デ・ロイテルその6
束の間の平穏?

  海軍中将となったデ・ロイテルでしたが、戦争が終わっても仕事はなくならず、私掠船対策として地中海に派遣
されることとなり、64門艦「Huis te Swieten」(←元はジェノバ向けに建造されたグレートシップ)に座乗し、1654
年後半から1655年にかけて何度か地中海へ航海しました。なお、これ以降デ・ロイテルは何度も地中海へ赴き
ますが、その度にモロッコの「聖者」と会見して友情を確かめ合っています。
 この最初の地中海への航海中の1655年4月、二番目の妻との間にもうけた長男アドリアンが18歳の若さで
死去しましたが、9月には娘アンナが誕生しています(しかし、彼女も11歳で亡くなった)。
 
 さて、第一次英蘭戦争が終わると、オランダの海外貿易はあっさりと回復し、相変わらず世界最大の海運国家
であり続けました。教科書には英蘭戦争の敗北で直ちにオランダが衰退したように書いてありますが、これは間
違いです。航海条例は確かに打撃ではありましたが、所詮、イギリスはたくさんある市場の一つに過ぎないので
す。第一次英蘭戦争の結果、イギリスは1000−1700隻のオランダ商船を拿捕しました。これはイギリスの海
運業界に大きな利益をもたらしたように見えましたが、1655−1660年にかけてのスペインとの戦争で1000
−1400隻の商船を失ったとされており、ここで儲け分を全て吐き出しています。結局、イギリスが僅かにシェア
を伸ばし、オランダが僅かにシェアを落としただけでした。

 オランダ海軍は、第一次英蘭戦争の教訓の元に再建と改革が進みましだが、その能力を試される機会は、案
外早く訪れました。オランダ海運業の根幹がバルト海航路である事は前述しましたが、そのバルト海で、一大戦
争が勃発したのです。
 スウェーデン国王カール10世グスタフは、バルト海地域制覇の野望、および西欧との貿易ルートの関税収入の
確保のためにポーランドを攻撃し、1655年の後半にはバルト海南岸地域に侵攻したのです。こうして第一次北
方戦争(1655-1660)が始まりました。
 バルト海交易に多くを依存するオランダには、このような形のスウェーデンの勢力拡大は座視できない事態で
す。このため先ず1656年、スウェーデン艦隊に封鎖されたダンチヒ港を救援するため、オブダム提督自ら率い
る艦隊が出動し、デ・ロイテルもこの遠征に参加しました。艦隊は首尾良くスウェーデン艦隊を追い払い、ダンチ
ヒの封鎖解除に成功しています。

 ダンチヒでの騒動が片付いて安心する間も無く、次にポルトガルとの紛争が発生し、1657年から1658年に
かけて、デ・ロイテルは再び地中海に派遣されました(最初は50門艦「Amsterdam」が旗艦、後にまた「Huis te
Swieten」)。オブダム提督指揮の艦隊はテーショ河口を攻撃し、15隻のポルトガル商船を拿捕しています。この
ポルトガルとの紛争は、1661年8月、800万フルデンの賠償金と引き換えに、オランダがブラジルの領有権要
求を撤回するまで続くことになりました。

 と、ここまでは大した戦闘も無く、小規模な紛争でしかありませんでしたが、この後には本物の艦隊戦闘が発生
しました。


 現在はキール運河でショートカットできますが、この当時、バルト海と西欧との海上交易では、「海峡(Sound オ
ランダ語ではSont)」と総称されるユトランド半島とスカンディナビア半島の間の水路を通過しなければなりませ
ん。
 しかし1657年、デンマークがスウェーデンに宣戦布告し、ボロ負けしました。コペンハーゲンはスウェーデン軍
に包囲されそうになりましたが、デンマークの北部が占領され、「海峡」の支配権がスウェーデンの手に落ちた事
は、オランダにとってはより深刻な事態であり、バルト海交易、ひいてはオランダの経済そのものが重大な脅威
にさらされました。
 スウェーデンも友好国だったのですが(オランダはスウェーデン製大砲の最大の顧客だった)、「航海の自由」を
標榜するオランダにとって、バルト海交易を支配しようとするスウェーデンの動きは無視できません。ヨハン・デ ・
ウィットはあまり乗り気ではなかったのですが、主にアムステルダムの海運業者の圧力に押される形で、連邦議
会は、デンマーク側に立って、北方戦争への軍事介入を決定しました(穀物輸送ルートの安全を確保するため、
イギリスも最初はデンマーク側に立った)。
 ただこの紛争、実はオランダ艦隊がダンチヒの封鎖を解除したため、スウェーデンが、ポーランドを諦めてデン
マークに目を転じたのが原因だと言われており、なんと言うか、オランダにとっては因果応報な話です。
 
 ポルトガル海域に出動中のデ・ロイテルは参加できませんでしたが、この危機に際し、1658年10月、35隻の
軍艦、デンマーク支援のための陸軍兵士を乗せた輸送船20隻からなるオランダ艦隊が、ヴィッテ・デ・ウィト、ピ
ーター・フローリス両中将を伴ったオブダム提督の指揮の下、「海峡」へと出撃しました。
 途中、強い逆風でもたついたりもしましたが、11月8日、オブダムは艦隊を三分割し、自らは中央隊に、デ・ウ
ィトを前衛、フローリス中将を後衛として「海峡「に突入しました。
 スウェーデン艦隊はカール・グスタフ・ウランゲル提督(1613-1676)に率いられた45隻で、水路の中ほどで頑
張っていました。スウェーデン艦隊を視認したオブダム提督は、デ・ウィトを前に立たせて突撃し、オブダムの旗
艦「Eendracht(Eendragt の表記もあり)」は、デ・ウィトの旗艦「Brederode」の後に続きました。「Brederode」と
「Eendracht」の砲撃でウランゲル提督の旗艦は大破し、退却しました。さらにデ・ウィトは一隻のスウェーデン艦
を降伏させ、もう一隻を撃沈します。
 と、ここまでは良かったのですが、デ・ウィトが敵の副司令官の旗艦を追撃していた時、「Brederode」が敵艦と
もども座礁していまいました。そこにすかさず多数のスウェーデン艦が現れて「Brederode」に切り込み、ヴィッ
テ・デ・ウィトは二発の銃弾を受けて戦死、「Brederode」も撃沈されました。おまけに、乱戦の中で後衛のフロー
リス中将も戦死してしまいます。二人の中将を失ってオランダ艦隊が混乱している間に、スウェーデン艦隊は態
勢を立て直し、オブダム提督の本隊を集中攻撃しました。

 この時、オブダム本人は何もしなかったので、旗艦「Eendracht」のコルテノール艦長が、代わって艦隊の指揮
を執らなければなりませんでした。しかし、「Eendracht」は本隊から分離して危地に陥ります。救援しようとする
他の艦もスウェーデン艦隊の戦列を突破出来ず、「Eendracht」の元にたどり着いたのはたった一隻でした(←ち
なみに、この艦の艦長とは、後にデ・ロイテルの副司令官として活躍するアート・ファン・ネス)。しかし、コルテノー
ル艦長の戦いぶりは卓越しており、圧倒的なスウェーデン艦隊を撃退してしまいます。
 で、どちらかと言うとオランダ艦隊の戦いぶりはブザマでしたが、この戦いで敵艦5−8隻を拿捕/撃沈したオラ
ンダ艦隊は、スウェーデン艦隊を海峡から追い払うのに成功しました。人的な損害は、双方同程度だったような
のですが、オランダ艦隊の損害は、沈没は「Brederode」のみで、他に大破6隻と少ないものでした。旗艦
「Eendracht」も、沈没寸前の状態ながら、どうにかデンマークの港にたどり着いています。そして、何よりも肝心
なことに、陸軍部隊の輸送船団は、まったくの無傷でコペンハーゲンに到着しました。

 かくして新生オランダ艦隊は、この「海峡の戦い(Slag in de Sont)」に勝利を飾り、海峡の制海権も確保するこ
とに成功しました。しかし、二人の海軍中将、特に(いかに人望皆無でも)オランダ海軍の大エースであるヴィッテ・
デ・ウィトの戦死は大きな痛手でした。
 また、指揮を放棄したオブダム提督の無責任な行動や、艦隊を統制できず、退却するスウェーデン艦隊を追撃
しなかったことは厳しい批難を浴びます。オブダムは、出撃前からもヴィッテ・デ・ウィトやコルテノール艦長以下
「Eendracht」の乗組員とも仲違いしていたので(オブダムは厳格な性格で知られていましたが、そればかりが原
因ではないようです)、彼の属するアムステルダム司令部内ですら批難ごうごうでした。
 実を言うと、戦闘中にオブダムが指揮を取れなかったのは、痛風(←ズバリ贅沢病)でダウンしていたからでし
た。オブタム本人は、この健康問題のため、辞任してデ・ウィトと交代するように申し出ていたにもかかわらず、ヨ
ハン・デ・ウィットは強引に指揮権を押し付けていたので、オブダムに対する非難は、いささか不当かも知れませ
ん。しかし、人望と人格の点ではどうあれ、実力のある大物の提督達の中で、唯一の共和派支持者と言っても良
いデ・ウィトが戦死してしまった以上、この先も、海軍トップからオランニェ家支持者を排除するため、ヨハン・デ・
ウィットは不人気を承知で、オブダム提督を起用し続けるしかないのでした。
 ここでデ・ロイテルを起用しなかったところに、ヨハン・デ・ウィットとデ・ロイテルの関係を垣間見ることが出来ま
す。政治的に中立であるデ・ロイテルは、扱いやすい反面、イギリスのような大敵と戦っているわけではない状況
では、オランニェ家支持者の意見にも耳を傾ける危険(←あくまで共和派だけの危険)を冒す必要は無いと考えた
のではないでしょうか。


海峡の戦い(Slag in de Sont) 1658.11.9

バルト海遠征

 「海峡の戦い」のおかげで、デンマークは征服をまぬかれましたが、この事態は、イギリスとフランスに、オラン
ダの勢力拡大に対する重大な懸念を呼び起こしました。
 また、連邦議会がさらなる艦隊と陸軍部隊の派遣を決定したので、ハーグでは、英仏の大使が抗議の声をあ
げ、イギリスにいたっては、護国卿クロムウェルの長男、リチャード・クロムウェルの主導で、スウェーデン支援の
軍事介入まで検討し始めました。

 とは言え、この時はもう冬にさしかかっていたので、英蘭どちらの側もバルト海への艦隊派遣には無理がありま
した。そして、オプダム提督が、自身の健康悪化を理由にオランダ艦隊をデンマークから撤収させたので、さしあ
たって、英仏とオランダの衝突は発生しませんでした。
 オプダム提督には、一人で帰って来い、というツッコミもありそうですが、デ・ウィトとピーター・フローリスが戦死
し、オプダム本人も痛風でダウンした状況では、艦隊にまともな指揮官がいなかったのです。

 さて、様々な事情はともかく、連邦議会は、英仏からの抗議は無視ぶっちぎりで、バルト海派遣艦隊を準備しま
した。
 連邦議会は、イギリスは国内情勢がごたついている上に、英蘭戦争が終わったばかりでもあるので、口でなん
と言おうと、実際にイギリスが武力行使することはないだろうと観測していたのです(←正しかった)。フランスの方
も、オランダには実質的な脅威にはなりえませんでした。当時のフランスの海軍力は、オランダと比較することか
らして無理がある微小なものでしかなく、国境を接しているわけでもなかったからです。
 
 そうして艦隊の準備が整うと、誰が指揮を執るかが問題になりました。トロンプ亡し、デ・ウィトも亡しという当時
の状況では、一般論から言って、当時最年長の将官で実戦経験も豊富なヤン・エベルトセンこそが、オランダ海
軍のスペードのエースでした。実際、ゼーラント州以外でも指揮官には彼を推す声が大きかったのですが、ヨハ
ン・デ・ウィットとホラント州はデ・ロイテルを推薦したので、激論になります。
 で、例によって、ホラント州とデ・ウィットのごり押しが通り、指揮官に任命されたのはデ・ロイテルでした。当然
エベルトセンは、デ・ロイテルに強い敵意を抱くようになります。デ・ロイテルの方は、例え嫌われても常にエヴェ
ルトセンに敬意を払っていたので、最終的に二人は親しくなるのですが、和解したのは何年も後のことです。

 なにはともあれ、1659年5月20日、デ・ロイテル指揮する旗艦「Huis te Sweiten」以下40隻のオランダ艦隊
は、マース河口から出撃しました。しかし、スウェーデン軍がノルウェーで敗北したことと、イギリスとフランスの働
きかけによって、スウェーデンが和平を求めたので、当事国間の交渉の間、艦隊はデンマークで半年近く無為の
時を過ごします。
 しかし、スウェーデン国王カール10世は、占領中のフュン島(Fyn)をそのまま確保する意志を示し、譲歩しよう
としませんでした。フュン島がスウェーデン領になれば、デンマークが国土を分断されてしまうのは勿論、オランダ
にとっても、海峡の通行にスウェーデンの影響力が及ぶことになるため(デンマークとの間には、安い通行料で海
峡を通過する条約がありました)、看過できない問題でした。
 そして和平交渉は決裂、デンマークは、フュン島を武力で奪還することになります。

 フュン島のスウェーデン軍は、島の東岸の、海峡の通行を扼する要衝(そして、通行料を徴収する場所)で、要
塞都市として有名なナイボルグ(Nyborg)に拠点を置いていました。そして、もうすぐ真冬になろうかと言う1659
年11月9日、デ・ロイテル率いる75隻のオランダ艦隊が、ナイボルグ沖にあらわれました。
 以前にデンマーク軍が敵前上陸に失敗していたので、デ・ロイテルは、ナイボルグへの正面攻撃は避け、陽動
作戦を実行します。
 日没後にボート隊を出し、海岸近くで発砲したり、ライトを点灯したりして、ナイボルグのスウェーデン軍の注意
をひきつける一方、密かに、艦隊を30マイル北にあるKerteminde(Kartemunde)に移動させ、自らボートに乗っ
て陣頭指揮を行い、日の出前に、そこにオランダの地上部隊を上陸させました。
 当然、ここにもスウェーデンの小規模な守備隊がいましたが、上陸はほぼ奇襲となり、また艦隊からの砲撃支
援も効果的で、Kertemindeのスウェーデン軍はすぐに撃退され、市内に退却します。そしてデ・ロイテルは、容赦
なく町にも砲弾を浴びせたため、結局スウェーデン軍は町を捨てて逃げ出しました。オランダ軍は町を確保して、
橋頭堡を築くのに成功しました。

 二週間後、デンマーク軍部隊が合流しました。そしていよいよ、デンマーク/オランダ連合軍は、海上を併走す
るデ・ロイテルの艦隊からの援護を受けつつ、ナイボルグへと進撃しました。
 スウェーデン軍はと言うと、ナイボルグの前面に土塁と塹壕線を設置して、デンマーク/オランダ軍部隊を待ち
受けていました。まあ、最初の上陸から二週間も経っているのだから、ひどく当然です。
 11月24日の午前11時頃、デンマークの騎兵隊が突撃を開始し、戦闘が始まりました。しかし、グスタフ・アド
ルフの時代以来、精強をもって鳴るスウェーデン陸軍は強く、しかも、塹壕や土塁にこもった態勢だったので、デ
ンマーク/オランダ連合軍は大損害を受けて、撃退されてしまいます。
 ところが、退却する連合軍の側面をスウェーデン軍が追撃し始めた時、連合軍の中央が向きを変えて、この追
撃するスウェーデン軍の方を攻撃しはじめました。
 このため、スウェーデンの追撃隊は混乱し、その混乱が全体に広がって、スウェーデン軍はナイボルグ市内に
向かって退却を始めました。
 この時、ナイボルグを取り巻くように艦隊を配置していたデ・ロイテルは、チャンスとばかりに、狭い城門の前で
渋滞しているスウェーデン兵達を砲撃して、なぎ倒しました。さらに、ナイボルグの市内も砲撃し、ナイボルグ市民
の巻き添えもお構い無しに、通りにひしめくスウェーデン軍を容赦なくぶっ倒しました。その惨状は、艦隊の水兵
も青ざめるほどだったと「The Great duch admirals」にあります。
 スウェーデン軍から連合軍と艦隊に使者が送られ、降伏を協議するための一時間の休戦が求められました。
どうやらこの一時間で結論は出なかったようですが、しかし艦隊が再び市内を砲撃したため、結局スウェーデン
軍は降伏します。

 かくして、スウェーデン陸軍7000人が捕虜となり、フュン島は奪還されました。オランダ艦隊が制海権を掌握
している状況では、地理的に考えて、封鎖だけでフュン島のスウェーデン軍は遠からず降伏したと思われるので
すが、まあ、政治的決断というやつでしょう。
 フュン島を奪還した後、オランダ艦隊は1660年の夏までデンマークに留まり、スウェーデン艦隊を封鎖しまし
た。強硬主戦論者のスウェーデン国王カール10世は1660年2月に死去し、その後、スウェーデンは和平に応じ
てコペンハーゲン条約が締結され、スウェーデンのバルト海制覇の野望は潰えました。1658年から60年まで
のオランダの介入を、スウェーデン-オランダ戦争と呼ぶこともあります。

  このバルト海遠征では、同盟国の市街地を砲撃するという、デ・ロイテルの過酷な一面も明らかになりました
が、ナイボルグの戦いと封鎖作戦の功績により、デ・ロイテルは、デンマーク国王フリードリヒ三世より騎士に叙さ
れました。
 
 (web map server より)

 またナイボルグの戦いは、海軍のデ・ロイテルが、上陸作戦を指揮するという、それまでのオランダの軍事常識
に反するものでした(←カリブの私掠船なら、これよりも前から海戦も陸戦も一緒くたでしたが)。それまでは、一
般に海軍とは海戦を専らとするものであり、上陸作戦は勿論、接舷しての切り込み戦闘などは陸軍の任務である
と考えられていたのです。従って、地上戦闘や白兵戦を専門とする部隊が海軍の指揮下に置かれる事は無く、ま
た陸軍兵士は往々にして海に慣れていないため、いろいろ問題があったのです。
 しかしこの時、意外にあっさりとフュン島の奪回に成功して、自分でも驚いたデ・ロイテルは、こうした海陸共同
作戦のため、この時の次席指揮官であったヴィレム・ファン・ヘント(Willem Joseph Baron van Ghent 1626-1672)
対し、海と船に慣れ、かつ海軍の指揮下で地上戦を戦える部隊(デ・ロイテルは「海の兵士 Zee-soldaten」と呼
んだ)の研究と創設準備を命じたのでした。この部隊は、1665年に海兵隊 Regiment de Marine(直訳すれば海
軍連隊です)として実現しました。これは世界で二番目に古い海兵隊です。
 世界で最初の海兵隊は、1663年のイギリス海兵隊ですが、これはフュン島のデ・ロイテルの作戦に触発され
たためだと言われています。あくまでオランダ側の主張なので鵜呑みには出来ませんが、オランダでは、デ・ロイ
テルは「海兵隊の発明者」とされているようです。
 

 さて、バルト海に出征中の1659年9月、デ・ロイテルの長女コーネリアは、ヨハン・デ・ヴィッテ(Johan de
Witte)という人物と結婚しました。最後にeがついているだけの非常に紛らわしい名前ですが、Lampsins家の親
戚筋の人であり、当然、ホラント州法律顧問ヨハン・デ・ウィットとは別人です。この人は、結婚当初は商船の船
長だったのですが、後にアムステルダム海軍司令部に艦長として勤務するようになります。翌年10月には初孫
に恵まれました。
 その後、長男の若死にもありましたが、デ・ロイテルは、それなりの財産、名声、デンマークから貰った貴族の
位、大勢の子供や孫、今度は長生きしてくれている奥さん等により、家庭的に幸福であったと思われます。
 バルト海での紛争が終結した後は、デ・ロイテルはまた地中海でバーバリ海賊の取り締まりに当たることになり
ましたが、以後、4年ほどは平穏でした。

第二次英蘭戦争

  1658年、イギリスでは護国卿オリバー・クロムウェルが死去し、息子リチャードが護国卿に就任しました。リチ
ャードは父親の軍事独裁体制に批判的であったのですが、父親ほどの能力も信望もなく、軍内部のオリバー信
者の言いなりで議会を解散させたりしたため、ジョージ・モンク将軍のクーデターを招きました。モンクの主導で復
活した議会は、1660年2月、王党派と妥協してオランダに亡命中のチャールズ二世(1630〜1685、位1660〜
1685)の王位復帰を決議します。それに応えてチャールズ二世も、「ブレダ宣言」を発して、父チャールズ一世に
死刑判決を下した人々に対する大赦、内戦や共和国時代に没収あるいは売却された土地に対する購入者の権
利の承認、信仰の自由、軍隊の未払い給与の支払いを約束しました。
 そして、エドワード・モンターギュ提督(1625-1672 チャールズ一世の死刑判決にサインした一人)率いる艦隊
が、チャールズ二世とその一党をオランダから護送し、王政復古がなりました。軍部は概ねこの状況を受け入れ
ましたが、約束通り未払い給与が支払われるまでは解散しようとしなかったので、結局チャールズ二世は、共和
国から莫大な負債を受け継ぐことになりました。また、ブレダ宣言は必ずしも厳守されたわけではなく、共和派に
対する報復も一部で行われました。

 さて、イギリスの政変は、貿易を巡るライバルという英蘭の関係に変化をもたらすことはありませんでした。イギ
リスにもオランダにも議会があり、当時の議員と言う人種が、概ね裕福なビジネスマンであった以上、イギリスの
議員達は第一次英蘭戦争で得た利益をさらに拡大しようと、オランダの議員達は自国の国際貿易における地位
を維持、拡大しようとするのは当然です。
 1660年代、英蘭の争点は、アフリカの奴隷貿易とそれに付随するカリブ海からの貿易でした。これら遠隔地
域は中央の統制が行き届かないため、特に西アフリカは、奴隷商売という関係上、地元の部族に襲われる可能
性もあったりするので、軍事力は絶対に必要だったこともあり、商業上の競争はしばしば暴力沙汰に発展しまし
た(←場所は違いますが、「アンボイナ事件」などはその典型例です)。

 第二次英蘭戦争は、オランダ西インド会社と、イギリスの王立投機会社(Royal Adventurers 1660年からは
王立アフリカ会社 Royal African Company)という二つの国策会社の、西アフリカ、ギニア湾岸における奴隷貿
易を巡るライバル同士の争いが最終的に二国間の戦争にまで拡大したものです。西インド会社は、ゼーラント州
とゼーラント出身の連邦議会議員を政治的なバックアップとしており、一方の王立投機会社は、チャールズ二世
の弟であるヨーク公ジェームズと、主として若手の宮廷人やビジネスマンからなるヨーク公の取り巻きを味方につ
けていました。このため、王立投機会社が扱う奴隷は、ヨーク公に敬意を表して”DY”の焼印を押されていまし
た。嫌なブランド(=本来の意味は「焼印」)です。

 当時はまだオランダが優位に立っていたため、紛争はイギリスのオランダの権益に対する挑戦という形で始ま
りました。まず、王政復古を決定したその議会で、航海条例が強化されました。ここでは、産物の種類や産地に
関する詳細な規定が作られ、地中海(具体的にはトルコ)とバルト海(具体的にはロシア)の産物はそのすべてが、
イングランド、原産国または最初に船積みされた国の船によって輸入されること、イングランド船によって輸入さ
れる外国商品は、原産国、もしくは通常最初に船積みされた場所から持ち込むこと(←つまりオランダに立ち寄っ
て再輸出品を買ってはならない)と規定されました。また、イングランド船(←スコットランド、アイルランドはまだ外
国扱い)の定義とは、船長および乗組員の4分の3がイングランド人であると定められました(←オランダの業者が
イギリス船籍の船を運用することを阻止する)。それから、ヨーロッパ以外の各地からの輸入品は、イングランド、
ウェールズ、アイルランド、および原産国に属する船によって運ばなければならないとされ、イギリスの植民地で
産出つれるタバコ、砂糖、染料はイングランド、アイルランド、その他のイングランド領に専ら輸出しなければなら
ず、植民地への輸出はイングランド、ウェールズ、アイルランド、あるいは植民地の船によるものとされました(こ
うした植民地貿易に関する規定は後に本国の業者にのみ有利なような改定され、アメリカ革命戦争の遠因となり
ます)。さらに1662年には、戦利品を除く外国で建造された船の使用が制限されました。
 
 1662年9月に英蘭間で友好条約が締結されましたが、それも空しく、西アフリカの奴隷貿易を巡る貿易の対
立は激化します。
 イギリスの態度は、非常に高圧的でした。第一次英蘭戦争での戦勝気分が未だに尾を引いていたうえに、ハー
グ駐在イギリス大使ダウニング卿が、オランダ共和国はイギリスの軍事的圧力に抗し得ないし、万一戦争になっ
ても簡単に勝利できる、という誤った情報を本国に伝えていたという事情もありました。
 英国王チャールズ二世は、決して反オランダ政策を推進する意図は持ってはいませんでしたが、弟ヨーク公と
その取り巻きは、国王の政治への無関心につけ込み、独自の政策をごり押ししました。そしてイギリスの誤算は
(と言うよりも、ヨーク公一派の行動全てが誤った思い込みに基づいていたのですが)、オランダが頑強な抵抗を
示したことでした。

 一方、ホラント州法律顧問として、実質的な連邦共和国の指導者の地位を確固たるものにしていたヨハン・デ・
ウィットは、イギリスへの譲歩は自国の破滅を招くと考えており、断固たる拒絶の姿勢を示せば、再建された強力
なオランダ海軍が、イギリスの高圧的姿勢を抑止するだろうと考えていました。また、1662年に締結されたフラ
ンスとの防御同盟も、イギリスへの強力な抑止力になり得ると考えていました(デ・ウィット本人は、スペイン領ネ
ーデルランドへの野心が見え隠れするルイ14世を信用していなかったのですが)。しかし、イギリス側が再建され
たオランダ海軍の戦闘力について正しい情報を持っておらず、従って抑止力になるはずはなかったことと、ルイ1
4世が英蘭間の仲裁を申し出たことは、デ・ウィットの誤算でした。

 先に行動を起こしたのはイギリス側でした。表向きは王立アフリカ会社の私的な武力行使と言う形でしたが、1
663年末から64年5月にかけて、サー・ロバート・ホームズに率いられたイギリス艦隊が西アフリカのギニア湾
岸に遠征し、エルミナ要塞を除くオランダ西インド会社(WIC)の奴隷交易ポストを制圧しました。一部では、イギリ
スに抱き込まれた地元勢力によるオランダ人捕虜の虐殺事件も発生しています(←多分にオランダ側のプロパガ
ンダくさいですが、オランダ人達は食われたらしいです)。
 さらに1664年8月、三隻(四隻?)からなるイギリスの小艦隊が北米ハドソン河口に現れ、マンハッタン島を中
心に存在していたオランダ西インド会社の植民地、ニューアムステルダムを無血で降伏させ、占領しました。
 ここが攻撃目標とされたのは、防備が手薄で、かつイーストリバーを挟んだ現在のロングアイランド近辺にイギ
リスの植民地が存在したためです。イギリス側の言い分は、イギリス人ジョン・カボットが1498年に最初にこの
近辺を探検したから、領有権はイギリスにあるというものでした。町はヨーク公の所領に与えられてニューヨーク
と改称されます(ただし、ヨーク公本人は領主権を分割して友人達に分け与え、オランダ系市民は権利と財産を
保障されたのでそのまま街に居ついた)。

 ただ、こうした行動は、王立アフリカ会社の私的な武力行使の形をとっており、イギリス国家としての軍事行動
ではないので、宣戦布告はありませんでした。ヨーク公一派の立てた計画では、根拠地を奪還するために必ずオ
ランダ本国から艦隊が出動するはずであり、それを英仏海峡で待ち伏せして、第一次英蘭戦争の時と同じく敬礼
を要求し、オランダ側が拒否したところで戦闘に持ち込んで、開戦の理由にするつもりでした。
 しかし、オランダ艦隊が素直に敬礼したらどうするつもりだったのかはさておき、この目算は完全に外れまし
た。ヨハン・デ・ウィットはその手には乗らず、既に地中海に派遣中のデ・ロイテルに対し、アフリカ、及び北米へ
の遠征を命じたのでした。ヨーク公一派の次なる挫折は、デ・ロイテルの艦隊が西アフリカで猛威を振るい、ケー
プコースト城を除いて占領した交易ポストを奪還されたあげく、さらにいくつかのイギリスの交易ポストが奪われた
ことでした。この経済的打撃は大きく、王立アフリカ会社は一時、経営破たんに陥ってしまいます。

 一方のデ・ウィットの誤算はと言うと、イギリス議会の国王に対する信用は充分ではないため、戦争遂行の経費
の支出を認めるはずがないと思い込んでいたことでした。しかし1664年11月、イギリス議会は250万ポンドの
経費を可決します。さらに、デ・ロイテルのアフリカ遠征はイギリスの威信をいたく傷つけたため、どちらかと言う
と無関心だったチャールズ二世の、戦争への関心を高めることになりました。

 また、アフリカ遠征へ多額の投資を行ったヨーク公の取り巻きの貴族やビジネスマン達は、もはや引っ込みが
つかなくなったので、さらなる敵対行動を企図します。その結果1664年12月、枢密院は、英仏海峡とウエスタ
ン・アプローチ(アイルランド西方海域)における全てのオランダ商船に対する攻撃許可を宣言しました。これに関
しては、連邦議会が既にオランダ商船のイギリス領への入港を禁止していたのであまり効果が無く、地中海での
オランダのコンボイに対する攻撃も失敗に終わったのですが、最早戦争は避けられず、1665年3月14日、オ
ランダはイギリスに宣戦布告しました。

ヨーク公ジェームズ・スチュアート もしくはジェームズ二世(Duke of York, James II 1633-1701 
在位1685-1689)

 チャールズ一世の次男。1648年にオランダのハーグに亡命したが、1652年からはフランス陸軍に勤務しており、この間にカソリック信仰に染まる。王政復古後は王立投機会社を通じて奴隷貿易に関与し、この間に航海術や艦船運用術の初歩を学んだようである。第二次英蘭戦争を主導し、第三次英蘭戦争でもイギリス艦隊を指揮するなど、何かとオランダと敵対したが、最後にはオランダ人によって王位を追われるという人生であった。


第二次英蘭戦争開戦時の両国海軍

  王政復古の1660年時点で、イギリス海軍は150万ポンドにのぼる負債を抱えており、財政難は深刻でした。
従って、戦争となった場合に必要な補給品を調達できるかどうか非常に怪しい状態でした。負債の半分は水兵の
未払い給与でしたが、それでもなお人手不足も深刻であり、艦隊の維持には30,000人の水兵が必要なのに、宣
戦布告の時点で16,000人しか在籍しておらず、残りは悪名高い強制徴募でかき集めるしか方法がありませんで
した。当然ながら、強制徴募された水兵は質が悪く、脱走が頻発しました。
 士官の数は足りており、1661年より士官候補生(midshipman)の制度も導入されていましたが、士官達の派
閥抗争が深刻でした。まず、ターポリン(tarpolin 防水布)と呼ばれる水兵からのたたき上げ士官達と、王政復古
後に数が増えたコネと門閥を背景に昇進した士官達の対立がありました。また、水兵達の気質や苦労をわきま
えたターポリン達に対し、上流階級出身の士官は威張り散らすばかりであり、サボリ、泥酔、命令の遅滞、不必
要な従者の乗艦等の罪で告発されるバカ者が多く居ました。また、後になって「王の名において議会の命令で戦
う」という海軍の任務形態が確立されますが、当時は議会の命令で戦うと考える士官と、国王のために戦うと考
えている士官の間にも対立があったようです。

 開戦時、ヨーク公ジェームズが最高司令官Lord High Admiralとして赤色艦隊の司令長官を務め、白色艦隊は
チャールズ二世の甥ルパート王子が指揮し、青色艦隊は今やサンドウィッチ伯爵に任じられたエドワード・モンタ
ーギュ提督(←つまり、24時間トランプしつづけるために「サンドウィッチ」を発明したバカ役人のご先祖様)が指
揮していました。しかし、サンドイッチ伯はチャールズ一世に死刑判決を下した判事の一人であったため、ヨーク
公との仲は極めて険悪であり、共和制支持者だったという背景もあって、ルパート王子ともしっくり行っていませ
んでした。
 この時期、名官僚として名高いサミュエル・ピープス(Samuel Pepys 1633−1703)は、海軍の負債削減に
尽力し、士官採用に航海術と艦船運用術の学科試験を課して無能な士官を排除する(←この反面、経験はあっ
ても学術的素養の無い下層階級の水兵達は士官への道を閉ざされることになります)等の改革に着手しはじめ
ましたが、実を結んだのはずっと後のことでした。

 ともあれ、1665年時点でイギリス海軍には、100t以上の軍艦は143隻、約102000tが在籍しており、その内
砲50門以上を搭載した艦は42-59隻ありました(砲の搭載数に幅があるので一概には言えないです)。しかし、特
に大型の十数隻は1610-1630年代就役の艦を改装したものであり、国と海軍の財政難も反映して、1660年代
前半の大型艦の新造はわずか二隻でした。
 

 一方のオランダ海軍は、大型艦の数も増え、搭載された武装も強力になり、第一次英蘭戦争の時と比べて格
段に強力になっていました。とは言え、フリースラント、ホラント州ノールトカターなどの弱小海軍司令部が大型の
軍艦を用意できなかったため、平均的にはまだイギリス海軍艦隊に比べて軍艦は小さく、18ポンド砲と24ポンド
砲が主力火器で、イギリスの軍艦に比べると火力も貧弱でした。おそらく、もともとオランダは大砲生産が盛んで
はないこと、最大の大砲の供給国であるスウェーデンとの関係がしっく行っていなかったことが原因でしょう。

 しかし、イギリスとは対照的に、オランダ経済の好況とデ・ウィットの海軍再建策を反映して、第一次英蘭戦争
後に100隻以上の軍艦が建造されたので、1665年時点で100t以上の軍艦は115隻、約81000tが在籍してい
ました。ここにさらに、オランダ東インド会社所属の大型武装商船が何隻か加わり、就役間近の大型艦が20隻
近くありました。火砲が小さいので単純に数だけで比較することはできませんが、砲50門以上搭載の艦は、第一
次英蘭戦争時には僅か二隻だったのが、開戦後に就役したものも含め、1665年時点でなんと73−86隻(搭
載数の幅や東インド会社船の徴用もあるので一定しない)。1660年代に入って建造された新型艦は東インド会
社船も含めて39隻、残りも1650年代に建造された軍艦でした(と言っても、これら50年代の軍艦は少し旧式化
していた)。ただし、新造艦の半分ほどはアムステルダム司令部の建造で、残り半分のそのまた半分はロッテル
ダム司令部の建造であり、内部事情をよく反映しています。
 ちなみに、オランダの同盟国たるフランスは、海軍はまだ発展途上で、100t以上の軍艦は47隻です(ただし、7
0年代には一気に120隻となります)。

 オランダ海軍では、イギリス海軍に比べて専業の海軍士官がまだ少なく、士官候補生制度も整備されていませ
んでした。また、イギリス海軍と同様に水兵の数も多くはありませんでした。しかし、オランダは海員人口が絶対
的にイギリスに勝っているので、人手不足については大した問題とは考えられていませんでした。そして将官クラ
スには、デ・ロイテル、ヤン・エベルトセンら有能で経験豊富な人材が揃っていました。

 ただ、経験も人気もなく、かつ健康も損ねていて、「海峡の戦い」以来批難ごうごうのオブダム提督を最高司令
官にいただいているのが、オランダ海軍の人事における最大の問題でした。オブダム自身は、単に海軍経験が
無かっただけで有能な人物だったし、前任者のマールテン・トロンプや、同じく陸軍出身であるイギリスのブレーク
やモンクとどうしても比較されてしまうこと、デ・ウィットが頻繁に指揮系統に介入したので海軍内部でも影が薄か
った、などの理由でオブダムを弁護する向きもあります。しかし、デ・ウィットに刃向かって辞職するだけの意志も
力量も無かったし、大半の士官がイギリス式「ラインタクティクス」の有効性に気がついたにも関わらず、特に理
由は不明ながら在任中はついに「ラインタクティクス」を採用しなかったことなどからして、やはりオブダムはオラ
ンダ海軍の最高司令官に相応しい人物ではなかったようです。
 もっとも、オブダム提督の存在も悪いことばかりではなく、5つある海軍本部が「オブダム提督キライ」でまとま
り、反目を乗り越えて結束するという予想外の効果をもたらしていました。
 

イギリス艦の大砲装備パターン オランダ艦の大砲装備パターン
ロイヤル・ソブリン(1666当時)
 42ポンド砲13
 32ポンド砲13
 18ポンド砲36
 9ポンド砲18
 5.25ポンド砲22
 計102門
Eendracht(オブダムの旗艦, 1658)
36ポンド砲3
24ポンド砲22
18ポンド砲14
12ポンド砲12
6ポンド砲22
計73門 
Royal Katherine(1664当時)
 32ポンド砲26
 18ポンド砲26
 6ポンド砲24
 5.25ポンド砲8
 計84門

Spiegel(アフリカ遠征時のデ・ロイテルの旗艦 1663)
24ポンド砲8
18ポンド砲16
12ポンド砲24
6ポンド砲20
計68門
なお、イギリスの1ポンド=0.4536gに対し、当時オランダでは1ポンド= 0.4941kg。
でも、大砲の火力に影響するほどの差ではないです。
ルパート王子( Prince Rupert 1619-1682)

チャールズ一世の姉、エリザベータの第三子で、チャールズ二世の甥にあたる。1619年プラハ生まれ。1636年にイギリスに渡って、チャールズ一世夫妻のお気に入りとなった。1633−1638年の間に断続的にオランダ陸軍に勤務して三十年戦争に参加、皇帝軍の捕虜となって1641年まで拘束された。
 イギリスの内戦では、王党派軍の最もカリスマ的なリーダーとして活躍。イングランドを追われた後も、王党派海軍の残党や私掠船を率いて地中海やカリブ海を転戦したが、1653年にフランス滞在中のチャールズ二世と仲違いし、ドイツに戻って錬金術にハマった。王政復古後はこれらの経験を生かし、海軍士官としては勿論、英国学士院(Royal Society)の創設メンバーとして科学の振興にも尽力し、火薬や真鍮の製造法の改良に貢献している。 
サンドウィッチ伯爵 エドワード・モンターギュ
( Edward Montagu, 1st Earl of Sandwich 1625-1672)
サミュエル・ピープス(Samuel Pepys 1633-1703)

仕立て屋の息子だが、エドワード・モンターギュの遠い親戚にあたり、彼の秘書を経て、共和制末期より海軍本部の要職に就く。以後、海軍本部の官房長や海軍大臣を長く務め、イギリス海軍の改革に尽力した。非常に有能な官僚で人情味も厚い好人物だったが、首までどぶに浸かった腐れ役人としても名高い。
 浮気が奥さんにバレないように暗号で日記を書いていたが、この日記は今や「サミュエル・ピープスの日記(1660-1668)」として、日記文学の白眉と評され、近世イギリス社会の貴重な資料として有名である(←大バカ)。


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