ジョン・ポール・ジョーンズその5
ジョン・ポール・ジョーンズ、海賊になる
 12月2日、「レンジャー」は無事にナント港に入港しましたが、さて、フランスに到着してみると、ジョーンズが指
揮するはずだった40門フリゲート「Indinne」が無くなっていました。何故なら、フランスが対米援助を縮小した時
に、ベンジャミン・フランクリン博士が船をルイ16世に献上してしまったからです(ただし、後にサウスカロライナ
植民地の軍艦としてアメリカに返却されます)。
 本来のジョーンズなら怒り狂ったかもしれませんが、フランクリン博士とは奇妙にウマがあったので(フリーメー
ソンだからか?)、事情を了解したジョーンズは「レンジャー」で我慢することにして、翌年2月14日、とりあえずキ
ブローン湾に移動して、そこでフランス海軍に知人を作るとともに、アメリカへ派遣される予定になっていたデスタ
ン伯爵(なんと陸軍出身)の艦隊に、アメリカ沿岸の情報提供を行いました。

 4月、デスタン伯爵率いる戦列艦12隻、フリゲート5隻、および4000人陸軍兵士のフランス艦隊は、アメリカ
海域に向けて出撃しました。フランスの参戦は効果覿面で、イギリスは、カリブ海沿岸地域に向けられるであろう
フランスの主攻撃に対処するため、アメリカの戦線を縮小さぜるを得なくなりました。沿岸を封鎖していたイギリス
艦隊も、デスタンの艦隊に対処するためにニューヨークに戻りました。ハウ将軍は辞任し、代わって総司令官に
就任したヘンリー・クリントン将軍(革命戦争勃発に立ち会った将軍達の最後の一人)は、ワシントン将軍とラファ
イエット侯爵の追撃を受けつつ、フィラデルフィアから撤退しました。
 1778年7月8日、デスタン伯爵の艦隊は、フィラデルフィアに到着しました。しかし、イギリスの陸軍も海軍もニ
ューヨークへ撤退していたので、敵を求めてニューヨークに向かいました。で、ニューヨークには確かにイギリス艦
隊が停泊中でしたが、デスタン伯爵の旗艦がデカすぎて、湾の入り口の浅瀬を通過することが出来ず、すごすご
と引き返しました(←大バカ)。
 そこでデスタンは、ワシントン将軍との協議の上で、76年末以来イギリス軍が立て篭もっていたニューポートに
向かいました。ここでは、停泊中の6隻のイギリス艦隊を急襲して、(非常に珍しい事ながら)撃沈、自沈などでイ
ギリス艦隊を全滅させます。大陸軍はニューポートを包囲し、デスタンの艦隊とともに海陸から挟撃する予定でし
たが、8月12日、ハウ提督率いる20隻のイギリス艦隊がナガランセット湾に現れました。歴史上、このような対
等の条件で、フランス海軍がイギリス海軍を撃破した例はほぼ皆無です。デスタンの艦隊は消極的な姿勢に終
始しますが、折り良く大暴風雨が到来して(神風は何も日本の専売特許ではありません)、大損害を受けたイギリ
ス艦隊は撤退しました。
 一方のフランス艦隊も、幸いにも沈没艦は無かったのですが、これまた大損害。特に旗艦はマストを三本とも
へし折られてしまったので、デスタン伯爵は、修理のためにボストンへ撤退しようとしました。おりしも大陸軍はニ
ューポートを包囲中でしたが、修理ならナガランセット湾でも可能だろ、どうしても行くんなら陸軍だけは残して
け、という大陸軍の当然の要請は無視されました。結局、ニューポート包囲作戦は中止となってしまい、さらに
は、秋になるとデスタン提督の艦隊は、西インド諸島での作戦に転用されたので(そして、12月15日のセント・ル
シア島沖海戦では失敗したが、そこそこの成功を収めた)、ワシントン将軍を含めた大陸軍幹部の怒りを買うこと
になりました。

 デスタン提督の艦隊が出撃すると、ジョン・ポール・ジョーンズは、フランクリン博士との協議の上で、イギリス本
土を狙った作戦を行うことにしました。もちろん、これ以前にもアメリカの私掠船がイギリス近海で活動していまし
たが、ジョーンズとフランクリン博士は、単なる通商破壊ではなく、イギリス沿岸への小規模な上陸作戦を計画し
ていたのでした。
 1778年4月10日、「レンジャー」はブレストを出港し、アイリッシュ海に侵入しました。道すがら、14日と17日
に二隻の商船を拿捕して、どちらもフランスに回航させています。
 ジョーンズは最初、アイルランド沿岸に対する奇襲作戦を計画していたのですが、風向きや潮流が悪く、目標を
変えざるを得ませんでした。
 そして、この次に取った行動こそは、いかにも彼がジョン・ポール・ジョーンズたらしめるものなのですが、ジョー
ンズは船をブリテン島に向けると、スコットランドとイングランドの境界、ソルウェイ湾に進入して、当時は重要な
石炭の積出港で、船乗りとしてのジョーンズの原点であり、まだ昔の知人や恩人が多く住んでいるホワイトヘイブ
ンを、何のためらいも無く襲撃したのでした。
 ジョーンズは、「ホワイトヘイブンは快適な港で、400近い船が停泊しており、いくつかは250トン以上だった。
私は引き潮で船が動けない時を利用して攻撃することにした。」
とコメントしています。
 しかし、士官も船員もこのような危険な計画には不平たらたらでした。そもそも「レンジャー」の乗組員達は、ジ
ョーンズをフランスに送り届けさえすればアメリカへ帰れると思い込んでいたので、思わぬ長逗留にただでさえ士
気が低下していたのでした(そしてジョーンズは、決して人気のあるリーダーではなかった)。
 それでもジョーンズは、露骨に嫌そうな顔をした30人の志願者を2隻のボートに分乗させると、4月22日の夜
11時、「レンジャー」から漕ぎ出しました。
 ホワイトヘイブンには二つの要塞があり、ジョーンズ直卒のボートは南の要塞を制圧して、もう一隻が北側を引
き受ける予定でした。ところが、漕ぎ出してから初めて、「レンジャー」の停泊していた場所がジョーンズの計算よ
りもずっと沖合いだったことが判明しました。おまけに、引き潮に逆らってボートを漕ごうというのはやはり無謀だ
ったようで、上陸する前に夜が明けました(←バカ)。しかし、幸いなことに要塞の守備隊には気づかれず、ジョー
ンズの隊は要塞を無血で制圧し、全ての大砲の火門に釘を打ちました(太い釘で大砲の点火口を塞ぐこと。大砲
を簡単に使用不能に出来る)。
 さて、要塞を制圧したところでジョーンズは、もう一隻のボートが何にもせずに引き返して行くのを見ることにな
り、唖然としました(みんなしてパブに繰り出してしまい、仕方なくジョーンズがもう一つの要塞も制圧したという話
もありますが、これは明白にウソです)。
 おまけに、あたりに警報が発せられ、港に野次馬が集まりだしたので、ジョーンズは急いで港の南側に停泊し
ていた船に放火し、何隻かが激しく炎上するのを見届けてから(ジョーンズはそう報告していますが、英国側の記
録では焼失一隻のみ)、急いで「レンジャー」に引き返しました。
 幸いにも追撃は無かったのですが、「レンジャー」に帰って見ると、一人が行方不明で、どうやらその脱走者が
町に警報を発したものと考えられました。また、もう一隻のボートの行動は、誰が見ても命令無視で、おまけに、
死刑になっても文句は言えないあからさまな敵前逃亡でしたが、ジョーンズが特に処分を下した様子はありませ
ん。作戦がそこそこ上首尾だったので、寛大な気分になっていたのでしょうか。いや、ひょっとしたら、自分の人
徳の無さが原因だと反省したのかもしれません。
 さて、この日の攻撃はホワイトヘイブンだけに終わりませんでした。スコットランド側に向けて湾を渡った「レンジ
ャー」は、ホワイトヘイブンを出た4時間後の午前10時、カークブリに到着しました。ここはジョーンズの生まれ故
郷のすぐ近くであり、最初に船長に任命されたのもこの町だったのですが、マクスウェル鞭打ち事件でいびり出さ
れているので、カークブリには恨みがあったのかも。
 このカークブリ湾には、セルカーク伯爵という人物の領地であるセント・メアリー島という島がありました。イギリ
ス政府が大陸軍兵士は反逆者として扱うと布告しており、イギリス軍による大陸軍兵士の捕虜虐待が伝えられて
いたので(実際には、大陸軍に捕まっているイギリス人捕虜も多いので報復が恐ろしく、布告に従ったイギリス軍
士官はごく少数だった)、ジョーンズは、セルカーク伯爵を捕虜の待遇改善のための人質にしようと考えたのでし
た。
 セント・メアリー島に上陸すると、まずは伯爵家の庭師に出くわしたので、ジョーンズはイギリス海軍の強制徴募
隊だと名乗りました。強制徴募隊と言えば、当時のイギリス人男性の恐怖の的なので、近辺の男達が逃げ出す
だろうとの計算があったのです。しかし、セルカーク伯爵はロンドンに出張中で、城には夫人と子供達しか居ない
ことも判りました。
 ジョン・ポール・ジョーンズとは、部下以外に対しては教養ある紳士であり、女性と子供を人質にするほど腐って
はいなかったので、伯爵の不在を知ると即座に撤退しようとしました。しかし、部下達は空手で戻るのを嫌がった
ので、ジョーンズは掠奪を許可しました。
 で、この後の事件には諸説ありまして、副長のシンプソン海尉が城を襲った、いや、ジョーンズもその場に居
た、強制徴募隊だと勘違いした伯爵夫人が朝食をご馳走してくれた、伯爵夫人の友人がうるさく話し掛けてきて
正体がバレた、などの話が伝わっていますが、確かなのは、ジョーンズらアメリカ兵達は紳士的だったことと、ジョ
ーンズの許可を受けて、「レンジャー」の乗組員達が伯爵家の銀食器を全部かっぱらった、ということです。
 セント・メアリー島を襲撃した後、さすがに周辺海域には警報が出ており、イギリスのスループ艦「ドレーク(←勿
論、エリザベス朝の名将、サー・フランシス・ドレークのこと)」が「レンジャー」捜索のために出動しました。そして
翌4月24日、「レンジャー」はベルファスト沖で「ドレーク」と遭遇しました。
 ジョーンズは早速、「ドレーク」を攻撃しようとしたのですが、乗組員達はここに至ってもまだジョーンズに反抗的
で、あろうことか、ホワイトヘイブンに置き去りにするぞ、と脅迫したそうです。
 艦長と部下が醜い内輪もめをやっているうちにも、「ドレーク」からボートが降ろされて、臨検の為に「レンジャ
ー」に近づいてきました。ジョーンズは、商船を装うために大砲を隠し、乗組員を艦内に隠れさせてボートを待ち
受け、乗り込んできた士官候補生と5人の水兵を捕虜にしました。
 この策略が成功したのを見た「レンジャー」の乗組員達は、ようやく自分達の艦長がヒーローであると気がつい
たようであり、ジョーンズの命令に従って戦闘準備を始めました。
 「ドレーク」は20門搭載、乗組員は180人と「レンジャー」よりもやや強力な艦で、拿捕した商船の回航(+ホワ
イトヘイブンでの脱走者一名)で人手が減っていた「レンジャー」は明らかに不利でしたが、「ドレーク」のバーデン
艦長にはそんなことが判るはずも無く、おまけに、周囲には多くのヨットや漁船がいたので、戦闘の巻き添えを避
けるため、バーデン艦長は逃走をはかりました。しかしジョーンズは接近戦に持ち込み、いわゆる「ピストルの射
程」での65分間の戦闘の末、バーデン艦長、および副長のドブス海尉を殺して「ドレーク」を降伏させました。「ド
レーク」が死傷45人(40人?)に対し、「レンジャー」は死者2、負傷6という圧勝です。しかも、大陸海軍にとって
は、これがイギリス海軍の軍艦に対する初勝利でした(バハマ遠征の帰りの小型艦は、軍艦とは見なされなかっ
たらしい)。
 5月8日、「レンジャー」は、拿捕した「ドレーク」と200人以上の捕虜を引き連れて、意気揚々とブレストに帰還
しました。

 ジョーンズと「レンジャー」の勇敢な行為は、フランス人からも激賞されました。
 一方、内庭とも言うべきアイリッシュ海で、英雄サー・フランシス・ドレークの名前と船首像つけた軍艦(でも、ス
ループ艦は小さすぎ)を拿捕されたイギリス海軍は、いたくプライドを傷つけられました。また、フランスとの国交
断絶以来、イギリス政府はフランス軍の上陸作戦を恐れてはいましたが、まさかアメリカの軍艦が本土に直接攻
撃をかけてくるとは予想しておらず、さらには沿岸防衛がザルだということも証明されたので、実際の戦果以上に
深刻な打撃を受けました。
 と、ここまでは良かったのですが、「レンジャー」がセント・メアリー島を襲撃して銀食器をかっぱらったことで、ジ
ョン・ポール・ジョーンズは、イギリスから海賊の烙印を押されます(「ドレーク」との戦闘を扱った1836年のダブリ
ン大学の資料には、はっきりとジョン・ポール・ジョーンズは「Pirate Captain」だと書かれてあります)。厳密な法
的解釈では、事件は公海上ではなくイギリスの領土内で発生したため、「レンジャー」の所業は海賊行為には当
たらず、単純に窃盗か強盗なのですが、どちらにせよ、このようなあからさまに特定個人を狙って財産を奪う行
為は、掠奪が戦争に付き物の時代であってもさすがに戦時国際法違反であり、イギリスはフランスに抗議しまし
た。
 そうなると味方内でもジョーンズに対する批難の声が出始め、特に、縁も恩もあるホワイトヘイブンを襲撃した
ことは、忘恩の徒の蛮行である、と、ジョーンズの人格にまで批難がおよびました(←でも、あながち不当な批判
でもないです)。
 結局ジョーンズは、手紙でセルカーク伯爵夫人に謝罪しなければならず、あまつさえ、伯爵夫人に返却するた
め、私費で銀食器を部下から買い上げる破目となりました(ただし、一部はこっそり売り飛ばし、部下の給料と賞
金に当てたらしいです)。フランクリン博士も、ほとぼりを冷めるまでは、とジョーンズを「レンジャー」の艦長職から
解任したので、ジョーンズは、フランクリン博士を手伝って軍用船の買い付けをしながら、ぶらぶらすることになり
ました。

デスタン伯爵
(Charles Henri Jean-Baptiste,
Comte d'Estaing, 1729-1794)

ジョン・ポール・ジョーンズ、ホワイトヘイブンを襲撃するの図。
(USMC Artist Web Site,
http://www.usmcartist.com/index.htmlより引用)


ジョン・ポール・ジョーンズ、昇進する
 とは言え大陸海軍には、ジョーンズのような人物を遊ばせておく余裕はありません。ジョーンズは戦隊司令官に
任命され、交渉の結果、フランス政府もこの人事を承認しました。
 戦隊司令官(Commodore)とは、一応、給料の上では将官扱いですが(どちらにせよ、大陸海軍の士官の給料
はずっと未払いだった)、階級の上では艦長と同格なので、どちらかと言えば、同格の艦長達の中で指揮権を持
つための資格に近いものです。日本語ではこの「Commodore」を「提督」と訳している例も見られますが、将官で
はないので、これは明確に間違いです。

 昇進したジョーンズはルイ16世に直訴して、1779年2月4日、「デュラス公爵 Duc De Duras」という船をもら
いました。この「デュラス公爵」は元々フランス東インド会社の貿易船で、1765年建造の、もはや来るとこまでキ
て廃棄処分が決まっていたボロ船でしたが、ジョーンズは贅沢を言わず、ベンジャミン・フランクリンの著書「哀れ
なリチャードの暦」にちなみ、「ボンノム・リチャード(Bonhome Richard善人リチャード、もしくは快活なリチャード
の意味)」と改名して、船体の修理と再装備にとりかかりました。最終的に「ボンノム・リチャード」は、12ポンド砲
28門、18ポンド砲6門、9ポンド砲8門の計42門の砲を装備する大型フリゲートに生まれ変わりますが、問題
は18ポンド砲で、もはや製造年代も判らないほど古く、安全性が大いに怪しいシロモノだったのですが、これも
贅沢を言っていられませんでした。
 1779年2月6日、ピエール・ランダース艦長(元フランス海軍士官の傭兵)が指揮する大陸海軍の32門フリゲ
ート「アライアンスAlliance」が、よりいっそうの援助を要請すべく帰国してきたラファイエット侯爵を乗せてブレスト
に入港しました。航海中、乗組員の中の強制徴募された元イギリス人捕虜による反乱未遂で、38人が拘束され
るという事件もありましたが、幸いにもラファイエット侯爵は無事でした。で、フランクリン博士はこの「アライアン
ス」をフランスに引き止め、ジョーンズの指揮下に配属するのですが、ランダース艦長の人格(障害)が問題でし
た。ジョーンズもかなり人望の無いリーダーでしたが、このピエール・ランダース艦長も有能な反面、短気、粗暴、
酷薄と三拍子揃っており、彼の人格(障害)が、反乱未遂事件の一因である可能性もあります。そして彼は、最初
からジョーンズに敵意剥き出しでした。
 その他に、フランス海軍から、32門フリゲート「パラスPallas」、12門ブリッグ「ベンジャンス Vengeance(復
讐)」、18門カッター(一本マストの小型船。スループと違って船首に斜桁がある)「サーフCerf」の三隻の軍艦が、
人員も含めてジョーンズの指揮下に配属され、ロリアン沖、グロア島の泊地(Groix road)に集結しました。

 1779年6月19日、ジョーンズの戦隊の初出撃は、ボルドー行き船団の護衛任務でした。グロア泊地を出たそ
の夜、「アライアンス」と「ボンノム・リチャード」が衝突して、それぞれが索具と帆装を損傷する事故がありました
が、どうにか任務は完遂し、ロリアンに帰還する前に修理も終えました。
 とは言え、この短い遠征の結果、いくつも問題点が浮上しました。まず、旗艦「ボンノム・リチャード」の老朽化
(と言うか、ずばり船体の腐朽)が予想以上にひどく、海水だだ漏れで、戦闘以前の船としての耐航性が問題にな
りました。次に「ボンノム・リチャード」の230人程の船員の中で、アメリカ人はわずか75人(捕虜交換でフランス
に送られるまでイギリス本土に抑留されていた人々)で、残りは強制徴募されたイギリス人やアイルランド人の捕
虜と、フランス人やポルトガル人の傭兵で、彼らの不和にジョーンズは頭を悩ませました。しかしながら、これらの
問題はアメリカの財政難や人手不足にも直結しており、どうしようもありません。
 しかしながら、「アライアンス」のランダース艦長の反抗的な態度は、どうにか出来るはずの問題でした。アメリ
カ人の士官が無理だとしても、フランス海軍の若手士官なら、例え大陸海軍の所属になるとは言え、フリゲート艦
の指揮を取るチャンスとなれば大勢が飛びついたはずです。しかしジョーンズは、ランダース艦長をクビにしよう
とはしませんでした。多分、元フランス海軍の士官のランダースが、商船上がりのジョーンズ(←海軍の天才と呼
ばれる所以ですが)に指揮されることを不服とするのは、いかにも当然のように思われますし、軍隊以外の社会
でも、こういうのはままあることですから、特に深くは考えなかったのでしょう。しかし、この時ランダース艦長をク
ビにしなかったことを、ジョーンズもフランクリン博士も激しく後悔することになります。

 さて、対英戦争に突入したフランスは、七年戦争の時と同じく、イギリス南部に対する上陸作戦を計画しました
(七年戦争の時と同じく、やっぱり海峡の制海権を確保する見込みは無かったのですが)。このためジョーンズに
は、イギリス北方海域での陽動作戦が依頼されました。
 ジョーンズはその依頼を引き受け、指揮下に「Monsieur」と「Granville」の二隻のフランスの私掠船を加えて、1
779年8月14日、再びグロア泊地を出港しました。
 8月18日、イギリスの私掠船に拿捕されたオランダの商船(オランダはまだ中立国だったが、イギリスは中立
国船も攻撃対象にしていた)を奪回して、最初の戦果を上げました。ここでジョーンズは、奪回したオランダ船とと
もに私掠船「Monsieur」をロリアンに送り返しています。その後戦隊は、偽装のためイギリスの軍艦旗を掲げて英
仏海峡に入り、8月21日、アイルランドからバターと塩を運んできた「メイフラワー」というブリッグを拿捕しまし
た。
 8月23日、アイルランドの南西の角あたりに差し掛かった時、戦隊はベタ凪に捕まって動けなくなりましたが、
同じく動けなくなっていたブリガンティン「フォーチューン」を発見したので、ジョーンズは「アライアンス」に、攻撃す
るよう信号を出しました。ところが、ランダース艦長が何もしようとしなかったので、ジョーンズは「ボンノム・リチャ
ード」のボートを出し、「フォーチューン」を拿捕させました。
 ところが、この後に大事件が起こりました。「ボンノム・リチャード」が岩礁に向かって流されはじめたので、ジョ
ーンズは、残っていたボート二隻で船を曳航させようとしました。しかし、どんな理由があったのか、この作業に元
捕虜を使ったのは愚かなことでした。ボートには勿論、武装したアメリカ人が乗り込んでいたのですが、元捕虜達
は監視を制圧して曳航索を切ると、「ボンノム・リチャード」の威嚇射撃もものともせず、アイルランド目指して脱
走します。拿捕船からちょうど戻って来たボートが、独断で彼らを追跡しましたが、いきなり濃霧になり、結局、ど
ちらのボートも帰ってきませんでした。脱走者達は無事に上陸して、追跡者達は逮捕されていたことが後に判明
します。結局この騒動で、「ボンノム・リチャード」は、ボート2隻と士官1人を含む23人を失ったのでした(←大バ
カ)。
 この日の夕刻、「アライアンス」のランダース艦長が「ボンノム・リチャード」にやって来て、命令無視は「無風で
どうしようも無かったからだ」と釈明する一方、ボートが行方不明になったのはジョーンズの軽率さのせいだと責
めました。これは確かに筋の通った話なのですが、ジョーンズの報告書には、この時のランダース艦長の態度は
非常に下品で無礼だったとあります。しかし「アライアンス」は、「ボンノム・リチャード」を除くと戦隊で唯一の大陸
海軍の軍艦であり、もらい物と借り物の中では、どうしてもランダース艦長を頼らざるを得ないという事情かあっ
て、苦い思いで我慢するしかありませんでした。
 その後、アイルランド西岸を北上した戦隊は、8月26日、嵐に遭遇しました。すると「アライアンス」が戦隊から
落伍し始めたので、ジョーンズは「アライアンス」に対し、北にある、予定の会合点に向かうように信号を送りまし
た。夜が近づくにつれて、嵐はますますひどくなったので、戦隊の分散を防ぐため、ジョーンズはマストの天辺に
ライトを点し、15分毎に発砲するように命じました。こうした処置は全て日没前に各艦に伝えられたのですが、翌
朝、「ボンノム・リチャード」の周囲に居たのは、「ベンジャンス」と私掠船「グランビル」、および拿捕船だけで、「ア
ライアンス」「パラス」「サーフ」は行方不明になっていました。
 9月1日、行方不明だった「アライアンス」が拿捕したイギリスの私掠船「ベッチー」を引き連れ、戦隊に合流しま
した。何か事故があったのかというとそうではなく、ランダース艦長が、嵐にかこつけて無断で戦隊から離脱して
いたようです。ちょうどこの時、「ボンノム・リチャード」はイギリスの軍艦旗を掲げて、イギリスの私掠船「ユニオ
ン」に接近中だったのですが、「アライアンス」は、恐らくジョーンズの邪魔をしようという意図で星条旗を掲揚した
ので偽装がバレました。それでもジョーンズは「ユニオン」を拿捕しましたが、「ユニオン」の船長が、「アライアン
ス」の星条旗を見て輸送中の公文書を破棄したのを知って激怒しました。
 さて、ランダース艦長は、「ボンノム・リチャード」がボートと人員を失っているので、「ユニオン」の回航も自分が
やろうと申し出ました。ジョーンズはこの申し出を受けて回航を任せ、それから「アライアンス」の捕虜も「ボンノ
ム・リチャード」に引き受けました。ここで何ゆえ、ジョーンズがランダース艦長を信用したのかは不明ですが、も
ちろんランダース艦長は、「ベッチー」をフランスに送る一方、「ユニオン」をベルゲン(←当時デンマーク領)に回
航させるという非常に悪意ある行動に出ました。中立国であるデンマーク政府は、勿論「ユニオン」を差し押さえ、
イギリスに返還します。当然ながらジョーンズと「ボンノム・リチャード」の乗員には、「ユニオン」拿捕による賞金
は手に入りませんでした。
 とは言え、それが判ったのはまた後のことです。この騒動の後、ジョーンズは次の会合点で合流するように命じ
て「ベンジャンス」を先行させました(なお私掠船「Granvill」は、これ以後別行動をとりました)。
 9月2日、嵐で舵を破損して落伍していた「パラス」が戦隊に追いつきました。しかし「サーフ」は、ついに合流し
ませんでした。
 9月3日、「ベンジャンス」が三隻の商船を拿捕して会合点に到着しましたが、翌日、「ベンジャンス」が拿捕船と
もども行方不明になったので、ジョーンズは「アライアンス」を捜索に分離させました。9月5日、「アライアンス」
は、小型の沿岸用スループを二隻拿捕して戻って来ました。「ベンジャンス」とその拿捕船は少し遅れて戻ってき
ましたが、「アライアンス」と一緒でなかったのは、「ベンジャンス」のリコット艦長が、ランダース艦長の指示に従う
のを嫌がったためだということです。要するにランダース艦長は、同じフランス人の間でも嫌われ者になっていた
のでした。
 この日の夕方、ジョーンズは旗艦に艦長達を集め、以後の計画を話し合いましたが、ここでもランダース艦長
は非常に反抗的であり、はっきりとジョーンズに従うことを拒否すると、悪態ついて「アライアンス」に戻りました。
しかし、「パラス」のコティニュー艦長および「ベンジャンス」のリコット艦長は、ジョーンズの命令に従うことを約束
しました。
 9月9日、「アライアンス」は拿捕した沿岸用スループを引き連れて、またもや無断で戦隊を離脱しましたが、も
はやランダース艦長に付き合いきれなくなっていたのか、ジョーンズは「パラス」と「ベンジャンス」を連れてそのま
ま航海を続け、道々、イギリスの軍艦旗で地元の水先案内人をだまして航路や交通の情報を入手しつつ、9月1
3日、スコットランドの東側に出ました。
 翌14日、「ボンノム・リチャード」は、エディンバラから石炭を運んでいたブリガンティンとシップを拿捕します
が、それらの拿捕船から、ファース湾のリース泊地に20門スループ艦と2、3隻のカッターからなる小さな船団が
停泊中との情報を得ました。
 ファース湾の入り口で、分離していた「パラス」と「ベンジャンス」と合流した後、ジョーンズは、「パラス」と「ベン
ジャンス」の艦長を呼び、リース泊地には砲台が無い(←これは本当)、船団の価値は20万ポンドになる(←大ハッ
タリ)、と反対意見を押し切ってリース泊地攻撃を決めました。しかし、議論に朝までかかってしまい、その時には
風向きが変わっていて、リース泊地に向かうにはすっかり逆風になっていました(←バカ)。そして、せいぜいが数
十キロの距離に2日もかかった挙句、リースの町を射程内に入れたところで、14日に拿捕した船の一隻がいき
なり沈没したので(回航員は全員救助された)、結局、計画を中止して、戦隊は湾の外に引き返しました。
 この後は、回航のための人手が足りなくなったからか、空荷の船は撃沈しつつ南下を続けました。9月21日、
北東方向に船影を視認したので、「パラス」に追跡させました。それから「ボンノム・リチャード」と「ベンジャンス」
は海岸に接近して、イギリス艦のふりをして水先案内人を呼び寄たところ、バルト海行きの護送船団と合流する
ため、ハンバー川に武装商船とフリゲートが待機中という重大情報を得ました。水先案内人はジョーンズがイギリ
ス人だと信じ込んでおり、船団が使う暗号まで教えてくれたので、ジョーンズは敵をおびき出そうと考え、この親切
な水先案内人を拘束して、ハンバー川へと向かいました。
 しかし到着してみると、敵にとって向かい風と上げ潮であり、呼んでも沖には出てきそうに無かったので、あきら
めて「パラス」と会合するために南下しました。
 その日の夜、「ボンノム・リチャード」は二隻の船と遭遇しました。識別信号を出したところ、一隻は応答してきた
ものの、もう一隻が応答しなかったのでジョーンズは不審に思い、翌22日の昼、それが偶然一緒になった「パラ
ス(←識別信号に応答した)」と「アライアンス(←応答しなかった)」だと確認できるまで、不必要な緊張を強いられ
たのでした。
 翌23日の昼下がり、北方に視認した大型船を追跡していると、フラムボロー・ヘッド沖で42隻の大船団(と一
般には言われていますが、ジョーンズの報告書には41隻とあります)に遭遇しました。これこそ、ハンバー川のフ
リゲートが待っていたという、バルト海行きの輸送船団でありました。
 ジョーンズは直ちに「全艦、各個に追撃”General Chace”」の信号旗を掲げますが、船団の方も海岸に向かっ
て逃走を開始しました。その一方で、ジョーンズの戦隊に向かって、二隻の軍艦が接近してきました。これこそ、
船団の護衛についていた44門フリゲート(本当は50門搭載)「セラピスSerapis」と22門スループ艦の「スカーバ
ラ伯爵夫人」でした。二隻が軍艦であることに気がついたジョーンズは、散開していた艦船に対し、戦列を組むよ
うに信号を送ります。しかし、「ベンジャンス」は風上に離れすぎて戻って来れず、「アライアンス」は視界内にある
も例によって信号を無視、戻って来たのは「パラス」だけでした。
 で、ジョーンズは、「パラス」に「スカーバラ伯爵夫人」を攻撃させると、自らは「セラピス」に向かいました。

ボンノム・リチャード
998t 375人乗り(海兵隊員137人を含む )。1765年建造のフランス東インド会社船
inserted by FC2 system