デ・ロイテルその8
大勝利、四日間の海戦
 
 フランスの参戦を受けて、イギリス海軍は、モンクの提案により艦隊を分割しました。ルパート王子率いる20隻
は海峡を南下し、実は来るはずのないフランス艦隊を迎撃することになって、モンクの方は、主力を率いてオラン
ダ艦隊の来襲に備え、テームズ河口を防衛することになりました。
 しかし、モンクは敵を前にして逃げるような人物でもなく、第一次英蘭戦争の経験からオランダ艦隊を過小評価
していました。また、海軍や宮廷内の派閥争いの中、ここらで一発大手柄を立てておこうという気持ちもあって、
オランダ艦隊出動の知らせを受けて、自身も英仏海峡に進出しました。このためイギリス政府も、先ずはオラン
ダ艦隊を叩こうという意見が支配的になり、既に出動していたルパート王子の艦隊を呼び戻しました。

 オランダ艦隊の兵力は、旗艦「ゼーベン・プロビンセン」以下85隻。中央隊は総指揮官でもあるデ・ロイテルが
指揮し、前衛の指揮官はコルネリス・トロンプ、後衛はヤン・エベルトセンの弟、コルネリス・エベルトセン大将
(1610 -1666)です。
 両艦隊が遭遇した6月10日夜、折からの強風と高波に、オランダ艦隊はフランドルの沿岸に近い浅瀬に投錨
中でした。この時、モンクの兵力は旗艦「ロイヤル・チャールズ(80-86門。元は「ネースビー」という名前だった。
同名の艦が何隻もあるので注意)」以下56隻(54隻?60隻?)しかなく、悪天候で隊列も整っていなかったの
で、士官達はこぞって戦闘を回避すべきと進言したのですが、モンクはこうした意見を臆病だとあざ笑い、6月1
1日の早朝より攻撃を強行しました。
 一方のデ・ロイテルは、悪天候下での攻撃を予期しておらず、完全に不意を討たれたため、抜錨する間も惜し
んで錨綱を切断し、艦隊を緊急発進させなければなりませんでした。
 で、結果から先に言うと、悪天候下で攻撃したモンクの判断は、間違っていました。通常の状況では、いかにイ
ギリス艦隊が数で劣るとは言え、砲の数と火力をもって対等な戦いが出来るはずでした。しかし、ここで英蘭の造
船技術の差、さらにはモンクとデ・ロイテルのシーマンシップの差がモノを言いました。

 グレート・シップは二層、大型なのは三層の砲列甲板を持ち、重心位置の関係と、弱点である喫水線部分を威
力のある火器で狙いやすいということから、重砲は下層の甲板に置かれていました。しかしながら、イギリスの軍
艦の特徴として、喫水線から下層砲甲板までの距離が高くて4フィート、1.2mほどしかなく、装備の状態によって
は90cmほどしかないこともざらでした。当時、これもバランスの関係で背の高い船を作ることが出来ないため、
大きさにかかわらず船の背の高さはそれほど大差はありませんでした。従って、波が高い時に下層の砲門を開く
と浸水してしまうので、最強の火器が使えないという状況となるのです(ただし、露天甲板にしか砲を備えていない
中−小型艦はこうした困難に遭遇することはありません。と言うより、露天甲板まで波が被るような天候では先に
船が沈没してしまいます)。
 そして、この日モンクが遭遇した状況と言うのは、まさにこれでした。一方のオランダ艦は喫水を浅くしなければ
ならない分、本来ならバランスの関係で水面上の部分も背が低くなるのですが、幅が広く作られている分だけ安
定性があり、砲列甲板の位置は他国の軍艦よりも高く作られてあったので、この日の天候でも下層の砲を使用
することが可能でした。
 さらに、スピードと操舵性で勝る分、船体が細目に設計されているイギリス艦は動揺が激しく、しかも風上側に
立っていたので、風下側、つまりオランダ艦隊の居る側に対する傾斜が大きく、どうしても砲弾が近めに落ちまし
た。オランダの軍艦はと言うと、喫水を浅くしなければならない分、幅も広く作ってあるので(このため、速度と操
舵性ではやや劣る)、荒天下でも安定性がありました。
 そういう訳でデ・ロイテルは、風上側をとるという帆船時代の戦術の常識に反し、絶対に風上側に向かおうとは
しませんでした。オランダ艦隊の戦列はイギリス艦隊に対して少し斜めになっていたため、戦闘開始当初、トロン
プの率いる前衛のみが交戦しており、中央(デ・ロイテル)と後衛(エベルトセン)は戦闘に関与出来ませんでした。
しかし、両艦隊はフランドルの海岸に向かって平行して進んでいたため、海岸が見えて、座礁を避けるために両
艦隊が旋回した時、デ・ロイテルとエベルトセンの戦隊はイギリス艦隊に突撃しました。トロンプもここでイギリス
の前衛の戦列を分断し、何隻かの敵艦を拿捕しました。しかしこの戦闘中、コルネリス・エベルトセンが砲弾の直
撃を受け、体を真っ二つにされて戦死しました。

 日没とともに戦闘はいったん終結し、夜の間にオランダ艦隊は損傷艦の応急修理を行いますが、翌朝、まだ敗
北を認めないモンクは、またも攻撃をかけてきました。
「イギリス艦隊は賞賛すべき立派な隊形で戻って来て、陸軍兵士のような横一列で進んできて、接近してくると、
片舷斉射を浴びせかけるためにいっせいにターンした。」
とは、オランダ艦隊の一兵士の証言です。戦闘教則通りのラインタクティクスです。
 この日はさすがに前日よりも風は弱まっていたのですが、やはりオランダ艦隊は優勢であり、デ・ロイテルは風
下側に立ったまま、モンクを打ちのめしました。
 しかし11時頃、突然、風が落ちてしまいます。すると、何を思ったかトロンプは、「自分勝手、無規律、軽率」と
いう性格を遺憾なく発揮して、デ・ロイテルの命令を無視して、勝手に敵に向かって突撃しました。このため彼の
戦隊は包囲されてしまい、デ・ロイテルがうまく救援したために助かりはしましたが、大きな損害を受けてしまいま
した。
 一方のモンクは、戦闘可能な軍艦が30隻ほどに減ったこの時になって、ようやくオランダ艦隊には勝てないと
悟り、退却を開始しました。デ・ロイテルは当然、これを追撃しますが、風が弱かったうえに、もともとイギリスの
軍艦は速度でオランダ艦に勝っていることもあって、日没と共に逃げられてしまいました。
 しかし、オランダ艦隊が敵を取り逃がした理由は、トロンプを救援した時、旗艦「ゼーベン・プロビンセン」が索
具にひどい損傷を受けて、速度が上がらなかったからだとも言われています。実際、いかに設計上は速度で勝っ
ているとは言え、モンクは多くの損傷艦を抱えていて足は遅かったはずであり、トロンプと言う男は、なかなか迷
惑な男でありました。

 6月13日、イギリス艦隊を追うデ・ロイテルは、テームズ河口に近づきました。ここでデ・ロイテルは、イギリス白
色艦隊の指揮官、海軍中将サー・ジョージ・アイスキューの旗艦「ロイヤル・プリンス(92門)」が座礁しているのを
発見しました。デ・ロイテルは火船攻撃の準備を始め、それを見たアイスキュー中将は降伏し、捕虜となりまし
た。
 「ロイヤル・プリンス」はオランダ艦隊にとって大きな獲物でしたが、そろそろルパート王子の艦隊が到着するだ
ろうと考えていたデ・ロイテルは、手間のかかる離礁作業を行うつもりはなく、また、何にせよ「ロイヤル・プリン
ス」は喫水が深くてオランダ沿岸では使えないため、火を放って焼き払いました。

 さて、デ・ロイテルが予期した通り、午後4時頃、ルパート王子の艦隊が現れました。本来ならもう少し早く到着
できたはずなのですが、無謀にも浅瀬を突っ切ろうとして二隻が座礁し、離礁した後で大回りしたからです。この
時、戦闘可能なオランダ艦は70隻、イギリス艦は65隻と数の上でも同等になり、しかも、11−12日の戦闘で
弾薬を消耗し、損傷もしているオランダ艦隊に対し、イギリス艦隊にはルパート王子の無傷の20隻がありまし
た。
 そして翌14日の早朝、.モンクはルパート王子とともに、またもオランダ艦隊を攻撃しました。モンクはこの攻撃
に関し、「我々は敵の戦列を三つか四つに分断することに成功した」と証言していますが、実際の所は、風上側
に立つため、デ・ロイテルが戦列に分散を命じ、戦隊毎に三つに分かれてイギリス艦隊に突撃したのが真相のよ
うです。
 オランダ艦隊は見事にイギリス艦隊の戦列を分断して突破し、モンクの旗艦「ロイヤル・チャールズ」も「ゼーベ
ン・プロビンセン」の砲火を受けて大破しました。この後、モンクがまた戦列を組もうとしたため、午後4時頃、デ・
ロイテルはまた艦隊に分散を命じ、各艦手近な敵艦に接近し、出来るだけたくさんの敵艦に切り込めと命じまし
た。これで実際に切り込まれた敵艦はありませんでしたが、この作戦は大成功し、モンクの戦列はまた散り散り
になったあげく、軍艦はそれぞれ各個撃破の憂き目に遭いました。敗北を認めたモンクは、後退を開始します。
オランダ艦隊はこの時点で消耗しつくしていたのですが、このチャンスを逃す手はなく、デ・ロイテルはなおも追撃
しました。
 しかし、突然の濃霧がイギリス艦隊を救いました。ルパート王子の旗艦「ロイヤル・ジェームズ(82門。これも同
名の軍艦があるので注意)」はマストを全部吹き飛ばされていましたが、おかげで辛くも脱出に成功します。霧が
晴れた後、敵艦隊を見失ったデ・ロイテルは、追跡を諦めて帰途につき、故郷フリシンゲンに向かいました(イギ
リス側の記録では、オランダ側が先に後退したと言う・・・)。

 この「四日間の海戦(Vierdaagse Zeeslag)」は、帆船時代を通じて最大/最長の海上戦闘となりました。イギリ
ス艦隊の損害は大きく、4隻を失い(17隻沈没の資料もあり)、6隻を拿捕され、30隻以上が大破しました。死傷
者は5000人を超え、将官二人が戦死。サー・ジョージ・アイスキュー以下、3000人が捕虜になりました。オラン
ダ艦隊の損害はと言うと、70門グレートシップ「リーフデLiefde」以下4隻を撃沈され、コルネリス・エベルトセン
の戦死を含む2000人の死傷者を出しましたが、間違いなくオランダ艦隊の大勝利です。また、実に「ダンジュネ
スの戦い」以来のイギリス海軍に対する勝利でもありました。二日目にトロンプが突出しなければ、損失艦ゼロの
勝利が可能だったかも知れません。

 この大勝利で、デ・ロイテルの名はさらに高まりました。イギリス海軍の士官ですら、デ・ロイテルの名に敬意を
表するようになります。そしてオランダにおいては言わずもがなであり、艦隊がフリシンゲンに入港した日、先に
勝利のニュースが伝わっていたこともあって、岸壁には大群衆が集まっていました。そして、旗艦「ゼーベン・プロ
ビンセン」の舷門にデ・ロイテルが姿を現すと群集は熱狂し、
「万歳!ミシェルじいさん!万歳!(Hoezee! Bestevaer Michiel! Hoezee!)」
と連呼しました。ここに彼はマールテン・トロンプの"Bestevaer"という称号を受け継ぐこととなり、デ・ロイテルは
名実共に、オランダ海軍随一の名将として認められたのでした。

 なお、この「四日間の海戦」に関しては、イギリス側とオランダ側で証言に食い違うところがあり、モンクは、敗
北を糊塗するためかなり大げさな報告をしたようです。また勘違いと言うべきか、四日目の戦闘では、オランダ艦
隊がどうやら意図的に戦列を分散させたらしいのに対し、分断に成功したと言っているのです。「戦列の分断に
成功したのなら、なんで勝てなかったんだ?」とツッコミたいところですが、そのツッコミが怖く、また士気を粗相さ
せないためにも、モンクは楽天的で大げさな報告をしなければならなかったのでしょう。この項は、一応、英蘭両
方の記述を参考にしてあります。



セントジェームズデーの戦い

 「四日間の海戦」の大勝利の後、ヨハン・デ・ウィットは念願だったテームズ河口攻撃のチャンスが訪れたと考
え、デ・ロイテルに秘密の指示を与えました。曰く、テームズ川を遡行し、この地域に集中しているイギリス海軍の
主要な造船所を襲撃してドック入りしている艦船を破壊せよ、さらに、ハリッジ港に対する同様の作戦を行うべ
し、と。
 この上陸作戦のため、2700名の陸軍兵士がデ・ロイテルの指揮下に置かれます。テームズ河口は浅瀬が多
くて航行可能な水路が入り組んでいるため(イギリスの軍艦でさえも座礁するくらいに)、デ・ロイテルは、正確な水
路情報が無く、水先案内人もおらず、戦争が始まって水路標識が撤去されている状況では攻撃は難しいと反対
しましたが、実際の攻撃の実施に関してはデ・ロイテルの自由裁量に任されたため、とりあえずは命令に従うこと
にしました(他に、リスボンで頑張っていて、結局は来る事がなかったフランス艦隊と合流せよとの命令も受けて
いた)。

 そして、大勝利の三週間後の7月5日、デ・ロイテルは59隻を率いてフリシンゲンから出港し、スホーネベルト
沖で他の艦隊と合流した結果、軍艦85隻(88隻?)、火船30隻、陸軍兵士を乗せた10隻の輸送船からなる艦
隊がイギリス南部を目指しました。指揮官で中央隊の司令官は勿論デ・ロイテル、前衛の指揮官はゼーラント州
司令部のヤン・エベルトセンで、後衛はマース司令部のコルネリス・トロンプが指揮を執りました。

 しかし、この航海は最初からツイていませんでした。艦隊はまず強い逆風に遭遇し、次にベタ凪、その後にまた
逆風、そのまた後に大時化に遭遇し、北海を横断してテームズ河口の入り口、キングス・チャネルに到着したの
は7月13日になってからでした。

 この航海の遅延は決定的であり、イギリス艦隊は確かにハリッジ港とメドウェー川の奥に停泊中でしたが、既に
警報が発せられていて(←最初からデ・ウィットの計画が漏れていたとの説もあり)、偵察の結果、泊地に至る浅
瀬の間の水路には閉塞船やら火船やらが配置されていて、既に防備が固められていることが判明します。結局
デ・ロイテルは、上陸作戦の中止して輸送船団を反転させると、艦隊決戦を期してテームズ河口を封鎖し、イギリ
ス艦隊の出撃を待ち受けることにしました。

 一方のイギリス艦隊は、8月1日に各地の基地から出港しました。
 イギリス海軍は相変わらず深刻な財政難であり、造船所の仕事振りも悪いことで定評がありましたが(←木材
の半分以上が工員の手によって家具その他木工品に化け、売り飛ばされるのが伝統だった)、四日間海戦の大
損害にも関わらず迅速に出動出来たのは、いいタイミングで20隻ばかりの新造艦が就役したためです。イギリ
ス艦隊の戦力は89隻と十数隻の火船からなり、総指揮官の任にはモンクとルパート王子が共同であたり、白色
(前衛)戦隊の指揮官はサー・トマス・アリン大将(←サンドウィッチ伯爵を艦隊から追い出した人らしい)、青色(後
衛)戦隊の指揮官はサー・ジェレミー・スミス大将です。総指揮官が二人とは極めて異例であり、同じ旗艦に乗り
組むことになるので危険でもありましたが、こうした処置は、「四日間の海戦」の結果、モンクとルパート王子の能
力に疑問が持たれたためだと思われます。モンクは、忠告を無視して突撃した自分のことを棚に上げて多くの士
官の罷免を要求して顰蹙を買い、ルパート王子は6月13日の戦いぶりを批難されていました(←戦争が終わった
後、譴責処分を受けた)。

 8月3日から4日にかけての深夜、オーフォードネス沖36マイルの地点で、イギリス艦隊は南東方向にオラン
ダ艦隊を視認しましたが、折からの荒天で投錨を余儀なくされ、行動を開始したのは4日の日の出からでした
が、この間に天候は劇的に回復し、風も弱まって前日とは一転、北北東からの微風となっていました。
二 つの艦隊は、強風に対処するため、風上である北に船首を向けて錨泊していましたが、何となく90度旋回し
て東に向かって並行して走りだします。しかし、イギリス艦隊が上手く一列縦隊を形成したのに対し、錨泊中、イ
ギリス艦隊の火船攻撃に対処するために半月陣形をとっていたオランダ艦隊は、うまく一列縦隊を形成すること
が出来ずに隊形が乱れ、エベルトセンの前衛戦隊が斜め前方に突き出す形で突出し、トロンプの戦隊はかなり
南に離れてしまいました。
 9時30分頃、エベルトセンの前衛戦隊がイギリスの前衛に対して砲火を開きます。と言うか、隊形が悪かった
ため、イギリス艦隊を射程に捉えていたのはエベルトセンの戦隊だけだったのです。10時頃、イギリス艦隊も砲
撃を開始しました。この時、デ・ロイテルの中央隊は遅れており、しかも風向きが変わってモロに向かい風となっ
たため、戦場への接近が阻まれました。その間、エベルトセンの前衛戦隊は、イギリス艦隊と白色戦隊(前衛)と
赤色戦隊(中央)から集中攻撃を受けて大損害を被ります。
 11時頃、ようやくデ・ロイテルの中央隊が戦場に到着しましたが、イギリス艦隊は既にエベルトセンの戦隊をあ
らかた片付けていました。デ・ロイテルの旗艦「ゼーベン・プロビンセン」は、モンク/ルパート王子の旗艦「ロイヤ
ル・チャールズ」と一騎打ちとなり、「マスケットの射程の半分」の至近距離で熾烈な砲撃戦となりました(この時、
モンクは噛みタバコをくちゃくちゃやって、余裕綽々だったそうです)。
 13時頃、ヤン・エベルトセンの旗艦が大破し、四隻の味方と団子状の衝突事故を起こしてトプスルヤードをへ
し折ります。ここでヤン・エベルトセンは戦死、次席指揮官のド・フリース大将も瀕死の重傷を負って後に死亡、さ
らに中将一人と少将一人もほぼ同時に戦死して、生き残った前衛の将官はアドリアン・バンケルト中将(Adriaen
Banckert 1620-1684)ただ一人。指揮を執る者がほとんど居なくなった前衛戦隊は、ばらばらになって逃走を開
始しました。

 さて、この時トロンプは何をしていたのかと言うと、14時頃、デ・ロイテルの後ろを取ろうと大回りしていたスミス
大将指揮する敵の青色艦隊(後衛)の前方に立ち塞がり、戦闘を開始していました。スミスの戦力は弱体であった
ため、すぐに西へ向かって逃走しますが、ここでトロンプは、デ・ロイテルが「隊列を維持”Vereenigd blijven”」の
信号旗を掲げているのを無視して追撃し、本隊から遠くへ行ってしまいました。

 同じ頃、「ゼーベン・プロビンセン」は首尾よく「ロイヤル・チャールズ」のマストをへし折り、戦列から脱落させま
した。ここで一隻のオランダの火船が、砲煙に隠れて「ロイヤル・チャールズ」に突入を図りましたが、惜しくも、イ
ギリスの火船(←「ゼーベン・プロビンセン」を狙っていたらしい)に阻止されてしまいました。
 この後モンクとルパート王子は、今度は、応急修理を終えた「ロイヤル・チャールズ」と「ロイヤル・ソブリン(前
出のグレート・シップ 92門)」の二隻で、「ゼーベン・プロビンセン」に攻撃をかけ、15時頃、「ゼーベン・プロビン
セン」のメインマストの上部を破砕させました。
 しかし、「ゼーベン・プロビンセン」も奮戦し、敵のグレートシップ二隻に大きな損害を与えたので、戦闘は一時
下火となりました。真偽は不明ながら、「ゼーベン・プロビンセン」がマストを失ったのを見たルパート王子はこの
時、「トライアンフ(←ブレークの旗艦だった軍艦。この時は頑張って60門の砲を搭載していた)」の艦長を呼びつ
け、「ゼーベン・プロビンセン」に切り込みを命じるも、突風のために失敗したとのことであります。

 さて、この小休止の間に、オランダ艦隊の各艦は、独自の判断でベルギーの沿岸に向けて逃走を始めました。
デ・ロイテルは、友人で次席指揮官であったアート・ファン・ネス大将(Aert Jansse van Nes 1626-1693)を「ゼー
ベン・プロビンセン」に呼び、この後の方針を協議しました。この時デ・ロイテルは冷静さを失っており、ファン・ネ
スに対してこう怒鳴ったと言われています。
「なんてことが起こったんだ!俺はただ死にたい!”Wat komt ons over? Ik wilde dat ik maar dood was!”」
 ファン・ネスは、デ・ロイテルを諭しました。
「私もそう思いますよ、おやっさん。しかし、人間したいと思った時に何かできるわけじゃありません。”Ik ook,
Bestevaer!, Maar men sterft niet als men wil!”」
 ジョン・ポール・ジョーンズの名セリフの真相や、ネルソン提督の有名な「イングランド・イクスペクト・・・」の信号
が実は大ヒンシュクを買っていたことなどが示すように、戦場でのセリフや名言がらみのエピソードは概して誇張
や脚色が多く、本当にこのような問答があったかは不明です。しかし、これは有名な話のようで、少なくとも私の
調べた三つのデ・ロイテル関連の資料にはどれも、「四日間海戦」の大勝利の経過より、この時のパニくったデ・
ロイテルの問答の方が詳しく書かれていました。また、オランダ語の翻訳に自信がないので原文も掲載します
が、これは基本的に1996年の「Villsinger Michiel」という本に拠っており、愚痴の意味は同じでも、細かい字句
が資料によって違っていたりします(ことに、デ・ロイテルは本当はゼーラント訛りで喋っていたようです)。

 さて、英雄としては情けない問答の後、デ・ロイテルとファン・ネスは手短に情勢を検討しました。この時、「ゼー
ベン・プロビンセン」は大破して多くの死傷者を出していましたが、視界内にはまだ40隻ほどの味方艦があって
ので(逃走しているものも含む)、これらの艦を再編成してトロンプの後衛と合流できれば、まだ逆転のチャンスが
あるとデ・ロイテルは考え、日没後は応急修理を行いつつ戦場に留まるという決定を下します。なお、これまた多
分に伝説的ではありますが、話し合いを終えたデ・ロイテルとファン・ネスが船室から出た直後、船室に敵弾が飛
び込んできて、二人が座っていたテーブルをぶっ壊したとのことであります。
 翌5日朝、戦闘が再開しました。しかし、トロンプの戦隊はとうに視界外に消え去っており、来てくれそうな様子
は皆無でした。それどころか、「ゼーベン・プロビンセン」はイギリス艦隊に包囲されつつあり、阻止したものの火
船攻撃まで受けます。結局デ・ロイテルは敗北を認め、周囲に居た7隻の艦の護衛を受け、南東に向かって退却
を開始しました。

 この時もまたデ・ロイテルはヤケを起こし、こう叫んだといわれています。
「うきー、神よ!なんで俺はこんなに不運なんだ!今、何千発も砲弾が飛び交っているのに(←大袈裟)、俺は死
なないなんて!”o God! Hoe ben ik zoo ongelukkig! Is er nu onder zoovele duizende kogels niet een, die
mij wagneemt?”」
 これを聞いたデ・ロイテルの娘婿、ヨハン・デ・ウィッテ(「ゼーベン・プロビンセン」の先任士官?)は言いました。
「お父さん、そんなこと言うなんてとても興奮してますね?そんなに死にたいなら、敵の中に突っ込んで、戦って死
にましょう!”Vader, hoe spreekt gij zoo vertwijfeld? Wilt gij sterven, laat ons dan in het midden van
den vijand loopen en ons dood vechten!”」
 するとデ・ロイテルは冷静さを取り戻し、デ・ウィッテを叱り付けました(←なんか理不尽・・・)。
「お前、自分が何を言ってるか分かってないだろ!もし俺がそうすれば全てを無駄にする。しかし、もし俺自身と
これらの船とを無事に持って帰ることが出来れば、もう一度仕事が出来るじゃないか!”Gij weet niet wat gij
zegt! Als ok dat deed, was alles verloren, maar als ik mijzelven en deze schepen kan behouden en
afbrengen, dan kan men het werk daarna hervatten!”」

 この後、幸運にも風が西風、つまり追い風となりました。冷静さを取り戻したデ・ロイテルの指揮も適切で、アド
リアン・バンケルト中将に18隻の船で殿軍を指揮するように命じます。
 バンケルトは、追撃してきたサー・トマス・アリンとの戦闘で、「Sneek(65門 フリースラントの新造艦)」を拿捕さ
れて焼かれ、次に、自身の旗艦「Tholen(60門 ゼーラントの新造艦)」にも切り込み攻撃を受けて焼かれてしま
いましたが、しんがりとしての役目は果たして時間を稼ぎ、バンケルトと「Tholen」の乗員の多くも脱出に成功しま
した。デ・ロイテルの旗艦「ゼーベン・プロビンセン」も、砲撃でサー・トマス・アリンを負傷させています。
 ただ、オランダ側の資料では無視されているため真偽は不明ですが、「ファンファンFan Fan」というイギリスの
小さなスループが「ゼーベン・プロビンセン」にぴったりひっつき、「ゼーベン・プロビンセン」の砲の俯角よりも背
が低いのを良い事に、二門の小口径砲で延々と撃ちかけてきたので(「ロイヤル・チャールズ」との一騎打ちの最
中にもちょっかいを出していたらしい。ただし、この船からは受けたダメージは無し)、ひどく苛立っていたとのこと
です。
 この後、デ・ロイテルは浅瀬伝いに移動してイギリス艦隊の追撃をかわし、この日の夕刻、無事にフリシンゲン
の泊地にたどり着きました。

 一方、オランダ艦隊の残余の捕捉には失敗したモンクとルパート王子でしたが、8月18日、サー・ロバート・ホ
ームズ(アフリカに遠征した人。当時は少将)率いる小戦隊をゾイデル海に侵入させて、二隻の軍艦と150隻(10
0−170隻?)のオランダ商船を破壊したうえに、「ホームズの焚き火Holmes Bonfire」として知られる上陸作戦
で、西テルスヘリンクの小さな町と倉庫を焼き討ちして多大な経済的損失を与えた後(モンクは民間人の生命に
は危害は加えてはならないと命じていましたが、虐殺事件も発生した)、8月25日にイギリスに戻りました。

 この「セント・ジェームズデーの戦い(イギリスの日付では戦闘開始が7月25日だったから)」、オランダでは「二
日間の海戦 Tweedaagse zeeslag」は、明白にイギリスの勝利でした。「四日間の海戦」の大敗の直後だけにイ
ギリスは喜びに沸きかえり、モンクとルパート王子はロンドン市内をパレードし、オランダ艦隊の損害は20隻撃
沈、死傷者4000人、捕虜3000人と大ぼら吹きまくりで、反対にイギリス艦隊は死傷者300人のみと大勝利を
宣伝しました。
 しかし、イギリス側の戦果発表は明らかに誇大であり、明らかにプロパガンダだと思われます。オランダ艦隊の
艦籍簿によると、失ったのはバンケルトの戦隊の2隻のみで拿捕された艦は無く、従って3000人もの捕虜が出
るはずはありません。航行中の商船や単独行動中の軍艦が拿捕されたのだとしても、3000人の捕虜は多すぎ
です、それとも、普通は損失に勘定しない火船まで「戦果」にカウントしたのでしょうか?(この時、デ・ロイテルら
が火船攻撃を行ったと言う記録は、寡聞にして僕は知りません)。また実際にオランダ艦隊は、フランス艦隊と合
流するため、早くも9月11日にはまたドーバー海峡に進出しているので、艦艇に大きな損害が無かったのは明ら
かです。ただし、人的損失が大きかったのは間違いないようで、2000−4300人の死傷者が記録されており、
大ベテランのヤン・エベルトセンを含む5人の将官の戦死は大打撃でした。

 イギリス艦隊の損害の発表も、これまた過少と思われます。イギリス艦隊は少なくとも1隻、多くて4隻の艦を撃
沈されており、旗艦「ロイヤル・チャールズ」を初めとしてグレートシップが何隻も大きな損傷を受けています。私
見ですが300人というのは死者のみの間違いで、実際の死傷者は1000人ほどにのぼったと思われます。
 とは言え、損害の多寡はどうあれ、この戦いはオランダ艦隊の敗北でした。


セントジェームズデーの戦い

「セントジェームズデーの戦い」、その後
 
 デ・ロイテルらがフリシンゲンにたどり着いた時、トロンプとその戦隊は何をしていたのかと言うと、彼らはまだ
洋上にいました。

 大苦戦したデ・ロイテルとは正反対に、トロンプは最初から絶好調で、4日の昼のスミス大将率いるイギリスの
後衛との戦闘では、一時間ほどの間に火船攻撃で1隻を撃沈、さらに、スミス大将の旗艦「ローヤル・ロンドン
Loyal London」を航行不能に陥れました。「ローヤル・ロンドン」は曳航されて戦列を離脱、スミス大将はイギリス
に向かって退却を始め(←敵前逃亡との告発を受けたが、モンクのとりなしで無罪)、トロンプはデ・ロイテルの命
令を無視してこれを追撃、ついには本隊と逸れてしまい、デ・ロイテルの希望を打ち砕いたのでした。
 その後トロンプは、幸いにもイギリス艦隊の残りに捕捉されることも無く、デ・ロイテルに一日遅れてフリシンゲ
ンに入港したのですが、フリシンゲンでトロンプを待っていたのは、激怒したデ・ロイテルでした。
 
 デ・ロイテルは、トロンプの命令無視が敗戦の原因だとして、彼を職務怠慢と命令無視の罪で連邦議会に告発
しました。
 トロンプは、自分は後衛の義務を果たしていたと抗弁しました。フリシンゲンに入港した時、トロンプは戦闘の状
況を全く把握しておらず、自分が絶好調だったのでデ・ロイテルも大勝利を収めたものと思い込んでおり、意気
揚々と「ゼーベン・プロビンセン」に出頭してきたとも言われているのですが、それはさておき、デ・ロイテルは自
分を置き去りにして逃げたのだと言って、トロンプも負けずに、連邦議会にデ・ロイテルを告発しました。

 しかし、この戦いでのトロンプの命令無視は明白でした。もともと彼は命令無視の常習者であり、大勝利のおか
げで不問となったものの、「四日間の海戦」でもデ・ロイテルの命令を無視して大きな損害を出しています。だか
ら、トロンプの立場は著しく不利でした。更に、トロンプが(当然)オランニェ家支持者であったこと、おまけにオラン
ニェ公ウィレム三世(当時16歳)とも個人的に親しかったことも災いしたと思われます。有罪を宣告されたコルネ
リス・トロンプは、海軍から追放されてしまいました。
 セントジェームズ・デーの敗戦の余波はこれだけに留まらず、損害が集中したゼーラントとフリースラントの司令
部は、声高にデ・ロイテルの解任を要求しました。二ヶ月前にはデ・ロイテルを歓迎する群衆で埋まっていたフリ
シンゲン市街でも、所属する司令部ごとに徒党を組んだ水兵達が互いのボスを批難しあって、大乱闘事件を起こ
しました。

 しかし、デ・ロイテルは引き続き最高司令官に務めることになりました。皮肉なことですが、敗戦によりデ・ロイテ
ルの地位は却って固まりました。大ベテランのヤン・エベルトセンが戦死し、若手有望株と思われていたトロンプ
もクビになったとあっては、他に人材が居なかったのです。
 また8月20日、デ・ロイテルの元に、フランス国王ルイ14世よりサントミカエル勲章(Order van St Michel 単
純にデ・ロイテルの本名がMichielだったかららしい)と、金と宝石で飾られた肖像画が贈られてきました。これは
「四日間の海戦」の勝利を顕彰する贈り物だったのですが、その後の敗報を聞いてもルイ14世は、退却時の指
揮の見事さを褒め、いっそうデ・ロイテルを尊敬したと言われています(←ただし、このことは後でデ・ロイテルに災
難をもたらします)。

 とは言え、1666年のデ・ロイテルは、全般的に不運でした。勲章を貰って間もない8月24日、デ・ロイテルの1
1歳の末の娘、Annaがペストで死亡します。デ・ロイテル本人も病気(「ひどい病気」としか書かれていないが、ペ
ストか?)にかかって長期療養を余儀なくされ、艦隊の指揮を執ることが出来なくなってしまいました。また、回復
した後も、洋上での実弾演習の最中、火のついたおくりが口の中に飛び込むというアクシデントのため、重傷を
負ってしまいます。
 こうなってみると、名将ヤン・エベルトセンの戦死は改めて痛手であり、オランダ艦隊は何度か出撃はしたもの
の、最高司令官に相応しい人材を欠く艦隊は積極的な行動が出来ず、しかも、合流するはずだったフランス艦隊
が、ルイ14世の命令でブレストに閉じこもってしまったので、全ては空しい行動でありました。
 
 当時、フランス海軍は拡張期にあり、しかもその拡張はオランダに依存するところが大でした。海軍拡張策が
開始された時、最初の軍艦はオランダの業者が建造したものであったし、1666年だけでも、オランダから6隻
のグレートシップを購入しています。しかしフランス海軍は、ついぞオランダの恩に報いる事はありませんでした。
単純に艦隊の損失を恐れたこと、海軍の拡張を推し進めていたわりにルイ14世が海軍戦略に疎く、それでい
て、オランダとイギリスの二大海軍国を潰し合わせ、相対的に自国の海軍力を増大させようという意図も持って
いたことなどが原因と思われます。

 イギリス海軍も、フランス艦隊とオランダ艦隊の合流を阻止すべく、ルパート王子がやはり無駄な出撃をしてい
ましたが、そんなことをしているうちに、海軍の活動が甚だしく阻害される事件が起こりました。
 9月1日の深夜、ロンドンブリッジ近くのパン屋から火が出てロンドン市内に燃え広がり、4日4晩燃え続けて、
ロンドンの半分を焼き尽くす大火となりました。行政側の対処が素早く、市民の多くはペストで疎開していたことも
あって、幸いにも死者はわずか6人でしたが、この大火はイギリスの財政難に拍車をかけ、イギリス海軍は港か
ら出ることが出来なくなりました(←オランダ人達は「ホームズの焚き火の天罰だぁっ!」と大喜びだった)。まあ、
国の財政難は極限に達していたので、この大火が無くてもイギリス海軍は遠からず行動不能になったでしょう
が、これでまた戦争に中休みが訪れました。

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