海軍が行動不能になった今、長年の強迫観念じみた 願望であるテームズ河口攻撃を実現するチャンスであるし、作戦が成功して係留中の敵の主力艦を撃滅すれ ば、これまでの戦闘で互いに決定打を欠いたため、長引いていた和平交渉を一気に有利にできるのも明白でし た。さらにまた、本土に直接攻撃をかけることで王政への信頼が揺らぎ、共和国残党による革命の勃発までも期 待しました(←さすがにこれは妄想の域)。 問題は、内水域に係留された敵艦を攻撃するには、艦隊を同じ内水域に送らねばならないということです。そし て、敵艦の大部分が係留されていたテームズ河口周辺の内水域は浅瀬が多く航行は極めて困難でした。現代な らば航空攻撃で一撃粉砕なのですが、17世紀の世界では、直接出向いてぶっ壊す以外に手段はありません。 で、オランダ海軍の最大の栄光の一つ、「チャタム遠征(Tocht naar Chatam)」となるわけです。 なお、この「チャタム遠征」は、日本では「ロンドン砲撃」とかなり誤解されています。立派な出版物でもネット上 の記事でも、ロンドンを攻撃したことになっているのが多いです。そもそも、世界で最も権威ある百科事典の日本 語版であるはずの「TBSブリタニカ」の「オランダ戦争」の項にも、「デ・ロイテル率いるオランダ艦隊は、1667年 6月22日不敵にもテムズ川をさかのぼってロンドンを砲撃し」と大マチガイが書いてあったりするので、かく言う 僕も一度はダマされてしまいました(もっとも、ブリタニカの記述からすれば、ローストフト沖海戦はカリブ海のバル バドス島で発生したことになっていたりするので、全般的に間違いだらけなのですが)。 オランダ艦隊はロンドンなど砲撃していないし、そもそも、テームズ川にはちょっとしか侵入していません。ペス トと大火で既に半壊状態のロンドンを攻撃しても、「バトル・オブ・ブリテン」後半で、ナチが空軍基地を無視してロ ンドン爆撃に集中したのと同じ帰結を迎えたものと思われます。 さて、オランダ海軍は1667年5月初頭から作戦の準備にかかりました。機密保持が作戦成功のカギというこ とで、準備段階で作戦の内容を知っていたのは、発案者のヨハン・デ・ウィット、その兄で連邦議会の代表として 艦隊に同行することになっていたロッテルダム司令部の委員コルネリス・デ・ウィット(←傲慢で尊大な弟と違い、 海軍士官の間では比較的人気があった)、そしてデ・ロイテルの三人だけでした。 しかし、機密保持に注意はしたものの、和平交渉のためブレダにイギリスの外交団が居たものですから、情報 は概ねイギリスに筒抜けでした(←大バカ)。5月末、外交団よりイギリス政府に、オランダ艦隊と多数の陸軍部隊 (←実は海兵隊)がテキセル島に集結しつつあり、イギリス本土に対する上陸作戦の可能性ありとの警告がなさ れました。ロンドンの新聞にも、「4000人の陸軍兵士がオランダ艦隊に乗船中」との記事が掲載されています。 デ・ウィットのこれまでの姿勢から、これがテームズ河口に対する攻撃準備だとする観測は多くありました。しかし 枢密院は、オランダ艦隊の作戦準備は和平交渉のためのブラフであると結論します。また国王チャールズ二世 も、4月に敵国であるルイ14世と和平仲介の合意を結んでいたため、すぐに戦争が終わると信じ込んでおり、何 もしようとはしませんでした。そしてさらに、6月7日にフランス軍がスペイン領ネーデルラントに侵攻(←後述)した ので、ますますもってオランダからの敵対行動は無いものと確信しました。 とは言え、一応は6月8日に沿岸防衛の強化に関する命令が出ましたが、実際には何も出来ませんでした。 6月14日、フリゲート以上の軍艦54隻、小型艦十数隻、火船14隻からなる80隻のオランダ艦隊は、スホー ネベルトを出撃しました。この遠征には、デ・ロイテル一家の二人が参加しており、妻Annaの連れ子、ヤン・パウ エルズ・ファン・ヘルダー(Jan Pauwelsz. van Gelder)は「Harderwijk(44門)」の艦長を務め、実の息子エンへル (当時18歳)は、「Hollandia」に乗り組んでいました。 オランダ艦隊は15日にノース・フォアランド岬の沖に到着しました。しかし、ここで嵐に遭遇したので、艦隊はい ったんばらけてしまい、再集結するのに一日かかってしまいました。ここでコルネリス・デ・ウィットは、5月に締結 されたフランス海軍との作戦協定に基づき、ブレストにオランダ艦隊の位置を連絡しましたが、フランス艦隊は結 局動きませんでした。 また、旗艦「ゼーベン・プロブィンセン」には、何人かのフランス人の陸軍士官が乗り組んでおり、さらには、軍 人と言うよりも私掠船乗りとして、後にフランス海軍最大の英雄と称えられるジャン・バール(Jean Bart 1651- 1702)も、平水夫として乗り組んでいました。ぶっちゃけ、バールも含めてフランス人士官達はみんな、オランダに 対して恩を仇で返します。ただ、貴族出身のフランス士官達は、海軍大将デ・ロイテル自ら、自分の船室の掃除 をして、ごちそう用のニワトリにエサをやっているのを見て衝撃を受けたと言うことです。ちなみに、ジャン・バー ルは有名な私掠船乗りの息子でしたが、平民で平水夫でもあり、デ・ロイテルと個人的に面識があったわけでは なさそうです。 オランダ艦隊出撃のニュースはすぐにイギリスに伝わり、イギリス海軍本部も、オランダ艦隊の戦力と位置に関 する正確な情報を得ていたのですが、艦隊をリストラした状態では、やはり何も出来ませんでした。 その後オランダ艦隊は南下を続け、17日、テームズ河口の入り口、キングスチャネルに投錨しました。この日 の夕刻、旗艦「ゼーベン・プロビンセン」に、アート・ファン・ネス大将およびファン・ヘント大将を初めとする将官と 艦長達が集められ、ここで初めて、デ・ロイテル以外の士官に対して作戦の目的が説明されました。士官達の反 応は、はっきりと嫌そうだったようです。 翌日の朝四時、会議は再開されました。17日にテームズ川から出てきたノルウェーの商船を臨検した時、グレ イブズエンドの下流、ホープリーチに何隻かのフリゲートに護衛された20隻のイギリス商船が停泊中との情報を 得ていたので、この席でコルネリス・デ・ウィットは、主として小型艦と浅喫水の艦からなる戦隊をファン・ヘント大 将(Willem Joseph Baron van Ghent 1626-1672)の指揮の下にテームズ川に突入させ、船団を攻撃するもの との決定を下し、彼自身も同行することにしました。 さて、このファン・ヘント大将は、オランダ海兵隊(Regiment de Marine)創設者として知られています。1665年 12月10日、当時海軍中将だった彼の指導により、1663年のイギリス海軍に次いで、オランダ海軍は海兵隊を 組織したのでした。 そういう訳で、地上戦闘も伴うであろう今回の作戦の指揮には、ファン・ヘント大将はまさに適任だと考えられた わけです。しかし、地上戦の研究ばかりしていたせいか、ファン・ヘントの船乗りとしての手腕はイマイチとの評判 だったため、デ・リーフデ中将が補佐することになりました。 一方、デ・ロイテルはと言うと、全艦隊で内水域に突入した挙句、退路を絶たれることを恐れました。事前の偵 察情報では、サー・ジェレミー・スミス率いる18隻のフリゲートがスコットランド東岸で行動中であり、更にポーツ マス、プリマス、ドーバーの各基地には小規模な戦隊が停泊中だったので、これらの戦力が合同すると、内水域 に入り込んだ艦隊を閉じ込めてしまうには充分な脅威であると考えていたのです。 そこでデ・ロイテルは、ドーバー海峡には警戒のための分遣隊を派遣して、自ら率いる艦隊主力はキングスチ ャネルにとどめました。 6月19日の夜明け、旗艦「Agatha(50門)」に座乗したファン・ヘント大将とコルネリス・デ・ウィットは、折からの 上げ潮と追い風に乗ってテームズ川に入りました。イギリス本土がこうした規模の侵攻を受けるのは、「ノルマン・ コンクエスト」以来の大事件です。しかし夕方には風が落ちてしまい、潮目も変わる時刻となったので、オランダ 艦隊は一旦、ホープから8マイル離れたホールヘイブンに投錨しました。この足踏みの間、オランダ海兵隊はキ ャンベイ島に上陸して、民兵を追い払うと、倉庫や家を焼き払い、食料にするため羊をかっぱらいました(こうした 行為は、革命が起こることを期待していたデ・ウィット兄弟の意図に反するものでした)。 さて、オランダ艦隊が投錨したところで、警告を受けた目標の商船隊はグレーブズエンドの上流に向かって脱 出していました。オランダ艦隊にはグレーブズエンド周辺の防備に関する情報がありませんでした。で、ファン・ヘ ント大将は腹を立てたのですが、コルネリス・デ・ウィットは目標をメドウェイ川の造船所と軍艦に変更して (と言う か、ヨハン・デ・ウィットは本来、軍艦の破壊を目的としていたはずでは?)、来た道を引き返し、メドウェイ川に突 入するように命じました。 さて、この時のメドウェイ川はほとんど無防備でした。川を守る要塞は、入り口のシェアネス要塞とチャタム造船 所の近くにあるアプナー城だけで、それも100年前に建設されてからほったらかしで、半分崩壊していました。た だし、メドウェイ川は狭くて曲がりくねっており、大型艦が遡航するのは極めて難しく、チャタムまで遡航するには 優秀なクルーと水先案内人をそろえても8日はかかると計算されており、充分な天然の要害だと信じられていま した。 そうは言っても、3月にメドウェイ川近辺を視察したヨーク公が、さすがに防備の強化を命じてはいました。その 結果、太い鎖を渡してギリングハム近辺で川を塞ぎ、鎖の上流に軍艦二隻が配置されました。シェアネス要塞に もフリゲート1隻と二隻の火船、30隻の手漕ぎボートが配置されることになりました。そして、万一攻撃があった 場合は、適宜、火船やら閉塞船やらが配置されることになっていたのですが、実際にオランダ軍侵攻の警告がな された時、軍艦は配置に就いていたものの水兵が不足しており、民間の船主達が船の提供を拒んだため火船は 数が揃っておらず、ボート隊も人手が不足していました。こうしたことは、深刻な財政難で対価や給与が支払えな かったことが原因でした(たとえば、王立造船所の行員達は1672年までこの年の給料を貰えなかった。ただし、 それでも飢え死にしなかったのは、ネコババした資材を売り払うのを黙認する慣習があったからのようです)。 翌20日の朝、ファン・ヘントの艦隊が引き返し始めました。これはいよいよメドウェイ川を攻撃するつもりだとい うので、直ちにモンクが呼び出され、チャタム防衛の責任者に任じられます(チャタムより上流の防衛責任者には ルパート王子が任命されたが、これは23日になってからだった)。 夕方五時頃、ファン・ヘントの艦隊がシェアネス要塞沖に現れました。ファン・ヘントの戦闘計画は、40門フリゲ ート「Vrede」以下三隻の軍艦と火船がシェアネス要塞に突撃し、その間に海兵隊を上陸させ、地上から要塞を 目指すと言うものでした。 シェアネス要塞の責任者、サー・エドワード・スプレーグは、オランダ艦隊接近の報に、河口に停泊中だった66 門グレートシップ「モンマス Monmouth」(人手不足で戦闘不能)に上流に退避するように命じ、要塞の防備を固 めようとしました。しかし、彼は何隻かの艦艇を指揮下においていたものの、オランダ艦隊と戦えそうなのは32 門フリゲート「ユニティUnity」ただ1隻。もともと数十人しかいなかった要塞の守備隊も、前日にグレイン島に送っ たスコットランド歩兵隊が戻って来なかったので、残っていたのは錬度も士気も低く装備も不十分な民兵が大半 でした。要塞には16門の砲がありましたが、どれも基部が崩落しており、最初の一発を撃つと同時に台座から 転げ落ちて、何の役にも立ちませんでした。 「ユニティ」は、一回だけ片舷斉射を行った後、点火された火船が突っ込んでくるのを見て上流に逃げました。 シェアネス要塞はオランダ艦隊の激しい砲撃を受けます。要塞内部では、負傷者が出てから初めて軍医が居な いということが判明し、それで多くの民兵が持ち場を捨てて逃げ出したので、その場に残ったのは僅かに7人。そ れもドールマン大佐率いる800人のオランダ海兵隊が要塞に進軍してくると、スプレーグと共にヨットで川の上流 に逃げ出しました。 夜9時ごろ、オランダ海兵隊はシェアネス要塞を占領しました。コルネリス・デ・ウィットの報告によると、この時 シェアネスには、材木、マストやマスト用円材、鉄や青銅(←大砲に使うのだが、慣例的に"真鍮"と呼ばれる)、火 薬、木材の防腐用樹脂、タールなど約40万フルデン(金地金4tに等しい価値)にも相当する物資が貯蔵されてい たので、運べるものは全て運び出し、かさばるものは破壊したということです。 とは言え、こうした品々はイギリス海軍で絶望的に不足していたものであるし、ましてや造船施設でもないシェア ネスに大量に貯蔵されていたのはかなりヘンな話で、イギリス側の情報では、貯蔵された物資は「3,000ポンド程 度=36,000フルデン」と言うことです。ま、これでも結構な価格でありますが、たぶん、どこかで1ケタ間違えて報告 されたのでしょう。 さて、お手柄の「Vrede」のファン・ブラーケル艦長には、ここで意外な事件が待ち受けていました。彼の部下の 一部がシッピー島に上陸して掠奪と放火を行ったため、監督責任不行き届きということで拘束され、旗艦 「Agatha」に監禁されてしまったのです(←この事件に関しては、オランダ海兵隊がやって来て市民と交渉し、放 火を行わない代わりに金を取っただけだ、とする説もあり)。 さて、イギリス側の防衛指揮官、モンクが現場に到着したのは20日の深夜でした。イギリスの対応は遅れまし た。シェアネスへの増援の手配がついた時はもう、要塞は陥落していました。 会議の後でモンクは、浮き桟橋をつっかえ棒にして、自重で沈んでいたギリングハムの鎖を水面近くまで持ち 上げることと、3隻の船(そのうち1隻「Sancta Maria」は、元は北海で拿捕されたオランダの70門グレートシップ 「Slot van Honingen」)を閉塞船として鎖の上流に沈めるという決定を下しました。モンクは21日の朝までに閉塞 船を配置につかせよと命じましたが、この決定が下されたのは夜の11時で、引き潮が始まるまでは二時間しか なく、しかも人員の手配は済んでいませんでした。しかし、奇跡的にチャタム周辺から150人が集まり、三隻に分 乗させられて川を下りました。ところが、途中で「Sancta Maria」は座礁。その場に放棄されます。他の2隻は無 事に閉塞位置に自沈しますが、結局は役に立ちませんでした。 一方、ギリングハムの鎖の上流には、82門艦「ロイヤル・ジェームズRoyal James」と86門艦「ロイヤル・チャ ールズRoyal Charles」の二隻のグレートシップが停泊中でしたが、モンクの命令で上流に退避出来たのは「ロイ ヤル・ジェームズ」だけで、「ロイヤル・チャールズ」は曳き船の都合がつかなかったので、逃げられもせず、かと いって守備位置につく事も出来ず、放置されました。 21日の昼頃、「ユニティ」が鎖のところにたどり着きましたが、既に鎖を引っ張り上げる作業が行われた後だっ たので(それでも鎖は水面下9フィート位のところにあったらしい)、鎖の下流にとどまることになりました。上流に は50門艦「チャールズ五世 Charles V(元はオランダ東インド会社船「Carolus Quintus」)と「マシアス Matthias」の2隻が防備についており、さらにシェアネスから逃げてきた「モンマス」が、「チャールズ五世」と「マシ アス」の死角を埋める位置についていました。 チャタム遠征の図 チャタム遠征 その2 6月21日、シェアネスを陥落させたオランダ艦隊は、フリゲート3隻、武装ヨット4隻、火船2隻からなる先導部 隊を上流に向かわせます。しかし、この部隊は川の屈曲部で閉塞船にひっかかり、一日足止めをくってしまいま した。 翌22日、オランダ艦隊は上流に向かって進撃を始めました。これに先立ってオランダ軍は、兵力不足からシェ アネス要塞を放棄しました。要塞の一部を爆破したうえに、運べる物資は全て運び出し、運べないものは破壊し ました。さらに、洪水を期待して川の土手を一部破壊してからの出立でした(←次の年の春、実際に洪水があった らしい)。 先導部隊は、朝6時頃にギリングハムの鎖に到達して、ここで阻止されてしまいました。オランダ艦隊の主力も 10時ごろにギリングハムに到達しましたが、川幅が狭いため、鎖の向こう側の敵艦を沈黙させられるだけの砲 火を浴びせることが出来ず、やはりここで立ち往生となります。また、川の鎖も乗り越えることが出来ないと思わ れたので、デ・ウィットは作戦中止まで考えました。 ところが、ここでオランダ艦隊を救ったのがファン・ブラーケル艦長です。彼は前日の掠奪放火事件の責任を問 われ、「Agatha」の船室に監禁中の身であったのですが、名誉挽回とばかりに、「Vrede」で鎖を突破してみせる と言い出したのです。半分諦めていたコルネリス・デ・ウィットは申し出を受けいれました。 「Vrede」(←戦列の後ろのほうに居た)に戻ったファン・ブラーケルは、火船4隻を引き連れて前進し、敵艦や川 岸の砲台からの砲撃もものともせず、一直線に「ユニティ」に接近するや、至近距離から片舷斉射を喰らわせて 接舷、あっさり「ユニティ」を制圧しました。「ユニティ」の乗組員は緊急に集められた商船乗りが多くを占めてお り、ろくに戦いもせずに逃げ出します。一連の戦闘での「Vrede」の損害は負傷者3名で、うち二名が後で死亡と いう軽いものでした。 「Vrede」が「ユニティ」に取り付いている間、火船は鎖を越えようと試みました。残念ながら一隻は鎖に引っか かり、その場で炎上しましたが、「案ずるよりなんとか」を地で行って、残り3隻はあっさり鎖を乗り越えます。 先頭の火船は「マシアス」に突入、「マシアス」は爆沈しました。「チャールズ五世」を狙った二番目の火船は撃沈 されましたが、三番目の火船が突入に成功、「チャールズ五世」も炎上しました。形勢悪しと見た「モンマス」は、 幸いにも曳航用のボートをはべらせていたので、戦闘を打ち切って上流に向かって逃げ出しました。 「ユニティ」を制圧したファン・ブラーケルは、燃え方が不十分な「チャールズ五世」にとどめを刺すため、ボート に乗って「チャールズ五世」に向かい、自ら先頭に立って切り込みました。「チャールズ五世」の乗組員の多くは 戦わずに逃げ出し、艦長は捕虜になりました(この艦長、ファン・ブラーケルが「チャールズ五世」の軍艦旗を引き 摺り下ろしたのを見て屈辱に感じ、逃げようと川に飛び込んだが、すぐにまた捕まったらしい)。 オランダ艦隊の主力も攻撃に移ります。川岸の砲台は破壊され、鎖も沈められました。ギリングハムには、グ レートシップ「ロイヤル・チャールズ」が停泊していましたが、この時は砲を32門しか搭載しておらず、下流からや ってくる敵を砲撃する体勢にもなっていなかったため、ほとんど抵抗無しにトバイアス艦長(←先導部隊を指揮し ていた人)に拿捕されました。「ロイヤル・チャールズ」では、陸軍兵士と座礁した「Sancta Maria」から連れてこら れた乗員が守備に就いていましたが、人数も少なく装備も貧弱であり、事前のサー・エドワード・スプレーグの死 刑の脅しも無視して逃げ出していました。 「ロイヤル・チャールズ」の少し上流には、「Sancta Maria」が座礁しており、これまたオランダ軍の手に落ち た、と言うか、奪還されました。しかし、離礁が困難だと判断されたので、コルネリス・デ・ウィットは後で聞いて残 念がったと言うことですが、その場で焼き払われました。 モンクは、朝10時頃、オランダの主力の来襲と同じ頃に、ギリングハムに到着していました。そして彼は、オラ ンダ艦隊が防衛線を突破する一部始終を見物しなければなりませんでした。そして防衛線が突破されるや、さす がの名将、アルベマール公爵ジョージ・モンクもパニックを起こしたか、グレートシップを除く、川筋に係留してあ る全ての艦船はその場で自沈すべし、と血迷った命令を出しました。自沈させるなら川の真ん中にするべきで、 これは非常に愚かな措置です。さすがに、後で航路を疎外する位置で自沈せよと命令が変更されましたが、時既 に遅く、新しい命令に対応できたのは十数隻で、オランダ艦隊の前進を妨げる役には立ちませんでした。 オランダ艦隊は午後までにギリングハム・リーチを制圧しましたが、引き潮のためそれ以上は前進できず、火 船も使い切っていたので、この日はここで投錨となりました。コルネリス・デ・ウィットとファン・ヘントは「Vrede」に 乗り込み、ファン・ブラーケル艦長の労をねぎらった後、「ロイヤル・チャールズ」を臨時の司令部としました。そし て、シッピー島付近に移動していた主力艦隊に伝令を送り、翌日の攻撃計画について協議するので、火船を連 れて川を上って来るようデ・ロイテルに命じました。 拿捕された「ロイヤル・チャールズ」の図。 コモンウェルス海軍の旗艦「ネースビー」として建造された。 オランダ本国まで持ち帰られたが、喫水が深すぎたので、使用されることなく焼却された。 チャタム遠征 その3 22日の午後遅く、アート・ファン・ネス大将、および次席指揮官のファン・アイラ中将を伴ったデ・ロイテルは、「じ いさん万歳!Hoezee! Bestevaer! 」の声に迎えられてギリングハムに到着しました。デ・ロイテルは先ず、拿捕 された「ユニティ」を訪問してファン・ブラーケル艦長の技量と勇気を称え、その後でデ・ウィットとファン・ヘントと会 見し、翌日の攻撃計画について話し合いました。 そこでは、4隻の軍艦と三隻の武装ヨットでアプナー城を砲撃し、その援護射撃の元、5隻の火船で停泊中の 「ロイヤル・オーク Royal Oak(76門)」、「ロイヤル・ジェームス」 、「ローヤル・ロンドン Loyal London (92門)」 を攻撃するものと決定されました。この時艦長たちは、決してアプナー城から上流に上ってはならないと厳命され ました。何か危険に遭遇した場合でも、川幅が狭くて転回する余地が無いからです。会議の後、今後の作戦に付 き合うことにしたデ・ロイテルは火船の遡航を監督させるためにファン・ネスとファン・アイラを帰し、その晩はトバ イアス艦長の「Bescherming」に宿泊しました(←デ・ウィットとファン・ヘントに遠慮したのか?)。 翌23日の朝、火船と合流したオランダ艦隊は行動を開始し、上げ潮と北東の追い風に乗って前進しました。し かし、昼までに風が弱まったため前進速度は鈍り、アプナーに到着したのは午後二時ごろでした。 イギリス軍は、艦船から陸揚げされていた大砲を集めて防備を固めており、オランダの先導艦は猛烈な砲火を 浴びます。それを「Agatha」から見ていたデ・ロイテルは、陣頭指揮のためボートを用意させました。止めるデ・ウ ィットに対し、 「俺は、自分の部下が何を成し遂げるのか見に行く。Ik ge eens kijken hoe ons volk het daar ginder maakt.」 と答え、それを聞いたデ・ウィットも同行することにします。これを見たファン・ヘント大将と次席指揮官のデ・リー フデ中将も、それぞれスループやボートに乗って先頭に立ちました。 先導部隊がアプナー城と砲台を砲撃すると、すかさず火船は、三隻のグレートシップに突入しました。これらの グレートシップは、モンクの命令により、拿捕が困難になるよう艦艇に穴を開けられ、泥の中に突っ込んでいたの ですが、おかげで火船攻撃からは逃げられず、それぞれに1隻ずつの火船が突っ込みました。「ローヤル・ロンド ン」はすぐに炎上、他の2隻はあまり燃えなかったため、更に一隻ずつの火船を受けて炎上しました。なお、この 近くには「モンマス」が停泊していたのですが、またも上流に退避し、ついに逃げ切りました。 夕刻までにイギリス軍の抵抗は潰えましたが、この戦いでオランダ艦隊は死者50名と多数の負傷者(具体的な 数は不明)を出し、初めて本格的な反撃に遭ったコルネリス・デ・ウィットは、ここでいささか臆病になりました。上 流のロチェスター橋のたもとにはもっと多くのグレートシップが停泊していたのですが、持ってきた火船を全部使 ってしまったこと、ロチェスターへ至る水路は自沈した敵艦でふさがれていたという報告(←本当のところ、そうで もなかったらしい)、川がより狭く、浅くなって航行が困難なこと、これ以上とどまると閉塞船で川に閉じ込められる 危険もあることなどを考慮して、デ・ウィットは作戦の終了を決定し、その晩はギリングハム・リーチまで下がって 投錨しました。 さて、23日の夜遅く、エンゲル・デ・ロイテルがギリングハムまでやってきました。どういう任務を帯びていたの かは分かりませんが、炎上している三隻のグレートシップを見物するためわざわざアプナーまで行き、その後、 「ロイヤル・チャールズ」に乗り込んで、初めて見る三層甲板艦に感激しました(と本人が日記に書いている)。 翌24日朝、デ・ロイテルは、「Harderwijck」上で、ファン・ヘルダー艦長と共にエンゲルに会い、その後、これら 息子二人を連れて海兵隊とともにギリングハムに上陸して、既に粉砕されていた鎖の両側の砲台を解体する作 業にあたりました。 午後になると、「ロイヤル・チャールズ」と「ユニティ」を引き連れたオランダ艦隊は、引き潮と共に撤退を開始し ました。しかし、さすがにこの頃になると川岸のあちこちに騎兵やら歩兵やらが集まっていて、散発的な銃砲撃が 浴びせられました。そうした攻撃に気を取られている間に、なんとデ・ロイテル、およびデ・ウィットも座乗する 「Harderwijck」が座礁してしまいます。艦はかなり深く泥に沈んでしまい、次の満潮まで離礁出来そうに無かった ので、デ・ロイテル、デ・ウィット、それにエンゲルは「Harderwijck」を降りてスループに移り、川を下りました。そ の後も更に何隻か座礁しましたが、無事に離礁に成功し、水路に沈められていた閉塞船も事前に破壊しておい たので(ただし、作業が完了したのはギリギリのタイミングだったようです)、結局オランダ艦隊は1隻も失うことな く、無事にメドウェイ川からの脱出に成功、祝砲を撃って勝利を祝いました。 と、これが「チャタム遠征」の結末です。そう、「チャタム遠征」とは呼ばれているものの、肝心のチャタム造船所 には手をつけなかったのです(英語では「メドウェイ襲撃 Raids on Medway」とも呼ばれる)。軍艦が射点につく 事は無理だったとしても、海兵隊を送って放火させることは不可能ではなかったはずで、残念な結末でした。チャ タム造船所の倉庫には多くの資材がほとんど無防備で放置されており、これを破壊すれば、財政難でガタが来て いたイギリス海軍に致命傷を与えたかもしれません。しかしこれは、グレーブズエンドまでの往復で無駄に一日 使い、イギリス側に防備を固める時間を与えてしまったコルネリス・デ・ウィットの責任であり、デ・ロイテルやファ ン・ヘントの責任ではないでしょう。 敵側が攻撃を漠然と予測しつつも効果的な防備をしていなかったこと、大胆な発想に基づき効果的な攻撃が行 われた反面、地上の施設を破壊しなかったことなどから、「チャタム遠征」は、「真珠湾空襲」と似ています。な お、「ローヤル・ロンドン」が焼け残った水線下の部分を利用して再建されたことなども、どことなく真珠湾と似た 結末です。ただし、真珠湾との最大の違いは政治的効果であり、「チャタム遠征」の結果、本格的なオランダ軍の 侵攻の恐れからロンドン周辺は大パニックとなり、イギリスの戦意は完全に打ち砕かれたのです。 メドウェイ川から出た後も、オランダ艦隊はテームズ河口を封鎖し続けました。成功に味を占めた連邦議会は、 もう一度テームズ河口に突入せよと言ってきたのですが、さすがにデ・ロイテルは拒否しました。 7月初め、デ・ロイテルはファン・ネス大将に後を任せると、バルバドスとトルコから戻ってくるイギリスのコンボ イを襲うため、中央隊を率いて英仏海峡を南下しました。肝心の船団を発見する事は出来ませんでしたが、デ・ ロイテルはプリマス港を封鎖したので、ここでもパニックが広がりました。 テームズ河口近辺では、7月2日にオランダの小戦隊がハリッジ港攻撃に向かいましたが、失敗しました。7月 24日には、ファン・ネスがテームズ川を遡航し、グレーブズエンドに停泊していたスプレーグの戦隊を攻撃しま す。一時は上流に追い払いましたが、次の日には反撃に遭って外海へ引き返しました。27日にはハリッジから 出てきた敵の小艦隊と遭遇しますが、戦闘にはなりませんでした。 そして1667年7月31日、ブレダ条約が締結されました。イギリスは戦争の初期に占領していたニューヨークを 獲得し、オランダは同様に占領したスリナムを獲得しました。また航海条例が緩和されて、オランダの海運業者 は、ドイツやスペイン領ネーデルラントからイギリスに荷物を運ぶ権利を獲得し、一部の植民地とイギリス本国と の航路の間でも譲歩されました。英仏海峡のイギリスの領有権主張や敬礼に関する譲歩はありませんでした が、これはほんの形式的なことでした。オランダは戦争に勝ったのです。
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