ジョン・ポール・ジョーンズその3
大陸海軍、バハマを襲撃
 翌1776年早々、ホプキンス司令官の指揮する8隻の大陸艦隊は、記念すべき最初の作戦行動を開始しまし
た。海兵委員会は当初、バージニア水域でアメリカ船の航行を妨害していたイギリス艦を攻撃するように命じて
いまおり、その次にはサウスカロライナのチャールストン沖とロードアイランド沖でパトロールを行うことになって
いました。しかし、ホプキンス司令官には大幅な自由裁量が認められており、委員会の命令の遂行が不可能と判
断される場合は、独自の作戦行動を取ることが認められていました。
 ところが、いよいよ出動ということになった1月4日、戦隊は大寒波に遭遇し、デラウェア湾が氷結したため、6
週間もそこで足止めされました。
 2月18日、戦隊はようやくデラウェア湾を脱出することが出来ました。戦隊が氷で閉じ込められているその間
に、大陸軍の武器弾薬の不足が絶望的な状態になったため、ホプキンス司令官は、イギリス軍の軍需品の集積
所があるバハマ諸島のニュー・プロヴィデンスを襲撃することにしました。そして、デラウェア湾を出て2週間後、
3月3日に戦隊はナッソー沖に到着しました。
 さて、ホプキンス司令官の計画では、小型の「ワスプ」と「プロヴィデンス」に商船のフリをさせて部隊を上陸させ
るはずだったのですが、どうやら分離するタイミングを失したらしく、戦隊全部がバハマから丸見えであることが
判明しました(←バカ)。結局、戦隊ごと港に突入することになりましたが、ここでジョン・ポール・ジョーンズは、自
ら「アルフレッド」のフォアマストの見張り台に立ち、浅瀬の位置を見極めつつ(美しく澄んだ海)、戦隊を無事に港
内に誘導するという大手柄を立てています。
 ジョーンズの誘導により、無事に上陸した200人の海兵隊と50人の武装水兵からなる上陸部隊は、バハマ島
の東端、モンターギュ要塞を無血で占領しました。バハマのモンフォート・ブラウン総督はナッソーの要塞に立て
こもりますが、手元には40人ほどの民兵しかいなかったため、翌日に降伏しました。しかし総督は、降伏する前
に集積所の火薬類をフロリダのセント・オーガスチンに向けてこっそり送り出していました。結局、大陸艦隊は本
来の目的を果たせなかったわけですが、それでもホプキンスは、要塞を解体し、バハマに残っていた兵器類を全
てまきあげ、さらにはブラウン総督を捕虜にすると、3月17日にバハマを出港しました。奇しくもこの日、ボストン
の南、ドーチェスター高地を制圧されたハウ将軍は(ゲージ将軍は前年10月に解任されていた)、指揮下の軍隊
と親英派市民を連れて、海路、カナダのハリファックスへと脱出しました。
 帰途の4月4日、戦隊は、イギリスの6門スクーナー「ホーク」と8門ブリッグ「ボルトン」、および二隻のイギリス
商船を拿捕しました。さらに二日後、イギリス軍のボストン脱出を伝える公文書急送の任務についていた20門フ
リゲート「グラスゴー」と遭遇します。しかし、「グラスゴー」の艦長が優秀だったのか、大陸海軍が実はぼんくらだ
ったのか、戦闘は三時間に及びましたが、「グラスゴー」は圧倒的に優勢なホプキンス戦隊の攻撃をかわし、あま
つさえ「アルフレッド」を砲撃して死傷12名の損害を与えた上に、操舵索を切断して操船不能に陥れると、まんま
と脱出してしまいました。
 そして4月8日、戦隊はコネチカットのニューロンドンに入港し、英雄として歓迎を受けたのですが、「グラスゴ
ー」とのブザマな戦闘は大問題になり、これに関して「コロンバス」のアブラハム・ウィップル艦長が、臆病な行動
を取ったと告発されたので、「アルフレッド」のソルトンストール艦長を議長とする軍法会議が開かれ、ジョーンズ
も判事の一人として参加します。
 このウィップル艦長は、イギリスと植民地の直接対決の原因となった、イギリスの税関スクーナー「ガスピー」焼
き討ち事件で有名な人物であり、他にもイギリスの軍艦を座礁させて捕獲したり、ボストン包囲中のワシントン将
軍に武器弾薬を輸送したりと大活躍していた人物でした。このような士官が臆病であるはずは無く、会議の結
果、臆病ではなく判断ミスがあったとの判決が下り、ウィップル艦長はクビがつながりました。
 まあ、大陸海軍の最初の作戦としては、バハマ襲撃はそこそこの成功でしたが、ここで明らかになったのは、大
陸海軍の人事の失敗でした。大陸海軍最初の艦長達のリストは下に示してありますが、1777年、ホプキンスは
臆病さ(加えて、海兵委員会の失策の責任を転嫁された)故に解任、ソルトンストールも無能と敗戦でクビになり、
一番活躍したのは、「臆病」の烙印を押されかけたアブラハム・ウィップル艦長だったのでした。
 ただ、人事の失敗が明らかになったことは、ジョン・ポール・ジョーンズにとっては却って幸運でした。スループ
「プロヴィデンス」の艦長が、「グラスゴー」との戦闘中の失敗で解任されたので、ジョーンズが一時的に、この船
の指揮を執ることになったのです。
 
大陸海軍創設時の艦隊(1775年12月7日)
司令官 Esek Hopkins
アルフレッド 旗艦 30門フリゲート 艦長Dudley Saltonstall 1778年英軍に拿捕
コロンバス  28門フリゲート 艦長Abraham Whipple  1778年撃沈
アンドリア・ドリア 14門ブリッグ 艦長Nicholas Biddle 1777年自沈
キャボット 14門ブリッグ 艦長John Hopkins(←ホプキンス司令官の息子) 1777年拿捕
プロヴィデンス 14門スループ 艦長John Hazard 1779年撃沈
ホーネット 12門スループ 艦長William Stone 1777年拿捕
ワスプ 10門スクーナー 艦長William Hallock  1777年拿捕
フライ 8門スクーナー 艦長Hoysteed Hacker 1777年拿捕

 艦長は創設時の人。一見して明らかにように、これらの船は運が悪いです。また、バハマ遠征後の一年以内に、ホプキンス司令官を初
めとして、BiddleとWhipple以外の艦長が全てクビになっています。  
 
ジョーンズ 艦長になる
 1776年5月10日、ジョン・ポール・ジョーンズは、スループ「プロヴィデンス」の艦長代行に任命されました。こ
の「プロヴィデンス」は、もともとロードアイランド植民地がイギリスの圧迫と対抗するために用意した軍艦「キャテ
ィー」で、革命戦争勃発前後には、件のアブラハム・ウィップル艦長の指揮の下で大活躍していた殊勲の船です。
ただ、この人事は、ヒューズやハンコックと会見して、海軍の組織に関する意見交換を行った後のことなので、ど
うもコネ(フリーメーソンの?)を使ったゴリ押しの感じがします。とは言え、ジョーンズは十分に期待に応えたのです
が。
 ジョン・ポール・ジョーンズの最初の任務は、ワシントン将軍の指揮下から貸し出されていた100人の兵士をニュ
ーヨークに戻す任務でした。この航海の途中、イギリスの32門フリゲート「ミルフォード」に追跡されましたが、無
事に逃げ切っています。
 この後基地に戻り、「プロヴィデンス」の船底の清掃(当時の船は、水に浸かっている部分がフナクイムシに食
い荒らされたり、海草が生えて抵抗が増したりするので、定期的に清掃しなければならなかった)を行った後、6月
13日、「フライ」をニューヨーク沖のロードアイランドまで護衛する任務につきました。この航海の途中、イギリスの
フリゲート「セルベロス」に追いかけられていた、ヒスパニオラ島から武器弾薬を輸送してきたブリッグを助けまし
た。次に、フィラデルフィア行きの石炭輸送船団の護衛任務に就き、8月1日、フィラデルフィアへ寄港すると、ここ
で、8月7日付けで正式に「プロヴィデンス」の艦長に任命されました。

 さて、ボストンを失ったイギリス軍は、新たな拠点としてニューヨークに目をつけました。そして1776年8月12
日、カナダから戻ってきたハウ将軍の32000人の陸軍部隊、およびリチャード・ハウ提督(ハウ将軍の弟)に指
揮された400隻の輸送船と30隻の軍艦がニューヨークに押し寄せました。このような大艦隊に対しては、ちっぽ
けな大陸海軍は手も足も出せないので、とるべき行動は、私掠船とともにゲリラ的な通商破壊作戦しかありませ
んでした。
 ジョン・ポール・ジョーンズと「プロヴィデンス」は、8月21日までフィラデルフィアにとどまった後、通商破壊のた
めの単独の哨戒任務に出撃しました。出港して数日後、イギリスのブリガンティン「ブリタンニア」と捕鯨船を拿捕
してフィラデルフィアに回航させました。9月1日には、イギリスのフリゲート艦の追跡をかわすと、また捕鯨船を拿
捕して、これもフィラデルフィアに回航しました。その二日後、今度はバミューダ島へ砂糖、ラム酒、ショウガ、油
などを運んでいたブリガンティン「海のニンフ」を拿捕し、これまたフィラデルフィアへ回航しました。9月6日には、
アンティグアからリバプールまで砂糖を運んでいたブリガンティン「フェーバリット」を拿捕しましたが、残念ながら
この船は、フィラデルフィアへ回航中にイギリスのフリゲートに奪還されてしまいました。
 この後、北に進路を変えて、カナダのノバ・スコシアに向かい、途中でイギリスのフリゲートに追跡されたりしま
したが、9月22日、無事にノバ・スコシア半島の東端、カンソーに到着しました。
 「プロヴイデンス」は、拿捕船の回航のために人手不足になっていたので、ジョーンズはここで乗組員を募集す
ることにしました。奇妙に思われるかもしれませんが、当時にあっては、軍艦が外国人の乗組員を乗せるのはよ
くあることだったので、大陸海軍の船がカナダで人を集めるのはそう難しいことではなかったでしょう。
 その一方で、カンソー沖でも二隻の漁船を撃沈し、一隻を拿捕しています。帰りの航海では嵐に遭ったりもしま
したが、道々、さらに商船と捕鯨船を拿捕し、10月8日、ナガランセット湾(マサチューセッツ州)に帰港しました。
この7週間の哨戒の間、「プロヴィデンス」はイギリス船8隻を拿捕しました。大陸会議の布告では、私掠船だけで
なく大陸海軍の船でも、商船や軍用輸送船を拿捕した場合、船体と積荷の査定額の2/3が、軍艦の場合、査定
額の1/2が船主、船長、乗組員に分配されることになっていましたから、ジョーンズはこの遠征でかなりの額を儲
けたはずです。ただし、大陸海軍からは給料を貰っていないため、意地でも獲物を拿捕しなければならなかった
ようでもあります(ジョージ・ワシントン将軍その人ですら、当時は無給だったので、別に不公平というわけではあ
りません)

 戦果をあげて帰港したジョン・ポール・ジョーンズには、更なる任務が待っていました。大陸海軍の旗艦「アルフ
レッド」の艦長に任命されたのです。
 旗艦「アルフレッド」は、ジョーンズが「プロヴィデンス」で活躍している間、ずっとロードアイランドのプロヴィデン
ス港に停泊していました。この頃、大陸海軍の艦隊は、20〜30隻弱くらいまでに増強されていたので、急な拡大
による資材や人手の不足が原因でした。特に船員の不足は深刻で、大陸海軍の船員の待遇は普通でしたが、
熟練した水夫はより稼ぎの大きい私掠船に流れていたので、新米の未経験者は勿論のこと、給料の高い外国人
の傭兵や、信用できないイギリス軍捕虜の強制労働に頼る破目になっていたのです。 
 10月26日、ジョーンズ指揮する「アルフレッド」は、14門ブリッグ艦「ハンプデン」ともにプロヴィデンスから出港し
ますが、「ハンプデン」が湾を出る前に岩礁と衝突してしまい、ニューポート港に逃げ込む破目になりました。
 これが原因で、ハッカー艦長以下「ハンプデン」のクルーは全員「プロヴィデンス」に移動することになったので、
ジョーンズは、改めて「プロヴィデンス」を引き連れ、再びノバ・スコシア〜ハリファックス沿岸の哨戒に出動しまし
た。
 ノバ・スコシア沖では三隻のイギリス船を拿捕しました。特に11月12日に拿捕した軍用輸送船「メリッサ」は、ケ
ベックのイギリス軍向けの冬服を運んでおり、イギリス軍には大きな打撃でした。11月17日、「プロヴィデンス」が
浸水で作戦不能となり、修理のために帰途についたので、以後ジョーンズは「アルフレッド」だけで哨戒を続けま
した。
 しかし、その後は獲物に出くわさなかったためか、11月22日、カンソーの港を上陸部隊で襲撃し、カナダ行きの
輸送船と鯨油の貯蔵所を焼き討ちにして、停泊中のスクーナーを拿捕しました。24日には、ニューヨークのイギリ
ス軍へ石炭を運ぶ三隻の輸送船団を全部拿捕した上に、その二日後にはイギリスの私掠船も拿捕しています。
 帰り道では、例によってイギリスのフリゲートに追いかけらたりしましたが、12月15日、無事にボストン港に到着
しました。

ジョン・ポール・ジョーンズが指揮した「プロヴィデンス(初代)」。
4ポンド砲12門、90人乗り。 

フランスの動向
 アメリカ革命戦争は、単なる大西洋を挟んだイギリス帝国の内戦にはとどまりませんでした。何らかの形でアメ
リカ革命戦争に関与した国には、フランス、スペイン、オランダ、ロシア、プロイセン、ポルトガル、スウェーデン、
デンマーク、ドイツ諸侯があり、このうち、フランス、スペイン、オランダは、英国と直接戦火を交えました。

 1776年7月4日、大陸会議が独立宣言を発すると、ヨーロッパ諸国では、大陸軍に加わるべく海を渡る人々
が増えました。フランス人、およびドイツ人が主であり、独立宣言に謳われた自由、人権、民主主義に共感した
人々が、その理想のために戦った……、と、言うのはあくまでタテマエであって、フランスのラファイエット侯爵の
ように、そういう人も居ないことも無かったのですが、革命戦争に参加することで、自国の軍隊に有用な何がしか
の経験を得ようとしたのはまだ真面目な方であり、大半の人々は、冷徹な戦争のプロフェッショナル、と言えば聞
こは良いが、はっきり言えばおせっかいな戦争好きの人々なのでした。こうした傭兵達は確かにそれなりに役に
立ち、中には、ラファイエット侯爵や、プロイセンのシュトイゼン男爵のように、大陸軍の組織化と訓練に重要な
役割を果たした人も居たのですが、傭兵達は祖国の軍隊での経験を元に、(図々しくも)大陸軍の佐官以上の地
位を要求したため、アメリカ人との摩擦が絶えませんでした。
 一方のイギリスは、革命戦争勃発すると北米に5万5千人を派遣する計画を立てました。しかし、戦争勃発時の
陸軍の総兵力は、8500人のアメリカ駐留軍を含めて4万9千人しかなく、新兵の募集も進まなかったため、ここは
ハノーバー王朝のコネで、ドイツ諸侯の協力のもとドイツ人傭兵がかき集めました。最終的に3万人のドイツ人傭
兵(そのうち1万7千人がヘッセ・カッセル出身だったため、ドイツ人傭兵達は「ヘッシャン」と蔑称された)が、イギ
リス軍の一部としてアメリカに出征しましたが、こうした傭兵達は、訓練の行き届いた戦争のプロもいた反面、無
理矢理駆り出された腹いせか、掠奪はする(←宣伝のための誇張あり)、捕虜は虐待する(←大陸軍に囚われた
英軍兵士もいたため、イギリス軍は捕虜の虐待を好まなかったのですが…)、そのくせ状況が不利になれば、脱
走するだけならまだしも、あっさりと武器を持ったまま大陸軍に寝返るという(←ドイツ系アメリカ人の始祖、強制
徴募された兵隊もまた多かったから)、まことに恐るべき連中でした。おまけに、傭兵の軍隊が差し向けられたこ
とで、ただ圧制の撤廃のみを願い、イギリスへの忠誠を保ち続けていたアメリカの人々も、自分達がイギリス国
民で無いと決め付けられたと考え、独立に賛成することになったのです。
 余談ながら、1775年当時の植民地の白人人口200万人の内、1/3は独立派、1/3は中立で、1/3は親英派だ
ったとよく言われていますが、この数字はジョン・アダムスの根拠のはっきりしない回想によるものであり、本当の
ところ、人口の過半数は独立賛成派であり、親英派は25%程度であったようです。また、中立派としては、フィラデ
ルフィアを中心に反戦主義のクェーカー教徒が多かったようです。
 なお、アメリカには50万人の黒人(奴隷)も居ましたが、一般にイギリス本国が奴隷制度を嫌悪していたことも
あって、こうした黒人奴隷達には、植民地人の言う「自由」とは違う、もっと基本的な自由を求めてイギリス軍に身
を投じた人も多かったようです(ワシントン将軍の地所の奴隷が、集団脱走してイギリス軍に志願したのは有名な
話です)。アメリカ人の言う「自由」の要求に対し、奴隷を使う連中に自由を唱える資格は無いとバッサリ切って捨
てるのも、イギリスの一般的な世論でありました。

 しかし、革命戦争に最大の援助と介入を行ったのは、フランスでした。七年戦争の結果、しおしおのぷーになる
までイギリスに叩きのめされたフランスは、復讐に燃えていました。もともと経費ばかりかさんで利益が無かった
カナダを奪回しようと言う意志は失せていましたが、フランスとしては、大敗北で地に落ちた威信を回復させるた
めにも、是が非でもイギリスに一泡吹かせる必要がありました。
 そういうわけで、植民地と英本国の対立が先鋭化した1774年頃から、イギリスに復讐する好機と見て、フラン
スは植民地を支援することを考えていました。勿論、王政を離脱して独立しようという動きは、王政をいただくフラ
ンスとしては容認しがたいものでしたが、このチャンスを逃す手はありませんでした(←よくアメリカ独立は「フリー
メーソンの陰謀」と言われますが、可能性としては、「フランスの陰謀」の方が高いです)。
 外務大臣ベルジェンヌ伯爵の主導の下、1776年初頭、フランスは密かに大陸会議と接触すると、アメリカ側
の要望、軍事顧問の派遣、武器、弾薬の貿易、を受け入れたのでした。そしてアメリカの私掠船に港の使用を認
めるとともに、アメリカの理想に共鳴した劇作家ド・ボマルシェが、政府の資金を使って設立した貿易会社を通じ
て、フランスから武器弾薬、衣類、医薬品がアメリカに送られました(←今も昔も変わらぬ手口です)。一方の大陸
会議も、1776年暮れ、ベンジャミン・フランクリンらを代表委員としてフランスに派遣しました。
 フランスは、七年戦争の轍を踏まないよう、スペインとの同盟を堅持して大陸諸国とは紛争を起こさず、余力を
壊滅した海軍の再建につぎ込むという方針を取っていました。おかげで1759年には壊滅し、1761年には戦列
艦が掛け値なしのゼロ、という体たらくだったフランス海軍でしたが、軍艦の建造は勿論のこと、造船技術の研究
(もともと、フランス製の軍艦はイギリス製よりも優秀でした)、兵員の養成に努力を傾け、1771年時点で戦列艦
64隻、フリゲート50隻という大艦隊(と言ってもイギリスの約半分)を作り上げていました。
 一方のイギリス海軍は、1776年時点では戦列艦131隻を含む総兵力270隻の大艦隊を持つ世界最大の海
軍国でしたが、イギリス自体にフランスと戦う余力が無いため、フランスの動きに気がついていながらも、政府が
なしのつぶての抗議を繰り返すのを見守るだけで、アメリカの私掠船がフランスの港から出撃するのを見なが
ら、ストレスを溜め込んでいました。おまけに、フランス艦隊との対抗上、主力艦隊は本国に釘付であり、アメリカ
の長大な海岸線に対する効果的な封鎖作戦を行えない状態であり、アメリカにとっては、フランスの存在は非常
にありがたいものでした。
 また、イギリス海軍は伝統的に汚職の巣窟であり、完全に腐敗しきっていたので、予算のネコババの横行によ
る補給品不足で、数の上では優勢なはずの艦艇も全てが出撃できる状態に無いのでした。さらに、1760年代
後半から19世紀初頭にかけての時期は、イギリス国内で造船用木材が底をついていました。穴埋めにドイツ産
の木材を輸入したのですが、その質は悪く、艦の耐久性が大幅に低下していました(もともと、イギリスの造船業
は木材の乾燥がザツであり、ただでさえイギリス製の船の寿命は短かったようです)。さらに、依存が高まってい
たアメリカの森林資源や造船業との関係が断ち切られたため、イギリス海軍は慢性的な艦艇不足に直面してい
ました。こういう条件を考えれば、数で劣勢なフランス海軍にも十分勝ち目があるように見えました。
 

ベルジェンヌ伯爵
(Charles Gravier, count of Vergennes, 1719-1787)
 

ド・ボマルシェ
(Pierre-Augustin Caron de Beaumarchais, 1732-1799)

 
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