ジョン・ポール・ジョーンズ  
 (1747-1792)  
 
 
+:アメリカ独立の功労者 

-:アメリカを捨てた?
  殺人犯? 
イギリスのホレイショ・ネルソン、日本の東郷平八郎とならぶ「世界三大提督」のアメリカ代表。しか
し、ネルソン、東郷の国際的知名度の高さに対し、ジョン・ポール・ジョーンズはどうもアメリカ限定
のローカル英雄という性格が強いです。

少年時代
  後に世界三大提督の一人となるジョン・ポール・ジョーンズは、1747年6月10日、スコットランド南西部、
Abiglandの荘園で、庭師ジョン・ポールとジーン・マクダフ夫婦の四男として誕生し、父親と同じくジョン・ポールと
名づけられました(ジョーンズと付け加えたのは、ずっと後のことです)。
 早くから海について興味を抱くようになり、小学校へ通うようになった頃には、近くのCarsethornという小さな港
に遊びに行き、そこで船員と仲良くなっていました。また、ガキ大将だったようで、遊び仲間をボートに乗せて海戦
ごっこや艦隊行動ごっこをやり、自分は崖の上から指揮を執って遊んでいたとのことです。
 13歳になった時、7年の徒弟奉公の契約に署名して船員となり、フレンドシップ号という貿易船のボーイになり
ました。この7年の徒弟奉公は、イギリスでは一般的な船員への道でした(ただし、7年後に24歳を超えるような
場合は、年数に限らず24歳で期間満了だった)。
 ジョン・ポールの最初の航海は、カリブ海のバルバドス島(砂糖の名産地。ヨーロッパで消費される砂糖の1/3を
占めたこともある)を経由して、バージニア植民地のフレデリックスバーグへと向かうものでした。ジョン・ポールと
アメリカの縁はここから始まるわけですが、後に「13歳の時に初めて見た時から、アメリカは好きな国だった」と
語っていたらしいです(←伝記作者による捏造が多くて、この人の言動の多くは真偽不明です)。
  フレンドシップ号は、フレデリックスバーグに数ヶ月も停泊することになったので、ジョーンズは、ここで裕福な仕
立て屋を営んでいた長兄ウィリアムの家に居候し、停泊期間を航海術の勉強に当てました。後に彼がアメリカで
地位を固めるのに際しては、長兄ウィリアムの人脈が大いに活きることになります。
 さて、フレンドシップ号が母港ホワイトヘイブンに帰港すると、船主のジョン・ヤンガー氏の財政難が発覚しまし
た。このため、ジョン・ポールは解雇されます。不運なようにも思えますが、これはジョン・ポールにとってはかなり
の幸運であったと思われます。当時の徒弟奉公契約というものは、奉公人には著しく不利な拘束契約でした。違
約は刑法に問われることもあり、それでなくても、契約期間中の待遇は雇い主の腹一つであり、安月給(という
か、徒弟奉公では無給のことも多々あり)だけならまだしも、長期の拘束により、かえって本人の持つ才能や技術
を磨くチャンスが失われることが大いにありえました。その点、ジョン・ポールは、早い段階で年季奉公から開放
されたため、自分で自分の運命を切り開く権利を得たわけです。

暗い船
 16世紀以降、カリブ海、および北米での植民地が発達しました。カリブ海地域のタバコ、コーヒー(最盛期、フラ
ンスの貿易額の40%はコーヒーだった)、カカオ、砂糖、精糖時の廃棄物を利用したラム酒、北米南部での藍、綿
花などの主要産業は、かなりの労力を要する産業でした。北米はともかく、労役用の家畜が育ち難いとされてい
たカリブ海地域では、人間の労働力が必要でした。しかし、カリブ海地域の白人入植者の間では、熱帯性伝染病
の死者が多発しました。また、白人労働者の多くは年季奉公契約で集められたのですが、この年季奉公契約の
実態が奴隷と何ら変わりないこともあり(悪どい雇い主の中には、なんだかんだと言いがかりをつけて拘束期間を
延長する者まで居た)、白人入植者は集まりませんでした。
 一方、アメリカ各地の先住民は人口が激減していて労働力にはならず、奴隷化には宣教師の反対も強かった
ため(←ここが、奴隷制度の背景の矛盾です)、結局、人口が多くて熱帯性伝染病にも抵抗性があると考えられた
アフリカ人が、奴隷として輸入されるようになりました。アメリカ植民地の産業の発展と共に奴隷の需要も増大
し、17世紀末から19世紀にかけて、大西洋を挟んだ悪名高い奴隷貿易が行われました。イギリス、フランス、
オランダが奴隷貿易のトップスリーで、スペイン、ポルトガルがこれに続き、デンマーク、スウェーデンなど一時期
カリブ海に植民地があった国ならまだ良いとして、ブランデンブルグ選帝侯国のような、アメリカ地域に領土を持
たない国(ただし、西アフリカにいくつか交易ポストを持っていた)まで、奴隷貿易に手を出すようになりました。奴
隷貿易は儲かる商売だったのです。
  奴隷貿易のパターンは、綿織物、安物ガラス玉、ブランデーやラム酒、銃やナイフ、現地では通貨として使われ
ていた子安貝(←奴隷貿易が盛んになる以前は、インド洋とアフリカ大陸を渡って、はるばるモルジブから運ばれ
ていた)や鉄の延べ棒などを積んでヨーロッパを出発し、アフリカ西海岸でそれらを奴隷と交換、そして西インド諸
島やアメリカ大陸へ渡り、そこで砂糖、綿花、タバコ、コーヒーなどと奴隷を交換して、西ヨーロッパの母港にもど
るという形をとったため、三角貿易とも呼ばれています。主にアフリカ人の商人や首長によって「卸された」奴隷
達は、一人当たりのスペースを節約するため、立つことも出来ない狭い船倉に鎖で数珠繋ぎに転がされて、アメ
リカに運ばれました。アフリカからアメリカへの航海は早くても一ヶ月程度を要し、衛生面にはそれなりに配慮は
あったものの、それでも奴隷船倉は極め付きに不衛生でした。具体例を出すと、奴隷達は数日に一回の運動の
日にしか船倉から出られず、ずっと鎖につながれていたので、糞尿垂れ流し状態です。当然、多数の死者が出ま
した。こうした奴隷貿易の恐怖は、プロスペル・メリメの「タマンゴ」や、ニコラス・モンサラットの未完の名作「暗い
船」などの作品に詳しいです。なお、公平を期すために書いておくと、日本の歴史の教科書には「死亡率50%」と
書かれていたりしますが、これは完全なデタラメで、平均的な死亡率は15-20%です。また、死亡率と船倉での奴
隷の過密さとは因果関係が無いことも判明しています。
  時代によって奴隷の価格はまちまちですが、18世紀初頭では、アフリカ西海岸での平均「卸値」が一人5ポン
ド程度で、カリブ海地域では十数ポンドから20ポンドで売れました。航海中の死亡を見込んでも、十分に利益が
上がります。と言っても、奴隷の対価は現金で受け取るわけではなく、それに相当する価値の砂糖、タバコ、コー
ヒーなどの現地の産物と交換されるのですが、当然、こうした産物は、ヨーロッパではより高価に取引されます。
従って、この商売で損をすることは極めて稀で、利益率は最低でも60%、100%を越すこともざらでした(ただし、近
年の研究では、損こそしないもののあまり儲からず、利益率はせいぜい10%だったとする説もあります)。
 さて、若きジョン・ポールの次の就職先と言うのが、こうした奴隷貿易船だったのでした。この経歴のため、アメ
リカ人の中にもジョン・ポール・ジョーンズをある種、歴史の汚点と考える人もいます。近代の奴隷制度を擁護す
るつもりはさらさらありませんが、しかし、奴隷貿易に従事していたからと言って、彼を極悪人だと考えるのは間
違っています。
 確かに、彼の時代にあっても、奴隷貿易とは顰蹙物の商売でしたが、反面、正当な商売として認められていま
した(現代における、消費者金融や風俗産業と同様の捉え方でしょうか?)。奴隷貿易業者達も、普通のまっとう
な市民であり、商売は商売としてドライに捉えていて、映画や小説に出てくるような、サイコなサディストは皆無に
近かったことも理解しておくべきでしょう(もっとも、後述の理由により、商船の船長は暴力的になりがちでした)。
決してジョン・ポール・ジョーンズが極悪人だった訳ではありません。また、奴隷貿易業者の中には、野蛮(やや偏
見)なアフリカ人をキリスト教文明に触れさせ、労働によって教化しようという見当外れな宗教観(自己欺瞞か?)も
あって、敬虔なキリスト教徒も多かったようです(そして、実態を知ってからは奴隷廃止運動に身を投じたケースも
あった)。
 ジョン・ポールが参入した時期である18世紀後半のイギリスの奴隷貿易業界は、アフリカにおける人的資源の
枯渇と、植民地産業の発展による需要の増大に伴って奴隷価格が上昇するとともに、産業の発展に伴う生産過
剰で、カリブ海と北米地域の産物の価格が低下する事態になっており、奴隷の対価を物で受け取るとひどくかさ
ばるようになっていました。奴隷船は空荷でヨーロッパに帰り、対価の産物は別の船が運ぶこともありましたが、
奴隷貿易業者は現金での支払いを求めることが多くなり、現金の持ち合わせがないプランター達(貧乏と言う意
味ではない。植民地ではその地の特産物が通貨代わりのことが多かったから)の負債が急速に増大します。18
07年、イギリスは世界に先駆けて奴隷貿易を禁止するのですが(奴隷制度の禁止でないことに注意)、これが可
能になったのは、イギリス本国の人道主義とは別に、奴隷貿易業者に対する負債が植民地側にとって頭の痛い
問題となったことが大きな要因です。
 
 さて、解雇された後も航海術の勉強を続け、十分な能力を身に着けたジョン・ポールは、17歳の時、キング・ジ
ョージ号という奴隷船の三等航海士に任命されました(翌1765年、父ジョン・ポールが死去しています)。1766
年、19歳になったジョン・ポールは、ジャマイカ船籍の「キングストンの二人の友人」号という奴隷船の一等航海
士に転職しました。この船は長さ15メートルの小型ブリッグで、乗員はわずか6名。77人の奴隷を運ぶ航海でし
た(保安上、奴隷10人に対して船員一人が望ましいとされていました)。
 奴隷船には、奴隷の汚物が発する数キロ先からでも臭う悪臭がつきものでしたが、一段とにおいが強烈な、詰
め込みすぎの小型船に勤務してみてようやく、ジョン・ポールは奴隷貿易の実態を悟ったようです。彼はアメリカ
に到着すると、「ひどい商売”abominable trade”」というコメントを残して「キングストンの二人の友人号」を降り、
奴隷貿易から足を洗いました。
 そして、カークブリという町に船籍を置くジョン号という商船に、おそらく雇用船客(働く代わりに運賃タダ)として
乗り込んでイギリスに帰ることにしましたが、航海中、船長と航海士が黄熱病で全滅してしまいました。結局、航
海士の資格を持つ唯一の人物となったジョン・ポールが指揮を引き継ぎ、無事、ジョン号を母港まで持ち帰りま
す。ジョン号の船主であるCurrie, Beck and Co社は大いに喜び、ジョン・ポールは航海長兼船荷の上乗り
(supercargo 積荷の仕入れと売却、航海中の管理を担当する要職)として雇用されると、再度、西インド、アメリ
カ航路に勤務することになりました。
 21歳の時、彼は船長に昇進しました。彼は身長5フィート5インチと比較的小柄で、痩せ型でしたが非常に頑
丈であり、とんがった鼻と深いあごの切れ込みで、いかつい印象を与える容貌だったようですが、それでいて、服
装には常に留意しており、「おしゃれ船長”dandy skipper”」として、若い士官候補生には人気がありました。ま
た、ずいぶんと女好きだったようですが、当時はまだモテたかどうか不明です。     
奴隷船
殺人、そして逃亡
  さて、奴隷貿易に従事していたからと言って、ジョン・ポールが極悪人では無いと書きましたが、極悪人でないに
しても、彼が犯罪者であることは間違いなさそうです。

 まず、当時の社会的背景から説明しなければなりません。
 帆船時代のイギリス海軍は、一般船員の待遇が極めて悪いものでした。ジョン・ポール・ジョーンズの時代、海
軍の平船員の月給は手取りで18シリング(共益費として1シリング天引きされていた)ですが、これは1653年の
物価水準から決定されたもので、なんと1797年まで改定されませんでした(なお、陸軍では最下級の兵士でも3
0シリングもらっていました)。そもそも、1653年の基準でも安月給の部類に入ったのですが、海軍の予算不足
もあって、下級船員の給料の遅配や未払いは日常茶飯事でした(良心的で裕福な艦長の中には、自腹を切った
人もいた)。また、基地の中でも船員の上陸はほとんど許可されず(負傷するか、死体になるかすれば別です)、
従って常に艦内で起居するしかないわけなのですが、支給される食料というのが極めて質が悪く、量も常に十分
とは言えませんでした(良心的な裕福な艦長の中には、部下のために自費で食料を用意した人も居た)。
 こんなもんですから当然、水兵のなり手は多くなく、服役と引き換えの犯罪者や、悪名高い強制徴募で人員を
確保しなければなりませんでした。海軍の勤務は過酷であり、死刑との選択を求められた場合でも、死刑を望む
者がいたほどです。そして、待遇が改善されないことが、悪循環の源である事に海軍関係者は気がついていまし
たが、イギリス海軍の官僚組織とは、伝統的に汚職と腐敗の巣窟であり、改革する意志を持っていなかったので
す(改革を行えそうな優秀な人物は、現場で働くことを選んでいます)。
 かき集めた荒くれ犯罪者や、強制徴募されて不平たらたらの乗組員達の規律を維持し、水兵として訓練するに
は、暴力的な体罰が必要だと考えられており、しかも、かなり頻繁に体罰が行われました。体罰の中でもっとも一
般的だったのが、九尾のねこ鞭(cat-o-nine-tails)と呼ばれる、9本のロープで作られた鞭で背中を打つ鞭打ち
刑でした。鞭打ち刑と言うからには、露出レザーの女王サマのような人道的なものではないです。鞭打ちは最低
が6回、あとは罪の重さごとに12回単位で増えていくのですが、九尾のねこ鞭はカバーする範囲が大きいために
破壊力は凶悪であり、6回でも鞭打ちを食らえば、背中はずたずたになるし、それ以上の回数になれば、背骨ま
で見えるような凄惨さでした。刑を執行するのも同じ艦の船員ですから、鞭打ちに手加減を加えることもありま
す。見て見ぬ振りをしてくれる艦長(もっとも、こういう艦長なら最初から鞭打ち刑事態、行わないでしょう)ならそ
れで良いのですが、手加減していると判断されれば、鞭打ち係も鞭打ち刑でした。
 鞭打ち刑の実施には様々な法規制があったのですが、軍法会議を通さずに艦長の一存で処理出来るため、洋
上に出れば、完全な独裁者となる艦長の人格と気分次第で法規は無視され、例えば、操帆作業の時、マストから
降りてくるのが一番遅かったものは鞭打ち刑、などという、不当な鞭打ち刑が科されたりしました(先の例では、作
業の早い遅いに関係なく、マストのてっぺんに配置されると鞭打ち刑になるのです)。「スティーブン・ディケータ
ー」の項でも書いたように、イギリス海軍の強さは、艦長個人の能力によるところが大きかったのですが、勇敢で
優れた戦術家だからと言って、立派な人間とは限らないものです。それに、鞭打ち刑は常に船医の立会いの元
で行われましたが、受刑者が死亡しても、それこそ気に入らない船員に言いがかりをつけて死ぬまで鞭打ちを食
らわせたところで、艦長は罪に問われないので、独裁的な権限もあいまって、普通の人でもサディストに化ける条
件が揃っていました(余談ながら、こうした過去の事例は、現代のゲームや映画などが犯罪を助長するという考え
に全く根拠が無いことを示しています)。実際、鞭打ちに加えて、ローソクならぬピクルスの酢を傷にぶっかけると
いう凶悪な艦長もいました 。
 イギリスの商船の場合、海軍の船員よりも待遇ははるかにマシでした。平均的な陸上の労働者よりも安めでは
ありましたが、平水夫の給料は海軍よりも確実に何シリングか高いし、戦闘海域への航海になると2-3倍に上昇
します。普通の状況では遅配もありません。空きスペースを利用した私的な商売も許されていました。貨物に損
傷があった場合、損失分が全船員の給料から引くという慣例がありましたが、それでも、正当な理由なく給与不
払いがあった時には、船主の資産が差し押さえられました。だからまあ、海軍と違って普通の職場と言えるので、
船員の確保にひどく困るということはありませんでした。しかし、やはり規律維持のための船員への体罰が行わ
れており、船長も暴力的になる傾向が強く、荒くれ船員を指揮するには、その上を行く荒くれでなくてはやってい
けないという事情もあって、軍艦と同じく、商船の甲板でも九尾のねこ鞭が活躍していました。ただし、商船船長
の場合、海軍の艦長と違って、不当な体罰や死亡が刑法に問われました。

 1768年、ジョン・ポール船長はジョン号を指揮していた際、ムンゴ・マクスウェルという船大工に鞭打ち刑を科
したことがありました。マクスウェルはジョン号の母港、カークブリの有力者の息子であり、ぼんぼん育ちだったの
か、ジョン・ポールは彼に対して厳しく接していたようです。その後マクスウェルは、別の船での勤務中に死亡しま
した。
 しかし、鞭打ちの傷跡があったことを知った父親の訴えにより、カークブリに帰国後、ジョン・ポールは逮捕され
て、殺人罪で起訴されてしまいました。しかし、マクスウェルの船の航海長が、乗船時にはマクスウェルが健康だ
ったこと、ジョン・ポールへの不満は口にしていなかったこと、死因はアンティグアへの航海中の黄熱病であること
を証言したので、無罪判決を受けました。ところが、1770年にジョン・ポールがフリーメーソンに加入すると、何
か胡散臭く思われのでしょう、カークブリでは、やはりマクスウェルを殺したのだと言うウワサが流れたので、結局
彼は会社を辞め、カークブリを離れると、ロンドンに移りました。
 1773年、ベッツィー号と言う船の船長(船主でもあったようですが、はっきりしません)になったジョン・ポール
は、相変わらずアメリカ、西インド諸島への航海を続けていましたが、ここで彼は、船員への給料の一時不払い
をやってのけました。これは別に金が無かったからではなく、脱走を防ぐためです。
 18世紀も後半になると、イギリスの海運業界は海上交通が発達した分、慢性的な水夫不足になやんでいまし
た(もっとも、これとて給料が安いことも含めて待遇が悪いのが根本ですが)。それでもなお、一般的に船長は船
員をいじめていたのですが、船員達も黙ってはいなかった。船会社のサラリーマン的な船長や士官と違って、当
時のイギリスにおける一般船員は、船の出発点まで戻って来る一航海毎に契約していました。契約した時点で給
料2か月分の前渡しを受け、目的地に着くと、そこまでの勤務分の給料を受け取り、帰国した時に残りをもらうも
のです。しかし西インドやアメリカ航路では、給料を受け取って当面の生活費を確保した船員が、脱走するぞと船
長を脅迫したり、本当に脱走して、船員不足で帰国できずに困っている船を見つけたりして、run moneyと呼ば
れる割増金を要求することが日常的でした。ですから、ロンドンでの不払いは問題ですが、西インド諸島で給料を
払わないのは、あながち不当とは言えません。
 しかし、このことが原因で、トバゴ島で脱走を図った反抗的な船員達と口論となり、剣を抜いたジョン・ポールは
首謀者の男を、ジョン・ポール自身の言葉によれば「私の三倍は強そうなケダモノ” a prodigious brute of
thrice my strength”」を、グサッと殺してしまいました。後の彼の釈明によれば、当初は裁判を受けるつもりだっ
たのだが、友人が逃げるように言ったので、その勧めに従ったそうです。とにかく彼は、裁判所が起訴するかどう
かを検討している間に逃亡しました。船は勿論、資産のほとんどを捨てていかなければならず、「私の生涯で最も
不幸な事件」と嘆きながら、偽名を使ってアメリカへ逃げました。
 日本の本の中には、ジョン・ポール・ジョーンズは、イギリス海軍の士官候補生として勤務していた時、決闘で相
手を殺して脱走したとするものもあります。しかしこれは、あくまでジョン・ポール・ジョーンズにまつわる伝説の一
つであって、実際には、イギリスにおいて軍務に就いたことも無ければ、決闘したことも無いです。
 この事件に関してジョン・ポールは、ずっと後になっても「正当防衛だった」としつこく弁明しており、ベンジャミ
ン・フランクリンに対しても手紙で弁解しています。マクスウェル鞭打ち事件後の悪い噂もあり、裁判では不利に
なると考えたのかもしれませんが、財産を捨ててまで逃亡した慌てぶりから察するに、本当のところ、正当防衛か
は大いにアヤしかったと思われます。
船舶での鞭打ち刑の図。
左の男が持っているのが、九尾のねこ鞭。
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