ジョン・ポール・ジョーンズその6
名台詞はウソ 伝説のフラムボロー・ヘッドの海戦 
 この後の「ボンノム・リチャード」対「セラピス」の戦い、フラムボロー・ヘッドの海戦は、アメリカ革命戦争の海上
戦闘では最も有名です。
 夜7時半頃、「ボンノム・リチャード」と「セラピス」は接舷しての白兵戦となりました。「ボンノム・リチャード」は押
され気味であり、「セラピス」のピアソン艦長が、
「慈悲を乞うか?(Do you ask for quarter?)」
と呼びかけたところ、ジョーンズは、
「俺はまだ戦いを始めてない!(I have not yet begun to fight!)」
と怒鳴り返して反撃し、ついに「セラピス」を降伏させました。「ボンノム・リチャード」は損傷で沈没しましたが、こ
の勇敢な戦いぶりと、「I have not yet begun to fight!」の名台詞によって、ジョン・ポール・ジョーンズはアメリカ
海軍の伝説となったのです。
 
 このフラムボロー・ヘッドの海戦で、ジョン・ポール・ジョーンズが勇敢だったのは間違いありません。アメリカ人
達は、これがアメリカ海軍の勇猛さの原点だと言いますが、本当のところそうではなさそうです。ジョン・ポール・
ジョーンズがスコットランド人である事実は無視しても、「ボンノム・リチャード」の乗員の内、アメリカ人はわずか7
0人ほどでしかなく(しかも、後述の事故と被弾で、白兵戦になる前に多くが死傷していた)、奮戦したのは「ボンノ
ム・リチャード」に配備されていた137人のフランス海兵隊員でした。そして、アメリカ人の士官達の何人かが、
戦意を失って任務を放棄したことがジョーンズの報告書に明記されています。
 また、肝心の輸送船団を取り逃がしたことを、歴史家は無視しています。しかしジョーンズ自身は船団を取り逃
がしたことを重く受け止めており、 (「アライアンス」も含めて)どの船も追跡できる状態に無かったとフランクリン
博士に釈明しています。これは「セラピス」のピアソン艦長と「スカーバラ伯爵夫人」のパーシー艦長が、イギリス
海軍の名に恥じず、自らを犠牲にして護衛任務を完遂したという証明であり、これは敗者と言えども称えられる
べきです。
 で、一番気になるところは、例の「I have not yet begun to fight!」という名台詞は本当か、という点ですが、こ
れは明らかにウソです。なんとなれば、この台詞が登場するのは1825年以降の文献で、それ以前は違う台詞
だからです。
 そもそもピアソン艦長の台詞からして、前述の「Do you ask for quarter?」と、もう一つ、「Has your ship
struck?」という説があります。この場合、StruckはStrikeの過去形で、白旗とともに降伏の意思表示でもあった
「旗を降ろす」の意味、つまり「降伏する」の意味もありました。従って、ピアソン艦長が本来の「攻撃する」の意味
で発言したか、ジョーンズが意味を取り違えるかしていたなら、この歴史的な名場面は、
ピアソン艦長:「けけけっ、キサマの船はそれで攻撃したつもりか!(脚色あり)」
ジョーンズ:「むきーっ!俺はまだ戦いを始めちゃいないんだ!(脚色あり)」
と、意味はしっくり通るものの、非常に情けない様相も呈します。
 また、ジョーンズの報告書には、「敵の司令官が降伏を要求してきたが、私は拒絶したThe English
Commodore asked me if I demanded quarters, and I having answered him in the most determined
negative,」と簡潔に記されているだけです。そして、フランス滞在中にジョーンズが書いた回想で、ピアソン艦長
が"Do you ask for quarter? Do you ask for quarter?"と二度繰り返したのに対し、ジョーンズは”Je ne
songe point a me rendre, mais je suis determine a vous faire demander quartier(←フランス語「あんたは
そう言うが、俺はお前を降伏させると決めているんだ!」という意味)”と返答したと、本人がはっきり語っていま
す。これも名台詞には違いないでしょうが、どう考えても「I have not yet begun to fight!」とは違います。
 なお、「セラピス」を撃破した後にフランクリン博士に宛てた報告書には、「ジョーンズだ!海賊ジョーンズが俺
達を皆殺しに来た!"It's Jones! Jones the Pirate coming to murder us all!"」というセリフ、前後の脈絡が分
かりにくいのですが、おそらく戦闘開始直前に「セラピス」から聞こえてきたであろう叫び声、をジョーンズは報告
しています(声が聞こえるのが奇異に思われるかもしれませんが、当時の海戦は大砲の精度の限界でせいぜい
数百メートルの距離で戦うことが多く、特にイギリス海軍の砲手は、敵の乗組員の声が聞こえれば有効射程、と
いう訓練を受けていました)。これは、本人の報告でもあるし、イギリス海軍がジョン・ポール・ジョーンズに抱いて
いた恐怖と畏敬を如実に示すものであり、こちらの方が伝説となってしかるべきでしょう。
 
 それから、この伝説の戦いには戦略的な意義がありませんでした。いやまあ、本来なら北米のイギリス艦隊を
本国に引き戻す効果が期待できたのですが、ジョーンズには知る由も無いことながら、8月13日、メーンのペノ
ブスコット湾奪回の命を受けたダッドリー・ソルトンストール戦隊司令官(元「アルフレッド」艦長)は、要塞の射程
内に入るのを怖がって陸軍の支援を行わず、イギリス艦隊が現れると、抵抗もせずに艦隊を自沈させて陸上に
逃げ、マサチューセッツの海軍と貿易船の大部分である軍艦5隻と輸送船14隻を全滅させていたので(←大バ
カ。勿論クビ)、ジョーンズの苦心の一勝も、せいぜいが失点を取り返した程度にしかならなかったのです。

 「ボンノム・リチャード」とジョン・ポール・ジョーンズは勇戦し、「セラピス」を撃破しました。それは間違いありま
せん。しかし、その戦いぶりは、けっこうブザマでした。
 午後7時過ぎ、「セラピス」と「ボンノム・リチャード」は、約800ft(240m)の距離を開けて並走をはじめました。
「セラピス」のピアソン艦長は、「ボンノム・リチャード」に二回、識別の合図を送りましたが、ジョーンズは片舷斉
射(多分、右舷側)でそれに応えました。ところが、「ボンノム・リチャード」に大モンダイが発生!
 古くて怪しい18ポンド砲は、やっぱりとんでもないシロモノでした。そこまでの航海中、この18ポンド砲を撃った
ことは一度も無く、これが初めての射撃だったのですが、戦闘舷にある三門のうち二門が、見事に腔内爆発を起
こしました(ジョーンズの報告書では、爆発する前に片舷斉射を行ったと取れる文脈があるので、爆発したのは二
斉射目だという説もあり)。
 この18ポンド砲は下層甲板にあったのですが、爆風は上甲板まで吹き上げ、飛び散った破片は、18ポンド砲
の砲手は勿論、12ポンド砲の砲手達の多くもなぎ倒しました。舷側には大穴が開いて火薬庫に浸水があり、つ
いでに火災も発生して、あっという間に「ボンノム・リチャード」は射撃不能となりました。
 それでもジョーンズは、「セラピス」をT字型に押さえて、接舷、切り込みを試みました。しかし途中で「セラピス」
の片舷斉射を受けます。この時点で死傷者は80人に達し、甲板は血まみれで、激しい浸水に喫水が2フィートも
低下していました。ジョーンズ、大ピンチ!
 しかしジョーンズは、「ボンノム・リチャード」と「セラピス」をすれ違う形に持って行って引っ掛け鉤を投げ込み、
二隻は右舷を接する形で絡み合いました。とは言え、「セラピス」は至近距離から絶え間なく砲撃を浴びせ続け、
砲撃不能の「ボンノム・リチャード」は散々に打ちのめされました。当時、白兵戦になれば砲手も駆り出されるの
と、至近距離で砲撃した場合、敵船の破片が飛び込んで来て危険というので、接舷中の砲撃は控えることが多
かったようですが、この時はそうではなかったようです。で、歴史的な問答が行われたのはこの場面においてで
す。
 伝説が言うには、ジョーンズは名台詞とともに降伏を拒否し、「ボンノム・リチャード」からは歓声が上がったとい
うことですが、これもウソです。
 ジョーンズ自身が語ったところによれば、「ボンノム・リチャード」が沈没寸前(←あながち間違いではない)だと
パニックになった砲手が、降伏する、降伏すると騒ぎ立て、さらに、何かの拍子で「ボンノム・リチャード」の国旗
が落下(←軍艦旗を降ろすのは降伏の意思表示)したので、ピアソン艦長はジョーンズが降伏したのかどうかを確
認したようです。
 一方ジョーンズは、名台詞があったかどうかはともかく、降伏しようとした砲手の頭めがけてピストルを投げつけ
てぶちのめし(二丁も投げつけたらしい)、部下を威嚇しなければなりませんでした。しかしその甲斐はあまり無く、
ジョーンズの報告によれば、士官のうち三人が「臆病と裏切り」によって持ち場を放棄しました。
 このためジョーンズは、その三人の担当部署も指揮せねばなりませんでしたが、このような逆境にもめげない
闘志と、脱落者も出た中で乗組員の士気を回復させ、やがては形勢を逆転させた統率力(相変わらず普段の人
気はさっぱりでしたが)こそが、ジョン・ポール・ジョーンズが勇者たる所以であります。
 白兵戦が続く9時半頃、商船を追うでもなく、それまでただ漫然と射程外に居た「アライアンス」が、戦場に接近
してきました。これを見たジョーンズは「戦いに勝ったと思ったI thought the battle was at an end....」と大喜び
でした。多分、この瞬間、ランダース艦長のことを見直したでしょう。そして「アライアンス」は、至近距離から片舷
斉射を一発浴びせました。ただし、「ボンノム・リチャード」に向かって、ですが。
 ピアソン艦長はこの砲撃で「セラピス」にも死傷者が出たと証言しているし、ランダース艦長も危険を承知の援
護射撃だったと述べていますが、ジョーンズらは「アライアンス」に向かって、砲撃は控えるように呼びかけていま
した。それに「アライアンス」は、後でもう一度「ボンノム・リチャード」を砲撃しているので、どうも意図的に狙った
可能性があります。そのうえランダース艦長は、「ボンノム・リチャード」のみならず、「スカーバラ伯爵夫人」と戦
闘中の「パラス」をも砲撃して死傷者を出させています。「セラピス」はともかく、「スカーバラ伯爵夫人」は「パラ
ス」よりも明らかに小型で非力なスループ艦であり、同士討ちの危険を冒してまで援護射撃する必要は無く、どう
考えてもランダース艦長の行動は常軌を逸していました。
 勿論、「アライアンス」はさっさと離脱してしまい、ただ「ボンノム・リチャード」に多数の死傷者を出したのみでし
た。さすがのジョン・ポール・ジョーンズもこれには唖然として、大目に見てきたランダース艦長にもついにブチ切
れましたが、それはそれ。その頃になると、「ボンノム・リチャード」はどうにか態勢を立て直していました。
 引っ掛け鍵を切り離そうとしていたイギリス兵達は、フランス海兵隊員の正確な射撃でバタバタと撃ち倒されま
す。さらにジョーンズが「セラピス」の索具を「ボンノム・リチャード」の後部マストに結び付たので、ピアソン艦長は
離脱をあきらめ、「ボンノム・リチャード」に切り込み隊を突入させました。しかしこれまた、フランス海兵隊員によ
って押し戻されました。結局のところ、勝負を決めたのはこの海兵隊員の数の差で、「セラピス」の海兵隊員が4
0人ほど(フリゲート艦クラスでは、大雑把に大砲と同数の海兵隊員が配属されていました)なのに対し、「ボンノ
ム・リチャード」には137人のフランス海兵隊員がいて、白兵戦での戦闘力の差は歴然としていました。
 とは言え、「ボンノム・リチャード」は、「セラピス」からの至近距離の砲撃による激しい浸水と火災で沈没寸前で
した。衛兵伍長は、独断で200人居た捕虜(「ボンノム・リチャード」の動ける乗員とほぼ同数)を解放して、排水
ポンプにつかせました。勿論、捕虜達の多くは上甲板に脱走を図ったのですが、うまく鎮圧することができまし
た。
 その上甲板では、ジョーンズが「セラピス」の甲板のハッチが開いているのを発見しました。そして素晴らしいこ
とに、ジョーンズのそばに手榴弾をもった士官がいました。ただちにハッチ目掛けて手榴弾が投げつけられ、一
個目と二個目は外れるも、三個目がハッチに転がり込み、見事に弾薬集積所で爆発すると、50人以上のイギリ
ス人を殺しました。
 さて、そこへ再び「アライアンス」が現われ、またも「ボンノム・リチャード」を砲撃しましたが、これでひるむことは
ありませんでした。ジョーンズは、戦闘開始直後の形成不利な中、反対舷から苦労して3門の9ポンド砲(この時
点で射撃可能な全で)を引きずってきていたのですが、これで「セラピス」の甲板を砲撃しました。このうち1門に
はdouble-headed Shot(棒の両端に金属の弾をとりつけたマストや策具を破壊するための砲弾)を装てんして
「セラピス」のメインマストを撃ったので、「セラピス」のメインマストは破砕してぐらぐら揺れだし、ピアソン艦長も
動揺しました。残り2門にはブドウ弾(Grape shot対人用の巨大な散弾)を装てんして「、セラピス」の甲板を掃射
したので、生き残っていたイギリス海兵隊員はほとんど皆殺しにされました。そこへ「ボンノム・リチャード」の切り
込み隊が突入したので、午後10時半頃、ついにピアソン艦長は降伏しました。三時間に及ぶ白兵戦の犠牲は大
きく、「ボンノム・リチャード」の死傷者は150人、「セラピス」の死傷者は117人と、それぞれ乗組員の半分に及
んでいます。
 さて、戦いには勝ったものの、「ボンノム・リチャード」はひどい損傷を受けていました。ジョーンズは、翌日の夕
方まで復旧に望みをかけていましたが、もはや救いよう無しと、生存者と捕虜、および使える物資を「セラピス」に
移動させました。「セラピス」も同じく航行不能でしたが、少なくとも沈没する危険だけはありませんでした。そして
9月25日の昼頃、ジョーンズら元乗組員が悲しそうに見守る中で、「ボンノム・リチャード」は沈没しました。
 ちなみに、「ボンノム・リチャード」は、星条旗を掲げたまま沈没したのですが、1942年に偽物と判明するま
で、スミソニアン博物館には「ボンノム・リチャードの旗」が展示されていました(←大バカ)。

フラムボロー・ヘッドの戦い。

「ボンノム・リチャード」の沈没。帽子を振っている人物がジョーンズで、
左端手前の人物がピアソン艦長。
伝説の戦い、その後
 9月29日、応急修理でどうにか「セラピス」が航行可能になると、ジョーンズは中立国オランダに向かい、10月
2日、多くの拿捕船と500人以上の捕虜を引き連れてテキセル島に到着しました。なお、この時ジョーンズは、珍
妙な旗(下図参照)を「セラピス」に立てて入港しています。この旗は、どうやらフランクリン博士のデザインらしく、
「レンジャー」でフランスに入港した時にもらっていたようです。
 イギリス艦隊もジョーンズを追っていましたが、中立国のオランダに向かうとは予想しておらず、見当違いの海
域を捜索していました。一週間後、商船からの情報でようやくジョーンズの居場所を掴んだイギリス海軍は、ただ
ちにオランダ沖に艦隊を派遣して、テキセル島を封鎖しました。イギリス大使も、拿捕船のイギリスへの返還とジ
ョーンズの戦隊の退去を要求します。翌年、開戦することになりますが、当時はまだオランダは中立国であり、名
誉革命以来、伝統的にイギリスの友好国でした。しかし、イギリスがアメリカ向けなら中立国船でも捕獲すると宣
言して以来、関係が悪化しており、オランダ政府は、拿捕船の差し押さえを拒否しました。
 その一方、退去要求には応じる形で、オランダ政府はテキセル島に艦隊を派遣すると、順風が吹き次第出港
するよう、ジョーンズに命じました。しかしこのオランダ艦隊、ジョーンズを追い立てるためではなく、明らかにイギ
リスの強攻策を阻止するための出動でした。そしてジョーンズも、オランダ政府の黙認の下(と言うか、フランクリ
ン博士とオランダ政府の間で色々とオトナの取引があったようです)、なんだかんだと理由をつけて、6週間あまり
テキセル島に居座りました。

 オランダに到着したジョーンズは、すぐにパリのフランクリン博士にランダース艦長の解任を要請しました。勿
論、ランダースは解任され、ジョーンズは後任として「アライアンス」の艦長となりました。
 そして12月27日、悪天候でイギリスの封鎖艦隊が吹き払われた隙を突いて、「アライアンス」はテキセル島を
出港しました。この時、「パラス」と「ベンジャンス」はフランス海軍の指揮下に戻されてオランダに残り、拿捕船も
オランダに残されました。無事に英仏海峡を突破した「アライアンス」は、1779年の大晦日と新年をブルターニ
ュ沖のウェサン島で迎えた後、敵を求めてビスケー湾を南下しました。
 が、さすがにフランスの玄関口では、出会うのは味方か中立国の船ばかり。それでもジョーンズは、イギリスの
ブリッグ(多分、密輸をやっていたのでしょう)を拿捕して、1780年1月16日、スペイン(1779年5月8日、イギリ
スに宣戦布告 )のラ・コルニャに入港して、そこで修理と補給を行いました。しかし、冬用衣類が調達できなかっ
たので、結局はロリアンに帰港することになりました。
 帰り道でも、イギリスの私掠船に拿捕されたフランスの商船と遭遇し、船は自沈してしまいましたが、貨物のワ
インを回収することに成功しています。さらに、タバコ(←援助物資の代金)を積んだアメリカの商船と出くわして護
衛についたりした後、1780年2月9日、グロア泊地に帰港しました(同じ頃、「セラピス」もフランスに到着してい
ました。大陸海軍では使用されず、民間に売却されています)。
 
 2月19日、「アライアンス」をロリアンに移動させたジョーンズは、フランクリン博士の出迎えを受け、アメリカ向
けの軍需物資の輸送を命じられました。しかし、その物資と言うのが、どう考えても「アライアンス」一隻で運べる
量ではなかったので、輸送船の調達のため、ジョーンズはフランクリン博士とともにパリへ行きました。
 そしてジョーンズは、パリで熱烈な歓迎を受けます。フランス海軍が、期待を背負って長い苦労の末に再建され
た割にはパッとしないことも手伝って、ジョーンズがイギリスの目と鼻の先で挙げた勝利は(多分、指揮下の大半
がフランス艦とフランス人だったこともあったでしょう)、パリを熱狂させました。多少の誇張もあるでしょうが、パリ
の市民達はジョーンズの名で乾杯したくらいです。ルイ16世を始めとするフランスの宮廷からも大歓迎され、勲
章、肖像入りの金メダル、勲爵士の地位、金ごしらえの剣(「ルイ16世より、勇敢なる自由な海の守り手へ」”
Louis XVI., rewarder, to the valiant defender of a liberated sea.”という銘入り)などを贈られ、毎日がレセプ
ションでした。また、当時の著名な彫刻家、ジーン=アントワーヌ・オードン(Jean-Antoine Houdon)がジョーンズ
の胸像を製作し、方々に20個あまりが配布されています。

 さて、パリでの生活を大いに楽しんでいたジョーンズですが、またもやピエール・ランダース艦長が登場して、冷
水を浴びせられます。 
 ロリアンに戻って来たランダースは、軍法会議が開かれるアメリカへの便船を待つ身でありましたが、駐仏委員
の一人、アーサー・リーと会見する機会を得ました。リーという人は、とにかくフランクリン博士に反対することに
喜びを感じていたような人物で、当然、ジョン・ポール・ジョーンズを嫌っていました(なお、彩流社の「アメリカ独立
戦争」には、リーではなくサイラス・ディーンだとあります。ディーン氏はフランクリン博士とは仲が良かったのです
が)。そこでリーは勝手にランダースの処分を取り消し、6月12日、「アライアンス」の艦長に復職させました。
 この顛末がジョーンズの耳に入った時、彼は海軍大臣との会見のためパリに出張中でした。ジョーンズは急い
で引き返し、6月20日にロリアンに到着しましたが、現地では、ランダース艦長が反乱を起こしたというので逮捕
状が出され、出港するそぶりを見せれば撃沈せよとの命令を受けた三隻のフランス艦が「アライアンス」とにらみ
合っていて、まさに一触即発の大騒動になっていました。
 ジョーンズはただ呆れるばかりでしたが、無駄な犠牲は避けねばならず、米仏の同盟関係が損なわれることも
あってはならない、と現地の指揮官の説得に努めました。しかし、実のところジョーンズは、このうえランダースと
付き合うつもりはなく、「アライアンス」一隻でランダースを厄介払い出来そうなので喜んでいました。

 結局7月8日、ジョーンズの説得のおかげで、「アライアンス」は妨害されることなくロリアンを出港し、アメリカに
向かいました。しかし、出発するなりランダース艦長は、士官達といさかいを起こしました。まずランダースは、彼
の指揮に従うことを拒否した海兵隊指揮官、マシュー・パーク大尉を拘禁しました。さらに、自分が解任された後
に配属されてきた船員には不服従の疑いをかけ、拷問したり、不潔な船底に監禁したりしました。
 さらにランダースは、恩人であるアーサー・リーにすらキバを剥き、夕食のブタの丸焼きに最初にナイフを入れ
るのがどっちかというしょうもないことで争って、リーを刺し殺そうとしました(←大バカ)。さらにさらに、「ケイン号
の叛乱」さながらに操艦においても危険で常軌を逸した命令を下すに至りました。そう、ピエール・ランダース艦
長は、ずっと前からパラノイアで、統合失調症か何かだったのです。そして8月11日、ますます「ケイン号の叛
乱」さながらに、憤慨した乗組員達はついにランダースを拘束しました。
 8月19日、副長の指揮の下、「アライアンス」はボストンに入港しました、そしてランダースは、艦長室に立て篭
もって暴れまわり、恨み骨髄のパーク大尉に引き摺り下ろされるというバカ騒ぎを演じた後、軍法会議にかけら
れて、精神病罹患を理由に大陸海軍から追放されました(しかし、理不尽にも副長まで追放されました。理由はど
うあれ、艦長から指揮権を奪い取ったことが反乱と看做されたのでしょうか?)

 さて、「アライアンス」の騒動の後、フランクリン博士の要請に応えて、フランス海軍が拿捕した元イギリス海軍
のスループ艦「アリエルAriel」が輸送船として貸し出され、ロリアンに回航されました。
 艦長に任命されたジョーンズは、26門の6ポンド砲から10門を撤去して荷物スペースを空けようとしましたが、
「アライアンス」が軍需物資はほったらかしで行ってしまったので、どうやっても「アリエル」に全部積み込む事は
出来ず、結局フランクリン博士は、「ルークLuke」と「レンスター公爵Duke of Leinster」という二隻の商船をチャ
ーターすることにしました(えっ?最初からそうしろって?)。
 1780年9月5日、軍需物資を積んだ「アリエル」「ルーク」「レンスター公爵」の船団はロリアンを出港しようとし
ましたが、強い逆風に遭ってしまい、そのままグロア泊地に一ヶ月も閉じ込められてしまいました。ようやく出港し
た翌日の10月8日、今度はすさまじい大嵐に遭遇しました。「レンスター公爵」は沈没(←公式記録は残っていな
いらしいですが)、ジョーンズ指揮する「アリエル」も、マストを三本ともぶっ飛ばして航行不能、激しい浸水で沈没
寸前の状態となり、曳航されて命からがらグロア泊地に逃げ帰りました。「ルーク」は比較的無事で、先にアメリカ
に旅立ちましたが、途中でイギリス海軍に拿捕されました。
 恐るべき幸先の悪さでしたが、それにめげているわけにはいかず、2ヶ月かけて「アリエル」を修理したジョーン
ズは、12月18日、すっかり残り少なくなってしまった軍需物資をアメリカに運ぶべく、今度こそ、グロア泊地を無
事に出港しました。
 ジョーンズは、イギリス海軍の攻撃をかわすため、カリブ海を経由する航路をとりました。しかし、その回り道も
空しく、リーワード諸島の北200マイルの地点でイギリスの私掠船に出くわしました(←日時は不明)。貴重な軍需
物資(火薬も満載)を傷つけないため、ジョーンズは戦闘を回避して、夜の闇にまぎれて逃げ切ろうとしましたが、
朝になっても敵はしっかり追跡していました。
 で、例によってジョーンズは、イギリスの軍艦のフリをして切り抜けようとしました。追跡者が声が届く距離まで
近づいてきた時、ジョーンズがイギリス海軍の艦長のフリをして誰何したところ、追跡者はジョン・ピンダーという
人物に指揮されたイギリスの20門搭載の私掠船、「トライアンフ Triumph」であると判明しました。
 ジョーンズは、身分証明書を持って「アリエル」まで来いとピンダー船長に命じましたが、さすがにピンダー船長
に怪しまれます。んでもって、待っていたとばかりに至近距離から片舷斉射をぶち込み、ジョーンズは一撃で「トラ
イアンフ」を降伏させたのでありました。
 しかし、このピンダー船長とはなかなかの人物だったと見えます。ピンダー船長は、ジョーンズが回航員を送ろ
うとした隙を突いて「トライアンフ」を発進させると、巧みに「アリエル」の射線を外して逃走してしまったのでした。
英雄ジョン・ポール・ジョーンズとしてはめっぽう締まらない結末ですが、これがアメリカ革命戦争におけるジョーン
ズの最後の戦闘です。この後、「ボンノム・リチャード」の遠征の時に捕まえた元イギリス人捕虜による反乱未遂
事件もありましたが、1781年2月18日、無事にフィラデルフィアに入港し、437樽の火薬、146箱分の火器、
弾丸、弾丸製造用の鉛の延べ板、医薬品などを大陸軍に届けました。
  
セラピスの旗。星は角が八つありま
す。当時の星条旗は13本のストラ
イプと星以外、配色やデザインに決
まりが無かったのでこうなったよう
です。
 オランダ駐在イギリス大使は、こ
の珍妙なデザインを根拠にジョーン
ズを海賊だと主張しました
オードン作、ジョン・ポール・ジョーンズ像
John Paul Jones Theme Site and homepage
(http://www.seacoastnh.com/jpj/index.html)より 

ポーツマス再び
 帰国したジョーンズは、やはり英雄として歓迎されました。大陸会議もようやく、ジョーンズを公式に顕彰しま
す。そして彼は、実力に相応しい艦として、ポーツマスで建造中のアメリカ最初の74門戦列艦「アメリカ」の艦長
に任命され、建造工事の監督のためポーツマスに行くことになり、ニューヨーク近郊、ホワイト・プレーンズの戦場
でジョージ・ワシントン将軍と会見した後、1781年8月、再びポーツマスに住み着きました(パーセル夫人という
人の家を週10ドルで借りた)。
 しかしこの家というのが、前回のポーツマス訪問以来の宿敵、ジョン・ラングトンの邸宅から三ブロックしか離れ
ていないのが問題でした。うさんくさい外国人だった1777年とは違い、1781年のジョーンズは国家的英雄でし
たが、だからといってラングトンの態度は変わりませんでした。ジョーンズの方も、ラングトンと会えば喧嘩になる
と分かっていたのか、家が三ブロック先なのにも関わらず、ボストンかフィラデルフィアを経由してラングトンと文
通するという愚かしい方法で連絡を取り合うのでした。
 ラングトンは、大陸会議が「アメリカ」の建造費を滞納していることに怒っていて、支払いが無ければ、「アメリ
カ」を解体すると大陸会議を脅迫していました。ジョーンズはこうした問題に対処する予算を与えられていなかっ
たため、ロバート・モリスに頼み込んで、大陸会議が自分に対して負っている負債、6年分の未払い給与、同じく
未払いの拿捕賞金等15000ドルの中から、10000ドルを「アメリカ」の建造費としてラングトンに払って貰いま
した。ジョーンズは基本的にがめつい人間であり、自分の手腕にも自信がありました(←この自信過剰ぶりが、後
で命取りとなります)。「プロヴィデンス」「レンジャー」等、貧相な小型船でかなりの拿捕賞金を稼いだ自らの手腕
をもってすれば、74門戦列艦「アメリカ」ではもっとがっぽり稼げるはずだと皮算用していたので、自腹を切るの
を苦にしなかったのです。また、後にイギリス海軍が「アメリカ」を焼き討ちにしようとしているとの噂が立った時
は、私費でガードマンを雇いました。
 ところが、その後のジョーンズの検分によって、「アメリカ」が千数百トンの大型艦にも関わらず、工事に携わる
船大工がたった8人だということが判明しました。その割には、予算の消化が異様に高額であり、ラングトンは間
違いなく、大陸会議から支払われた建造費をネコババしていたのです。さらに、船体そのものにも安物の生木を
使用しており、その差額をネコババしていました。激怒したジョーンズは、直ちに大陸会議にラングトンを告発しま
したが、このネコババ疑惑は、ラングトンが大物政治家(後にニューハンプシャー州知事)で方々にコネがあった
ため、結局はうやむやになります。
 しかし、ジョーンズの涙ぐましい努力は徒労に終わる運命にありました。どうにか工事が再開され、「アメリカ」が
進水にまで漕ぎ着けそうになった1782年9月3日、大陸会議は、ボストン沖で座礁したフランスの戦列艦
「Magnifique」の代償として、「アメリカ」をフランスに譲渡するとの決定を下したからです。もっとも、どの道この時
点でアメリカ革命戦争の大局は決していたので、「アメリカ」がジョーンズの手に渡ったとしても、そんなには儲け
られなかったでしょう。
 ジョーンズは激怒しましたが、もはや不遇には慣れっこになっていたのか、抗議も抵抗もせず、その後も「アメリ
カ」の建造作業を監督しました。
 1782年10月、「アメリカ」は無事に進水し、ジョーンズは、造船所からポーツマス港までの、橋のかかった狭
い水路を苦労して通過させました。そして11月5日、ジョーンズの立会いの下、「アメリカ」はフランス海軍に引き
渡されました。
 しかし残念なことに、フランス海軍では「アメリカ」は不評でした。当時、フランスの造船技術は非常に優秀であ
ったのに対し、アメリカの造船技術のレベルは親元のイギリスと同程度なので、船の性能は、フランス製の戦列
艦に比べて明らかに低かったと考えられます。また、ジョーンズは最初から予測していましたが、生木を使った初
期の手抜き工事のおかげで、竣工後わずか三年にして船体の乾燥腐朽が見つかっています。それでも、手持ち
の軍艦の少ないフランス海軍は長く「アメリカ」を使いましたが、1794年にイギリス海軍に拿捕されました。
 
 さて、「アメリカ」を引き渡した翌日、ジョーンズはもはや用の無くなったポーツマスを離れ、フィラデルフィアに向
かって旅立とうとしましたが、いきなりポーツマスの保安官に逮捕されてしまいました。容疑は債務不履行です。
勿論、すぐに保釈されましたが、彼が逮捕されたのは、去る1781年、「ボンノム・リチャード」の生存者であるエ
ベザーニー・ホッグという人物が、21ポンド18シリング(何故か英国通貨)の未払い給与の支払いを求め、ジョー
ンズを告訴していたからです。ヒルズボロー郡裁判所は、訴訟用費用も含めた30ポンドのカタとしてジョーンズ
の不動産の差し押さえを命令していましたが、ジョーンズが無視したので、裁判が長引いていたのでした(その不
動産と言うのは、長兄のウイリアムから相続した農場ですが、イギリス軍の焼き討ちで無価値な荒地に化けてい
ました)。
 アメリカの裁判はどこかヘンですが、それは18世紀も変わらなかったようです。そもそもホッグ氏は大陸海軍
に雇われていたのであり、給与の請求は大陸会議か海軍委員に行うべきであって、ジョーンズ個人に請求する
筋合いは全く無いです。
 ジョーンズの弁護士、ジョン・サリバン(←後にニューハンプシャー州の司法長官も努めた大物)は、そうした点
を指摘した上で、ジョーンズの逮捕に法的根拠は無いし、大陸会議の命令でフィラデルフィアに向こうとところを
妨害したのも許し難い、それにホッグは脱走兵で賃金を請求する権利は無い!と当然のことを主張しましたが、
忙しいジョーンズが出廷出来ないのはともかく、何故かサリバン弁護士まで頻繁に裁判を欠席したので、裁判は
長引きました。加えてこのサリバンという人、ヤリ手というか悪徳弁護士の類で市民の評判が悪く、どうも貧しい
ホッグ氏を、裕福なジョーンズとサリバン弁護士がイジめていると受け取られたので、革命戦争も終わった1785
年9月、原告、被告とも出席せず告訴が棄却(←大バカ)されるまで、裁判は続いたのでした。
 つまるところ、この二度目のポーツマス滞在がジョーンズにもたらしたのは、不愉快な体験だけでした。
 
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