パニックの感触
(この前には、「撃墜王」では第一章に含められている、スピットファイアへの転換訓練、自由フランス空軍アルザス飛行中隊への配属と、隊長であるルネ・ムーショット少佐や、小隊長となるマルテル中尉との出会いが描かれている。)
 
 ビギンヒルに到着した我々だが、士気はそれほど高くなかった。ビギンヒル基地は、「バトル・オブ・ブリテン」で主要な爆撃目標となったロンドン南部をカバーする基地であり、そのため、設備は荒れ果てた感じであった。士官宿舎などは、残っていた食堂の建物の中に数人分しかない。僕達は、「アルザス飛行隊」の分散待機所の後ろにあるいくつかの小屋を割り当てられた。僕達は誰とでも部屋を分け合い、仲良くやった。隊の整備士達は、僕達の機体とともに既に基地に居た。驚いたことに、機体はスピットファイアIX-Bであり、当時最良のスピットファイアだった。これは我々の飛行隊への特典のようなもので、新年にスピットファイアIX-Bを受領したのは我々だけだった。
 南アフリカ連邦出身で30機の撃墜記録を持つエース、マラン大佐(#1)が基地航空団の司令官であり、アル・ディーア中佐(#2)、もう一人の抜きん出たパイロットが、ちょうど僕達が交代したイル・ド・フランス(Ile de France, 340 F.F.)も含めた、ビギン・ヒルに所属する二つの飛行中隊(#3)の指揮を執っていた。
 誰かが僕に、なぜRAFの有名な戦闘機パイロットが二人もビギンヒルに送られてきたかを話してくれた。3月14日、Berk-sur-Merの上空の戦闘で、132飛行中隊と340飛行中隊が高度29,000ftでヨーゼフ・プリーラー(#4)率いるJG-26のフォッケウルフFw190と空中戦になった。24機のスピットファイアと30機のフォッケウルフの近接格闘となり、ほぼ5分という例外的な長さの空中戦の後、指揮官のディッキー・ミルン中佐が撃墜された。その数日前にスラッターズ中佐が撃墜されており、その前任者であるレイハック中佐も同様に撃墜されていた。そしてさらに、三人のパイロットが行方不明になるという損害を受けていたからだと言う。これらは、アドルフ・ガーランド(#5)の弟、'Wutz'ガーランド(#6)が率いるJG-26第II飛行隊(#7)の仕業であった。
 我々のスピットファイアIX-Bは、正確にはロールスロイス・マーリン63Aエンジンを装備したスピットファイアL.F.IX-Cであり、マーリン61エンジンを装備したIX H.F.(#8)よりもずっと優秀だった。このモデルでようやく、僕達の直接の敵であるJG-26とJG-2が装備する最新型のフォッケウルフFw190と、高度25,000ft以下でなら互角に戦うことができた(#9)。IX-Bは、IX-Aに対して時速28マイル優速であり、高度16,000ft以上でもより良い上昇能力を発揮した。銃は加温されていて凍結することは無いし、ベンディックス・ストロンベルグ社のキャブレターがいざという時のエンジン停止を防いでくれる(#10)。要するに、IX-Bはすばらしい戦闘機械だった。
 4月半ば、ルフトヴァッフェの偉大なエース、ヴァルター・エーザウ少佐(#11)指揮するJG-2「リヒトホーフェン」航空団の第I飛行隊と第II飛行隊がパリジアンから移動して、ビギンヒル航空団の慣例的な狩場のまさにど真ん中にあるトリックビル基地に配置されたことを知った。RAFは出来るだけ早い機会に彼らを始末すようと決心したようだ。
 アメリカ第8航空軍のB17によるアミアン・グリッシー地区の飛行場に対する爆撃は完全に失敗することになった。160発の爆弾の内、滑走路内に落ちたのは二発だけで、近所の牛の群れを壊滅させただけだった。その時、トリックビルも攻撃目標となっていたが、爆撃は無く、戦闘機の低空進入による掃討作戦だけだった。ただ、エーザウ少佐が、自分の基地の周囲をスピットファイアが傍若無人に飛び回るのを我慢出来るとは思えなかった。
 このような非常に純粋な戦闘機としての任務に、僕も参加することになっていたので、とても誇らしい気分だった。
 幸運にも、出撃予定者には前日の午後に外出許可が出たので、ロンドンに行ってちょっとバカ騒ぎをして戻って来たが、基地では就寝するように強制されてしまった。そして、僕が抗議する前に、マルテル中尉が言った。
「文句を言うな、クロクロ坊や(#12)。君は俺の二番機だ。戦闘中にカッカきても、俺を上手く援護するように気をつけてくれ。」
 ブリーフィングは至って簡単で、手早く終わり、困難な任務を予期させるものは無かった。アル・ディーア中佐、コードネームはブルータス、が611飛行中隊の指揮官として作戦全体を指揮し、彼に万一のことがあった場合は、ムーショット少佐が指揮を引き継ぐ。611飛行中隊は超低空飛行で、駐機中、もしくは離陸滑走中のフォッケウルフを攻撃する。攻撃は、素早いただ一回の地上掃射だけにして、敵の増援が現れた場合に備えて、攻撃後は可能な限り高度を取って、飛行場から離れる。一方、341「アルザス」飛行中隊は、目標地域の南方を高度3,000ftで哨戒し、飛行時間でわずか数分のところにあるEvereux-Fauvilleを基地とするJG-2の第III飛行隊が現れた時に611飛行中隊を守る。もし611への攻撃を許せば、低空はたちまち危険な屠殺場と化すからだ。
 自分の戦闘機に乗り込みながら、僕は自分の最初の敵機撃墜のことを思い、心配と興奮を同時に感じていた。最初の撃墜で自分が撃墜されるかもという考えは、これっぽっちも浮かばなかった。僕の機付き整備士が、セーム皮とクレイロール(#13)のビンをもって、フードと風防に最後の一磨きをくれた。ヘルメットのストラップをしめ、ヘッドセットの位置を調節していると、僕は突然、他の世界から隔離されたことに気が付いた。始動するエンジンの咳き込む音も聞こえなかった。エンジンは、静かに、正常に点火した。
 40分後、デイエップとサン・ヴァレリの間の海岸をフルスロットルで越えた。少数の37mm砲弾の爆煙が、対空砲火があることを示している。ムーショット少佐が命令を下した。
「散開せよ!増加タンクを落とせ。」
 我々が作戦高度の3,000ftに到達するかしないかのうちに、敵の飛行場を視認したムーショット少佐が静かな声で警告した。
「ブルータス、滑走路の隅に、タキシングしている飛行機が何機かある。」
 視線を下に移した僕には、最初のフォッケウルフFw190が離陸する様子がはっきり見えた。Fw190のコックピットに陽光が反射して光っており、管制塔からは、彼らに危険を知らせる信号弾が打ち上げられていた。611飛行隊の到着は一分か二分遅すぎたのだ。しかも、少なくとも12機のフォッケウルフが既に離陸して、らせん状のコースで上昇している。611のピットファイアは接近戦に持ち込み、数秒後には、カモフラージュ用の防水布に覆われた波型鉄板のハンガーの上空で、敵も味方も入り乱れる乱戦になった。
 この乱戦に目を奪われて、僕達はEvreuxから救援に来た第III飛行隊のフォッケウルフを警戒することを忘れていた。幸運にも、いつも油断の無いボルダが敵機を発見した。ムーショット少佐が反応する前に、マルテル中尉が叫んだ。
「ターバンイエロー、ブレークだ!」
 僕は、息もつけないほどのブラックアウト寸前の急旋回をした。遠心力で首が捻じ曲がりそうだったが、Fw190が素早く僕の機に接近して、射撃を浴びせてくるのが見えた。フォッケウルフは僕の旋回に付いてくることが出来なかったが、光る雨のように曳光弾が通った場所は、僕の機の翼端からそう遠く無かった。さらに二機のFw190が加わって、僕を追ってくる。僕はプライドを飲み込んで、助けを呼んだ。
「ターバンイエローワン、こちらイエローツー、助けて!」
 聞こえてきた返事は、「黙れ!」の無愛想な一言だけだった。永遠とも思える数秒間、フォッケウルフはさらに僕に迫ってきた。胴体の黒いワシのマークと、黄色く塗られたプロペラスピナーがはっきり見えた。しかし、何故かは分からないが、次の瞬間、Fw190は左にロールし、僕が旋回を切り替える前に降下した。僕の機体の下を潜り抜け、獲得した速度の優位を利用して垂直に引き起こすと、宙返りして正面からまっすぐ僕に向かってきた。そして、ウイングマンとともに僕の機体をかすめて降下し、3,000ft下の地面すれすれのところを飛び去っていった。
 乱戦が最高になったとき、アル・ディーア中佐は燃料計に目を留めたようで、ターバンとブルータス全機に対し、戦闘を中止して再集結点のフェカンに向かうように命じた。
 だがムーショット少佐は、341単独でビギンヒルに帰投することにしたため、611飛行中隊とアル・デイーア中佐とは着陸後に合流した。点呼を取ってみると、Everexのフォッケウルフに奇襲された時に、二機のスピットファイアを撃墜されていたが、こちらも二機のFw190を撃墜していた。互いに二機ずつである。611飛行中隊が二分早く到着していたなら、敵機が地上にあるうちに奇襲できたので、また違った結末だっただろう。
 僕がパラシュートを片付けていると、マルテル中尉が来て言った。
「クロクロ坊や、俺は君が起こしたパニックの感触を感じたんだが?」
 僕がもごもごとそれに返事をしていると、ムーショット少佐が来て言った。
「気にするな、我々は皆、ここに来てから日が浅い。自分自身で解決しろ。夕食に行って、ビールでも飲んで来い。今日という日は終わった。後は休んで、また明日の朝にみんなで顔をあわせよう。」

#1 アドルフ・ギズバート・マラン(Adolf Gysbert Malan 1910-1963)。 南アフリカ連邦出身。元船員なので「セイラー」・マランの通称で知られる。旧態依然とした三機密集編隊を廃して四機編隊を導入したり、戦闘機軍団の戦闘教則となる「空戦十則」を作成するなど、RAFの勝利に多大な貢献がある。32機撃墜との資料もあるが、公式には個人撃墜27、協同撃墜7、不確実3。戦後は反アパルトヘイト運動のリーダーとして活躍した。
#2 アラン・クリストファー・ディーア(Alan Christopher Deere 1917-1995)。 ニュージーランド出身。撃墜17、協同撃墜2、不確実撃墜2-6。戦後もRAFにとどまり、准将まで昇進した。
#3 Squadron。12機−16機からなる編成で、以後、このように訳します。「撃墜王」では「飛行隊」となっていますが、ドイツ空軍で3中隊編成40機程度からなる「Gruppe」が、一般的に「飛行隊」の訳語が浸透していることと、部隊としての規模を明確にするためにも、「飛行中隊」としました。
#4 ヨーゼフ・プリラー大佐(Josef Priller, 1915-1961)。最終撃墜数101機。ノルマンディー上陸作戦の当日、上陸地点に出撃したたった二機のドイツ軍戦闘機の一機として有名である。
#5 アドルフ・ガーランド中将(Adolf Galland 1912-1996) 撃墜数は103機。スペイン戦争から第二次世界大戦終結までを戦い抜いた伝説的名パイロット。当時はルフトバッフェの戦闘機総監。
#6 ヴィルヘルム=フェルデイナンド・ガーランド少佐( Wilhelm-Ferdinand Galland 1914-1943) 撃墜数55。
#7 Gruppe。番号はローマ数字で表していた。
#8 L.F.とは低高度用、H.F.とは高高度用を示す。
#9 Fw190には高高度性能が良くなかったと言われている。それでも25,000ft以下で戦いを挑むのは、L.F.ならではなのか。
#10 初期のロールスロイスのエンジンには、強いマイナスGがかかると燃料供給が止まってエンジンが停止する欠点があった。
#11 Walter Oesau (1913-1944)。撃墜数127。最終階級は大佐。
#12 mon petit Clo-Clo
#13 Clairol。 洗剤の銘柄

一千機撃墜
(「パニックの感触」の後、なぜか「最初の大空戦」というアミアンへの出撃、再度トリックビルへ出撃した三回目の任務でFw190を2機撃墜したことと、「フォン・グラーフ少佐」なる敵の指揮官らしいFw190をマルテル中尉が撃墜して負傷させた話が続く。なお、「The Big Show」では、「フォン・グラーフ少佐」は間違いで、実はエーザウ少佐だったと付け加えられている。)

 ビギンヒル基地は、通算一千機目の撃墜が迫っていたので興奮状態にあった。ビギンヒルはロンドンの南にあり、ルフトヴァッフェが首都を攻撃する時のルート上にあったので、バトル・オブ・ブリテンで既に多くの撃墜数を記録していた。大きな祝賀会が計画されていて、スピットファイアを製造しているヴィッカース(#1)、エンジンを供給しているロールスロイス、その他様々な関連会社が祝賀会の準備に関係していた。
 事態は急速に進展した。611飛行隊のクーランスが5月13日に996機目を撃墜し、14日にはマルテル中尉が997機目を撃墜した。フランスの海岸上空では戦闘の数が増しており、小競り合いの毎日なので、ジャックポットはいつでも予想された。15日の午後、僕が再びマルテル中尉の二番機として飛んでいる時、30機くらいのフォッケウルフFw190が一列縦隊になって、僕達を攻撃しようと螺旋降下してくるのに気がついた。411飛行中隊(#2)が最初に交戦し、たちまちフォッケウルフとスピットファイアが炎に包まれて落ちて行った。誰かが無線で叫んでいる。
「998機。後2機だぞ!」
 マルテル中尉は発砲したが外れ、狙われたフォッケウルフは間一髪で逃れた。そいつが通り過ぎようとした時、僕も追随しようとしたが、位置が悪くて失敗した。僕は今日、敵機を撃墜することが出来るのだろうか?
 ムーショット少佐機がウイングマンとともに僕達に接近して来て、旋回しようと鋭いバンクをしていたFw190に発砲した。その瞬間、411を指揮していたジャック・チャールズ少佐が無線で叫んだ。
「一機撃墜!」
 そして僕達は、ムーショット少佐が狙っていた敵機がきれいに爆発し、パラシュートが飛び出すのを見た。これが、999機目と、1000機目の撃墜だった。
 飛行機と構成部品のメーカーは、記念パーティーのため、パークホテルの大ホールを借り切った。パーティーはプレスの一面を飾った。フランスに栄光あれ!
 自由フランス海軍から派遣されてきたアコーディオン楽団を含む二つのオーケストラが居た。有名な歌手のヴェラ・リーン(#3)とウインドミル・ガールズ(#4)、フランソワーズ・ロゼイ(#5)、アンナ・マリー(#6)その他の有名アーティストも出演していた。カナダからは500kgものロブスターを送られて来たし、アメリカ人達は、南部風のフライドチキンを料理する二人の黒人シェフを派遣してきた。スコットランドの蒸留酒製造業者とビール業者も無視してはいけない・・・。ああ!ここ数年の欠乏と配給制度の中では、後にも先にもこれきりの例外的なパーティーだった。
 これはまた341飛行中隊の洗礼式でもあり、RAFの大物達も居て、航空大臣のアーチボルド・シンクレア卿までも顔を出した。ムーショット少佐は終始威厳をもってパーティーのホスト役を務め、ジャック・チャールズも側において、客に応対する名誉を彼にも与えた。コルニグリオン=モリニエ(#7)、ケッセル(#8)、ドリュオン(#9)その他カールトン・ガーデンズのお偉方もここに居た。全ての女性はイブニングガウンを着ていた。夜も半ばという頃、俳優のスチュワート・グレンジャー(#10)が静粛を求めると、ステージに上がって二通の電報を読み上げるようにコルニグリオンに頼んだ。一通はビギンヒル基地とアルザス飛行中隊の戦果に対するチャーチル首相からの祝辞であり、もう一つは、ムーショット少佐に解放勲章(Order of the Liberation)を叙勲するというド・ゴール将軍からの通知だった。
 最後にムーシヨット少佐は、飛行中隊の名において、この戦史に残るイベントの成功に関係した全ての人に謝意を表した。また彼は、タクシー協会から送られた30台の車が、411と341「アルザス飛行中隊」をビギンヒルまで運ぶため待機中であり、夜明けまでなら料金は不要であると発表した。運転手達にも軽食が出されたと少佐は付け加えた。
  この記念すべき夜の終わりに万雷の拍手が起こった。そして、チャールズ・ブラウンのような著名な報道写真家達が撮影のために中央近くに出てきたので、僕たちフランス人は特にこの場面に興味を引かれた。イブニングドレスの魅力的な女の子やウインドミル・ガールズに囲まれたフランス空軍の制服は、写真映えが良いと自惚れていたのである。

#1 スピットファイアは「スーパーマリン」の名が冠されているが、スーパーマリン社はヴィッカース社に買収されて一部門となっていた。
#2 原文ママ。他の章では、ジャック・チャールズ少佐が指揮するのは「485」となっている。
#3 Vera Lynn (1917-1975) イギリスの有名な歌手/女優。ちなみに、「The Big Show」というラジオ番組を持っていたことがある(爆)。
#4 ロンドンのウインドミル劇場(Windmill theatre← theaterと綴らないのが英国風)に出演する女性達。簡単に言うと、踊り主体の宝塚歌劇団のような感じか?ヌードショーでも有名ですが、脱いだ場合動いてはならないという原則のため、1940年代ではまだ上演していなかったでしょう。
#5 Francoise Rosay(1891-1974)フランスの女優。「外人部隊」「史上最大の作戦」等、出演作多数。自由フランスの協力者。
#6 Anna Marly (1917- ) 白系ロシア人のフランスの作曲家、ギタリスト。彼女も自由フランスの協力者。
#7 エドアルド・コルニグリオン=モリニエ(Edouard Corniglion-Molinier 1898-1963) フランスの映画プロデューサーで、アンドレ・マルローの作品を多く映画化している。ヴァラン中佐とともにアルザス飛行隊の設立に関わっていて、自由フランス空軍に多大な貢献がある。第一次世界大戦からの戦闘機パイロットで、アンドレ・マルローとともにスペイン戦争にも義勇兵として参加。第二次大戦でも志願兵パイロットとして参加し、二機のドイツ軍機撃墜が公認されている。戦後は司法大臣も務めた。
#8 ジョセフ・ケッセル(Joseph Kessel 1898-1979) フランスの小説家でジャーナリスト。映画の脚本も多く手がけている。
#9 モーリス・ドリュオン(Maurice Druon 1918-2000) フランスの小説家。日本では「みどりのゆび」で有名。
#10 Stewart Granger (1913-1993) イギリスの映画スター。「ゼンダ城の虜囚」「前進か死か」「ワイルド・ギース」など出演作多数。

ヤンキー達の来訪

 僕はしばしば、アンリ・ド・ボルダ少尉と一緒に待機番になった。ボルダはいわゆる「半ズボンの少年」の一人であり、ローラン・ド・ラ・ポワプ(#1)のように、まだ学生であるにも関わらずド・ゴール将軍の下にはせ参じた若者だった。この時ジャックは602飛行中隊に配属されていて、僕はまだアルザス飛行隊に居たから、僕は童顔から「Poupy(#2)」と呼ばれるボルタとよく一緒に飛んだ。彼は優秀なパイロットだった。
 その日は美しい春の朝だったが、海峡のイギリス側に居る僕達には濃い朝靄の発生が予想できた。アルザス飛行中隊は非番であり、ロンドンに遊びに行かない者はまだベッドで寝ていた。だが、万一に備えて、一組のパイロットが待機していなくてはならない。
 そこで、ロンドンで遊ぶ金が無かった僕は、早起きであるムーショット少佐とボルダが食堂から出てくるのに会った時に、待機番を志願した。ボルダも付き合ってくれると行ったので、僕達は自転車に飛び乗り、分散待機所に向かった。整備員達はエンジンを暖機し、霧雨から守るためカンバスを被せられたパラシュートが用意されていており、素早く身につけられるように肩紐がぶら下がっている。僕のヘルメットも、ヘッドセットと酸素マスクとともにコックピットのバックミラーに掛けてあった。準備は全て出来ている。だから、お茶の後で少し居眠りも出来るだろう。
 アンリはいつも眠り込んだりすることがほとんど無いので、僕はハービー・アレン(#3)の長い小説、「アンソニー・アドバース(#4)」に没頭し始めたその時、ラウドスピーカーの声が僕の忘我の状態を破った。
「ターバンレッドセクション、スクランブル、スクランブル!」
 僕達は外へ飛び出した。なんということだ。靄が濃くなっている。整備員が翼の上に立ってエンジンを始動しており、僕達が操縦席に乗り込むのに手を貸してくれた。僕達が機に乗り込む無とすぐに、グリーンの信号弾が上がる。
 緊急発進だ。前方に障害物なし。翼間の距離も良し。位置灯点灯。ビギンヒルの大きな利点の一つは広くて平坦なことであり、そのため、滑走路までタクシーウェイに沿って移動する必要が無く、どんな方向にでも離陸できることだ。降着装置を収納するが早いか、僕達は豆スープのような霧の中に突っ込んだ。レーダーコントロールは、高度1,000ft以下を維持しつつ、僕達をあちこちの方向に飛ばしたが、最後には着陸するように命じてきた。僕達はいつも試していたように、視界ゼロの中で着陸した。アンリの計器飛行は非常に正確だったのだが、僕達は結局、無線方位計と滑走路の端の当番パイロットに依存していた。このパイロット達は、僕達が彼らの頭上を飛び去るのを聞いた瞬間に、エンジンを切るように指示を出すのである!僕達には、滑走路の灯火はほとんど見えなかった。
 ドスン!無事に着陸できた。僕達はお茶にありついたが、またも新たな警報が発令されて、再び離陸した。燃料を再補給する間もなかったが、幸いなことに、さっきは10分ほどしか飛行していなかった。またも視界ゼロで、今度は雨も降っている。そしてまたコントローラーは着陸を指示し、僕達はやっとのことで着陸した。再出撃準備所要時間内に僕達の機は燃料補給を完了したが、また緑の信号弾が打ち上げられ、地上員達が走ってきて叫んだ。
「ロンドン上空にドルニエだ!発進しろ!」
 すぐに僕達は空に上がったが、ボルダはコントローラーに対し、視界ゼロの中で、ロンドンを囲む阻塞気球の周りを飛びたく無いと丁寧に言った。しばらく後、コントローラーは着陸を命じてきた。なんだ、誤報だったのか!
 その後、611飛行中隊の一小隊が待機に入ったので、僕達は少しリラックスすることが出来た。朝食の後、自転車で渓谷をサイクリングしていたら、エンジンの轟音を轟かせる四機のドルニエと出くわした。ドルニエは南に向かって、フルスロットルで飛び去って行った。僕達の頭上10メートルほどのところだった! 作戦担当士官が教えてくれたが、そのドルニエ爆撃機は、第一次世界大戦を生き抜いた狡猾な古狐で、ドルニエ215爆撃機部隊の指揮官である有名なフィンク大佐(#5)の部隊の機であり、彼がこの日の大胆な低空攻撃を指揮していたと言う。

 4月の初め、アメリカ軍の戦闘機部隊の先遣隊が、当地の状況を観察するため、1ヶ月か2ヶ月、ビギンヒルに滞在するとの報せを受けた。大西洋のこちら側では、最初のアメリカ陸軍航空隊の戦闘機部隊が1943年初頭から北アフリカで活動していた。この部隊はP-39エアコブラを装備していたが、この機種は海峡やドイツ上空の戦闘では期待された成果を上げることは出来なかった。また、アメリカ人志願兵で構成されたRAFのイーグル飛行隊(#6)で戦っていたパイロットを除いて、アメリカ陸軍航空隊の爆撃機も戦闘機も、実戦経験が無かった。そして、こればかりは学校では学べないことだ。僕は、アルザス飛行隊に入った時にマルテル大尉(#7)から言われたことを思い出した。
「クロクロ坊や、曲技飛行をやる能力は、君が何でも知っていることを意味しないぞ。これは戦争だ、だから学んだことは全て忘れて、頭が上を向いていようと下を向いていようと、本能に従って飛べ。水平線なんか見るな、何の価値もないからな。ただ一つ重要なのは敵機だ。敵機が君の人工水平儀だ。もし君が敵が250ヤード向こうだと考えたなら、勘違いをするな、それは多分600ヤードだ(#8)。衝突が心配になりだしたら、射撃を開始しろ。まだ200ヤード離れている。これは任務から帰った時、ガンカメラのフィルムを見て恥ずかしい思いをして、ひどい目に会いながら学ぶことだ。もし君が撃墜されなければの話だが。だから、もし君が恥をかきたくなければ、今まで教えられたことを忘れて、俺の言うことを聞け!」
 親切に感謝しつつ、僕は大尉の言う事を聞いて今まできたが、ヤンキーどもはどうやったらRAFのアドバイスを受け入れるだろうか?
 その縦長の楕円形の狭い背中と、豚のように太った横顔から「レザーバック(#9)」の愛称で知られる、機関銃を6丁しか装備していないP-47サンダーボルトの最初のバージョンを装備したアメリカ陸軍航空隊第56戦闘航空群は、ビギンヒルにセンセーショナルに到着した。
 3×12機の完璧な編隊を組んだままの見事な着陸だった。彼らが分散待機所に隣接した滑走路に着陸した時、僕達は彼らを歓迎するために集まっていた。アメリカ人達は待機所のそばに、スピットファイアの二倍はあろうかというその怪物じみた戦闘機を駐機させた。アメリカ側の地上クルーはまだ到着していなかったので、こちらの整備員達がパイロットを機から助け降ろした。僕達の主任整備士(RAF技術飛行軍曹)は、火星人にでも出会ったように目をまん丸にして戻って来た。ムーショット少佐は、いつものように一部の隙も無い服装であり、エレガントな態度と長いパイプの非常に貴族的な姿で、我々の新しい同盟者に近づいて行き、帽子の後ろでひらひらしている白いリボンでそれと見分けた彼らの指揮官(#10)に敬礼したが(指揮官は、1929年の有名な映画、「暁の偵察」のようにブルーと赤のリボンを持っていた#11)、しかし少佐がこっちに戻って来た時、スタンレーが初めてピグミー族に出くわした時に見せたであろう表情(#12)をしていた。飾りのついたレザージャケットに、色とりどりの飾りボタン、背中に描かれた飛行隊のバッジ、真珠色の台尻の二丁のリボルバーと予備の弾丸が並んでいるベルトという彼らの服装のため、彼らはスー族の酋長なのか、西部劇のガンマンなのかよく分からなかった。彼らはフランス人との遭遇にたじろいでいて、挙句の果てに、英語で話し出した。だが、彼らはとても友好的で、10分もすると僕達は打ち解けていた。ブレーキの音と共に、僕らのビッグボスのハンバー(#13)が停まって、マラン大佐とアル・ディーアが降りて来たが、目にした新しい人種とハリウッド的な騒ぎに一瞬呆然としていた。イギリス軍士官の冷静さも、この場面には充分ではなかったらしい。
 一週間後、我らがヤンキー達は、今、ビッグボーイの遊び場で作戦中だということを理解した。スピットファイアの運動性は彼らを仰天させたが、不幸なことに、スピットファイアに乗り換える前に、既にアメリカ人の一人が訓練不足のために死亡していた。
 僕達は、56戦闘航空群の大陸への最初の出撃を護衛した。編隊を散開する意味を彼らに理解させることは難しかった。僕達はパレードしているのではなく、12機の戦闘機の4機編隊×3で、地上で何が起こっているか見えるように、前後に1,000ヤード以上、縦に600ft以上に展開している。幸運にも、ルフトヴァッフェは出撃してこなかった。空域のドイツ軍の無線傍受部門が、おしゃべりな新参者達が話す奇妙なバージョンの英語に完全に圧倒されたに違いない。
 基地に戻るとムーショット少佐は、無線封止は生死を分かつ要素であることをアメリカ人達に説明した。
 言っておかねばならないが、アメリカ人達は速やかに学習した。だが、彼らの戦闘機が使い物にならず、三回目の任務の最中、アル・ディーア中佐の611飛行中隊の援護にもかかわらず、サント・オメイル上空で三人のパイロットを失った。僕達は、P-47の武装が強化され、性能向上のためのより強力なエンジンが到着して「レザーバック」と入れ替えられる、と聞かされた。
 後に、僕は"ガビー"・ガブレスキー(#14)と親友になった。彼は、P-47での戦果と朝鮮戦争でのMig-15の撃墜も併せて30機以上の撃墜数を上げた。彼はサンダーボルトのような怪物じみた戦闘機を自転車であるかのようにやすやすと操っていた。

#1 Roland de la Poype (1920- )撃墜16、不確実撃墜2で自由フランス空軍第8位のエ−ス。当初はイギリス空軍に勤務していたが、自由フランスのソビエト派遣部隊、「ノルマンディ・ニェマン連隊」に参加し、最年少の中隊長として活躍した。
#2 「ぼうや」くらいの意味か?
#3 Hervey Allen (1889-1949) アメリカの作家。
#4 「Anthony Adverse(1929-1933)」。ナポレオン時代のイタリアに生まれた孤児アンソニー・アドバースの数奇な運命を描いた長編小説で、映画化もされた。日本では「風雲児アドバース」のタイトルで知られる。
#5 ヨハネス・フィンク大佐。バトル・オブ・ブリテンでドルニエ爆撃機の部隊を指揮していた人。
#6 アメリカに移管後は第4戦闘航空群となる。
#7 昇進していた
#8 「大空のサムライ」故坂井三郎氏も同様のことを言っている。初心者が敵機との距離を近く見積もるのは万国共通らしい。
#9 razor backs 文字通り「とがった背中」の意味と、アメリカ南部に生息する野生化した豚を指す言葉。
#10 ハバード・ゼムケ大佐。
#11 白黒映画なのになんで分かった?
#12 スタンリー((Henry Morton Stanley 1841-1904)は、アメリカのジャーナリスト/探検家で、行方不明になったリビングストンを発見したことで有名。原住民には攻撃的でけっこうあくどい男だった。彼がヒグミー族に会った時の顔とは、「ものめずらしそう」というくらいの意味か?
#13 Humber 自動車の車種。
#14 フランシス・スタンリー・ガブレスキ中佐 (Francis Stanley Gabreski 1919-2002)。原文にはGabrewskiと綴ってある。ポーランド系アメリカ人で、第二次世界大戦では空中戦で28機を撃墜し、ヨーロッパ戦線でのアメリカ空軍のトップエースとなる(ただし、第8航空軍は地上駐機中の敵機の破壊も「撃墜」とカウントしていたので、それを含めるともっと多い人も居る)。朝鮮戦争ではさらにMig-15を6.5機撃墜している。



ウイリアム・フォークナーと見たフィルム

1943年8月9日 
 今月はとても忙しい。我々は、Fort Rougeを爆撃する24機のアメリカのマローダー爆撃機を護衛した。サント・オメイルのフォッケウルフは姿を現さなかった。

8月12日
 ポア(Poix)を爆撃する36機のマローダーの援護。常に幸運なケンリー基地の航空団は敵機の迎撃を受けた。僕たちはその戦闘を遠くから目撃した。

8月17日
 再度ポアの爆撃だが、今度は48機のB-17である。無風。JG-2のフォッケウルフは疑いも無く移動しており、B-17が3機、高射砲で撃墜されるのを見て笑っていたに違いない。燃料不足と日没のため、帰途は極めて危険だった(*, #1)。

8月18日
 この日の朝、僕たちはコルニグリオン=モリニエに伴われたウイリアム・フォークナー(#2)の訪問を受けた。この偉大な作家は、熱烈な航空ファンでもあった。彼は1917年に王室カナダ空軍にパイロットとして志願しており、彼の代表作の一つ、「パイロン pylon」は、トムソン・トロフィーやベンディックスのような、1940年以前のエアレースパイロットの物語である。フォークナーは僕と短い話をした後、僕がアルザス飛行隊での出来事をスケッチで記録している日誌のページをパラパラとめくった。
 この日の午後、アル・ディーア中佐とムーショット少佐は、コピーが到着したばかりの7月27日のガンカメラのフィルムを見せて、フォークナーとコルニグリオンに戦闘の話しをした。これにより、僕の二機撃墜(#3)が確認できた。最初のフィルムは、フォッケウルフへの命中弾と、僕はその時気が付かなかったのだが、パイロットが脱出しようとしている場面が写っていた。二番目は誰かが「ラッキーショット」と言ったものである。何故なら、垂直降下中の至近距離からの第一撃で致命傷を与えていたからだ。
 だがフィルムを見て愕然とした。僕はあの時、敵機がまだ30ヤードか40ヤード遠めに誤認していたのである。あの時の速度では衝突まで間一髪であり、極め付きに愚かな行動だった。戦闘中に取った自分が記憶していない行動を見ることが出来るガンカメラの有効性は、ここでも明らかになった。またも、敵のパイロットは脱出していた。
 マラン大佐が僕の方を見て言った。
「クロステルマン、あんな戦いかたを続けていれば、長くは生きられないぞ。」
 マラン大佐の隣に座っていたマルテル大尉は、もう少し突っ込んだことを言った。
「いいフィルムだ、クロクロ坊や。しかし、二番目のフリッツにやったようなトリックを他で試すつもりなら、うぬぼれるなよ。自分がいかに危険な状況にあったかを心しておけ。空中衝突は許されることではないし、フォッケウルフにぶつけても負け戦だ。」
 いつものように、マルテル大尉は的確に僕の身の程を分からせてくれた。


 さて、ガンカメラは多くの理由で不可欠のものである。先ず、戦闘中の人間は錯覚や思い違いにとらわれやすいが、そうした錯誤を正すのに、戦闘中の一場面を捉えたフィルムに勝るものは無いからだ。スピットファイアでは、右側の機関銃の隣に16ミリカメラが搭載してあり、精密ネジによって、一秒間12コマ撮影で調節されている。搭載している航空機の火器の収斂点を正確に中央に捉えるように取り付けられており、火器の発射と連動して作動する。プロペラ圏外から発射される4丁の7.7mm機関銃と2丁の20mm機関砲の火線は、パイロットの好みにもよるが、発射した航空機の200ヤードから300ヤード先で収束する。この点で弾丸が標的を捉えれば、最高射撃角度90度まで撮影可能な非常に大きな撮影視野で撮影される。
 戦闘の後、フィルムは、イギリスの戦闘機基地の標準装備品である長テーブルに固定された特殊なプロジェクターで、1コマずつ映写される。目盛のついた銅のレールがテーブルの端から端に伸びており、角度表示付の回転台に載せられた1:72スケールの敵機の模型を滑らせるようになっていて、スクリーン正面の中心に照準器のサークルが描かれた。模型は映写機の光の中を移動させ、模型の影がガンカメラの像とぴったり重なるように調節する。そして、レールの目盛と角度表示器から、射撃時の距離と角度が算定できるのである。戦闘報告には、この時のおおよその速度が記載出来るし、機銃弾の弾道を調べて、射撃時の見越し修正角度が適切だったかどうかも判断できる。ガンカメラは悪魔的に正確であり、弾丸の命中もここで確認できる。機関銃弾や徹甲弾の命中は、その時に目に見えるしるしがあるとは限らないからだ。
 ガンカメラはまた、大砲その他の地上目標の特定や、敵の新兵器発見にも使われる。このため、戦争中を通じて搭載カメラの性能向上の努力は続けられた。ホーカー・テンペストは一秒36コマの35mmカメラを装備しており、スローモーションの画質が良くて鮮明度も高かった。しかし、そうは言うものの、敵機撃墜の確認には、敵機全体がその場で破壊されていない限り、例え火災や爆発が完璧に撮影されていたとしても、他のパイロットによる目撃や情報部による確認が必要だった。「カメラオンリー」のボタンを押して後を追い、敵機が墜落する様子を撮影することも出来るが、こういう行動を取れば敵機にとって非常に容易い標的になるので、自身の責任において行うべきだ。
 敵機への命中弾と、とても帰投出来そうに無い損傷がはっきり映っているにも関わらず、墜落の場面やパイロットの脱出などが撮影されていなかったり、目撃されていなかった時は、「不確実撃墜(#4)」に分類される。だから、墜落が確認しにくい高高度での戦闘では、「撃墜確実(#5)」されないことがしばしばある。その上、危険を犯して命中弾を与えた敵機を追尾してまで公認撃墜を得ようとするパイロットは稀だし、そうした行為は禁止されてもいた。RAFの算定方式では、「不確実撃墜」は慣例的に「撃墜」と見なされており、それ以外は「撃破(#6)」と分類された。ガンカメラの映像は、異論の余地の無い証拠を提供していた。
 ただし、すばらしい映像は必ずしも敵機撃墜の場面ではない。実際、僕のベストショットの幾つかは射撃を外した場面であった。1944年、ノルマンディー上陸作戦の後、敵機撃墜の経験がある実戦部隊のパイロットだけが送られるという、キャットフォスの兵器訓練学校で一ヶ月過ごしたことを僕はよく覚えている。そこでは、例えば偉大な「セイラー」・マラン大佐の論評付きなどで、訓練生達のガンカメラのフィルムを見るのである。撃墜確認を受けたそれほど見苦しくない僕のフィルムをいくつか見た後、マラン大佐が言った。
「それでは、才能輝くわがフランスの友人の最新の優秀作品をお見せしよう。彼は射撃を外しようが無い敵機から、いかにして射撃を外すかを華麗に証明してくれた。」
 そして、7月6日にノルマンディ上空で戦ったメッサーシュミットBf109がスクリーンに大写しになった。100ヤード以内での撮影で、敵機の細部がはっきり見えるほど近い。そのBf109が逃げ去るまでに、僕は120発の20mm機関砲弾(#7)と数百発の7.7mm弾を発射していたが、そのような至近距離からの映像でも、確かに命中の痕跡は無かった。信じられない!
 マラン大佐は、Bf109の飛行軌道の角度と、きつい傾斜中に映った雲の動きを指摘して、僕の機体が横滑りしていたことと、射撃距離が近すぎたため、敵機に触れることなく、すれすれのところを通り過ぎたのだと証明した。
 マラン大佐は、混乱している僕にさらに付け加えた。
「君は『撃破』を申し立てていたが、認められなかったのは極めて正しい。」
 次の日彼は、「不確実撃墜」と分類された7月2日のノルマンディ上空のFw190のフィルムを見せて、「撃墜」と訂正されるだろうと言って僕を慰めた。
 教育の面でも、ガンカメラには大きな利点がある。フィルムは、戦闘機パイロットの最も重大なミス(遠すぎる射程から撃つよりもまだ悪いミス)を明白に証明する。「スナップシューティング snap shooting」と名づけられるそのミスは、抗うのが難しい誘惑である。これは、よりよい射撃位置に付こうとせずに、とても射撃が命中しそうにない敵機に対して発砲することだ。確かに、射撃位置につこうと機動すると、とても危険な何秒間かが無防備になる。もし僕が、発砲した敵機をすべて撃墜していたら、撃墜数は少なくとも100機になっただろう。しかし不幸なことに、僕も多くの戦闘で「スナップシューティング」をやってしまったのだ。もう一度言うが、ガンカメラのフィルムはこうしたミスを証明するのに十分すぎる証拠となるのである。
 反対に、602飛行中隊の僕の友人であるブルース・オリバーとジャック・レムランゲルのフィルムは、1944年の7月17日に、彼らがまさしくロンメル将軍が乗った自動車を銃撃したという証拠になった(#8)。


8月19日
 Le Crotoy上空での戦闘機掃討任務。僕達は、ありもしないドイツ軍戦闘機を追ってあちこち飛び回った。レーダー管制は適切に働いていなかった。

8月23日
 34機のマローダーが再度ポアを爆撃した。離陸中の敵戦闘機に奇襲しようという意図の下、僕達は、低高度-10,000ft-で先行した。運は無かったが、対空砲だけはしこたまあった!我々の左側を飛んでいたB26が被弾し、炎の塊と化してゆっくりと墜落して行った。パラシュートは開かなかった。

8月24日
 60機のB-17がEvreuxを爆撃した。この時、Fauvilleのフォッケウルフは、自分たちの縄張りを防衛する用意をしていた。乱戦の中、我々はパリ郊外から遠からぬところまで引きずられた。遠く靄の中にそびえ立つエッフェル塔も見えた。みんなあらゆる方向に撃ちまくっていた。611は2機のFw190を撃墜した。我々はどうにか2、3の敵機に損害を与え、僕は命中しても大した損傷を与えられそうに無い遠距離から1機を撃った。帰投した時、ちょうどイングランドに霧がかかり始めていた。燃料も不足していたので、無線は嘆きのうめき声でいっぱいだった。

原注
*これは、アメリカ第8航空軍の最初のシュバインフルト空襲のための、ドイツ軍戦闘機を欺瞞するための牽制作戦だった。実際のところは、JG-2の戦闘機は朝の内に北東に移動していて、B-17の帰途を待ち伏せしていたことは周知の事実である。

訳注
#1 原注に付け加えるのもなんですが、補足。この日の作戦は、第8航空軍は、シュバインフルトのボールベアリング工場とシレーゲンスブルグの航空機工場を同時に空襲し、攻撃後は帰途で待ち伏せしているであろう敵機から逃れるため、北アフリカに着陸する予定でした。レーゲンスブルグに向かった部隊に関しては上手くいきました。しかし、悪天候のためにシュバインフルトに向かう部隊の離陸が大幅に遅れたたため、レーゲンスブルグ部隊の帰途を待ち伏せていたドイツ軍戦闘機の中にモロに飛び込む結果となったのでした。
#2 William Faulkner (1897-1962)アメリカの作家。
#2 クロステルマン氏の初戦果だった。この章は時系列通りに並んでいないのでご注意ください。
#4 原文では'Probable'
#5 原文では'destroyed'
#6 原文では'damaged'
#7 片銃60発だから全弾である。
#8 ロンメル将軍は重傷を負った。


『気象偵察』

 ルフトヴァッフェの戦闘機をおびき出すことに失敗するアメリカの爆撃機の護衛という任務にも関わらず、1943年の麗しい夏は僕にとって確かにそう悪いものではなかった。フォッケウルフは奇妙なゲームをやっている。フランスかベルギーにある多数の小さな飛行場でカムフラージュされたまま強情に地上にへばりついているか、突然行動を開始して、大挙して襲い掛かってくるかのどちらかだった。
 僕はたいていマルテル大尉の二番機として飛んでいたが、ムーショット少佐と飛ぶことも多くなっていた。特に5月17日以降は。
 その日僕は、敵機に射撃を浴びせているムーショット少佐に忍び寄っていた2機のFw190を僕が追い払ったのである。そのFw190は今にもムーショット少佐を撃墜しそうであり、そいつらを射撃できる位置につく余裕は無かった。そこで僕は、エンジンのブースターを始動し、警告を叫びながらFw190に狂人の如く襲い掛かった。連中は僕を危険な愚か者と判断したらしく、衝突の恐怖から獲物をあきらめて、瞬く間に方向転換した。ああ、Fw190のエルロンのすばらしさよ。とは言うものの、その2機のFw190の内の1機は、僕の真後ろに回りこんで射撃を浴びせてきた。100ヤードも無かったが、奇跡的にも射撃は外れた。

8月25日

 この日の朝は、麗しい夏の太陽が水浸しの英国の草地を暖めた結果として、ナイフで切れそうな濃い霧が出ていた。この日は作戦が無かったので、分散待機所に行く前の朝7時に、僕達は静かに朝食を食べることが出来た。
 611飛行中隊が三十分待機についていたので、運が良ければ僕らは一日休みになるだろう。ロンドンが、ポケットの金と一緒の冒険行に僕らを呼んでいる。彼女とのベッドや、面白い本などその他の楽しみも手招きしている。
 「モノポリー」をやったり、隅っこでこっそりとポーカーをやったりしているうちに、8時半になって、作戦士官が「待機解除」と電話してきた。
 安堵と喜びの声か上がった。待機所のドアは、外へ出ようとする騒がしい連中にとっては狭すぎる!マーシーとマルキ(#1)はオートバイのエンジン音を響かせて姿を消した。
 僕達は、自分達の飛行機から数ヤードのところの小屋で暮らしており、着替えに戻るため僕は自転車に向かって歩いた。この後どうするか?釣りに行くのは問題外だ。僕がよく行く川の地主に話を通すには遅すぎたし、どちらにせよ、暑すぎてマスは餌を食わないだろう!残る選択肢は、ロンドンか、フランスの本もたくさん置いてあるブロムリーサウスのYMCA図書館だ。
 片足を地面につけ、片足を自転車のペダルに置いて考え込んでいると、ムーショット少佐の小さなグリーンのヒルマン(#2)が僕の隣に停まったので、びっくりした。
 敬礼の交換の後、ムーショット少佐が尋ねた。
「クロステルマン、今日は何か特別な予定はあるのか?」
 僕が返事をする前に、少佐は付け加えた。「もし無いなら、私と一緒にフランス上空の『気象偵察』に行かないか?」
 もちろんご一緒しますとも!訳知り顔の少佐の微笑みから察するに、何も言わなくても僕の答えが分かったらしい。
「オーケー。自転車は置いとけ。地図を取って来い。この車で作戦室まで行こう。」
 気象偵察とは、「ルバーブ(#3)」ミッションをとんでもない事だと見なしているRAF司令部の苦労性な人々をなだめる婉曲な言い回しであり、多くはその場の思いつきによって、フランス全土に対して行われていた。
 普通ならムーショット少佐は、任務の準備段階に関して大きな関与が出来るのだが、しかし、僕達が作戦士官のところに着いた時、この任務に関して、上層部がまた別のアイデアと目的を持っていることがすぐに見て取れた。そんなわけだから、不運にも即興性を発揮する余地はもはや無かった。少佐は僕に座っているように合図すると、情報士官の執務室に入って行き、数分後に戻って来た。彼の手にはメモ用紙があり、壁の大きな地図のところに行って、僕を呼んだ。
 これは確かに『気象偵察』が第一だったが、もう一つの任務が、こうしたフリーミッションの基本的な誘引要素である自由な行動を制約していた。情報士官の説明では、ドイツの装甲旅団の重装備が鉄道で輸送中であり、その列車がこの三晩ほど、ルーアン−ブーベイル線のSommeryのトンネルに守られて停車中であり、爆撃や破壊工作で損傷した線路の修復を待っているとの情報、恐らくはフランスのレジスタンスからだろうが、が送られてきたと言う。この輸送列車は、利用できそうな悪天候があり次第、再び目的地に向かって南下を開始することは確実だった。
 僕は地図のSommery近辺を覗き込んだ。この大きな壁の1:50,000の地図は、北はロンドンから南はパリまで、イングランド南部、フランス北部、ベルギー、オランダ、ブルターニュ、ルール地方をカバーしている。僕はそこで、Sommeryが、アヴェヴィル、アミアン、ブーベイ、ルーアンの四拠点を結ぶ四角形の真ん中にあることを見出した。まさしく、ハチの巣のど真ん中である!地図の赤いマークは、対空砲の危険地帯と航空基地の所在を現していた。航空基地のところには、白い四角の中に敵機の機種と数、部隊の番号が書き込まれている。何であれ、この地域の防備が十分だということが確認できた。
 6ヶ月前は、敵の活動はもっと活発だったのである。しかし、いくつかのメッサーシュミットBf109の部隊が、ルフトブァッフェに高価な犠牲を払わせ始めていたロシアに対処するため、東部に転出したのであった。それにも拘らず、この地域には十分に多くの戦闘機があり、腕の良いパイロットが飛ばしている合計300機程度の戦闘用航空機があった。JG-26、「シュラーゲター」の名で知られ、ガーランドやエーザウ、昨今ではプリラーが指揮している黄色い機首のFw190がアベヴィルを基地としていた。「アッシ」・ハーン(#4)とJG-2は、ボーモント・ル・ロジェーにいる。グラーフ(#5)は7月27日のBussacの冒険以来、ずっと南にあるJG-52の担当区域に戻っていたが、しかしまだ何中隊かがこのエリアに派遣されたままになっている。
 ムーショット少佐は言った。
「そういうわけで今回は、どちらかというと特に固定されたルートの偵察だ。われわれはTreportの少し西でフランス海岸を越え、Bresle渓谷に沿って飛行する。ここはAumaleに行くには良い地上参照物だ。そこで針路を変えて、方位270度に向かう。Neufchatelで、左に旋回して線路に沿ってForgesまで飛ぶ。右手の森の中に別の線路が見えるだろう。その線路は、Sommeryトンネルが通っている丘まで通じている。そこでは、トンネルの入り口付近だか出口だがで、車両、特に戦車を運んでいる無蓋貨車の列車を見つけなくちゃならない。もし予想通りコンボイがそこにいたら、アップルドールかグラスシード(#6)をC周波で呼んでる『ビッグボーイ』と伝える。それから我々は、機関車を破壊できるかどうかやってみる。タイフーンかロケット装備のハリケーンが列車を攻撃するまでの時間を稼ぐためだ。もし午後も悪天候が続くようならな。もし天候が回復するのなら、ボストン爆撃機がカタをつけるだろう。この作戦には、モスキトーが無線中継に使われる。」
 これが僕達の遠足の真の目的であった。輸送中の装甲車両の存在を確認し、特にその中に新型のティーガー戦車が無いかどうか調べる。僕はティーガー戦車を知っていた。ナマで見たことまではなかったが、情報部の写真でその威圧的な戦車を見知っていた。イギリスのマークIV戦車はずっと小さく、車高も高い。
 車に戻った時、ムーショット少佐が付け加えた。
「戦車を撃ったりして時間を無駄にするな。20mm弾は戦車の装甲板に対して何も出来ない(#7)。もし君がティーガーをはっきり確認できたら、数を数えてアップルドールに手短に報告しろ。『ビッグボーイズ!ビツグボーイズ!』ってな。情報部の連中は『旅団』と言っていたから、多分、装甲車両の中のティーガーは10両から12両くらいだろう。もしも、あくまでもしもの話だが、君が機関車を撃つのに良い位置につけていたとしても、頼むから銃撃は一航過だけにしろ。我々は帰投しなくてはならないんだ。オーケー?」
「私は低空を飛んでいる間、君は私の右側150フィート、もし視界が許せば300フィートのところを、障害物があった場合に備えて、常に30フィートから50フィート高く平行して飛ぶんだ。片目は私のほうに、もう片方の目は空を見ていろ。君はまだ知らないだろうが、どこにでも狂った、攻撃的なフォッケウルフが暴れまわるかも知れないからな。」
「もし目標を達成した後や、その他の理由で別れ別れになってしまったら、フランスのどこであろうと進路を330度にして帰れば、イギリスの海岸の地物目標を見つけられる。もし本当に現在地が分からなくなったら、D周波でゾーナを呼べ。連中が基地まで誘導してくれるだろう。どこであろうと雲底の下に留まれ。計器飛行はするな。サリー州の丘陵を越える危険を冒したくなければ、目に入った最初の飛行場に着陸しろ。プリマスとマンストンの間にはたくさんある。」
 
 ムーショット少佐のブリーフィングはいつも細部にわたるまで精密であった。彼は同じことを何度も繰り返すことを好む。少佐はいつも、すべてを注意深く考えて、代案も用意してあり、航法も記憶していたので、彼とともにいれば確信的になれた。単なる軽騎兵旅団の全速突撃ではない。笑える面白さは無いが、明らかに安全だと思えた。
 打ち合わせるべきことを全部話した後、僕達は自分の機体に戻った。僕は少佐がスピットファイアにパラシュートを乗せるのを手伝った。少佐がひどく疲れているように見えたので、何も言葉をかけられなかった。彼の目は血走っており、周りにクマが出ていた(#8)。
 先週、僕が彼のオフィスで隊の日誌にイラストを描いている時、少佐は言った。
「この夏が終わったら、私は長い休暇を取る。シンクレア夫妻(航空大臣のサー・アーチボルドとレディ・シンクレア)がスコットランドの自宅に招待してくれている。マルテルかブーディエなら、2、3週間私の代理を務めるのは簡単だろう。」
 僕たちは翼を並べて離陸した。少佐の操縦やスロットル操作はいつもライトタッチなので、後を追うことが簡単だし燃料の節約にもなる。
 このような霧の中では、僕はいつも陸上よりも海上の飛行を恐れていた。霧の低層では、空と海の区別が付きにくいからだ。時速300マイルで海面に突っ込めば、生き延びるチャンスはほとんど無い。
 僕たちは突然、白く泡立つ大きなトレイルの上に出た。青緑色の海峡の海にやけに目立っている。多分、大きな船のものであろう、がらくたや塵芥も波間を漂っており、カモメの群れがたかっていた。僕達は避ける間もなく、カモメの群れの中に突っ込んでしまい、無事に通りぬけられたのは、ただただ奇跡であった。僕が軽く接触しただけで、カモメは血まみれにの白い羽毛の塊となって、スピットファイアの後方に墜落していったに違いない。ラジエーターやプロペラ、特にブレードの部分は脆弱である。海上で低空飛行中に故障が起きた場合、生き延びることが出来るのは非常にまれであり、スピットファイアで不時着水する羽目になったら、99%の確率の死が保障されている。あなたがこういう事態に遭遇するほど不運だったなら、300マイルの時速をためらい無く高度に変換し、風防天蓋を投棄して、エルロンが効く対気速度を保っている間に、スピンに入らないように注意して背面飛行に移るのがうまい手順だ。そして機体から飛び出し、直ちにパラシュートのリップコードを引いて、早く開傘してくれることを祈ることになる。
 僕は頭の中でこの手順を繰り返しており、海峡を越えるときはいつも、楽しいことは何も無かった。海峡の真ん中ではいつものことだが、翼下にうねる波とともに、ロールスロイス・マーリンエンジンの朗々たるすばらしい響きが、急に聞いていて心配になるような調子に変わるのである。勿論、こんなエンジン音の変化など、不安から来る僕の想像の産物に過ぎないことは分かっているのだが。
 危ない! 僕は思わず、神聖なる無線封止を破りそうになった。小さな煙突とマストを持った、黒く背の低いシルエットが霧の中からぼんやりと現れたのだ。僕達は、ここにいる用は無いはずのこのイギリスのトロール船を回避した。
 海を越えている時に護送船団に出くわしたりすれば、例えフルスロットルだったとしてもどこへもたどり着けない。なぜなら、連中は飛んでいるものが何であれ、直ちに射撃を始めるからだ。作戦士官は、僕たちのルート上には何もないと請合っていた。それで全てなら結構な話だが、この霧を利用して他の港に移動しようとするドイツ海軍の対空砲船に偶然出くわすことも大いにありえた。もしあなたが、91飛行中隊の危険な狂人達、マリドールや、ジャコ・アンドルースのような対空砲船狩りを専門にしているのでない限り、連中は避けたほうが賢明である。我がロイヤル・ネービーの艦と出くわしても同じことだ。連中は、近寄ってくるもの全てに花火を浴びせてくる。
 海峡を渡り始めて18分、フランスの海岸もそう遠くない頃、僕達は増加タンクを落とした。ドイツ軍の早期警戒レーダーの電波が干渉するジージーという音が、ヘッドセットににぎやかに響きはじめる。間違いなくBrunevalにある新しい大型ウルツヴルグ・レーダーだろう。僕達は、レーダーで位置を捉えるには低すぎる位置を飛んでいるが、対空砲は僕達を待ち構えているはずだ。長銃身の20mm対空砲は既に、僕達が隠れている霧の中に探りを入れているに違いない。
 対戦車バリケードと小さなホテルのある浜が現れ、左手にはLe Treportの町がある。僕たちは地表レベルの高度を保ったまま、市街地を避けるために方向を変え、Breseleを見つけた。その後、いくつかの小川や、一連の池や沼沢地が続いていた。そうした湿度はもちろん、渓谷の視程を広げるものではないし、あちこちにあるポプラの群落のおかげで、既に充分悪い視界がことさらに悪い。僕たちはまた、高圧線に注意しながら、いつでも死のワナになりかねない丘を次から次へと飛び越えた。
 雲底はせいぜい150ftで、視界は半マイルも無い。僕達は時速340マイルで飛んでいた。何か障害物を見つけた時でも、危険かどうかを判断して、回避行動する余裕はわずかしかない。僕はほんの少しだけ高度を上げようと試みたが、そうするとすぐに雲の中に入ってしまったので、また高度を下げなくてはならなかった。ムーショット少佐は全体を見張ることが不可能であり、見捨てることは出来ない。ただ幸運にも、この天候はメッサーシュミットがベッドから出てこないことも意味していた。
 Aumaleだ!
「右に急旋回」
 これが、離陸したから始めてムーショット少佐が発した無線だった。彼はロールして、僕の下に滑り込んでいった。少佐の機を見失わないように、僕も急旋回をする。もしドイツ人たちが僕達を探知していたならば−僕はそう疑っていたが−、この針路変更によって、ドイツ人は僕らが引き返したと考えたのかも知れなかった。AumelからNeufcatel-en-Brayまでは2分30秒で、それから僕達は左に180度旋回した。グッドタイミングだ! Sommeryはその場所から一分と離れておらず、トンネルがある丘の東に通じている線路を発見しなくてはならない。あった!僕達は線路を直角に飛び越えた。トンネルのこちら側には何も無かった。雲の中で危険な旋回をして、丘の反対側に行ってみると、トンネルの黒い出口から2,000-3,000ヤード離れたルーアンに向かう線路上に、霧の中に消えていく機関車の吐き出す白煙と、そいつが曳いている長い列車が見えた。列車は蛇行しており、半分ほど土手に隠れている。予想したのと違う方角だった。
 旋回すると、ムーショット少佐だけが射撃位置につくことが出来た。少佐の機から排出される薬莢の滝と、発砲する火炎が見え、奇跡の中の奇跡で、機関車と炭水車に弾着が見えた。
 突然、対空砲が現れたので、それ以上見ている余裕は無かった。列車の真ん中に閃光が見え、さらに土手にも別の対空砲がある。
 わずかな回避行動を試みるにも遅すぎたので、僕はただ縮こまって、目もくらむような曳光弾や爆発の中を通り抜けた。こぶしを胃の中に飲み込んだようだった。実戦に参加するようになって初めて、僕は対空砲に被弾した。恐ろしい爆発音が主翼の中に響き渡り、敵も十分満足してであろう近距離からの砲弾の破片と衝撃波が、カタカタと音を立てた。僕はパニックを起こした敵の攻撃を受けていた。なぜ僕が真下に現れた信号所と管理小屋にぶつからなかったのかは神のみぞ知るだ。ゴールデンパールのネックレスのような曳光弾の閃光が目に焼きついた。そうした曳光弾と曳光弾の間には、4発の見えない砲弾がある。それでも僕は霧の中の安全地帯の中に飛び込み、それまでに無蓋貨車に載せられた車両を確認できた。列車の真ん中に防水布で覆われた巨大な車両が3-4両あった。僕はついに、覆いの無いタイガー戦車を発見した。貨車からはみ出している威圧的な格好、四角い、広いキャタピラの上の低い車体、そして大きなマズルブレーキのついた巨大で長い砲身。間違いなくタイガー戦車だ。 
 カラカラに渇いた喉で、僕は無線に向かって叫んだ。
「アップルドール、アップルドール、ビッグボーイズ、ビッグボーイズ!」
 ムーショット少佐が報告するのも聞こえてきた。
 海峡の上空30,000ftを飛ぶモスキートに中継されたVHFを低空で受信したため、声は遠かったがベルのように明瞭な感度で返事が聞こえてきた。
「こちらアップルドール、メッセージは受信した。感謝する。」
 僕の機のエンジンはまだ回り続けており、温度も正常で、操縦系も反応していた。深刻な打撃ではなかったに違いない。
 しかしあの場に戦車は何両あったのか? 僕には証言することが出来ないのだが、もう一度戻って数えるなんてことは問題外である。全てはほんの数秒間の出来事だったが、腹の底からわきあがった恐怖で歪められた、混乱したイメージ以外は何も覚えていない。
 対空砲火はまだ続いていた。曳光弾がいたるところに飛び交っている。小さな炸裂が僕の機を追ってきたが、低い雲の中に入ると、さざ波のように消えていった。
 息が切れ、口の中に苦味が広がっていた。僕はムーショット少佐を探した。天候はわずかながら良くなっており、少し高度を上げることが出来た。少佐のスピットファイアを見つけた僕は、旋回して編隊を組んだ。僕は機関車を見分けることが出来たが、そいつは今や動いておらず、黒と白の煙に包まれており、周りに蟻のような人だかりが出来ていた。
「こちらターバン。機間を開け。帰投する。」
 ムーショット少佐が僕に言った。
 徐々に僕は呼吸を整え、外見上の平静を取り戻すことが出来た。20mm弾の炸裂−まさか37mm弾が命中したのか?−は、僕の左翼機関砲周辺の前縁をコショウ入れのように穴だらけにしていた。スピットファイアは強靭ではあるが、降着装置を収納する場所に被弾していた。降着装置に被害はあるのだろうか?
 西に向かって飛んで海岸に向かい、急いでEtretatを越えた。とうとう海峡だ!輝く曳光弾が飛び回り、油のような海の中に消えていった。これは有名な崖のてっぺんにある対空砲陣地が僕らに対して撃ってきたものであり、射程外に逃れるまで、我々の海水の飛沫が僕達にかかった。ドイツの37mm対空砲のクリップから撃たれる5、6発の連射の断片が、僕達の後ろに無益に破片をまきちらしていた。海峡の中ほどに来ると、天候少し回復しており、僕達はビーチー・ヘッドに向かって北に進路を取り、漁師達が激しく三色旗を振る二隻のフランスの漁船を飛び越えた。
 イングランド上空では、既に消えつつあった霧の中から太陽が輝き始め、ビギンヒルでは太陽が照り輝いていた。場周経路で、僕はムーショット少佐に被弾したことを報告し、降着装置を確認してくれるように頼んだ。少佐は、降着装置を降ろすように言った。
「水平姿勢で直進しろ」
 少佐のスピットファイアが僕の下に滑り込んだ。全てOKと思え、降着装置がロックされていることを示すグリーンのランプが点灯した。
 とは言うものの、僕は注意深く着陸した。左の脚とタイヤに負担をかけないように、右翼を下げ気味にした。全て上手く行った。ヒューヒュー!
 スパイ(情報士官を指すRAFのスラング)が僕たちを待っていた。機付長がムーショット少佐を機から助け降ろし、僕は彼らに合流した。ムーショット少佐は気分が悪そうで、彼の引きつった、青ざめた顔、深く刻まれた酸素マスクの痕に僕は衝撃を受けた。少佐は僕の様子に気が付いたに違いない。
「オーケー、オーケー、大丈夫だ、クロステルマン。」
 いつものように思いやりのある言葉だった。
 情報士官が少佐から事情聴取している間、僕達は機体の損害を調べていた。ひどくびっくりしたことに、翼に被弾した穴が確認できなかった。しかし、たくさんの小さな穴と亀裂がある。これはちょっとしたミステリーだった。射程の限界で37mm砲弾が自爆したからだろうか?もし砲弾がそのまま直撃していたら、翼が脱落していただろう。運命の不思議であろうか・・・。
 食堂から電話があり、僕が良ければ暖かい食事を用意すると言う。
 お茶、ソーセージ、タマゴとチップスは不運にも暖め返したものだった。WAAF(#9)の給仕を除いて食堂に人は居らず、彼女は親切にも僕にいろいろ話しかけてきた。僕は何とか、腹いっぱい食べた。
 僕は再び、生まれ変わるような体験をした。結局のところ、任務の緊張とストレスの後、胃の底からこみ上げてきたわずかばかりのすっぱい胃液以外は何も残らなかった。しかし僕は、いつかは対空砲が僕を吹き飛ばしてしまうかも知れないことを知った

#1 13機撃墜のエース、ロベール・マルキのことか?
#2 自動車
#3 rhubarb (植物のダイオウの意味)。戦闘機のみによる低空進入/銃撃任務の暗号名で、受けた損害の割には効果は低かったようである。
#4 ハンス・ハーン少佐 (Hans Hahn 1914-1982) 撃墜数108。
#5 ヘルマン・グラーフ大佐(Hermann Graf 1912-1988 撃墜数212) のことと思われる。最初に200機撃墜を達成した人。ただし、彼は当時確かにBussacの基地にいたが、その部隊はJG-50である。彼に関するクロステルマン氏の記述はいささか不正確である。ちなみに、グラーフ大佐は戦後はソ連で捕虜生活を送り、共産主義に同調したとの非難を浴びて西ドイツのパイロット仲間から排斥されてしまったが、これは上記のハンス・ハーン少佐が、著書の中で不正確な伝聞を元に中傷したのが原因である。
#6 管制室の名前
#7 アメリカのパイロットは、弾丸を地面にバウンドさせて装甲の無い車体下面を攻撃することで、13mm弾でも戦車を破壊できると主張している。
#8 なんで車の中で気づかなかったのか、というツッコミはさておき、クロステルマン氏の危惧は的中し、この二日後の8月27日にムーショット少佐は戦死する。
#9 空軍婦人補助部隊

 この後の章では、ムーショット少佐の戦死と、レーダーの調整に伴う飛行中に偵察機を撃墜する話が語られる。また、1946年になって、身元不明遺体として回収されていたムーショット少佐の遺品と対面するという場面が付け加えられている。



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