この章では、クロステルマン氏はついに祖国の土を踏む。ジャックとともにたった二機で空軍基地を攻撃したりと奮戦するが、過労で健康を損ねてしまい、イギリスへ送還されてしまうのでした。

ロンメル

 1944年7月17日の1540時、テントの入り口の近くに立っていた僕は、602中隊がパトロールのために離陸していくのを見ていた。エンジンカウルには、黄色い盾の中の赤いライオンと、602中隊の編成地であるグラスゴーの紋章である、セント・アンドリュー十字の上に立ち上がった赤いライオンと、「Cave leonen cruciatum(手負いのライオンには気をつけろ)」のモットーが書き込んである。離陸する戦闘機の中にはジャックもいる。僕とジャックは一緒に出動する予定であったが、しかし、参謀本部は別のアイデアを持っていた(#1)。僕とジャックは長いこと一緒に飛び、互いに援護しあってきたので、ジャックが代用品のチームメートと離陸するのを見て、僕は不安を感じた。ジャックの任期は7月末に終わることになっている。しかし、最後の任務とは往々にして、全ての幸運を奪い去ってしまうことがあるので、僕は常々心配していた。
 マックス・スザーランドと交代した602飛行中隊の新しい隊長である、南アフリカのクリス・ル・ルー(#2)が編隊を指揮しており、その他のパイロットは、ジャック、"マウス"・マンソン、ノルウェー人のヨンセン、ロビンソン、そしてニュージーランド人のブルース・オリバーだ。みんなベテランパイロットである。
 1650時に編隊が帰還した時、僕はデブリーフィングに顔を出した。マウスは未帰還になっていて、みんな狼狽していた。 
 彼らから聞いたところによると、この日の午後、戦場は比較的静かで、僅かな対空砲火もあったが、それほど危険ではなかったと言う。しかし、よくある話だが、訳も理由も無しに危険な出来事が降りかかってきた。それは、メッサーシュミットの主翼からの小さな反射光でしかなかったが、マウス・マンソンは、正しい瞬間に正しい方向を見ていた。彼は警告した。
「航空機、9時方向、僅かに下方!」
 クリスはただちに、9時方向に急降下し、ヨンセンとマンソンはそれに続いた。ほぼ同じころ、ジャックとチームを組んでいたブルース・オリバーは、数台のオートバイに護衛された大きなコンバーチブルの車が、Vimoutiersに向かって猛スピードで走っていくのを視界に捉えた。オリバーは無線でこのことを報告したが、既に15機を撃墜していたクリスは空中戦の勝利にしか感心がなく、数機のメッサーシュミットに向かって突進していった。オリバーは、ジャックを引き連れて180度旋回し、地上の目標に正対するように飛んだ。二人が自動車を銃撃すると、車は道路から飛び出してひっくり返った。その時、メッサーシュミットとの空中戦はまだ続いており、マンソンのスピットファイアが最後に目撃された時、火災を起こしつつ不時着を試みていたと言う。対空砲が射撃を再開したため、彼らは散開し、高度を上げることを余儀なくされた。クリスがメッサーシュミット一機の撃墜を宣言しており、ヨンセンが一機を損傷させていた。ジャックはと言うと、これまでの戦闘とは違って、主翼に20mm弾を食らっていた。
 数日後、ジャックはDFCを受章した。17日に、確かに何か重大なことが起こったようだった。何故なら、空軍准将も含めた情報士官の集団がどこからともなく現れたからで、これはとても異常なことだった。ブルースとジャックはそれから長い間、このことに関して人に訊かれることがあったが、二人とも、スパイたちがデブリーフィングで語ったこと以外は何も知らず、答えることは出来なかった。

 多くの歴史家達は、エルウィン・ロンメル元帥の魅力的な人柄について興味を抱いている。ヒューゴ・トレバー=ローパー(#3)、ヴァルター・ゴルリッツ(#4)、デズモンド・ヤング、リデル・ハートその他がロンメルの伝記を著した1946−1947年の時期には、彼がいかにして最期を迎えたのか詳細は知られていなかった。これらの事実はずっと後になるまで明らかにならなかった。1970年代になって、ロンメルは1944年のノルマンディで、RAFの航空攻撃で重傷を負ったことが漠然と知れ始めた。そして、602グラスゴー市飛行中隊のパイロットの戦果だという噂が広まり始めた。そして数年、1975年に公文書が開示されると、ロンメルを銃撃したのは、南アフリカ連邦の少佐、クリス・ル・ルー少佐率いる602飛行中隊のパトロールだということが判明したのである。とあるニュージーランド人と自由フランス軍兵士が、運命が幸福な方に向かって回ったおかげで、重要な役割を果たすことが出来たのだった。

 それでは、何が起こったのだろうか?
 1944年7月17日の1500時少し前、陸軍元帥エルウィン・ロンメルは、Saint-Pierre-sur-Divesを発った。彼はそこで、第一機甲師団「リーベスタンダルテ」の司令官、ゼップ・ディートリヒと会見していた。ロンメルは前線を再編成する仕事に取り掛かっており、ヒトラーから21機甲師団にパンターやティーガーなどの重戦車を配置する許可を得ていた。ロンメルは軽量のフォルクスワーゲンを降り、愛用していた専用車である、幌屋根のあるコンバーティブル型の大型車、ホルヒに乗り換えた。折りたたみ式の幌屋根のため、彼は空を見て、連合軍の航空攻撃の前兆を捉えることが出来るはずだった。憲兵のオートバイが、車を先導した。
 La Roche-Guyonの司令部に帰るために、ロンメルの副官は、放棄された車両で塞がっているLivarotからVimoutiersへの国道179号を避け、D4を通って、次にD155を通ることを提案した。ゼッフ・ディートリヒはルフトバッフェに連絡し、用心深くもロンメル一行の上空援護を要請したらしい。ホルカー軍曹は、運転手のダニエルの隣に座っていた。普段なら、そこはロンメルが座っている場所だった(#5)。副官のヘルムート・ラング大尉は補助席に座っており、後方上空を見張っていた。ロンメルの左にはNeuhaus少佐がいて、地図を片手に方向を指示していた。
 La Chapelle-Haute-Grueにたどり着いた時、そこもまた破壊された車両で道が塞がっていたため、彼らは脇道を使うのをやめて、国道179号線に乗った。その時、おそらくゼッフ・ディートリヒが要請したものと思われる6機のメッサーシュミットがSainte-Foy上空にあり、ロンメル一行の通り道の上空で、クリスの602中隊のスピットファイアと交差しつつあった。しかし、火災の煙と低層の千切れ雲は日光をかなり遮っており、地上でも空でも、それぞれの団体は互いの姿をまだ確認していなかった。メッサーシュミットも、ロンメルのホルヒも、スピットファイアも、マンソンが自分の生命を犠牲にする原因となった警告を発するまで、互いを見ることなくそれぞれの道を進んでいた。ホルカーとラングは、二機のスピットファイアが道沿いにまっすぐ飛んで来て、車に接近してくるのを発見した。この警告で、運転手は速度を上げると、一縷の望みをかけて、少し遠かったがLaniel laundryへ続く並木道に逃げ込もうと方向転換した。オリバーは、その二丁の20mm機関砲と四丁の.303機関銃を発射した。運転手は20mm弾で腕を吹き飛ばされ、ハンドルにかぶさって倒れたので、大型車はコントロールを失った。二発目の弾丸は車に命中し、ロンメルの背中の高さで、幌屋根の折りたたみの中で爆発して、屋根を粉々に吹き飛ばした。もしこの弾が、航空機の薄いアルミニウムの外板を貫通して胴体内で爆発するように設計された1/50秒の超高感度信管でなかったなら、ロンメルはここで死んでいただろう。ロンメル元帥は、首の後ろに鋭い破片を浴びていた。また、頭蓋の左側が大きく裂けて脳が露出しており、耳の一部とともに頭蓋骨が大きく吹き飛ばされていた。頬骨も砕けており、こめかみにも大きな裂傷を負った。
 そして、これは間違いなくジャック・レムリンゲルだが、二番目のスピットファイアの射撃で、ホルヒを止めようとしていたバイクの憲兵が殺され、ホルヒはコントロールを失って道路から飛び出した。車には多数の.303機銃弾が命中しており、その内の一発は、Neuhouse少佐のリボルバー拳銃のバレルに当たって、彼の尻を骨折させていた。道から飛び出したホルヒは立ち木に接触して飛び上がり、ひっくり返った。ラングとロンメルは車から投げ出されてしまった。ロンメルはりんごの木の幹に頭からぶつかったが、ラングは無傷であり、ちょうどひっくり返った車から這い出してきた、破片で軽傷を負っただけのホルカー軍曹とともに、血まみれで気絶している元帥を助けに行った。彼らはまた、メッサーシュミットが墜落するのと、炎に包まれたスピットファイアがどこかに滑空していくのを見ていたが、地上での大事件は、空からの危険を遠くの出来事のように思わせていた。
 かなり長く待たされた後、ホルカーはやっと軍用トラックを捕まえ、この場を目撃していた労働者のAlain Roudeixの案内でロンメルをLivarotにある薬局まで運んだ。そして、近くの修道看護婦会に属するフランス人の医師、Esch教授がやって来た。医師は傷に包帯を巻き、応急処置を施したが、この時ロンメルは昏睡状態だった。攻撃を受けてからもう何時間も経っており、この遅延は致命的な結果を招きかねなかった。医師も、ショックを受けているラングに、怪我人が助かるかどうかは疑わしいと言った。真夜中頃、ルフトバッフェが運営しているBernayの病院からようやく救急車が来て負傷者達を運び、彼らはそこでSchenning医師の手当てを受けた。運転手のダニエルは死亡していた。
 ロンメルは、La Vesinetの病院に二週間入院した。その後、ドイツ軍医団の強い抵抗にもかかわらず、Ju188爆撃機の超低空飛行でドイツ本土に送還された。ロンメルはその後、Herrlingenの自宅で、Tubingen大学のアルブレヒ教授に治療を受けた。教授は、「このような重傷を負って生きていられるとは思えない」ともらしていた。ロンメルはまだ昏睡状態であったが、頑健な身体のおかげでさらに数週間生死の境をさまよい、10月14日に死亡した。注目すべきことに、国防軍司令部からマイゼル、ブルクドルフ両将軍が、ロンメルの死亡の確認と葬儀の手配のためにロンメルの自宅を公用で訪問している。ある者は、将軍達の訪問はロンメルの死亡の一時間前だったと証言した。このことが、多くの憶測を生むことになる。またある者は、将軍達の到着はやはり死後だったとしている。それなら、ロンメルの死はやはり自然死である。ヒトラーは元帥を国葬に附すように命じた(#6)。
 602中隊の5機のスピットファイアは1650時にLonguesに着陸した。マウス・マンソンの一機が行方不明になっていた。火災が発生し、不時着を試みて地上で爆発したと考えられる。残った5人のパイロットのうち4人も、この日に何が起こったか知ることはなかった。ノルマンディ上陸後の任務で最も重要な役割を果たしたのであるが・・・。統計学と平均の法則は、スコットランドで編成された飛行中隊の僕の同僚達には不親切だった。クリス・ル・ルーは一ヵ月後に墜落死し、ヨンセンとロビンソンも対空砲で撃墜されて戦死した。最後の一人、ブルース・オリバーは無事にニュージーランドに帰ったが、農薬散布機の事故で死んだ。我が友ジャック・レムリンゲルだけは生き残ったが、1990年まで、1944年7月17日に何が起こったか知ることはなかった。RAFは、ロンメルの一件に誰が関与していたのかずっと秘密にしていたのだ(#7)。ジャックが真実を知った時、決して自慢しなかったことを僕は覚えている。

#1 クロステルマン氏は当時、過労と、それに伴う覚醒剤ベンゼドリンの過量摂取で健康を損ねており、地上勤務に就いていた。
#2 Chris Le Roux。 南アフリカ出身。Chrisは偽名で、本名はJohannes Jacobus Le Roux。18機撃墜で、南アフリカでは第三位のエース。
#3 Hugh Trevor-Roper, Baron Dacre of Glanton (1914-2003) イギリスの歴史家。男爵位を持つ貴族で、第二次世界大戦中は秘密情報部に勤務していた。ヒトラーの伝記から宗教史まで業績多数。ただし、ドイツ占領軍に派遣中、ヒトラーはまだ生きている、と主張したため、多くのインチキ作家にネタを提供することになった。
#4 Walter Gorlitz(1913- )ドイツの歴史家。ドイツの軍事史やデーニッツ提督、カイテル元帥らナチス政権の要人達に関する著作多数。
#5 ロンメル元帥は、助手席に座ってナビゲーター役をするのが好きだった。
#6 1ロンメルの死については、ヒトラー暗殺未遂事件での逮捕者がロンメルの名を口にしたことで事件への関与を疑われ、ヒトラーの命令で自殺させられたことが日本では定説になっている観があります。しかし、実のところは不明確なようです。明らかに動かすのが危険な重傷に関わらず、強引にドイツに送還されたことは、暗殺未遂事件への関与が疑われた結果かもしれませんが、連合軍がフランスを席巻している状況であり、入院したまま動けないと捕虜にされる可能性があるという単純な理由だったかも知れません。ただ、私は負傷後のロンメルとされる写真を見たことがありますが、生死の境をさまよっているという感じではありませんでした。とは言え、頭蓋骨骨折の重傷では、当時の医学レベルでは自然死も大いにあり得ます。またロンメル元帥は、反ヒトラーグループから勝手に当てにされていただけであり、ヒトラー暗殺未遂事件への関与は無いのですが、戦後、反ヒットラーの将軍達だけが西ドイツ軍に登用されたため、参謀長だったシュパイデル将軍が、自分の保身と出世のためにロンメルの陰謀荷担説やら何やかやをでっち上げたようであり、実際には自然死の可能性もあります。また、ロンメルが連合軍の上陸地点をノルマンディーだと看破したという有名な話もシュパイデル将軍の捏造のようです。また、暗殺未遂の嫌疑自体も、ロンメル将軍と仲の悪かった将軍達の陰謀だったと言う説もあります。
#7 カナダ空軍の412飛行中隊は、自分達がロンメルの車を攻撃したと主張しています。



イギリスへ帰る船

 船を待つ腹立たしい日々が過ぎた。僕は草の上に座りこんで、戦闘に次ぐ戦闘の間、今はジャックが操縦している僕の愛機LO-Dが、金色の砂埃を立てて離陸し、20mm機関砲をぶっ放すのを眺めていた。
  友情とは何かを僕は本当に理解できた。旧友や戦友が出撃していくのを見て、神経をとがらせ、心配で胃に穴が開きそうになりながら帰ってくるのを待つ。共に飛行している時とは全く違う。
 ヨンセンは撃墜され、次にカーペンター。その次は、新入りの一人であるコンノリー。ジャックはまだ勇敢に戦い続けている。
 7月27日の夕方、僕は、帰国命令を受け取ったばかりのフランク・ウーリーとともに、荷物一式をジープに詰め込んで、アロマンシュに発った。2130時、僕はLCT322に乗船した。
 船の次席士官が、自分のキャビンを僕に提供してくれた。僕が横になった丁度その時、信じがたいほど暴力的なドイツ軍の空襲が始まった。僕は上甲板に駆け上がった。空襲の場面は、怒り狂ったボフォース砲の閃光でライトアップされている。碇泊している船の間に、幽霊じみた姿で爆弾の水柱が上がった。地下室の重い扉を閉じたような鈍い爆発音が響いた。月に向かって巨大な火柱があがり、怪物じみたピラミッドのような煙が立ち上る。タンカーが爆発したのだ。
 ドルニエ爆撃機のエンジン音が遠くにフェードアウトすると、対空砲は沈黙した。僕は手すりにもたれて、港のマストや煙突越しにアロマンシュの崖を見つめていた。その向こうにあるLonguesからは、星空に向かってスピットファイアが飛び立っているだろう。どんなに全てが平穏に見えて、平和的で、戦場の音が遠くても、カーンでの戦闘は最高潮に達していた。時々、思い出したように南の地平線が爆発の閃光で照らし出される。町はまだ受難に耐えているのだ。
 曳光弾が次から次へと打ち上げられ、消えていく様子は何百と言う流れ星のようだった。僕の周りでは波のぴちゃぴちゃという音しかしない。空気はオイルと海水で重苦しい。黒い海面は、真っ赤に燃えるタンカーの炎を映し出していた。
 全ては終わった。今フランスの解放が行われているが、何週間かかるか分からない。しかし運命の皮肉により、自分はパリの解放を遠くから見るだけだということは分かっていた。
 満潮になった。LCTのディーゼルエンジンが震え、へさきに、白い泡の大きな花が咲く。スクリュープロペラがゆっくりと単調なリズムを刻み始めたが、僕の心の中はと言うと、多くの思い出、友情や悲哀でいっぱいだった。


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