ジョン・ポール・ジョーンズその4
ジョン・ポール・ジョーンズ、ポーツマスへ行く
 さて、「アルフレッド」でもかなりの戦果をあげ、無事に帰港したジョーンズですが、手柄を立てたが故に、彼は
微妙な立場に置かれました。
 まずジョーンズは、「アルフレッド」の艦長職を解任されました。友人でもあるロバート・モリス海兵委員長がジョ
ーンズの手腕を高く評価していたためで、1777年2月、モリスは海兵委員会に対し、慎重すぎるとの批判が強
いホプキンス司令官の解任と、ジョン・ポール・ジョーンズの大陸艦隊司令官への任命を勧告したのでした。
 しかし、この人事はさすがに激しい反発を受け、他の士官達がこぞって反対したため、話は流れてしまいまし
た。急な昇進による他の士官の嫉妬が主たる要因ですが、しかし、ジョーンズの大陸海軍における地位は、公平
に言って、ジョセフ・ヒューズやロバート・モリスなどの友人や、フリーメーソンのメンバーのコネによるところが大
きかったので、さすがに司令官職ともなれば、例え嫉妬が無かったとしても、すんなり受け入れられたかはギモン
です。
 また、ジョーンズの大陸艦隊における艦長名簿の先任順位(←早い話が提督に昇進する順位の表。実績、年功
で決定される)は18番目になりました。これが高いのか低いのかと言うと、彼の実績からすれば不当に低いもの
です。また、ロバート・モリス委員長は、ジョーンズを指揮官とする西インド諸島での通商破壊作戦を計画してい
たのですが、委員会に採用されず、このためジョーンズには指揮する艦が無くなりました。
 とは言え、まっとうな人も必ずいるものです。失業の危機のジョン・ポール・ジョーンズに救いの手を差し伸べた
のは、大陸会議議長ジョン・ハンコックその人。ジョーンズの手腕を買っていたハンコックの口利きにより、大陸
会議はジョーンズを、駐仏委員がオランダで購入した新造フリゲート「インディーネ(Indienne)」の艦長に任命しま
した。このためジョーンズは、フランスのフリゲート艦「Amphitrite」で渡仏することになのましたが、連絡ミスで
「Amphitrite」が出港してしまったので、1777年6月14日、渡仏のためのアシということで、ジョーンズは改めて
スループ艦(sloop-of-war小型の三本マストの船で、一本マストのスループとは違う)「レンジャー」の艦長に任命
されました。
 「レンジャー」は、1777年5月10日、ニューハンプシャー植民地のポーツマスで進水した新造艦(だから最初
は「ハンプシャー」という名前だった)でした。そういうわけで、1777年7月4日、ジョーンズはポーツマスに到着し
ました。その後、酒場やフリーメーソンのロッジを転々としながら、11月までポーツマスに滞在しました。彼は、当
時の船乗りのイメージ、酔っ払い、汚い、乱暴、とは対照的な、身なりにも気を使う教養ある紳士だったので、ポ
ーツマスではそれなりに歓迎されました。ジョーンズも、暮らして楽しかったのはパリとポーツマスだったと手紙に
書き残しています。実際、若い女の子に手を出したりして、それなりに楽しくやっていたようですが、ストレスの連
続でもありました。
 ジョーンズは非常に焦っており、すぐにフランスへ出発するつもりだったのですが、大陸海軍の例に漏れず、人
手と資材の不足という事態に直面しました。特に、ジョーンズ到着時のポーツマス港には、「レンジャー」の他に、
大陸海軍の32門フリゲート「ローリー(Raleigh 突貫工事で建造された13隻の1隻)」と5隻の私掠船が停泊して
おり、熾烈な船員争奪戦の真っ最中でした。こういう時には、大陸会議の意向により、大陸海軍が優先的に船員
を徴募できそうなものですが、当時のアメリカには、大陸海軍、各植民地が用意した海軍、私掠船の三種の海軍
力が存在し、大陸会議や海兵委員会が、それぞれを同等に扱う方針を示していたので、アメリカの海軍力の支
援体制は、控えめに言ってもバラバラで混乱していました。
 ジョン・ポール・ジョーンズは、かねてからロバート・モリス海兵委員長やジョン・ハンコックに対し、アメリカの海
軍力を統一的に運用することを提言していました。彼がビジネスマン出身で軍歴が無いことを考えると卓見であ
り、おかげでジョーンズは、モリスやハンコックの好意を得ることが出来たのですが、海軍の実態は何も変わら
ず、海軍組織の不統一は革命戦争が終わるまで引きずられました(革命戦争が終わると、海軍そのものが消滅
しました)。海兵委員会が無能だったのかと言えば、そうでもなく、特にロバート・モリスは優れた戦略家であり、防
備の弱い敵の拠点を攻撃して、イギリス海軍の分散を図るという戦略の元、大陸海軍をうまく活用していました
(1772年出版の「孫子」の最初の英訳版を熟読していた形跡も伺えるらしいです)。しかし、海軍力の不統一は、
強力な政府が存在しないという(大陸会議は「政府」とはまた別物です)、当時のアメリカ社会の根幹に関わる問
題でした。

 とにかく、ポーツマスでの船員集めは思うようには運びませんでした。私掠船に人手が流れたうえに、「レンジャ
ー」の任務というのが、拿捕賞金が期待出来そうに無いフランス行きであるため、余計に集まりが悪いものでし
た。
 おまけにジョーンズは、アメリカ生まれではないスコットランド人で、偽名を使って逃亡してきた経歴だけは知れ
渡っており、ポーツマスでは、うさんくさい外国人と見る向きもありました。さらに、このジョン・ポール・ジョーンズ
という人は、件の鞭打ち事件やトバゴ島での殺人事件も示すように、下の者に対してはかなり尊大に振舞い、そ
れでいて規則にも非常に厳格だったので、大戦果を上げていながらも下級船員の人気はサッパリでした。当時
の艦長/船長には、こういうタイプの人が多いのは前述の通りですが、どうもジョン・ポール・ジョーンズの場合、
度が過ぎていたようです。そして何よりも、給料の支払いを渋った挙句に水夫を殺したという、言い訳しようのな
い前歴もありました。
 そういうわけで、彼は宣伝キャンペーンに打って出ました。彼が作ったポスター(下図参照)は、アメリカの軍事
史上、最初の兵員募集ポスターであるとされており、プロビデンス、ロードアイランド、ボストンに配布されていま
す。また、ポーツマスのローカル新聞に広告も掲載し、そこで当時としては破格の条件を提示しました(下のリンク
参照)。
 ジョーンズは当初、7月26日にロバート・モリスにあてた手紙の中で、
「『レンジャー』の人員充足にはかなりよい見込みを持っています。もし、私の望みどおりに船員と資材があれば、
『レンジャー』は『ローリー』よりも先に海へ出られるでしょう。『ローリー』は定員に100名不足しています。あのよ
うにすばらしい船が人手不足で停泊中とは、驚くべきことです。」と述べており、かなり楽観的でしたが、ポスター
の効果はサッパリでした。
 とにかく人の集まりは悪く、未経験者でも良いからと、地元の陸軍兵士から船員を徴集したりしましたが、8月
になると、彼は非常に深刻な事態に直面しました。
 ジョーンズは大陸会議に対し、ぼつぼつと集まってきた船員への給与の前払い、少なくとも妻子持ちに対しての
前払いを要請しましたが、大陸会議は、12ヶ月間勤務しない限り給与は支払わないと回答してきました。ジョー
ンズは、ポスターや新聞広告の中で大陸会議を引き合いに出していましたが(下図参照)、ズバリ、それは甚だイ
ンチキな誇大広告だったのです。インチキがバレるのを恐れたジョーンズは大陸会議にひたすら頭を下げ、給与
支払いを懇願しました。それに対して大陸会議は、ジョーンズ自身が船員達に釈明し、約束の三年分の前払いを
行うべきであるという、まことにもっともな回答を行いました。ジョーンズは、自分の誇大宣伝は棚に上げて、人が
集まってきたのは自分に対する信頼ゆえなのだから、その信頼に応えないわけにはいかないと大陸会議に食い
下がりました。
 10月頃、どうにか「レンジャー」の定員140人と士官6人は揃いましたが、士官はみんな、ジョン・ハンコックの
知人でした。140人の乗組員の2/3は、ポーツマス近辺の人々(二人の黒人や外国人の傭兵も含む)であり、ポ
スターの効果が無かったのは明白です。アメリカの著名な海軍史研究家サミュエル・モリソン博士によると、前払
いの合計額は713ドルで、そのうち542.125ドルはジョーンズが自腹を切りました。一人20〜40ドルというポスター
や新聞広告の約束は、明らかに踏み倒されています。また、脱走者の捜索ということで82.66ドル払っているとい
うことですが、この金の本当の使途は不明のようです。
 様々なトラブルを乗り越え、「レンジャー」の定員を確保したジョーンズですが、今度は資材不足が明白になりま
した。これは、ポーツマスの有力者で「レンジャー」の建造者でもある造船業者、ジョン・ラングトンの差し金による
ものでした。ラングトンは、自分の知人を「レンジャー」の艦長に推薦して蹴られた事を根に持っていたのです。そ
こにもってきてジョーンズが、大陸海軍での階級を傘に来て、「レンジャー」に資材を優先配備するようラングトン
に命令したので泥仕合になりました。
 10月に書いた手紙の中でジョーンズは、「人員の配置以外に何の問題も無い」などと書いているようですが、
本当はラングトンの非協力に激怒していたと言うことです。

ジョーンズのポスター
(絵をクリックすると、全訳が見れます)
  
新聞の広告(クリックすると全訳が見れます)  

ロバート・モリス(Robert Morris, 1734-1806) フィラデルフィアの商人。イギリス、リバプール出身。金融委員長としても辣腕を振るい、紙幣乱発によるインフレ抑制に成功している(顔の周りに修正した跡らしきものがあるのは何故?)。


「レンジャー」の歴史的意義
 ジョーンズが「レンジャー」の準備をしている頃、アメリカ革命は危機に直面していました。
 1776年前半は、ボストンを陥落させ、チャールストンへのイギリス軍の最初の反攻をも撃退して意気あがった
大陸軍でしたが、1776年9月12日、ハウ将軍率いるイギリス軍にニューヨークを占領されると、一部で局地的
な勝利はあったものの、じりじりと内陸部に押しやられました。翌年6月には、カナダ駐留イギリス軍司令官、バ
ーゴイン将軍率いる3千人のドイツ人傭兵と4千人のイギリス兵が、ハドソン河に沿って南進しを開始し、ほとん
ど抵抗を受けることなく進撃を続けました。
 同じ頃、大陸会議の所在地で、首都として機能していたフィラデルフィアを占領すれば戦争に勝てると考えたハ
ウ将軍は、1777年7月23日、1万4千人を率いてニューヨークを出ると、フィラデルフィアに向かって進撃を開
始します。そして9月26日にフィラデルフィアは陥落します。 
 このためフランスは戦争の先行きを危ぶみ、ベルジェンヌ伯爵はアメリカの私掠船をフランスから退去させ、ア
メリカ向けの援助を停止したので、アメリカの勝利の見込みは一気に薄くなったように見えました。そうした状況
ですから、ジョン・ポール・ジョーンズが大いに焦っていたのもむべなるかなです。
 さて、当時のフィラデルフィアはアメリカ最大の都市であり、イギリス帝国内でもロンドンに次ぐ第二の都市でも
あったので、ここを獲ったハウ将軍は戦争に勝ったつもりになりました。が、それは、ズバリ勘違いでした。ハウ
将軍がフィラデルフィアに向かったことで、ワシントン将軍は危機を脱したと考えました。ワシントン将軍ら大陸軍
の指導部が恐れていたのは、ハウ将軍がバーゴイン将軍と共同作戦を取ることであり、フィラデルフィアなどは、
各植民地に一個ずつある主要都市の一つに過ぎなかったのです。
 このハウ将軍というのは、どうにも勘違いが多い人で、植民地側との和平交渉を行う権限を持って赴任してき
たものの、本来なら大陸会議に話を持ち掛けねばならないところを、ワシントン将軍を独立運動の指導者だと勘
違いして無駄足を踏んで、和平交渉のチャンスを逃した前科持ちです。
 ハウ将軍がフィラデルフィアを狙っていることが判明すると、大陸会議はあっさりとバルチモアに移転し、ワシン
トン将軍はハウ将軍の不在で手薄になったニューヨークを牽制しつつ、フイラデルフィアは気にせずに、バーゴイ
ン軍の撃滅に全力を集中させました。
 そしてバーゴイン将軍とは、遠征の最中にも愛人とヤっているような、どうしようもないバカでした。大陸軍の反
撃が開始されるや、バーゴインの部隊は戦闘する度に負け、カナダからも遠く離れて補給も途絶え、あっという間
に7000人のはずの兵士は5000人以下に減ってしまい、しかも退却するチャンスまで逃してサラトガで立ち往
生し、三倍近い大陸軍に包囲されてしまいます。
 10月17日、バーゴイン将軍は降伏しました。降伏時の協定で、ドイツ人傭兵達は武装解除の上で本国送還、
イギリス兵達も武装解除され、アメリカで任務に就かないとの誓約の上で本国送還となりました(←当時の戦争で
は、このような協定は一般的でした)。この協定を遵守すれば、兵力の25%を一気に失うので、イギリスには最初
から協定を守る意志は無く、兵士送還手続きを行わなかったばかりか、協定違反を正当化するために大陸軍兵
士による暴力沙汰を挑発しようとしさえしました。そのため、国に帰れると思っていたドイツ人傭兵達の多くは大
陸軍に寝返りました。
 とは言え、サラトガの大勝利にもかかわらず、大陸軍の置かれた状況はやはり危機的であり、1777年から7
8年にかけて、ワシントン将軍とその部下は、武器も食料も尽きた状態でフォージ渓谷に立て篭もらねばならず、
一刻も早いフランスの援助再開が必要でした。

 ジョン・ポール・ジョーンズには、このサラトガでの大勝利を駐仏委員に連絡する任務が与えられたので、いても
たっても居られなくなり、26門搭載の予定だった砲は18門しか用意できず、予備の帆布も無く、配給用のラム
酒も不足しており、さらには悪天候にも見舞われたのですが、11月1日、準備不足を承知で強引にポーツマスを
出港しました。
 なお、軍艦のラム酒の配給は、1740年にイギリスのバーノン提督が、自分の艦隊の船員に2分の1パイント
(142ミリリットル)のラム酒を4分の1パイントの水で薄めたものを、午後と夜6時の2回に分けて支給したこと
が起源です(バーノン提督のあだ名Old Grogにちなんで、この酒はNavy Grogと呼ばれ、これがGroggyの語源に
なりました)。これが大好評でイギリス海軍全体に広まり、大陸海軍でもこの風習は受け継がれていました。ラム
酒の配給は船員の士気を高めましたが、これはかなり強い酒で、ハッキリ言って、バス会社が運転手に酒気帯
び運転をさせるようなものです。実際、酒の上での事故もあったのですが、そのくせ、配給を停止したり水の量を
増やしたりすると、理不尽にも反乱が起きたりしました。
 更に言うと、ジョーンズのポスターは、金銭関連以外でも誇大広告でした。何となれば、「レンジャー」はそれほ
ど良い船ではなく、マストが大きすぎて、いわゆるトップヘビーの不安定な船で、操縦性も低い船でした。それに
悪天候もあって、ジョーンズはかなり苦労しましたが、それでも途中で2隻のブリッグを拿捕しつつ、32日かけて
大西洋を横断、無事にブレストに到着しました。

 さて、「レンジャー」にはアメリカの歴史上、二つの意義があるとされています。
 先ずはサラトガの大勝利のニュース(大陸会議からの公式通告?)をフランスに伝えたということですが、実際
のところは、フランスのフリゲート艦の方が早く到着していて、ベンジャミン・フランクリンは、「レンジャー」到着の
12時間前にニュースを受け取っていました。
 ともあれ、大陸軍の大勝利に、フランクリンは勿論、フランスの親米派は狂喜乱舞しました。ベルジェンヌ伯爵
はコロッと態度を変えると、再びアメリカの私掠船に基地の使用を認め、対米援助を再開しました。その一方で
伯爵は、サラトガの大敗でイギリスが和平を申し出て、せっかくの復讐のチャンスが消滅することも恐れました。
実際、イギリス議会は12月から対米和平の検討を始めます。
 伯爵はルイ16世に対して盛んに対米同盟締結をプッシュし、フランクリンにも同盟締結を申し出ました。同時
に対英開戦も見越して、スペインを戦争に巻き込む画策をはじめました。その甲斐あって、12月中旬、フランス
政府はアメリカ合衆国の独立を承認し、1778年2月6日には、米仏間の通商修好と防御同盟の条約が締結さ
れました(大陸会議の批准は5月4日)。そして3月13日、フランスはイギリスに国交断絶を通告します。当時にあ
って、これは宣戦布告と同義であり、このフランスの参戦こそが、アメリカ革命の成功を決定付けたのでした。
 
 もう一つの意義は、「レンジャー」が星条旗を最初に掲げた軍艦であり、独立国アメリカの軍艦として、外国の
軍艦から最初に礼砲を受けた艦であるということです。
 とは言え、これも約一年半前の1776年11月16日、グランド・ユニオン旗を掲げた「アンドリュー・ドリア」が、
カリブ海のオランダ領セントユースティシャス島で、要塞からの礼砲を受けています。この時点でオランダ政府は
アメリカの独立を承認しておらず、これはアメリカとの武器弾薬の貿易で一儲けしようとしていた島の総督の独断
だったのですが、それでもアメリカの主権が最初に承認されたのはこの時であるとする意見もあります(←フラン
クリン・ルーズベルト大統領はこの意見らしいです)。
 「レンジャー」の場合、フランスが正式に独立国として承認した後だったことと、旗が星条旗だったことが重要な
のでしょう。
 「レンジャー」が掲げていた星条旗は、星が13個の星条旗で、後に「ベッチー・ロス旗」と俗称される旗です(下
図参照)。これは1777年6月14日に、大陸会議の公式な旗として採用されました。
 星条旗の採用と「レンジャー」への任命が同じ日であることから、ジョーンズは、
「私と星条旗は双子である。運命の時間に同じ運命の中で生まれ、生も死も、我々を分かつことは出来ない」とい
う手紙を書いたとされています。ジョン・ポール・ジョーンズの愛国心が強く現れた発言ではありますが、しかし、ジ
ョーンズにとって「レンジャー」は指揮を執った三番目の艦であり、フランスでもらうはずの新型フリゲートへの通
過点に過ぎず、そこまで感激するはずはありません。この発言は、1900年に出版されたビューエル(Augustus
C. Buell)の最も有名なジョン・ポール・ジョーンズの伝記の中に出てくるのですが、これはビューエルの捏造です
(この箇所に限らず、ビューエルの伝記そのものが捏造だらけです)。
 ベッチー・ロス旗には、アメリカで人気のある有名な伝説があります。
 フィラデルフィアの縫製工の女性、Elizabeth Griscom Ross(1752-1836)は、家具職人の夫を1776年に弾薬
の爆発事故で失った後、夫の家具店を切り盛りしていました。ジョージ・ワシントン夫妻は、教会の礼拝でロス夫
人の隣の席であり、店の常連客でもあって、シャツを作ってもらったり、服に刺繍してもらったりしていたとのこ
と。
 1776年6月1日、大陸軍の指揮権を預かったワシントン将軍は、ロバート・モリスと、ロス夫人の義理の叔父
であるジョージ・ロス大佐を伴って彼女の店を訪れ、持参したラフに従って星条旗を作るように依頼したそうです。
ワシントン将軍の当初のラフでは、星条旗の星が正三角形を二つ重ねた六線星型だったのですが、ロス夫人
が、裁断しやすい五線星型にするように提案したので、ワシントン将軍が星を五線に書き換えたと言われていま
す(←当時、旗などの模様付き布製品は、現在のようなプリント染めでは勿論なく、違う色の布のパッチワークと
刺繍で作られていました。だから、星型の布の裁断は大問題でした)。
 この経緯は、1870年のペンシルベニアの歴史学会で、ロス夫人の孫William J. Canby氏によって明らかにさ
れて以来、ロス夫人が星条旗をデザインした人物の一人ということで、アメリカでは人気のある伝説となったので
すが、1776年時点で大陸会議が旗のデザインを議論した形跡が無いこと、ロス大佐とモリスの日記にそうした
事実が書かれていない等の証拠から、現在では捏造であるとされています。ただ、ワシントン将軍夫妻とも知り
合いであったことから、ロス夫人が星条旗作りの仕事をしたのは間違い無さそうです。
 星条旗をデザインしたのは、ニュージャージー選出の大陸会議議員で、独立宣言にも署名したフランシス・ホプ
キンソン(Francis Hopkinson)です。ただ、どうしてああいうデザインになったのかは不明で、ワシントン将軍の解
釈(これも真偽不明)によると、星の部分は空を表し、白は祖国、赤はユニオンジャックの配色を取り入れたという
ことです。星の配列には決まった規則が無かったので、ベッチー・ロス旗では、どの植民地も平等である、という
意味を込めて円形に配置されたということです。
 また、「レンジャー」に掲げられた星条旗は、ジョーンズがポーツマスの女性達から贈られた物であるとか、お針
子の若い女性が、結婚式で着る予定だった絹のガウンをつぶして作ってくれたのだとか、はたまた元は使用済
み下着だったとか、さらには、ロス夫人その人が自分の下着(ペティコート)を提供したのだとか諸説ありますが、
いずれも伝説、もしくは伝記作家による捏造であり、本当は単に大陸会議から送られてきたというのが真相でし
ょう。
 とにかく、米仏同盟成立後の1778年2月14日、「レンジャー」がキブローン湾に移動した際、フランスの軍艦
から9発の礼砲を受け、アメリカ合衆国とその国旗は、独立国として最初の敬礼を受けたのでした。
 

ベッチー・ロス旗

ロス夫人、星条旗を作るの
レンジャー」の建造工事の様子。
308トン、6ポンド砲18門搭載。ただし、「レンジャー」の図面や同時代のスケッチは現存しておらず、本当はどういう格好だったかは不明。ちなみに建造費は当時の金で65000ドル。 
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