ジョン・ポール・ジョーンズその2
アメリカ革命勃発への流れ
 1753年10月末、イギリス領バージニア植民地で全てが始りました。
 当時の北米大陸は、現在の東部カナダおよびミシシッピー川を挟んだアメリカ中央部がフランス領で、現在の
アメリカ東部地域がイギリス領でしたが、この年の春、ヴァージニア植民地(厳密に言うと、イギリスがそう主張し
ている地域)にフランス軍が侵入し、オハイオ川とアルバニー川の合流点近くで要塞を建設するという事件があり
ました。バージニア総督の命を受けた使者がフランス軍の基地を訪れ、領内からの退去を求めたのですが、フラ
ンス側は聞く耳を持ちませんでした。このため、機先を制して要地を確保しようとしたイギリス政府の意向により、
翌年4月、例の使者と同じ人物に率いられたバージニア植民地兵の一団が、オハイオ川合流点確保のために派
遣されました。そして5月28日、40人のバージニア民兵隊が野営中のフランス軍約30人を奇襲し、10人を殺
し、残り22人を捕虜にするという事件が発生しました。そして、このバージニア民兵隊の指揮官が、誰あろうジョ
ージ・ワシントン中佐(当時22歳)。新国家の初代大統領となる人物が、新国家の独立の遠因となる戦争の口火
まで切っていたという、なにやら宿命めいたものを感じさせるエピソードです。
 この小さな武力衝突は、やがて北米における英仏の全面衝突へと拡大し、ヨーロッパに飛び火すると、英国王
ジョージ二世のハノーヴァーへの郷土愛に端を発した、プロイセンとの同盟に絡む英露の対立、シュレジエンを
巡るオーストリアとプロイセンの紛争、英仏間のミノルカ島を巡る紛争やインドの覇権争いが複雑に絡み合い、1
756年には、アメリカからインドに到る、世界の半分を戦場にした大戦争へと発展したのでした。いわゆる「七年
戦争」です。勿論、これは戦争が終わってからの呼び名であり、当時のイギリスでは「ドイツでの戦い」もしくは首
相の名から「ピットの戦争」と呼ばれており、北米での戦争は「フレンチ・アンド・インデイアン戦争」と呼ばれてい
ましたが。

 イギリスは、国内が政争で足並みが乱れていたこともあって、開戦の1756年、フランスの攻勢におしまくら
れ、アメリカ植民地の保持も危うく、イギリス本土もフランス軍の上陸の危機にさらされました。
 しかし、フランスの優勢もそう長くは続かず、名宰相ウイリアム・ピットの復職により、イギリスはすぐに体制を立
て直します。そして、ハレー彗星の到来も絡んで「奇跡の年」と呼ばれた1759年、イギリス海軍は、8月のジブラ
ルタル沖、及びラゴス沖海戦、11月のキブローン湾海戦で、フランスの海軍力のほぼ全てを撃破し、陸軍は北
米でケベックを占領しました。一方のフランスは、海軍力を失ってイギリスへの反撃の手段を絶たれ、プラッシー
の戦いの敗北(1757年)で既に失いかけていたインドの権益を完全に失い、1760年にはケベックのみならずカ
ナダ全土を失い、翌年にはハイチを除く西インド諸島の全てのフランス領を失いました。1761年末、イギリスの
優勢は絶対的となり、既にフランスが和平を打診している状況下にも関わらず、フランスのショワズール宰相の
口車に乗せられたスペインはイギリスに宣戦布告、しかし、逆にハバナとマニラを占領されました(←大バカ)。
 1763年2月10日、パリで講和条約が締結され、イギリスは、カナダ全土、ミシシッピー川以東の広大なルイジ
アナ地方をフランスから、フロリダ地方をスペインから割譲され、北米での覇権を決定的としました。一方のフラ
ンスは、北米のみならず、西インド諸島の5ヵ所のフランス領、西アフリカのセネガルをもイギリスに割譲する破目
になり、さらに、フロリダを奪われたスペインをなだめる為、ルイジアナの残り半分をスペインに割譲せねばなら
ず、結局、北米における全ての領土を失ってしまいました(なお、1801年にルイジアナはスペインから戻ってき
ますが、周知のとおり、結局はアメリカ合衆国に売却しました)。イギリスの大勝利ですが、ニューファウンドランド
沖でのフランスの漁業権を認めたり、セネガル沖のゴレー島(奴隷貿易の拠点として有名)や西インド諸島の占領
地の一部を返還したりしたので、イギリス国内では、この内容でも譲歩しすぎとの批判が強かったというのだから
驚きです。
 
 さて、13あったアメリカ植民地は、もともと地理的にイギリス本国とは隔絶されていたため、かなりの自治権を
持ち、本国イギリスとの小さな摩擦が絶えませんでした。また、1660年以降の航海条例の強化により、植民地
の貿易業者は、イギリス本国と比べて著しく不利な条件を押し付けられており、不公平感を抱いていました。単純
に言うと、他国領の産物の英国への搬入を制限し、英国領の産物にも高い関税をかけられていたのです。もっと
もこれは、中継貿易で儲けるオランダの海運業をイギリス領から締め出すのが目的だったので、「有益なる怠
慢」として、アメリカ植民地の貿易業者と他国領の貿易は(法的には密貿易)黙認されていました。
 ところが、七年戦争も末期になると、戦争には勝ちつつあったものの、イギリスは深刻な財政難に陥りました。
政府の負債は1億4000万ポンドにのぼり、譲歩しすぎとの批判を受けつつも講和を急いだ背景には、この負債
があったわけです。それで、財政難により「有益なる怠慢」などと言っていられなくなったイギリス政府は、密貿易
を取り締まるようになったのでした。
 アメリカ植民地は、七年戦争の間も、西インド諸島のフランス領や南米のスペイン植民地との密貿易を公然と
続けていました。これがそもそも、植民地人とイギリス政府の考え方の違いです。イギリス政府にとってはフラン
ス全てが敵であるのに対し、植民地人にとってはカナダのフランス軍のみが敵で、他のフランス人は貿易相手だ
ったのです。フランス側も心得たもので、「捕虜交換」という名目で寄港するアメリカ船と平然と貿易を行っていま
した。航海法の制限下では、植民地経済にとってこうした密貿易は不可欠なものでしたが、戦時にあっては利敵
行為でもあるため、戦況が好転した1759年以降、イギリスは仏領との密貿易を厳しく取り締まるようになりまし
た。もちろん、フランス本国にとってもそれは同じで、仏領との貿易に従事するアメリカ船と言えど、フランスの艦
艇や私掠船の攻撃目標になっていました。そこで植民地は、イギリス海軍に対して商船の護衛強化を要求したの
ですが、敵国との密貿易に護衛を要求する面の皮の厚さはさておき、現実に余分な戦力が無かったため、イギリ
ス政府は要求を却下していました。そんな背景があったところに、いきなり多数のイギリス艦があらわれて、ビシ
バシ密貿易を取り締まったもんですから、植民地の怒りは一方ならぬものでした。
 そして戦争が終わると、財政難解決のため、植民地に対して、悪名高い砂糖法や印紙法などの重税、紙幣発
行の禁止などの法律が制定されましたが、植民地はイギリス議会に代表を送ることが許されていなかったため、
こうした一方的な税制改悪はアメリカ各地の怒りを買いました。さらにイギリス政府は、フランス系住民や先住民
との摩擦をさけるべく、戦争で獲得した土地は政府直轄としたので、これまた、西部やカナダへの拡大を考えて
いた各植民地政府の怒りを買いました(これに関しては、フランスの脅威があったからこそ、植民地はイギリスに
従っていたのであって、フランスの脅威が取り除かれた上に西部やカナダを与えてしまえば、さっさと独立してし
まうだろうと言う意見があったからです)。
 1766年、植民地においてガラス、茶、塗料、砂糖などに課税すると共に、アメリカ植民地に税務局を置くという
タウンゼント法が施行されました。代表を送ることが許されていない議会による高圧的な法律への植民地人の怒
りは、イギリス商品の不買運動という形で現れ、さらに植民地の貿易船と税務局や海軍の艦艇との戦闘も発生し
ました。こうした運動の結果、イギリス政府は茶税を除くタウンゼント法による課税を撤回しましたが、課税の全
廃を望む植民地との溝は埋まりませんでした。
 そこへもって来て1773年、負債に苦しむイギリス東インド会社の救済のため、と言うことで、特例として課税な
しのアメリカ向け茶輸出が認められることとなりました。ところが、植民地の貿易業者は、不買運動による在庫の
山を抱えていたところであり、そこにまた非課税の安い茶が輸入されるとなれば、大損害です。で、12月16日
の、有名な「ボストン・ティーパーティ」事件とあいなったのでした。
 この結果、植民地への報復として、イギリス政府は、東インド会社に補償するまでのボストン港封鎖、マサチュ
ーセッツ植民地の自治権の制限(国王から自治に関する特許をもらっていた)、イギリス政府による総督の任命
制採用(これは全植民地に適用)、駐留軍に対する経費の負担増などの法律を作りました。
 七年戦争後の新領土の直轄法や税法で、いい加減に怒りボルテージが高まっていたのに加え、その上のマサ
チューセッツ植民地に対する措置は、いわゆる「耐えがたき諸法」とか「強制諸法」と呼ばれて問題となりました。
そこで、イギリス本国の高圧的な政策に対抗するため、それまでは各個に自治権を行使していた13の植民地は
団結して、1774年9月5日、フィラデルフィアで「大陸会議”Contin ental Congress”」を開催し、イギリスとの貿
易停止、マサチューセッツ植民地の対英反抗の支持、そして植民地人に対してイギリス軍が武力行使に及んだ
際には、武力でもって対抗するという決議がなされました。
 しかし、この時点ではまだ、アメリカ植民地は本国との和解を望んでいたのですが、翌1775年春、植民地とイ
ギリスとの対立の焦点となっていたボストンにおいて、ついに武力衝突が発生しました。
 
 当時、アメリカ駐留のイギリス軍は8500人、その内3500人がボストンに駐屯していて、マサチューセッツ植
民地の新総督、トマス・ゲージ将軍の指揮下にありました。ボストン近郊のコンコードに植民地民兵の武器弾薬
が集積されているとの情報を掴んだゲージ将軍は、4月18日、コンコードに700人の部隊を派遣しました。これ
を察知した民兵隊は、コンコード近くのレキシントンでイギリス軍を待ち受けていました。そして双方がにらみ合う
中、一発の銃声が響き渡りました。どちらの側の発砲かはいまだに謎ですが、それでなし崩しに戦闘となり、つい
にマサチューセッツ民兵とイギリス軍の全面衝突となったのでありました(中国で似たような話を聞いたことがある
ような・・・)。
 5月10日、民兵隊がタイコンデロガの要塞を奇襲し、イギリス軍から多量の武器弾薬を奪取します。その後、
マサチューセッツ以外の各植民地からはせ参じた民兵も加わって、植民地側はボストン市を包囲する態勢をとり
ました。
 開戦の知らせがイギリス本国に伝わると、植民地側に同情して政府を批判する世論が圧倒的となりましたが、
国王ジョージ三世は植民地に対する強硬姿勢を変えようとはしませんでした。そして5月25日、ゲージ将軍(アメ
リカに20年以上暮らし、アメリカ生まれの奥さんを持つ穏和な紳士)への督励のため、ウィリアム・ハウ、ヘンリ
ー・クリントン、ジョン・バーゴインの三人の少将が増援部隊を引き連れてボストンに到着しました。これでボストン
のイギリス軍は5700人となりました。制海権はイギリスのものでしたが、しかしボストン市は守りにくい地形であ
り、北側のチャールスタウン半島にある丘と、南側のドーチェスター高地のどちらか一つでも制圧されれば、市内
全域が大砲の射程内に入ってしまいます。
 6月17日の未明、植民地側民兵はチャールズタウン半島に進出し、ブリーズヒル、およびバンカーヒルに夜間
の突貫工事で堡塁を築き始めました。慌てたイギリス軍は、その日の午後、チャールズタウン半島を急襲しま
す。植民地軍は弾薬不足で射撃が続けられず、また白兵戦になっても銃剣が無かったりしたので、ブリーズヒル
とバンカーヒルはイギリス軍に占領されてしまい、マサチューセッツ植民地議会のリーダー、ジョーゼフ・ウォーレ
ン博士が戦死するなどして、戦闘は植民地側の明らかな敗北でした、しかし、植民地側の死傷者441人に対し、
イギリス軍の死傷者は1054人。ボストンのイギリス軍が5700人であったことを考えると、イギリス軍にとっては
致命的な戦略的敗北でした。この戦闘が、いわゆる「バンカーヒルの戦い」です。
 バンカーヒルの戦いの二日前、大陸会議は、自発的に集まってきたボストン包囲中の民兵を「大陸軍」として正
式な軍隊と認め、その総司令官として、軍服を着用して会議に出席し、無言で武力対決をアピールしていたジョ
ージ・ワシントンを選任していました(ジョン・ハンコック大陸会議議長も、ものすごく総司令官になりたかったようで
す)。
 大陸会議が「バンカーヒルの戦い」の報告を受けたのは6月22日のことで、敵に倍以上の損害を与えたことが
注目されました。実のところこれは、陣地に立てこもる民兵に対して、整列したまま三度も突撃したイギリス軍の
アホな作戦の結果だったのですが、弾薬不足さえなければイギリス軍に勝てたはずだと、大陸会議はいささか自
信過剰に陥ってしまい、7月6日、武装闘争の正当性に関する宣言を採択しました。その一方で、大陸会議では
いまだに、あくまで圧政の撤廃のみを要求しイギリスからの分離独立を望まぬ声が高く、国王への忠誠を表明と
和解を求める「オリーブの枝請願」も採択され、イギリス本国に使者を送ってジョージ三世に直訴を試みました。
 しかし、ジョージ三世は使者に会おうともせず、「植民地は反乱状態にある」との布告を発し、さらに1775年末
の議会で、はっきり植民地の武力鎮圧を宣言したのでした。
 ここに至っては、もはや植民地側も全面戦争の腹をくくるしかなく、1776年7月4日のアメリカ独立宣言に至る
のでした。

大陸海軍
 さて、主人公ジョン・ポール船長は、1773年にジョン・ジョーンズという偽名を使ってアメリカにたどり着いたよ
うです。しかし、トバゴ島以後の約20ヶ月間の行方は不明で、その間、何をしていたのか確たる事はわかりませ
ん。それまでのアメリカへの航海や兄の伝手によって、ジョン・ポールは、ノースカロライナの裕福な大農場主、ウ
ィリーとアレンのジョーンズ兄弟と親しくなっていたので、どうやらここに身を寄せていたようです。ジョーンズ家
は、当時の植民地政府の要人にも多くの知り合いがおり、その一人が独立宣言にも署名したジョセフ・ヒューズ
で、ジョン・ポールは、ヒューズからも個人的に世話をになったようです。
 また、一番確かな推測では、この時から「ジョン・ポール・ジョーンズ」と名乗り始めたとされています。これはウ
ィリー・ジョーンズの夫人が、多くの貧しい少女達を保護しているのを見て感激し、「ジョーンズ」の名を歴史に残
そうと考えたからだと言われていますが、本当のところは、単に思いつきの偽名であり、そのまま押し通しただけ
というのが真相かも知れません。
 1774年になると、彼は兄を頼ってバージニア植民地に姿を現し、そこで農業を始めました。ここでも兄やフリ
ーメーソンの人脈により、イギリス政府に批判的な人々と知り合うことになりました。また、ドロシー・ダンドリッジ
という女性と婚約しましたが、婚約してすぐ、そのダンジリッジ嬢が他の男と結婚するという訳のわからぬ破局を
迎えました。翌1775年、長兄ウィリアムは急死しました。

 さて、ジョン・ポール・ジョーンズがアメリカへ流れ着いてから、植民地とイギリスの対立は激化し、ついには各
植民地からはせ参じた民兵が、イギリス軍の立てこもるボストンを包囲するという事態になりました。1775年5
月の第二回大陸会議では、植民地は圧制の撤廃を求めているだけで、イギリスからの分離を望んでいるわけで
はないと明言しつつも、アメリカの自由を守るためということで、ボストン包囲中の各植民地からの義勇兵が、大
陸会議の正式な軍隊として認められ、ジョージ・ワシントン少将が司令官に任命されたのは、前述の通りです。
 その後、大陸会議は海軍の設立の準備もすすめました。1775年11月、スティーブン・ホプキンスを長とする
海軍委員会(Naval committee)が組織され、手ごろな商船を買い集めて武装する仕事に着手しました。ジョン・
ポール・ジョーンズは、海軍委員となったジョセフ・ヒューズ(後に海軍長官も努める)を手助けするためにフィラデ
ルフィアに行き、商船の調査を行っています。ここで彼は「ブラック・プリンス」というフィラデルフィアの商船を調査
して、
「安定性が高く、少し補強すれば24門の9ポンド砲および6門の6ポンド砲を搭載可能。また、宿泊スペースには
220人まで収容可能であり、英国の標準的な9ポンド砲28門搭載フリゲートに対抗できる」
と報告したのですが、その「ブラック・プリンス」が、改装されて「アルフレッド」と名を変えると、大陸海軍最初の旗
艦となったのでした。
 12月、シップ(三本マスト)、ブリッグ(二本マスト)、スクーナー(縦帆の二本マスト)、スループ(縦帆の一本マス
ト。イギリス海軍は小型のシップをスループ艦と呼ぶので注意)各2隻計8隻がフィラデルフィアにかき集められま
した。それらの艦は、エセック・ポプキンス戦隊司令官(ホプキンス委員長の兄)を長として、24門フリゲート「アル
フレレッドAlfred」(実際は砲30門)を旗艦とし、以下20門フリゲート「コロンバスColumbus(本当は28門)」、「ア
ンドリュー・ドリアAndrew Doria(←イタリアの有名な提督アンドレア・ドリアのこと)」「キャボットCabot」という二隻
のブリッグ、スループの「プロヴィデンスProvidence (もともとはロードアイランド植民地のKatyという軍艦)」「ホー
ネットHornet」、スクーナーの「ワスプWasp」「フライFly」の艦隊として編成され、ここに「大陸海軍(Continental
Navy 大陸会議の海軍と言う意味)」が発足しました。
 同じ頃、海軍委員会は定員を13名に増やし、海兵委員会(Marine Committee)と名を変えると、32門艦5隻、
28門艦5隻、24門艦3隻の建造に着手しました。1776年3月末までの四ヶ月弱の突貫工事で13隻を揃えようと言
う無茶な計画でしたが、素晴らしいことに、この期限はきっちり守られます。
 1775年12月7日、かねてからジョセフ・ヒューズ、ジョン・モリス、トーマス・ジェファーソンら有力者達に、海軍
での士官の地位を求めて運動していたジョン・ポール・ジョーンズは、めでたく大陸海軍の海尉に任命され、旗艦
「アルフレッド」の一等海尉(副長)として着任しました。そして彼は、ホプキンス戦隊司令官に自ら買って出て、旗
艦「アルフレッド」で、最初に大陸海軍の軍艦旗を掲揚するという名誉を得たのでした。
 なお、この時に掲げられた旗は、いわゆるグランド・ユニオン旗(下図参照)だとされていますが、ガラガラヘビを
あしらったNavy Jack(下図参照)だと言う説もあって、正確なところは不明です。

エセック・ホプキンス戦隊司令官
(Commdore Esek Hopkins. 1718-1802)
商船のベテラン船長で、七年戦争では私掠船に乗っていた

グランド・ユニオン旗。
英国旗が入っているのは、イ
ギリスからの分離を望んでい
る人がまだ少なかったため。 






ネイビー・ジャック。ガラガラヘビと「俺を踏むな」の標語があ
る。なお、ガラガラヘビの色や格好にはいくつもバリエーショ
ンがあった。

バリエーションその1

バリエーションその2

 かなり極端な例。メル・ギブソン主演「パトリオット」にも登場していたデザインです。主に南部出身の私掠船乗りが使った。陸軍の一部も南部で使用したようです。

「アルフレッド」 1774年、商船「Black Prince」としてフィラデルフィアで建造された。440トン、220人乗り組み。公称では24門フリゲートだが、本当は9ポンド砲20門と6ポンド砲10門を装備していた。この絵では、グランド・ユニオン旗を掲揚しています。 
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