ジョン・ポール・ジョーンズその7 革命戦争終わる 1778年、在米イギリス軍司令官ヘンリー・クリントン将軍は、北部の維持を絶望的と判断して、比較的王党派 が多いと思われた南部に目を向けました。そして1778年12月28日、イギリス軍はジョージア植民地のサバナ 港を占領しました。1779年9月、ド・エスタン提督の艦隊の支援の下、大陸軍はサバナ奪回を試みましたが、大 失敗でした。特にド・エスタン提督の行動は最悪で、準備に当たっては緩慢でイギリス軍の防備を固めさせ、攻撃 となれば性急で大損害を出して自身も負傷するという体たらくで、ついにクビになりました。 この顛末を知ったクリントン将軍は、南部での形成挽回を確信したため、1779年12月、自ら8500人の部隊 を率いてサバナに移動しました(←このため、ニューポートからは撤退しなくてはならなかった)。その後のイギリス 側の作戦は順調で、1780年5月には、カロライナの首都チャールストンを占領しました。一方、アメリカ側は財 政的困窮と物資不足が頂点に達しており、攻勢に出ることが出来ない状況でした(従って、物資輸送をジャマした ランダース艦長の罪は非常に大きいです)。 6月以降、チャールズ・コーンウォリス将軍が南部のイギリス軍の指揮を取りますが、イギリス軍は快進撃を続 け、大陸軍はゲリラ戦で対抗しなければなりませんでした(映画「パトリオット」はこの辺りの経緯をテーマにしてい ます)。で、イギリス軍は内陸部に引きずり込まれて補給切れとなったので、北部に攻め上るつもりだったコーン ウォリス将軍は、イギリス艦隊からの補給を受けるため、チェサピーク湾の南岸の町、ヨークタウンに引き上げま した。 ワシントン将軍は、これをチャンスと見ました。ワシントン将軍はニューヨークを包囲中でしたが、ロシャンボー 将軍率いるフランス軍とともに南下して、1781年の8月下旬、ヨークタウンを包囲しました。当時、フランス艦隊 の主力は西インド諸島に在りましたが、ワシントン将軍からの連絡を受けて駆けつけ、チェサピーク湾を封鎖しま した。 包囲されたヨークタウンを救援すべく、19隻の戦列艦からなるイギリス艦隊がニューヨークを出撃します。当 時、北米のフランス艦隊は戦列艦8隻と小規模だったので、イギリス艦隊の司令官、グレーブス提督は簡単に勝 てると思い込んでいたのですが、チェサピーク湾に到着してみると、ド・グラース提督(デスタンの優秀な部下だっ た)率いる戦列艦24隻の大艦隊が頑張っていました。そして、わずか2時間の交戦の後、グレーブス提督は攻撃 を諦めて逃走しました。フランス艦隊がチェサピーク湾に到着したのは8月30日で、イギリス艦隊の到着は9月 5日であり、帆船時代では実にきわどいタイミングでしたが、米仏間で綿密に計画された海陸共同作戦でした。 根拠ははっきりしないのですが、フランス側の証言では、ド・グラース提督の艦隊を西インド諸島から転用したの は、ジョーンズの献策だということです。 何にせよ、この僅か一週間の差が歴史を変えることになりました。1万6千人の陸軍と大艦隊に包囲されたコ ーンウォリス将軍は、その後も40日ほど頑張っていましたが、10月19日、ついに降伏しました。なおコーンウォ リス将軍は、バーゴイン将軍の例に習って兵士を帰国させようとしましたが、ワシントン将軍はそれを許さず、結 局、コーンウォリス将軍も含めた8000人のイギリス軍が捕虜になりました。実質的にこれがアメリカ革命戦争の 終結であり、以降、小規模な戦闘が散発的に続くのみとなりました。 さて、アメリカ革命戦争の大局が決しても、西インド諸島を巡る英仏間の抗争はまだ続きました。そして1782 年4月9日から12日にかけて、英仏間の決戦と言うべき、「セインツ諸島沖海戦” Battle of the Saints”」が発 生しました。 フランス海軍の根拠地、マルチニーク島とイギリス海軍の根拠地、セント・ルシア島との中間にある小さな群 島、セインツ諸島沖で36隻のイギリス艦隊と、軍艦33隻と100隻以上の輸送船からなるフランス艦隊が衝突 し、イギリス艦隊の損害が皆無なのに対し、フランス艦隊は旗艦も含めた戦列艦5隻を失って大敗し、ド・グラー ス提督も捕虜になって、イギリス海軍の優位は決定的となりました。 1782年11月30日の仮講和条約締結となり、12月5日、イギリス国王ジョージ2世はアメリカ独立を承認しま す。そして1783年4月19日、大陸会議は休戦を宣言しました。しかし、本講和となると手間取って、1783年9 月3日、ようやくパリ条約が締結されました。この条約によってアメリカは独立を承認された上に、ミシシッピー河 以東の広大なルイジアナ地方(当時は「西部」と呼ばれた)と、ニューファウンドランド近海における漁業権を獲得 しました。一方、フランス、スペインとイギリスの間には、別にヴェルサイユ講和条約が締結されました。フランス はトリニダード島を割譲され、七年戦争で奪われた西アフリカのセネガルを取り返しました。スペインは、七年戦 争で奪われたフロリダと地中海のミノルカ島を取り戻しました。スペインは概ね満足したようですが、フランスの希 望はあまり満たされず、アメリカ革命戦争への介入は骨折り損に終わりました。それもこれもセインツ諸島沖海 戦に大敗したからで、まあ、仕方ないでしょう。 セインツ諸島沖海戦 ジョーンズの戦後 1782年12月、ジョン・ポール・ジョーンズは、フランス海軍のジャマイカ島遠征に参加しましたが(このため、不 払い裁判に出席出来なかった)、戦闘に参加することは無く、作戦そのものも、講和の進展その他の事情で中止 になったので、1783年5月、フィラデルフィアに戻りました。 1783年9月、革命戦争が終わると、ジョーンズは新国家の海軍における将官の地位を期待していました。とこ ろが、財政の窮乏により海軍組織は解散されてしまい、アメリカはその後十数年、海軍を持たない国家となった のでした。大陸海軍に残存していた僅かな軍艦は、「アライアンス」を残して1784年中に競売で売り飛ばされま した。ランダースがクビになった後の「アライアンス」は、ジョン・バリー艦長の下で大活躍しており、1783年3月 には、アメリカ革命戦争最後の海戦に勝利を収めたといういわくもあって、「アライアンス」の保存を望む声も多か ったのですが、これも1785年8月1日、ジョン・コバーンという人物が25000ドルで買い、「ホワイトヘッド」と改 名されます。その後、ロバート・モリスが買い取って、中国との貿易に使用されました。 さて、乗るべき軍艦と働き場の無くなったジョン・ポール・ジョーンズは、1783年11月、合衆国議会の命によ り、「Prize Agent」としてフランスに派遣され、自分自身の稼ぎ分も含め、フランス政府に対する請求分の拿捕賞 金を回収する任務につきました。一年間のフランス滞在の間、「マダムT(多分、タウンゼントという名前らしい。詳 細は不明)」というイギリス人の未亡人と恋仲になり、結婚はしなかったものの、子供を生ませたらしいです。 その後、外交官としてフランスとアメリカを往き来しましたが、アメリカの自由に尽力したと自負していたジョーン ズは、その待遇、特に、海軍での働き場を失ったことが大いに不満でした。独立後のアメリカは海運業の発展が 著しく、もともと商船乗りで、しかも、ジョン・ハンコックやロバート・モリスなど、裕福な海運業者にも知り合いが多 いジョーンズなら海での職には困らなかったはずですが、何故か海軍に拘ったのでした。 そして1787年、ジョーンズは、フランス海軍での働き場を求めてパリに行きました。 しかし、パリに到着したジョーンズは、ロシアから接触を受けました。1787年に黒海においてトルコとの戦争が 勃発していたからです。相応の待遇をしようというロシアの女帝、カザリン二世の申し出をジョーンズは受けること にしました。 で、公務でデンマークに出張した時にジョーンズは出奔して、ストックホルムを経由して、1788年初頭、ロシア の首都サンクト・ペテルブルグに到着しました。なお、ストックホルムからの航海中に流氷で航路が阻まれた時、 引き返そうとする船頭をぶん殴り、強引に航海を続けさせたらしいです。 ジョーンズは海軍少将の階級と独立した指揮権を要求していました。階級のほうは海軍少将(Kontradmiral)の 地位を与えられ、ロシア風にPavel Ivanovich Jones提督として、トルコとの戦争が続く黒海に赴任しましたが、 現地で与えられたのは、ロシア黒海艦隊司令官ポチョムキン提督(優秀な軍人だし、悪い人でもないのですが、と んでもない変人として有名)指揮下の、66門戦列艦「ウラジミール」と大型フリゲート一隻の小さな戦隊でした。 黒海のロシア艦隊の大部分は小型のガレー船であり、主力と言えるのは5隻の戦列艦と14隻のフリゲートしか なく(対するトルコ艦隊は、戦列艦29隻フリゲート39隻と圧倒的でした)、現実に艦艇の余裕が無かったのです が、ロシア宮廷の陰湿な人間関係のしがらみも背景にあったようです。それにガレー船戦隊の指揮官であるカー ル・ナサウ-ザイゲン公子は、ジョーンズの過去の業績といきなりの出世に嫉妬剥き出しでした。 それでもジョーンズは、オチャコフ(現ウクライナ)を巡る海戦に参加しました。1788年6月17日から18日、ハ ッサン・パシャ率いる98隻ものトルコの大艦隊と、ジョーンズの戦隊も含めて58隻のロシア艦隊がオチャコフ湾 で衝突しました。ロシア側は圧倒的に不利でしたが、非常に巧妙に戦いました。その結果トルコ艦隊は、戦列艦 2隻とフリゲート5隻が沈没、戦列艦1隻が拿捕され、死者2000人、捕虜1673人という大損害を出して敗退し ました。一方のロシア海軍は、死者85人と浮き砲台が一つ沈没しただけでした。ジョーンズの戦隊はと言うと、フ リゲート艦で18人の死傷者を出しています。 しかしながら、ナサウ-ザイゲン公子が手柄を独り占めして(←それなりに働いてはいましたが)、ペテルブルグ への報告書では自分の戦果を大幅に水増しするとともに、取り巻きと共謀してジョーンズの報告書をカザリン女 帝の目に触れさせないようにしました。ジョーンズの方も、そうした人間関係のしがらみに嫌気が差す一方、ロシ アの専制体制の圧制と組織運営の非効率を目の当たりにして、それまで非効率だと考えていた大陸海軍の方が ずっとマシだったという事実に気がつきました。 それでもジョーンズは、15ヶ月間ロシア海軍に勤務しましたが、ペテルブルグに出張した時、決定的な事件が 発生しました。彼はナンと、カテリーナという行商人の10歳の少女とヤっちゃったという、ロリロリの濡れ衣を着 せられてしまったのです (大爆)! もちろん、ジョーンズを嫌う連中による悪質な嫌がらせであり、裁判でも無罪 になったのですが、ロシアにすっかり嫌気が差したジョーンズは、さっさと辞任してフランスに帰りました。 あまりにもアホらしいロシア海軍勤務の結末の後、1790年、ジョーンズはパリに落ち着きました。そこで彼は 人生最後の2年間を過ごすわけですが、社交界の集まりに顔を出したり、友人達を自分のアパートに招いたりし つつも、その生活はさびしいものでした。 海軍史研究家のサミュエル・エリオット・モリソン博士は、ジョーンズの自己中心的な性格と、栄達を求める過度 の自己宣伝が、周囲の反感を買ったのだと指摘しています。実際、最初はジョーンズの大ファンであったカザリン 二世も、ジョーンズに関して「彼は自分のビジネスにのみ心を砕いているgo mind his own business」と述べてい ます。ラファイエット侯爵ですらジョーンズと会おうとはしていません。 ジョーンズが大陸海軍に入ったのも有力者に運動した結果であり、いかに元商船の船長とは言え、軍歴も私掠 船の経験も無しで、いきなり旗艦の先任士官という地位に就いています。ジョーンズの自己宣伝の上手さを垣間 見ることが出来ますが、国運を賭した大戦争が終わってしまうと、手柄をハナにかける、単なるでしゃばりのうる さいヤツになってしまったのでしょう。 ジョーンズを弁護する人々は、独立運動を主導した人々はみな裕福な事業主であり、多くは革命戦争で財産を 増やしたことを指摘して、栄達を求めたジョーンズが嫌われるのは不当だとしていますが、そもそもジョーンズ自 身が、例え女性にモテたにせよ、あんまり人に好かれる性格でもなかったことも考慮しなければなりません。 とは言え、ジョーンズが表舞台へ復帰する道も開けていました。フランス革命による混乱の中、フランスと関係 の深いアルジェの海賊によるアメリカ船襲撃事件が頻発したことは「スティーブン・ディケーター」の項でも触れま したが、1792年6月、ワシントン大統領は、抑留されたアメリカ人の釈放交渉(身代金は一人2000ドル)のた め、ジョーンズをアルジェ駐在領事に任命したのです。 しかし、ジョーンズが生きてその辞令を受け取る事はありませんでした。ジョーンズは「胸部に水腫」(気管支炎 と腎不全だった)を患って健康を損ねていました。1792年7月18日、病床のジョーンズは、フランスを訪問中だ った友人のGouverneur Morris(1781年からロバート・モリスのアシスタントをしていましたが、親戚ではない)をア パートに呼んで、遺言の執行人になってもらいました(アメリカの姪に30000ドルが遺贈された)。その数時間 後、約束のディナーから戻ってきたモリスは、うつ伏せで、ベッドから半分はみだした状態で死亡しているジョン・ ポール・ジョーンズを発見したのでした。享年45歳。 ジョーンズの遺体は、フランス人のジョーンズファンが用意した超高級な鉛の棺に収められましたが(Morrisは 遺産を減らすまいと考えて、失礼にも一番安物の棺を用意したからです。ついでMorrisは、よんどころない事情 で葬儀も欠席しました)、2日後に行われた葬儀に出席したのは、ジョーンズの使用人とメイド、数人の元部下だ けでした。 最後には栄光が ジョーンズの遺体は、フランス王室所有のサン・ルイ墓地の外国人用の区画に埋葬されました。 ところがその4年後、フランス革命政府が墓地を競売で売りとばしてしまったので、ジョーンズの遺体はその 後、行方不明となりました。 ジョン・ポール・ジョーンズは、嫌われ者として短い生涯を終え、その墓所も忘れ去られましたが、しかし、その 功績が忘れ去られた訳ではありませんでした。1825年、ニューヨークとロンドンで最初の伝記が出版され、同 年、ジェームズ・フェニモア・クーパーが、プロットにジョーンズの事績を取り入れた小説「The Pilot」を出版しまし た。以後、イギリスとアメリカで多くの伝記が出版されますが、イギリスにおけるジョーンズの評価は、反逆者で海 賊という所に定着しており、イギリス人の作家は、あること無いことジョーンズをあしざまに書きました。一方のア メリカ側の伝記も、悪く書いてないだけで正確さを欠き、この時期に、例の名台詞を代表とする、真偽のわからぬ 伝説が多数生み出されたのでした。 1845年、アメリカ海軍のシャーバーン大佐により、ジョーンズの遺体をアメリカに戻そう言う運動が起こります が、残念ながら、フランス革命とナポレオン戦争のドサクサで墓の所在が分からなくなっていたことと、スコットラ ンドのジョーンズの親類の猛抗議で頓挫します。 そして1900年、伝記作家Augustus C. Buellによる「Paul Jones: Founder of the American Navy」が出版さ れました。ジョン・ポール・ジョーンズを熱誠の愛国者として描くこの本は、彼の伝記の中では最も人気があり、現 在も書店に並んでいるのですが、おおよそヒドい出来の本で、引用されているジョーンズの書簡やコメントのほぼ 全てが作者による捏造です。しかし、この本の中には、海軍士官学校設立関するジョーンズの提言という、非常 に重大な捏造箇所があり、このためジョン・ポール・ジョーンズは、「アメリカ海軍の父」という称号を奉られること になったのでした。モリスやハンコックに対して海軍組織の近代化を提言していたことは事実のようなので、あな がち間違いでは無いかも知れませんが、捏造が判明してから、この「アメリカ海軍の父」という称号は大袈裟すぎ るという意見もあります。 それはともかく、ビューエルの伝記が出版される一年前の1899年、駐仏大使に就任したホレース・ポーター将 軍が、個人的な興味からジョーンズの遺体捜しを始めていました。ジョーンズの埋葬許可証は、革命とナポレオ ン戦争の混乱の中で失われており、捜索は難航しました。4年かけて墓地の位置を特定するも、そこは既に住宅 やら商店やらが立ち並ぶ地区となっており、発掘の許可を得ようとすると地主に吹っかけられ、交渉に2年も費 やされました。 しかし、この頃になるとジョーンズは、ビューエルの伝記のおかけで、「アメリカ海軍の父」として認識されるよう になっていたため、おりしも海軍増強策を推進するセオドア・ルーズベルト大統領は、遺体捜索の費用の支出を 議会に要請しました。この結果、35000ドルが支出されることになります。 そして1905年4月8日、ポーター将軍はついにジョーンズの遺体を発見しました。ポーター将軍の6年の苦労 は、遺体と対面した瞬間に十分に報われたはずです。何となれば、遺体はアルコールで防腐処理されていたらし く(ポーター将軍は強いアルコールの臭いがしたと報告している)、ミイラ化した遺体は、一見してジョン・ポール・ジ ョーンズだと分かるほど保存状態が良好だったからです。 そうは言っても、一応検死が行われ、遺体は間違いなく18世紀末の白人男性であり、体格は勿論、オードン作 の胸像と遺体の顔の各部の寸法がほぼ一致していることが確認されました。また、葬儀の目撃証言通り外国人 用のプロテスタント墓地で鉛の棺に入っていたこと、解剖所見で気管支炎が確認されたこと(他に腎不全もあっ た)、経帷子のJPの文字 (最期は本名で通したらしい)、外傷が全く無い(数々の戦闘にも関わらず、ジョーンズは 一度も負傷していない)、副葬品が無い(制服と私物は競売で信奉者達に買われていた)、などの証拠により、間 違いなくジョーンズ本人の遺体であると断定されました。 フレデリックスバーグ、フィラデルフィア、ワシントンその他、ジョーンズと少しでも縁のあった所は埋葬地に名乗 りを上げましたが、結局はアメリカ海軍士官学校のあるアナポリスに埋葬されることになります。 ジョン・ポール・ジョーンズの棺は、「レンジャー」が掲揚していた星条旗に包まれてパリ市内を行進した後、戦 艦七隻、巡洋艦四隻の米仏連合艦隊に守られ、119年ぶりにアメリカに帰還しました。1906年4月24日、ポ ーター将軍、州知事、セオドア・ルーズベルト大統領(ここでいきなり海軍増強策に関する演説をぶって顰蹙を買 った)を含めた1000人以上の政府高官が出席する盛大な葬儀が行われました。 その後1913年、遺体は海軍士官学校内の礼拝堂に移され、現在に至ります。 まとめ ジョン・ポール・ジョーンズ(今更ですが、レッド・ツェッペリンのベースじゃないですよ)は、現在も「アメリカ海軍の 父」ですが、その真相はここに述べたとおりです。とは言え、勇敢で優秀な船乗りだったのは間違い無く、アメリカ の独立にも貢献したので、現在では、アメリカ独立戦争時の優秀な指揮官としての「アメリカ海軍の父」の意味に 変わっているようです。数字の上では、ジョーンズ以上の戦果を上げた船長も何人か居ますが、通商破壊活動を もっぱらとした大陸海軍において、イギリスの軍艦を撃破している点が高ポイントとなっています。しかし、ネルソ ン、東郷とならぶ「世界三大提督」と言うことになると、やはりギモンです。 また、ジョーンズの行動から、本当にアメリカの愛国者だったかを疑問視する向きもあります。真偽ははっきり しないものの、ジョーンズ自身「Citizen of the world」と自称していたことと、フランスやロシアに職を求めた辺り が、愛国心に乏しい証左と受け取れます。とは言えこれは、大陸会議とアメリカ合衆国が、ジョーンズの手柄に報 いる事に不十分だったからでもあります。 結局のところ、カザリン女帝が証言しているように、ジョン。ポール・ジョーンズは、あくまで自分本位の、ビジネ スライクな自由人であったのでしょう。
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