デ・ロイテルその7 アフリカ遠征 その1 さて、話は1663年に遡ります。この年地中海では、アルジェリ太守国の海賊によるオランダ船襲撃事件が頻 発しました。当時、地中海派遣オランダ艦隊を指揮していたのはトロンプでしたが、海賊の制圧には失敗してい ました。もともと数隻の戦力しかなかったことに加えて、こう言っては失礼ですが、海賊の封鎖のような気が長い 任務は、短気なトロンプには不向きだったと思われます。 その結果1664年5月、連邦議会の決定により、デ・ロイテルが指揮する旗艦「Spiegel 」以下12隻の艦隊が、 地中海へ出動しました。この艦隊には、デ・ロイテルの次男で、存命中の最年長の息子であるエンヘル(Engel de Ruyter, 1649-1683) が旗艦の見習い士官(←「士官候補生」と訳すと制度的に違うので)として参加していま した。また、この後デ・ロイテルの次席指揮官として活躍するアート・ファン・ネス(Aert Jansse van Nes 1626- 1693)も艦長として参加しています。 1664年5月24日、デ・ロイテルとその艦隊はカディスに到着して、補給の後、6月1日にカディスを出港しまし た。しかしデ・ロイテルが体調を崩したため、6月4日、マラガに短時間寄港しました。彼はこの後三週間ほど寝 込むことになりましたが、艦隊は航海を続けました。そして、カルタヘナ沖で、ジョン・ローソン(John Lawson 1615-1665)率いるイギリス艦隊と遭遇した後、6月19日、アルジェに到着し、新任の大使を上陸させ、捕虜にな っていたオランダ人を交渉で取り返すと、7月5日、スペインのアリカンテへ寄港しました。ちなみにデ・ロイテル は、「聖者」との交流やこの種の任務を通じて、およそ2500人のオランダ人捕虜を解放したと言われています。 さて、アリカンテでデ・ロイテルは、連邦議会からの新しい命令書を受け取り、イギリス艦隊の動向を監視するこ と、しかし、決してこちらから攻撃を仕掛けてはならないとの指示を受けました。デ・ロイテルはここで、英蘭間の 緊張が限界に近付いていることを知らされました。それからデ・ロイテルは、カディスとアリカンテの間を哨戒しつ つ、ローソンのイギリス艦隊の監視にあたりました。 そんなこんなで9月1日、またマラガに寄港した時、デ・ロイテルは、アムステルダム司令部から陸路で運ばれ てきた、極秘の命令書を受け取りました。極秘と言いつつ、デ・ロイテルがどこに寄港するかわからないので、不 用心にもカディス、マラガ、アリカンテの三か所に配布されたこの命令書こそ、西アフリカへ遠征して、奪われた 交易ポストを奪回せよとの命令でした。この命令にデ・ロイテルは困難を予期したらしく、息子エンへルは、その 時の様子について、「顔を曇らせ、父親と言うよりも祖父のようだった」と語ったらしいです。 アフリカ遠征の命令に関して、デ・ロイテルは秘密保持に注意し、命令の内容は誰にも知らせず、個人の手紙 も検閲するとともに、スペイン人の港湾労働者にも注意を払い、帰国するため準備をしているというニセ情報を 流しました。 とは言え、この時にホームズの艦隊が西アフリカを襲撃したことは知れ渡っていので、まあ、皆だいたいの見当 はついていたでしょう。また、この時既にイギリスがニューアムステルダムを占領していましたが、オランダやイギ リスにはもちろん、地中海にはまだニュースが伝わっていませんでした(結局、知らないままデ・ロイテルはアフリ カへ旅立ちます)。 命令書を受け取った後、艦隊は、あらかじめ物資を手配してあったスペイン南部のカディスへ移動し、そこで帰 国準備のため、と言うことで補給を行いました。ただし、間の悪いことにこの時、カディスにはイギリス艦隊も停泊 中でした。
1664年10月5日の早朝5時頃、オランダ艦隊はカディスを出港しました。港外にはローソンの艦隊が錨泊して いましたが、例え本心では実弾をぶち込んでやりたかったのだとしても、ここでは互いに空砲で礼砲を交わし、第 一次英蘭戦争にの取り決めに従ってオランダ側は旗を降ろした上に、互いに艦長を一人ずつ出して、それぞれ の旗艦に表敬訪問を行いました。国家間の憎しみと人間同士は無縁なのか、単に白々しいのか、何れにせよ紳 士的に振舞うのはなかなか大変です。 カディス港から出ると、デ・ロイテルは艦長達を集めて会議を開きますが、この時はまだ、命令書の内容は明か しませんでした。また、イギリス側の尾行を意識していたのか、針路を真西に取り、日没後になってから、アフリカ を目指してコースを南西に変更しました。そして出港から二日後、デ・ロイテルは再度会議を開き、ここでようや く、西アフリカの根拠地を奪回せよという秘密指令の内容を公表しました。 艦隊はスペイン領カナリア諸島を経由し、10月22日、ゴレー島(現セネガル)に到着しました。そして、島の要 塞(←奴隷貿易センターです)の近くに、8隻(9隻?)のイギリス商船と1隻の武装船(正規の軍艦か、私有の武装 船かは不明)が錨泊しているのが発見されました。 このオランダ艦隊の来襲に、ゴレー島の総督サー・ジョージ・アバンクロンビーは、のらりくらりの時間稼ぎ作戦 に出て、イギリスとオランダは戦争状態にはなっていないから、オランダ艦隊の行為は不当であると訴えました。 ただ、今更言うまでもありませんが、ゴレー島の要塞はもともと、オランダ西インド会社(Geoctroyeerde West- Indische Compagnie, WIC)の所有物であり、ホームズの遠征によってイギリスに奪われたものです。一方デ・ロ イテルは、イギリスとの戦争ではなく、オランダの資産に対する王立アフリカ会社の不法行為への懲罰だと至極 まっとうな反論をして、要塞の明け渡しと、WICの被った損害に対する補償として、停泊中の商船とその貨物の引 き渡しを要求しました。 イギリス側は検討のための10日間の猶予を求めましたが、デ・ロイテルは24時間しか認めませんでした。結 局、サー・ジョージはオランダ側の要求をすべて受け入れ、要塞のイギリス人達はガンビアへ退去しました(総督 はロンドン塔送りになったらしいです)。要塞には30門の大砲があってかなりの重武装でしたが、戦闘は全く発生 せず、オランダ艦隊は、多量の商品(具体的な内容は不明)と、9隻の船(獲物としては凄くデカいです)を労せずし て手に入れました。この時点で、ホームズ卿の大遠征は半ば水泡に帰したと言えます。 ゴレー島要塞はWICの管理下に戻され、艦隊の副司令官ファン・メッペルの主計長が、代理総督としてゴレー 島に残されました。ところでこの人、確かに出世ですが、この島流しに志願したのでしょうか(笑)。
その後、補給と給水、そしてデ・ロイテルと黒人の旧友との劇的な再会(後述)の後、1664年11月6日、艦隊 は北風に乗り、ギニア湾目指して航海をはじめました。天候は不安定であり、また、赤道付近のいわゆる「無風 帯」にさしかかると風が弱まって、航海は進みませんでした。そして、目的であるギニア湾へは水と食料が不足す ることが分かったので、補給のためシエラ・レオネに寄港することにしました(シエラ・レオネは、新鮮な水が得ら れることで有名な港でした)。 しかし、この決断を下した11月23日には、すでにシエラ・レオネよりも少し南に通り過ぎていて、しかも、シエ ラ・レオネへ行くにはモロに向かい風でした。微風の向かい風とは、帆船にとって、暴風、凪に次ぐ最悪さでしょ う。 また、シエラ・レオネは水深の浅い大きな河口湾で砂州が多く、それでいて、艦隊にはこの地域の海図(←当時 は概してトップシークレット級情報です)がなく、またこの近辺に航海経験のある者が誰もいなかったので、ボート 隊を先行させて、水路の測深しながら進まねばなりませんでした。デ・ロイテルが、スペインで海図や水先案内人 を用意出来なかったのは遠征の企図を秘匿するためだったとしても、オランダ本国の司令部では、アフリカ遠征 の発令に際して、海図なり地理に明るい航海者を送るなりと言ったことは誰も考え付かなかったようです。 12月4日、艦隊は現在フリータウンの近くに入港しました。そして、この訪問を記念したのか、近年、デ・ロイテ ルと副司令官メッペルの名前の刻まれた石板が発見されたということです。 さて、当時シエラ・レオネは地元部族とポルトガル人の勢力が強かったため、ゴレー島のような、独占的な利権 を確保するための要塞化された交易ポストはありませんでした(最初に要塞を築いたのはイギリスで、1672年 のことです)。そして、イギリス、オランダ、フランス、デンマークなどの商人や商社が、地元民に混じって暮らして いました。 ここで、川を遡ったところにあるイギリスの商館に、夫婦と娘二人のオランダ人の一家が拘束されているという 情報を得たので、デ・ロイテルは部下に救出を命じます。この時すでに奥さんは病死していて、父親は、無謀だか 勇敢なのだが、娘二人とともにジャングルへ脱走していたのですが、幸運にも捜索開始の翌日に発見され、艦隊 に保護されました。 デ・ロイテルは、このオランダ人監禁に対する報復として、タッソ島(Tasso オランダ語ではTossen)のイギリス商 館を襲撃し、商品を略奪しました。記録によれば、分捕り品は象牙1420本、銅製品975点、2689ポンドの 米、14箱分の武器類、多量の香辛料と塩、そしてヨーク公から現地の王様への贈り物であるブロンズの冠だっ たと言うことです。 かくして、ゴレー島に続いて大儲けしたオランダ艦隊は、補給を済ませて12月15日にシエラ・レオネを出港し ました。しかし、中立地帯のシエラ・レオネでの略奪は流石にバチが当たったのか、艦隊は大雨と荒天に見舞わ れ、さらに、無風帯で風が弱いこともあって航海速度は鈍く、また地元の物売りカヌーに囲まれたりしたので、情 報漏れの可能性にデ・ロイテルは頭を痛めますが、年が明けてから、次の目的地である黄金海岸(現ガーナ)に たどり着きました。 さて、このアフリカ遠征におけるデ・ロイテルの有名な個人的なエピソードとして、フリシンゲンでの少年時代に 知り合った、アフリカ人の友人との再会があります。 その友人というのは、学校の同級生だったとかロープ工場の同僚だったとか言われていますが、名前はヤン・ カンパニー(Jan Campagnie)と言う名前らしいです。彼は、もともとイギリス東インド会社(=「ジョン・カンパニー」 の愛称で知られる)の船に買われた奴隷で、巡り巡ってフリシンゲンに来て、そこで養父母に育てられたというこ とです。 ただ、この人との再会については、ゴレー島だったという話と、次の章で出てくるコルマンチンだと言う話があり ます。オランダ語のWikipedia、「The Great Dutch Admiral」「Vlisinger Michiel」には、ゴレー島だとあります が、コルマンチン説の方はいまいち根拠がはっきりしません(ただ、こちらの方が劇的なので、当初僕はこちらの 説を採用しました)。この人の当時の仕事に関しても、現地の村の長老だったとか(当時60歳くらいだったらし い)、西インド会社の現地の窓口みたいな仕事をしていたとか(だとすれば、それほど劇的な再会というわけでは ないかも)、コルマンチン説では、フリシンゲンで受けた高い教育を活かして、アフリカに戻った後は現地部族の 高官(ひょっとしたら王様)となり、奴隷商人を営んでいたとも言われています。 まあ、とにかく話を続けましょう。 ゴレー島ヴァージョンも、細部はいろいろと異なるのですが、共通している部分を総合すると、要塞を制圧した 後、給水出来る地点を探していたオランダ艦隊のファン・デル・ゼーン艦長の元に、地元民の村から村長らしき 人が現れたらしいです。その黒人の老人は、きれいなオランダ語で、誰の指揮下にある艦隊なのか、とゼーン艦 長に尋ねたので、艦長が、ミヒール・アドンアンスゾーン・デ・ロイテルだと答えると、その男は、昔フリシンゲンに 住んでいた時、そういう名前の友達がいた、と言ったので、しばらく話をしたゼーン艦長は、その男の知人とデ・ ロイテルが同一人物だと確信し、旗艦に招待したらしいです。 ヤン・カンパニー氏はデ・ロイテルと再会し、「キャビンボーイがいまや提督か!」と驚きますが、しばらく旧交を温 めた後、武運を祈って別れました。ただ、そのまま別れたという話もあれば、後でオランダに帰国?して、「ゼー ベン・プロビンセン」に乗り組み、第二次英蘭戦争で戦ったという話もあります。 コルマンチン説では、投錨中の艦隊に地元部族の高官が現れ、完璧なゼーラント訛りのオランダ語で話しかけ てきたため、オランダ人達は驚愕しました。そして話してみると、その人物ヤン・カンパニー氏は、デ・ロイテルの フリシンゲンでの幼馴染だったのでした。 彼は奴隷の卸売り業者であり、オランダ艦隊に奴隷を売りに来たのでした(←残念ながら、奴隷船に供給され る奴隷は、アフリカ人によって集められていました。映画「アミスタッド」にも登場したシンケ氏も、このデ・ロイテル のクラスメートのように、アメリカで受けた教育を生かして故郷で高い地位に就き、奴隷商人に化けた)。デ・ロイ テルは、「聖者」との付き合いから、地元の権力者が、捕虜はまだ良いとして、地元の住民まで奴隷として外国人 に売り渡す場面に何度も遭遇しており、奴隷貿易全般を嫌悪していました(←彼が顔を曇らせたのも、オランダの 奴隷貿易を救う作戦への葛藤故だったのでしょうか?)。従って、勿論奴隷を買ったりはしませんでしたが、元同 級生はオランダ艦隊に最大限の便宜を図り、出発に当たってはデ・ロイテルの武運を祈ったということです。 アフリカ遠征 その2 1665年1月4日、艦隊はトレス・プンタス岬の沖でWICの連絡係と合流し、タコラディ(現ガーナのセコンディタ コラディ)の近くにあるウィッセン(Witsen)要塞の奪還に向かいました。 デ・ロイテルは、まずは交渉で解決しようと使者を送りましたが、交渉は失敗します。このため1月5日、武装水 兵や海兵隊員など431人が上陸し、要塞を攻撃しました。交渉を突っぱねた割にはイギリス側の戦力は弱体で あり、親英派地元民の戦意もさっぱりで、オランダ軍はすぐに要塞を占領しました。 翌1月6日、東にあるエルミナ要塞(西アフリカにおけるオランダの最重要拠点で、まだWICが確保していまし た)より、総督ファルケンブルグの使者が、武装した親オランダ派地元住民のカヌー数百隻を引き連れて現れま した。ただこの援軍というのが、タコラディ付近の親英派部族に対して大いに掠奪暴行を働いたため、捕虜にな ったイギリス人達は、急遽艦上に移されました。 総督の手紙には、どんな理由があったのかはわかりませんが、ウィッセン要塞を破壊するよう要請してあった ので、デ・ロイテルは自ら指揮して要塞を爆破しました。それから艦隊はエルミナへ向かいました。 翌1月7日、艦隊はエルミナ沖に到着しました。このエルミナでは、自分の方がデ・ロイテルよりも上級者だと思 い込んだファルケンブルグ総督が(実際は海軍中将であるデ・ロイテルの方が上級)、艦隊からの礼砲11発に対 して9発しか答礼しなかったため、悶着が起きそうな気配となりましたが、ここはデ・ロイテルの人徳か、本人があ まり気にしなかったので、特にどうということはなかったようです。 艦隊はここで、ゴレー島とシエラ・レオネでの略奪品を陸上に移し、しばらくここに滞在します。1月10日、アム ステルダム司令部の急使船が到着して、デ・ロイテルは、連邦議会とアムステルダム司令部からの命令書(ニュ ーアムステルダム占領の件はまだ分からない)を受け取りました。 ここでデ・ロイテルは、ルパート王子が指揮する軍艦8武装商船10からなる艦隊が、西アフリカへ向かおうとし ていること、連邦議会は、軍艦12隻を増援として西アフリカへ派遣する計画であると知らされました。また、命令 書には、遭遇する英国船は全て拿捕するか破壊するかせよとの指示があったため、この命令を根拠に、デ・ロイ テルは、ゴレー島で拿捕したイギリス船のうち二隻を、補給船と火船として、総督の裁定を受けずに独断で接収 しました。ただ、アフリカではこの後船を拿捕する機会はなかったようです。
さて、これから艦隊はどう行動すべきかという点では、主要な攻撃目標は二つありました。エルミナのすぐ東に あり、ホームズによって奪われたWICの重要拠点であるコルソ要塞(Corso)と、コルソの更に東にある、イギリス 王立アフリカ会社の重要拠点であるコルマンチン(Cormantin, Kormantin)要塞です。ただ、両方とも反オランダ 部族の支配地域にあるということが問題でした。 コルマンチン周辺のファンティン族(Fantin)は、その勇猛さと残忍さ、そして理由は不明ですがとにかくオランダ 人を憎むことで有名なJan Kabesse族長に率いられた強大な部族でしたが、エルミナのファルケンブルグ総督は ファンティン族にコネがあり、交渉で切り崩すことが可能だと思われたので、先にコルマンチンを攻撃することが 決定されました。 そして、総督が実弾24000フローリンをばら撒いた結果、ファンティン族の一部が裏切ってオランダ側につきま す。 2月6日、艦隊はエルミナを出て東へ向かいました。そして、親オランダ派が確保していた海岸に、海兵隊と武 装水兵1000人、親オランダ派地元住民約1000人の合同部隊が上陸します。上陸地点の近くには、アンネマボ (Annemabo)とアドジャ(Adja)の二つのイギリスの交易ポスト兼要塞がありましたが、アンネマボは、名誉の抵抗 として大砲を何発か撃った後に開城、アドジャは戦わずして開城して、イギリス人と親英派現地人はコルマンチン の要塞に退去しました。 しかし、オランダ側が二つの要塞を確保している間に、オランダに寝返ったファンティン族の部隊がコルマンチ ンを攻撃し、要塞周辺の親英派の村を砲撃して焼き払い、住民を虐殺します(←決して人種差別の意図は無いで すが、今も昔もこれがアフリカです)。 コルマンチン要塞は30門の大砲を装備した大きな要塞でしたが、防衛側は人手不足であり、しかも二つの要 塞が奪取されたことで士気も下がっていて、この襲撃に対処できませんでした。 2月8日、オランダ側合同軍がコルマンチンに到着しますが、しばしの戦闘の後、イギリス側はいささかパニック 気味に、共同で部族民の蛮行を収拾することを条件に、要塞を明け渡すことを申し出ました。まあぶっちゃけ、降 服です。 部族の多くに裏切られたファンティン族族長Kabesse氏は、コルマンチンの総督に対し、自分が火をつけるから 要塞を自爆させようと申し出たのですが、却下されます。Kabesseは捕虜になることを潔しとせず、息子と召使を 殺害した後、自決しました(←はたして史料に名前が残るほどの活躍でしょうか?)。 要塞を確保したオランダ軍は、デ・ロイテルの認可のもとに、お決まりの略奪を開始します。しかし、因果応報て きめんで、コルマンチンにはワイン、ブランデー、ビールなどヨーロッパの酒の備蓄があったため、兵隊達は大喜 びであり、酔っ払ったあげくの騒動が発生します。この当時、娯楽と言えば飲み食いが基本なので、実際、目に つくところに酒を置いて、敵兵の油断を誘うという計略も使われていたようです(酒の次に効果的なのは、甘い物 らしいです)。 2月11日、どうにかコルマンチンの秩序は回復しました。要塞を確保するため、船員52人、WICの職員10人 と親オランダ派部族民10人がコルマンチンに残されました。WICの職員は仕事だとしても、船員は志願なのでし ょうか(笑)? 2月13日、艦隊がエルミナに戻ると、デ・ロイテルとファルケンブルグ総督に、前年12月12日発の命令書が 届いていました。デ・ロイテルはここで、先の連絡にあったルパート王子のアフリカ遠征は中止されたこと、従って 艦隊の増派も中止になったことを知らされました。そしてようやく、イギリス艦隊がニューアムステルダムを占領し たことを知り、また、スミルナ帰りのオランダのコンボイが襲撃されたこと(被害はありませんでしたが)、オランダ 商船への攻撃が開始されたことも知りました。 命令を受けたデ・ロイテルは、総督と協議した結果、周囲に存在するイギリスの交易ポストに関しては、確保す るための兵力が不足するため、攻撃は行わないことにしました。エルミナとコルマンチンに囲まれる格好になった ため、ほっといても降伏するだろうとの判断があったのです。 実際、小さな交易ポストは降伏してオランダ側に明け渡されますが、コルソ要塞だけはそのままイギリスの手に 残ります。そして、後にケープコースト・キャッスルとして王立アフリカ会社の奴隷貿易拠点となりました。反対にコ ルマンチンはアムステルダム要塞と名をかえて、WICの貿易拠点となりました。 また、この時の命令書には、アフリカでの作戦の後は、カリブ海のバルバドス、占領されたニューアムステルダ ムを含むニーウネーデルラント地域、カナダのニューファウンドランドに対する攻撃の後、スコットランド北方海域 を通ってオランダに戻るようにとの指示もありました。実際のところ、アフリカの北半球部分と言うのは、北上する には向かい風なので、概して追い風に乗れる北アメリカ経由の航路の方が、早くヨーロッパに帰れることもあった のですが、かなりムシが良いと言うか、無茶させすぎの命令のように見えます。 さて、補給を行い、拿捕船や分捕り品はWICの管理に任せ、分捕り品からの賞金を乗組員に分配(要塞への増 援として現地に残る船員も居たから)した後、2月27日、火船と補給船で出発時よりも二隻増えたオランダ艦隊 は、エルミナを出港しました。 アフリカで、デ・ロイテルの艦隊が被った人的損害は、多くはなかったと思われますが、不明です。また、アフリ カのヨーロッパ人は病気になるのが多いのが普通で、実際デ・ロイテルも、エルミナ出港時には病気になってい て、送別会を欠席しています。ただ、病死者が多ければ、「多かった」という記録が残っているはずなので、恐ら く、大した被害はなかったと思われます(少なくとも、当時の人命の価値に換算して)。 さて、エルミナを出発したは良いものの、艦隊はまだ無風帯にいたので、偏西風を捕まえるところまで南下する のに二週間もかかりました。その後、南東からの弱い貿易風に乗って大西洋横断を開始し、4月下旬には、バル バドス島の沖に到着したようです。そして、落伍した船が追い付くのを待ってから、4月30日、デ・ロイテルはバ ルバドス島を攻撃しました。 このバルバドス島は、後に世界最大の砂糖の生産地(同時に、奴隷貿易の終着点)として有名になります。ま た、地図を見てもわかるように、カリブ海では最も外側かつ風上側にあるため、カリブ海を跋扈する海賊や、中 南米駐留のスペイン軍による攻撃からも概してまぬかれ続けた幸運な島でした。 4月30日の午前11時頃、オランダ艦隊は、島の東側にある中心都市ブリッジタウンの目の前、カーライル湾 を攻撃します。カーライル湾は大きな要塞に守られており、湾内には30隻以上の商船が停泊していたということ ですが、ゴレー島の時とは違って、要塞も商船も猛然と反撃しました。 オランダ艦隊は湾内に突入したものの、砲火の激しさに被害は大きく、また衝突事故も発生します。隊列の二 番目を進んでいた旗艦「Spigel」も、商船から二度の片舷斉射をくらってマストの一部を吹き飛ばされました。そし てイギリスの商船達は、拿捕から逃れようと自ら浅瀬に乗りあげます。一時間半の戦闘の後、デ・ロイテルは敗 北を認め、折からの引き潮に乗り、結局は一隻も失うことなく無事に艦隊を退却させることができました。 この失敗は、アフリカでの苦労と同じく、バルバドス島の水路情報が無かったため、守りの堅いカーライル湾を 正面攻撃するしか無かったのが原因のようです。それならそれで、真昼間ではなく夜襲にするとか、ボートで地上 部隊を送り、要塞を制圧してから攻撃とかもできそうなものですが、これは素人考えでしょうか? 10年後にマル ティニークでも失敗するように、デ・ロイテルは、カリブ海に来ると指揮能力が落ちるようです。 歴史家バーバラ・タックマン氏は、この事実を「工学上の謎」として指摘していますが、木製の軍艦は百門もの 大砲を装備することがあるのに、軍艦よりもずっと大きくて、頑丈な石造りの要塞は、せいぜいが50門ほどの大 砲しか装備しません。そして、一方向に撃てる砲の数も限定されます。石造りの要塞は木の船よりも確かに頑丈 ではありますが、恐らくはこの事実のため、帆船時代、要塞が艦隊に対して役に立った例は少ないです。デ・ロイ テルの場合は、この少ない方の例でした。 カリブ海 バルバドスから逃げ出した艦隊は、同盟国フランス領のマルティニーク島へ向かい、そこで補給と修理、それに 船底の清掃と遺体の埋葬を行いました。デ・ロイテルはここで艦隊を分割し、自ら一隊を指揮して先行すると、9 隻のイギリス商船と1隻のフリゲートを拿捕しつつ、5月12日、フランス領セントキッツ島(現セントクリストファー 島)へ入港しました。 セントキッツ島では、拿捕船の一隻を砂糖12000ポンドと引き換えに売却した後、5月14日、オランダ領のシン ト・ユースティシャスに入港して、アート・ファン・ネスが指揮していた艦隊の残りと合流しました。恐らく、回航する 人手不足のせいだとは思いますが、この島でもまた拿捕船の一部をタバコ、砂糖、綿花の梱と引き換えに売却し ました。 5月17日、艦隊は、アフリカを出た時の14隻に加えて、拿捕船5隻と、途中まで護衛することになった商船一 隻を引き連れて、シント・ユースティシャスを出港しました。その後艦隊は、オランダ領シント・マールテン島、バミ ューダ島を経て北上し、現代のカナダ東岸、ニューファウンドランドへ向かいました。 そして、高緯度地域では仕方のないことですが、荒天、霧、氷山などの悪条件に悩まされつつ、ニューファウン ドランド島の周辺で何隻かの捕鯨船と商船を拿捕した後、イギリス人の居住地であるセントジョーンズ湾に向か い、イギリス人捕虜の釈放と引き換えに食糧と水を入手しました。 6月21日、オランダ艦隊は帰国の途につきました。この大西洋横断でもまた悪天候に悩まされ、一時、洋上で 船体の修理をする破目になりました。その後、ニューアムステルダムから逃げてきたオランダ人一家に子供が生 まれたりした後、7月18日、艦隊はスコットランド北方のフェロー諸島を視認しました。おらんだまでもう一息で す。ここまで、オランダを出てから一年以上に及ぶ遠征であり、その間、一隻の船も失うことなく、むしろ増やして 戻って来たデ・ロイテル、および部下の艦長達の手腕は、当代オランダ海軍のシーマンシップの精華と言えるでし ょう。 しかし、北海に入ったところでデ・ロイテルは、出くわした船からローストフト沖海戦でのオランダ海軍の大敗を 知るのです。 (以上、アフリカ遠征に関しては、Lieutenat Admiraal Michiel Adrianszoon de Ruyter ttp://www.deruyter.org/homepage.html [オランダ語]のアフリカ遠征の項を参考にしました。) ローストフト沖海戦 開戦となった後、ヨーク公らイギリス海軍首脳は、オランダ側が軍艦の大きさや火力で劣っている以上、第一 次英蘭戦争後半のような防衛的戦略を取るものと考えていました。 自分には海軍の最高司令官として相応しい経験がまだ無い事を認識していたヨーク公は、賢明にも会議を何 度も開いて、とるべき戦略を議論しました。その席では、オランダ沿岸に艦隊を送って商船隊を攻撃しよう、とに かく補給を充実させよう、一か八かテキセル島を強襲しよう等々、様々な提案がなされました。なお、スコットラン ド北方を通って地中海から帰還するであろうオランダのコンボイを迎撃するため、艦隊を北に向かわせようと言う チャールズ二世の提案は無視されました。 しかし、こうした議論は全て無駄に終わりました。ヨーク公も提督達も、ヨハン・デ・ウィットが第一次英蘭戦争の 時、ずっと攻撃的戦略をとるように主張し続けていたことを知らなかったか、忘れているかしていました。従って、 イングランド南部沿岸への出動を命じる、連邦議会からオブダム提督への命令書がイギリスに届けられた時(← 連邦議会の海軍委員の中にイギリスのスパイがいた)、ヨーク公は驚愕しました。 とりあえず1665年5月1日、ヨーク公自ら率いる100隻の軍艦と28隻の火船からなるイギリス艦隊は出撃 し、テキセル島沖に投錨して商船隊やオランダ艦隊を待ち伏せしました。しかし、海軍の財政難は深刻であり、 敵と遭遇しないまま、補給品不足のため5月20日にはもう帰途につかねばならず(←バカ)、結局ヨーク公は、ソ ール湾に艦隊を集結させて可能な限り補給を受けつつ、オランダ艦隊の来襲を待つことにしました。 5月24日、135隻のオランダ共和国艦隊は、オブダム提督の指揮の下でテキセル島から出撃しました。艦隊 には第一次英蘭戦争後に建造された大型艦が多く含まれていました。これら大型艦は18ポンド砲と24ポンド砲 が主力火器で、イギリス海軍の32ポンド砲には火力と射程で劣る反面、発射速度では勝っていたため、戦闘力 でイギリス艦隊に劣るものではないと考えられていました。また、オブダム以外の指揮官達の顔ぶれも豪華その もので、「海峡の戦い」でスウェーデン艦隊と奮闘した勇士、コルテノール艦長は今や海軍大将に昇進して、中央 隊の次席指揮官を務めていました。前衛戦隊はゼーラント州のベテラン、ヤン・エベルトセン大将が指揮を執り、 後衛はロッテルダム司令部のコルネリス・トロンプ大将、そう、大英雄マールテン・トロンプの息子が指揮官を務 めていました。 ただし、大型艦はすべてアムステルダム司令部からの持ち出しで、ホラント州ノールトカター、およびフリースラ ント司令部から提供された他の艦はどれも小型で武装も貧弱だったため、これが大きな弱点でした。また、「ライ ン・タクティクス」が採用されておらず、艦隊行動の訓練も不十分であったため、改良された火力を生かせるか、 はなはだギモンでした。 オランダ艦隊は北海を横断し、道々、12隻のイギリス商船を拿捕しつつ、6月11日、ローストフト市の南東40 マイル沖で、ヨーク公率いる109隻のイギリス艦隊と遭遇しました。遭遇時、オランダ艦隊は風上側にあり、非常 に有利な態勢でしたが、オブダムは攻撃を命ずることなく、距離を開けたまま風上側からイギリス艦隊との接触 を保つように命じました。ところが、翌12日には風が落ちてしまいます。さらに悪いことに、12日から13日にかけ ての夜間に風向きが変わり、オランダ艦隊は風下側になってしまいました。そしてオブダムは、何を血迷ったかこ のタイミングでで攻撃を命じました。オブダム提督はこれまで、戦場ではどうにか大きな失敗はせずに来ました が、これは最初にして最大の、致命的失敗でした。 戦闘は朝9時ごろにはじまりました。オプダムが血迷っていたとは言え、オランダ艦隊の出だしは好調でした。 イギリス艦隊は例によって緊密な一列縦隊を組んでおり、オランダ艦隊もなんとなく一列縦隊を組んだまま、敵の 風上側に回り込もうとイギリス艦隊の戦列に突っ込んで分断しました。さすがに改良されただけあって、オランダ 艦隊の砲火は強烈であり、旗艦に集中砲火を浴びせるという戦術も効果的で、ヨーク公の旗艦「ロイヤル・チャ ールズ(80門)」は大破、ヨーク公本人は無事でしたが、艦長は戦死、何故か戦場までくっついて来たヨーク公の 取り巻き達の多くも戦死します。ルパート王子の前衛艦隊は最も損害が大きく、次席指揮官のローソン提督の旗 艦が大破し、他に1隻を拿捕された挙句、火船攻撃で定位置から追い払われてしまいました。 両艦隊が交錯した後、何とかイギリス艦隊がまた風上側に回りこんただため、今度は両艦隊は平行して進むこ とになりました。そして午後3時ごろ、イギリス艦隊の後衛を指揮していたサンドイッチ伯爵は、オブダムの中央 隊の戦列に大きな隙間が出来ていることを発見しました。すかさず彼は突撃してオブダムの戦列を分断すると、 旗艦「プリンス」から、オブダムの旗艦「Eendracht(73門)」に砲火を浴びせました。そしてこれが、なんと火薬庫 に命中、「Eendracht」は一瞬で爆沈してしまいました。409人の乗組員のうち、生存者はわずかに5名。当然、 オブダム提督も戦死しました。 このどうやっても隠しようの無い最高指揮官のド派手な戦死に、オランダ艦隊の士気は一気に粗相しました。こ こで艦隊の指揮権はヤン・エベルトセンのものとなりましたが、彼は前方に出すぎていて、効果的に艦隊全部を 指揮することができませんでした。結局、オランダ艦隊はばらばらになって逃走を始め、衝突事故を起こして絡ま りあい、火船攻撃を食らう艦も出るような混乱振りで、中央隊の次席指揮官コルテノール大将も、この混乱の中 で旗艦「Groot Hollandia(66門艦)」上で戦死してしまい、士気の粗相に拍車をかけました。こうなってはエベルト センも逃走するしかありませんでした。コルネリス・トロンプはと言うと、さすがに父親の名に恥じることなく、立派 な指揮振りで後衛戦隊の規律を維持し続けていましたが、艦隊全部の敗走を止めることは出来ませんでした。 一方、オランダ艦隊の崩壊を見て取ったヨーク公は、直ちに「全艦追撃(General Chase)」を命じ、日没後も敗 走するオランダ艦隊を追撃しました。しかし、ヨーク公の取り巻きの生き残りHenry Brounker(ヨーク公の女衒だ ったいかがわしい男)がバカだったため、オランダ艦隊は救われました。戦死者続出ですっかり臆病風に吹かれ ていた彼は、深夜、ヨーク公の命令だと偽って旗艦の帆を降ろさせ、ヨーク公に確認されること無く艦隊がそれに 従ったのです。おかげでオランダ艦隊は追撃をかわして、テキセル島やマース河口の泊地に逃げ込むことに成 功しました。 この「ローストフト沖海戦」で、オランダ艦隊は17隻を撃沈もしくは拿捕されました(23隻撃沈、9隻拿捕という 資料もあり)。死傷者4000人、捕虜になったもの2000人におよび、さらに、コルテノール大将の戦死は、オブ ダム提督の戦死よりもはるかに大きな痛手でした。一方のイギリス艦隊の損害は1隻を拿捕されただけで、死者 283人、負傷者440人であり、ラストシーンは締まらなかったものの、一方的な大勝利でした。 いきなりの大敗にオランダは混乱しました。混乱のあまり、沿岸航路では多くの艦船が敵に拿捕されるのをさけ ようと、自ら浅瀬に突っ込んで座礁しました。その中には、テキセル島へ出張しようとしていた連邦共和国の最高 指導者、ヨハン・デ・ウィットその人の乗った船もあったりしたのです。 デ・ウィットはまず、士気の低下を食い止めようとしました。軍法会議で敗戦の責任を追及する一方(と言って も、最も責任がありそうなオブダムは既に戦死していた)、コルネリス・トロンプに最高司令官職を代行させ(←経 験から言ってヤン・エベルトセンが適切ですが、ゼーラント州人であることがネックになったようです)、自分もテキ セル島の艦隊基地に居座ると、連邦議会の代理人として艦隊の再編を監督しました。 この時、主としてデ・ウィットの先見の明により、多数の80門艦および70門搭載艦が就役間近であり、艦船の 損失を埋めることは可能な状態でした。これらの新型グレート・シップは、従来のオランダ艦が24ポンド砲を最 大の火砲としていたのに対し、36ポンド砲を装備していました。オランダ海軍では最強であることは勿論、32ポ ンド砲が標準的な重砲であるイギリス艦にも僅かながら火力で勝っているので、これらの新型艦に勝てるのは、 イギリス海軍にも数隻しかない42ポンド砲搭載の90-100門艦(←運行経費がかかるので、滅多に出動しない) しかないはずでした。人員の損失も、商船乗組員の徴用で短期間に補充できました。 さらに、大々的なプロパガンダに打って出て、パンフレット、新聞を通じ、デ・ロイテルのアフリカでの大勝利(← これは本当)、カリブ海のイギリス領への掠奪(←半分失敗)、ニュー・ファウンドランドでの大戦果(←大袈裟)を宣 伝し、大勝利を挙げたデ・ロイテルの帰国を宣伝しまくりました。ミッドウェー海戦で大敗した大日本帝国が、アリ ューシャン列島での陽動作戦を大勝利だと大嘘ついたのと同じです(ただし、デ・ロイテルの場合、真実は後から 追いついた)。実際、このプロパガンダは非常に効果的であり、オランダ国民は敗戦のことはさておき、デ・ロイテ ルとその艦隊の帰国を、さながら「メシアの到来を待つように」待望したとのことであります。
メシアの帰還 イギリス艦隊は、ローストフト沖の大勝利を戦勝に結びつける事はできませんでした。補給品の不足で、オラン ダ沿岸を封鎖することができなかったのです。 帰国したヨーク公は、王位継承者である彼の身に危険が及ぶのを恐れたチャールズ二世により、戦闘に出る のを禁じられました。結果、ヨーク公は艦隊司令官を辞任することになり、ルパート王子も辞退したため、サンド ウィッチ伯爵が後任となりました。 その後サンドウィッチ伯爵は艦隊を率いて出撃し、帰国の途に就いているであろうデ・ロイテルを待ち受けまし たが、警告を受けたデ・ロイテルはノルウェーとデンマークの海岸を大回りして目をくらまし、1665年8月6日(9 日?)、無事にオランダにたどり着きました。 さて、連邦共和国のメシア、デ・ロイテルは、とりあえず輝かしい勝利をおさめての凱旋帰国でしたが、歓迎もそ こそこに、8月11日、デ・ロイテルが戻って来るまでの代行だったトロンプに代わって、オランダ艦隊最高司令官 に任命され、休む間も無く、ノルウェーのベルゲンまで出動を命じられました。そして、アムステルダムで就役した ばかりの旗艦「Hollandia(80門、460人乗り)」に座乗して出撃しました。と言っても、この時の艦隊司令官は、連 邦議会の代表として乗り込んできたヨハン・デ・ウィットその人であり、デ・ロイテルはあくまで、デ・ウィットのアドバ イザーという役回りでした。デ・ウィットは、今回の戦争で負けると、第一次英蘭戦争以上に厳しい事態に遭遇す ると認識しており、オランダの存亡は自分の手腕にかかっていると自負していました。攻撃的戦略こそが勝利へ の第一用件と主張するデ・ウィットに対し、貿易ルートの維持を重視する海軍側との対立もあったため、とうとう自 分で艦隊の指揮を執ることにしたのです。 勿論この行動は、海軍士官には猛烈に不評でした。多くの海軍士官は素人のクセに指揮権を要求してきたデ・ ウィットへの軽蔑を隠そうとはせず、彼の華美な服装も反感を買いました。ともあれ、このベルゲン行きの航海で 艦隊の指揮は自分の手に余ることを悟ったのか、帰り道で遭遇した大嵐で懲りたのか、デ・ウィットはこの後、二 度と艦隊行動に同行することはありませんでした(←バカ)。 さて、第二次英蘭戦争勃発後、スコットランド北方を通って戻ってきた東インド会社のコンボイは、護衛艦隊と の会合のため、当時はデンマーク領であったノルウェーのベルゲン港に集結していました。船団の指揮官はオラ ンダ東インド会社のピーター・デ・ビッター少将です。 時のデンマーク国王フレデリク三世は、デ・ロイテル率いるオランダ艦隊の支援によってスウェーデンによる征 服を免れた経過があったのですが、バルト海貿易はオランダ共和国の経済の根幹であるため、イギリスは盛ん にデンマークとオランダを離反させようとしていました。で、結果から言うと、フレデリク三世は恩知らずで腐って いました。また、ローストフト沖海戦のニュースを聞けば、イギリス側に傾いたとしても仕方が無いです。かといっ てフレデリク三世はオランダに宣戦布告するほどにも腐ってはいなかったので、捕獲した商船から分け前を渡す と言うチャールズ二世の申し出に乗り、イギリス艦隊がベルゲンのオランダ商船隊を攻撃する間、中立国の義務 を忘れることにしました。 その結果、1665年8月10日、トーマス・テディマン少将に率いられた軍艦14隻、火船3隻からなるイギリス艦 隊がベルゲン湾の入り口を封鎖したのでした。商船隊にとって幸運なことに、ベルゲン湾の要塞司令官アフレフ ェルト将軍は、国王の裏取引を知りませんでした。そのため、テディマン少将が攻撃を通告した時、アフレフェル ト将軍は怒り、デンマークの中立侵害には武力で対抗すると警告します。デ・ビッター少将は旗艦も含めた8隻の 護衛艦を湾の浅瀬の間に配置し、砲の全てを敵側に移動させて、イギリス艦隊の攻撃に備えました。 そして8月12日の朝6時頃、ついにイギリス艦隊は砲撃を開始しました。しかしながら、テディマン少将はベル ゲン市街への着弾を恐れており、狙いが近くなっていてオランダ艦隊に大きな損害を与えることが出来ませんで した。それどころか、風が湾の外側に向いていたため、砲煙をモロに被って視界をさえぎられた挙句、火船攻撃 も不可能な状態となります。さらに決定的なことに、用心したにもかかわらずイギリス軍の砲弾が何発か要塞に 着弾してデンマーク兵に数人の死者が出たため、アフレフェルト将軍は宣言通り、イギリス艦隊を砲撃しました。 三時間の戦闘の後、かろうじて沈没艦は無かったものの、4-500人の死傷者を出したイギリス艦隊は退却しま した。オランダ艦隊にも沈没艦は無く、100名程度の死傷者を出しましたが、商船隊は無傷でした。そして8月1 9日(旧暦29日)、デ・ロイテル(とデ・ウィット)率いるオランダ本国艦隊がベルゲンに到着したので、8月23日(旧 暦9月2日)、商船隊はオランダに向かって出港しました。この時、北海で行動中のサンドウィッチ伯爵のイギリス 艦隊は、補給切れで帰途についていましたが、大嵐で吹き払われたコンボイの一部がサンドウィッチ伯爵の艦隊 と遭遇したので、9月13日には商船2隻が、19日には、70門艦を含む軍艦4隻と商船8隻が拿捕されてしまい ます。しかし、大部分の商船は無事にオランダに帰港しました。
中休みとフランスの参戦 ベルゲン沖海戦の後、イギリス海軍の財政難と資材/人手の不足は深刻になりました。このため、軍艦の多く は港や泊地から動けなくなり、一部の大型艦はドック入りしたまま出て来れなくなりました。 そしてさらに、1665年6月、ロンドンでペストが大流行しました。最初の患者は1664年末ごろで、この頃、大 陸ではペストの小規模な発生があったため、オランダ人の捕虜によってイギリスに持ち込まれたものとされてい ますが、何にせよ、当時の推定人口46万人、過密さとフケツさでは世界一のロンドンでペストは猛威を振るい、 判明しているだけで死者7万人、ロンドンから疎開した者は30万人に及んだとされ、宮廷もオックスフォードに退 避しました。ペストが終息したのは12月で、宮廷がロンドンに戻ったのは1666年2月になってからでした。もち ろんこれは、イギリスの財政難の助けになる出来事ではなく、とても戦争どころではなくなりました。 一方、イギリス艦隊の首脳陣にも変化がありました。北海から帰還したイギリス海軍の最高司令官サンドウィッ チ伯爵は、ベルゲン沖海戦での失敗を釈明するためにオックスフォードの宮廷に出向きました。棚ボタ式に多く のオランダ船を拿捕しており、普通はこれで相殺されるはずなのですが、派閥抗争が盛んな当時のイギリス海軍 の事情から、サンドウィッチ伯爵は足をすくわれるかも知れないと考えたようです。しかし、彼が宮廷に居た10 月、オランダの艦隊がサフォークの沿岸に現れたのでした。どちらにせよ、人手不足と整備不良でイギリス艦隊 は出撃できなかったはずですが、これが職務怠慢という批難につながりました。その上さらにサンドウィッチ伯爵 は、自分の立場を固めようと海事審判の判決が出る前なのにも関わらず、拿捕したオランダ船の分け前を提督 達にバラまこうとして顰蹙を買ってしまいました。結局彼はスペイン大使としてトバされてしまい、後任にはルパー ト王子と、今やアルベマール公爵となったオランダ海軍の宿敵、ジョージ・モンク将軍の二人が就任しました。 オランダ海軍はと言うと、1665年10月、デ・ウィットの発案により、イングランド南部に向かって艦隊を出動さ せました。しかしながら、財政難のイギリス艦隊は迎撃してこず、悪天候で商船にも遭遇しなかったため、何の成 果もなく空しく帰港しましした。ヨハン・デ・ウィットはテームズ河口に艦隊を突入させ、直接攻撃するしか戦争に勝 つ方法は無いと考えていました。J.R.Jhones著「The Anglo-Dutch War of the 17th Century」によると、これは 「強迫観念idee fixeの一種」というほどの執念だったようです。従って、イギリス艦隊の停滞は大きなチャンスの ように彼には見えたのですが、浅瀬の奥や川を遡った内陸部に停泊中のイギリス艦隊を攻撃することは極めて 危険であるとデ・ロイテルから反対され、諦めざるを得ませんでした。 さらに、オランダは安閑と出来ない状況にありました。イギリスはオランダとの戦争のため同盟者を探し回って いましたが(スウェーデンに最も期待していましたが、フランスの説得を受けた先方より断られた)、同盟に成功し たのはオランダ南東部の内陸国、ベルンハルト・フォン・ガーレン大司教率いるミュンスター司教領だけでした。 そして1665年9月、ミュンスター軍は三万人の軍勢で国境を突破し、オランダ南部に侵入したのです。デ・ウィ ットは陸軍を完全に無視していたため、これはオランダにとって重大な脅威となりました。 そういう訳で、敵艦隊が港から出てこないことと、ミュンスター軍の脅威により、オランダ海軍も大きな作戦行動 を起こすことは出来なくなりました。かくして、海上の戦闘には中休みが訪れました。 この中休みの間、オランダ海軍は最初の戦闘教則を作成し、ここで初めて、イギリス式の「ラインタクティクス」 が採用されました。同じくイギリスに倣い、戦闘行動中の艦隊は前衛、中央、後衛の三つの戦隊に分割され、艦 隊の総指揮官が中央隊の指揮官を兼ねるとされました (←以前は4つ以上に分割されることも多かった)。また、 オランダ独自の戦術として、効果的に指揮をとるため、中央隊は前衛、後衛よりも敵から距離をとるものとされま したが、これは現実的ではなく、あまり守られなかったようです。 実際のところは、これより以前の時代から、海軍全体で艦隊行動を行う際は三つの戦隊に分かれ、アムステル ダム司令部は単独で一隊を編成し、ロッテルダムとノールトカター、ゼーラントとフリースラントの組み合わせで二 隊が編成されて、各隊はそれぞれ、アムステルダム司令部(当然)、ロッテルダム司令部、ゼーラント司令部の大 将が指揮を執る体制になってはいたので、ここで明文化されたということなのでしょう。 また、先述の通り艦隊の最高司令官はアムステルダム司令部の大将が担当するので、必然、アムステルダム の部隊は常に中央隊となりました。他のポジションについては、ロッテルダム、ノールトカター組が後衛、ゼーラン ト、フリースラント組が前衛にまわることが多いですが、これが決まった担当位置だったのかはわかりません。も っとも、状況によっては、艦隊が180度回頭して、後衛が前に出ることもありました。 さて、こうした中休みの状況を変えたのはフランスでした。1666年1月、フランス国王ルイ14世は、1662年 のオランダとの同盟に従ってイギリスに宣戦布告しました。まずフランス陸軍はオランダ領からミュンスター軍を 駆逐し、4月にはミュンスターを戦争から脱落させました。 ルイ14世は元々、イギリスとの戦争に乗り気ではありませんでした。イギリスとの戦争となれば、戦闘は海軍 主体とならざるを得ませんが、まだ建設途上のフランス海軍を危険にさらすことになるからです(1665年当時、 フランス海軍の100t以上の軍艦は47隻しかなかった。しかし1670年には120隻に急増しています)。しかし、 ローストフト沖海戦の後、ルイ14世は、オランダがそのまま敗戦してイギリスの属国となるのではと言う、先走っ た危惧を抱きました。また、自分の王妃でスペイン国王カルロス二世の姉、マリー・テレーズのスペイン領ネーデ ルラントとフランシュ・コンテの領有権主張(←結婚時の条件としてスペイン領の継承権は放棄していたが、放棄 の補償金が約束どおり支払われなかったから)について、オランダに恩を売れば、後で支援が得られると期待も して、戦争に介入したのでした。 しかし、オランダ政府一般の認識として、スペイン領ネーデルランドはフランスとの緩衝地帯として必要であり、 フランスは友好国であっても隣人とするには危険であると認識されていました。ルイ14世の目算は外れることに なり、オランダは大惨劇に遭遇するのですが、これはまた後の話。 1666年の4月末、オランダ艦隊と合流するため、ビューフォート伯爵に率いられたフランス艦隊がツーロン港 から出港します。オランダ艦隊も、これに呼応するため出撃しました。 イギリス艦隊はようやく出動可能な状態となっていましたが、フランス艦隊出動の報に混乱しました。フランス軍 のアイルランドへの上陸作戦を懸念したからです。そしてフランス艦隊がリスボンに現れたと言うニュースを聞い た時、間違いなくフランス艦隊は英仏海峡に侵入する意図を持っていると判断されました。 実を言うとルイ14世は、艦隊を危険にさらすのを恐れて英仏海峡への進出を禁じており、フランス艦隊はリス ボンで足止めを食っていのたですが、イギリスもオランダも、そんな事は知りませんでした。かくして、再び両国の 艦隊は衝突することになります。 旗艦「ゼーベン・プロビンセン」 出動を前にした1666年5月、デ・ロイテルは旗艦を「Hollandia」から、前年8月末にロッテルダム司令部で就 役したばかりの新造艦「ゼーベン・プロビンセン(De Zeven Provincien 80門 乗員450人)」に変更しました。 この旗艦の移動にあたっては一騒動あって、当時、旗艦の食料補給は司令官の奥さんが責任を負う(管理責 任だけなのか、費用まで負担しなければならないのかは不明)という慣習がありました。この時、デ・ロイテルの妻 Anna van Gelderは勘違いして、「Hollandia」に食料を供給したため、連邦議会はデ・ロイテルが引き続き 「Hollandia」に座乗するものと考えました。デ・ロイテルの意志が伝わったのはこの後だったので、「ゼーベン・プ ロビンセン」をロッテルダムからテキセル島に回航しなければならず、Anna van Gelderも一から食料補給をやり 直さねばなりませんでした。 ま、それはともかくとして、あくまで私の想像ですが、デ・ロイテルが旗艦を変更したのは、「Hollandia」よりも「ゼ ーベン・プロビンセン」がやや火力が大きい事意外に、艦名も関係しているのではないでしょうか。「Hollandia(ホ ラント州、ホラント人の意味)」よりも「De Zeven Provincien」、七州、つまりオランダ連邦共和国の別称を冠した 艦を旗艦とするほうが、ローストフト沖海戦の後、またも分裂の様相を呈していたオランダ海軍の団結に好都合 だと考えたのではないでしょうか。実際、デ・ロイテルの功績として、戦術家としての功績と同じく、五つある海 軍 司令部の団結を維持し続けたことが評価されています。 デ・イテルはオランダ艦隊の最高司令官でしたが、当時はまだ海軍を完全に掌握していたわけではなく、寧ろ、 高級士官の間ではかなり不評でした。デ・ロイテルの伝記によると、彼が自分の戦果を誇るところがあったため、 うぬぼれとハッタリの強い男だと思われていたようです。実際にそういうこともあったかも知れませんし、ロースト フト沖海戦後のデ・ウィットのプロパガンダも海軍内部では反感を買ったことも考えられます。デ・ロイテルよりも 軍歴の長い提督(特にヤン・エベルトセン)もいたため、それも摩擦の要因となったでしょう。ことに最高司令官職 を解かれたコルネリス・トロンプは、デ・ロイテルに敵意を抱いていました。 もっとも、このコルネリス・トロンプという人の人物像に関しては、「無鉄砲と紙一重の勇気と闘争心 (doldriestheid grenzende, moed en strijdlust)」を持ち、自分勝手(eigenzinning)、傲慢で尊大(arrogant)、無 規律(ongedisciplineerd)、軽率(zorge loos)と、絵に描いたような言葉が並んでいます。従って、どんな相手であ れ彼と仲良くするのは難しかったと思われますが。 また、デ・ロイテルは、海軍内の嫌われ者、デ・ウィットから大いに信頼されていたため、デ・ロイテル本人の傾 向とは関係なく、周囲からはデ・ウィット寄りと見なされていたはずです。おまけに、オランニェ家支持派が多い海 軍で、政治的に中立のデ・ロイテルは、ただでさえ浮いた存在だったのでしょう。 なお、「ゼーベン・プロビンセン」は、デ・ロイテルの旗艦としての戦歴により、オランダで最も有名な軍艦となっ ています。多分オランダ人は、日本人が戦艦「大和」に抱くのと同様の感情を抱いているのではないでしょうか。 「大和」を京都近辺の古名ではなく日本国全体の古名として考えると、この二つの軍艦はそれぞれ祖国の別名を 冠しているわけで、社会的な意味合いはかなり類似していると思われます(もっとも、「Zeven Provincien」を文字 通りに受け取ると、日本人的センスでは、「47都道府県」という名前の船になってしまいます )。 ともかく、「ゼーベン・プロビンセン」はデ・ロイテルとともに(「大和」と違って)何度も戦場に向かい、時には大破 しながらも祖国オランダのために戦い続けました。デ・ロイテルの死後も海軍に在籍しましたが、1692年、「ラ・ オーグの海戦」でフランス艦隊と戦って大破、辛くもロッテルダムに帰港するも解役となって1694年に解体され ました。1995年から復元工事が開始されており、現在に至ります(ウィキペディアによると完成予定は2015年 だとか…)。
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