フランスの陥落
1939年10月
僕は熱したレンガの上のネコのようにじりじりしていた。1941年の10月、つまり僕がフランス共和国空軍(Ecole de l'Air)に入隊できる年齢に達する日、を来世紀の到来であるかのごとく待っていた。僕は毎日、アメリカ合衆国、カリフォルニア州のサンディエゴ(#1)の上空を飛びながら、曲技飛行の練習をしていた。しかし、ライアンST(#2)は、僕が夢見ているカーティス(#3)や、ドボアチン520(#4)では無い。僕は志願する資格を得るまで、まだ18ヶ月を待たねばならないのだ。
1940年6月-7月
全てがばらばらに崩れ去った。口の中が灰を詰め込まれたようだ。大西洋の向こうから迅速に破滅のニュースが到来するとともに、僕達のような国外のフランス人は恥辱、フランス本国が感じているのと同じ恥辱を感じると共に、ド・ゴール将軍が憤怒とともに引用したクローデル(#5)の悲劇の詩が頭の中に響いた。
私は非常に多く苦しみ、非常に多くのことが私にふりかかった
全ての打撃や殴打を数えることはいまだに出来ない
私は老人であり、過去に多くの物事を経験してきた
しかし私には、恥辱に耐える用意は無かった
僕はこの恥辱を十分に経験し、自分が祖国のために戦うチャンスが完全に奪い去られたと思った。
それは、ブラジルに居る父から手紙を貰った時だった。タイムやライフなどのアメリカの週刊誌や日刊新聞で、ド・ゴール将軍のロンドンからの抗戦継続のアピールに言及している記事を探して欲しいという。僕は大学の図書館でワシントンポストのコピーを見つけ出し、そこからド・ゴール将軍に関する小さな記事を切り抜いた。記事には、悲しみと厳しさを併せたような表情の、将軍の階級章のあるケピ帽を被った男性の写真が添えられていた(#6)。僕は切り抜きをリオ・デ・ジャネイロの父の下に送った。
すると一ヵ月後、父から別の手紙が来た。それによると、父はブラジル駐在空軍武官のヴァラン中佐(#7)とともに、アフリカかロンドンに居るド・ゴール将軍と合流するつもりなので、母とヴァラン夫人のことを頼む、と書いてあった。父は僕に、母とヴァラン夫人をブラザビル(#8)に送り出すように指示しており、僕自身に関しては、まだ若いが国のために何か出来るチャンスはそうそう無い。だから、至急ロンドンの自由フランス軍に合流して欲しいとあり、更に、二度目のチャンスに恵まれなかった歴史上の人々に関して付け加えていた。
マリブーの海岸に座って、僕は父の手紙を何度も読み返した。戦争は遠いところの出来事に思えるのだが、その時僕は、他に選択の余地が無いことも知っていた。僕は父のために戦争に行くべきであり(*1)、母のために生きて戦争から戻らねばならなかった。僕はまだほんの子供なので、戦争に行くことを母はどう思うだろうか。両親はアルザス、ロレーヌ、つまり住人が常に時代の犠牲者にされていた地の出身だった。私は少年の頃、ニーダーブロンのデ・ディートリヒ工場近くの道路脇に立てられた石碑を見に連れて行かれたことを思い出した。それは、僕の先祖の事跡に関する碑銘を刻んだ、ささやかな奉納物だった。
「ジョージ・クロステルマン中佐、1870年、Reichoffenにてミカエル旅団の突撃中に死す」
僕は英国王室空軍(RAF)の戦いぶりに関する記事を読んで、進むべき道を決めた。ドボアチン520では無く、スピットファイアだ。パリでの学校時代、ギンメル、フォンク、ナバール(#9)らのエースパイロットについて読んだ時の興奮が僕の心によみがえりつつあった。ともかく、僕はイギリスに行くことを望んだ。
決心がついた後、僕はカリフォルニア工科大学の学部長に会い、僕の決意を話して、早期の学位取得の問題を相談した。学部長は笑顔で僕を迎え、僕がブラジル人だと思っていたと驚いた(*2)。彼は英国への共感を口にし(彼のようなアメリカ人はまだ多くなかった)、僕の学位授与に関して教育委員会に相談してみようと言ってくれた。それに、僕が学位取得に必要な履修単位を全て取得していたことは、前年の内から学部長に知らされていた。
一週間後、僕は厳しい口頭試問に望んだ。主査はドナルド・ホール。カリフォルニア工科大学の航空学科である、ライアン・カレッジの学長だ。ホールは、チャールズ・リンドバーグの「スピリット・オブ・セントルイス」を設計したエンジニアであり、僕の航空学(aeronautics)と流体力学の教授であった。試験は上手く運び、僕は航空工学の学位を授与された。僕の商業パイロットの免許にもまた、CAB(Civilian Aeronautic Bureau アメリカ民間航空協会)のスタンプが押され、315時間の飛行時間が僕のログブックに記入された。
これで、僕をアメリカにとどめておくものは何も無くなった。僕は急いでリオ・デ・ジャネイロに向かわねばならなかった。これは簡単なことではなかったが、ホール教授が、当時はパンナムの副社長だったリンドバーグに手紙を書いてくれたので、試験の一週間後、マイアミからリオまでの無料航空券が送られてきた。それには、リンドバーグからの、「グッドラック」の言葉が書かれたカードが添えられていた。
さあ、サイは投げれた! 僕はイースタン航空のDC3でサンフランシスコからマイアミに行き、マイアミからは、パナマ、ナタールを経由して、パンナムのシコルスキー水上機でリオ・デ・ジャネイロに降り立った。何か、未知のものや、未来へのジャンプしたように思えた。
四ヵ月後、僕は母とヴァラン夫人を、南アフリカ連邦を経由するルートでブラザビルに向かって送り出した。そして、孤独な悲しいクリスマスを過ごし、いくつかの出来事に遭った後、イギリス人達が僕の英国行きの手はずを整えたので、ニュージーランドの定期客船に乗りこみ、モンテビデオを発った。
原注
*1 父は、第一次世界大戦で重傷を負ったが、ミリタリー・メダル、レジオン・ド・ノール勲章、そして三つの表彰状を授けられている。
*2 身分証にはブラジル生まれと書いてある。
訳注
#1 クロステルマン氏は、当時カリフォルニア工科大学に留学中。
#2 Ryan Sport-Trainer。 単発複座の練習機で、1934年に初飛行。1942年まで生産された。ラテンアメリカ諸国、中国、オランダ領東インドなどでは軍用に使用された。メーカーのRyan Aeronautical Companyは本社がサンディエゴにあったので、搭乗する機会は多かったでしょう。
#3 アメリカ製のカーティス・ホーク75戦闘機のこと。フランス空軍に採用されていた。
#4 フランス空軍の当時の最新鋭戦闘機。イギリスのスピットファイア戦闘機に良く似た格好をしている。
#5 ポール・クローデル (Paul Claudel, 1868-1955)フランスの詩人。外交官でもあり、駐日大使も6年勤めている。なお、姉は「ガ○ダム」のカ○ーユの元ネタと言われる彫刻家のカミーユ・クローデル。
#6 ド・ゴール将軍は1940年6月22日に、「自由フランス」の設立を宣言した。しかし、彼はまだ一介の准将でしかなく、ほとんど無名に近い存在だった。だから、彼が抗戦継続を訴えても最初は反響が無く、一連のラジオ演説も感動的な内容だったが、聞いたものはごく少数であり、録音されなかったので再放送も無かったと言う。ブラジルで彼に関する記事が見つからず、アメリカでも小さな扱いだったのは当然であろう。例えは悪いが、イラク戦争の後で、フセイン元大統領が抗戦を訴えたのと同様の空しい行為と受け取られていたのかも。
#7 マルシャル・バラン中佐(Martial Valin 1898-1980)
#8 現在、コンゴ共和国の首都。
#9 いずれも第一次世界大戦時のフランス軍のエースパイロット。
イングランドへの到着
僕は、二つの黄色いファンネルで有名なニュージーランド船舶会社所属の定期貨客船、「Rangtitata」に乗りこんだ。護衛艦は無く、コンボイも編成されていない。しかし、Uボートの黄金時代が始まりつつあって、既に数百隻の連合国船が撃沈されていた。加えて、一隻か二隻の水上艦が通商破壊で活動中であり、船長が言うには、姉妹船である「Rangitiki」が、ラ・プラタ河口で自沈したドイツのポケット戦艦「グラフ・シュペー」に撃沈されているそうだ。
そこでイギリス政府は、僕が乗っているような高速船に対しては、航路を工夫することで防衛手段としていた。たとえば、アメリカ−ヨーロッパ間の航海は南大西洋を経由するように。「Rangtitata」は、南極の氷原の端までホーン岬を南に下り、そのまま進んで、アフリカの南端に到達する前に北上して、そこからはベンゲラ海流(#1)に沿って北へ向かう。重要なことは、そのあたりは南アフリカ連邦の海軍がパトロールしていることだ。
「Rangtitata」は、船倉一杯に穀物と肉を積んでいたが、45日の間、僕は唯一人の船客だった。僕は豪華な船室を使い、僕をオリンピックの選手にでも育てようかとするジムのインストラクターのたった一人の生徒であった。僕は温海水を使った船のプールで好きなだけ泳ぎ、船の三ツ星料理を食べて王侯のように暮らした。要するに、本物の天国だったのだ。
最初に訪れたアフリカの港はフリータウンで、そこは連合国の重要な拠点になっていた。僕が舷門に向かっている時、ベルベッドのように滑らかな航空エンジンの鼓動が聞こえてきた。僕の心臓は止まった。神よ!あの音が意味するのは唯一つ、ロールスロイスエンジンだ!
僕はブリッジに急ぎ、船のマストの間から港を凝視して、ハリケーン戦闘機を見分けた。それは、僕がナマで見た最初のRAFの戦闘機だった。ハリケーンは垂直に空に昇って行った。僕の頭上から、エンジンの咆哮が聞こえて来る。そして突然、一つの想念が浮かび上がった。そうなんだ!僕の子供時代は終わったんだ。そして僕は、自分が急速に成長するであろう場所、戦争の世界に頭から飛び込んだのだ。
それからと言うもの、全てががらりと変わってしまった。まるで別世界に入り込んだようで、戦争は、もっと明白で、危険なほど身近に感じられるようになった。フリータウンで船はコンボイに合流し、それから僕は、手にはライフジャケットを持ち、書類と現金が入った船医から貰った小さな防水バッグをベルトにくくりつけて、服を着たまま眠るようになった。
船が突然に兵士と看護婦の一団に侵略されたので、僕の平穏な生活は終わっていた。そして、押し包むように鈍い爆雷の爆発音や、爆雷の衝撃波でがたつく僕の洗面台のコップ、護衛駆逐艦からの耳障りなクラクションの音と命令をがなりたてるラウドスピーカーの声などの夜間の騒音に少し不安を感じた。
灰色の空に朝日が昇る頃、コンボイはリバプールに到着した。ドック近辺は廃墟と化していたので、市内が前夜に激しい爆撃を受けたことが分かった。大きな船が横倒しになったまま、油や、空から降ってくるスス混じりの雪で汚れて浮かんでいる。僕はブリッジからこの凄惨な光景を眺めた。絡まりあった消防用のホースや、まだ煙を上げている焼け焦げたトラック、波止場周辺でひっくり返っている何台ものクレーンや、色々な方向に走り回っている人々が見えた。
その後、僕は私物、スーツケースと持ってきた釣竿、をまとめるためにキャビンに降りた。その後、スチュワードが僕を止めて、待っているように言う。すると、警官を伴った防諜部(Secufrity Service)から来たらしい二人のイギリス軍士官が目に入った。彼らは僕に、もし君がピエール・クロステルマンなら、パスポートと、リオ・デ・ジャネイロのイギリス大使館が発行した旅行許可証を見せるようにと言った。そして、かなり驚いている僕に対し、どうして釣竿なんか持っているんだと尋ねた。
「これは僕が最終的な勝利を信じている証拠です。そうでなければ、こいつはリオ・デ・ジャネイロに置いてきました。」
彼ら冷静なイギリス軍将校は、小さな打撃を受けたに違いない。だが、廃墟と化し、今もまだ燃えているドックの中にあって、彼らは冗談を言う気分ではなかったようだ。僕に関して言えば、この瞬間、果たしてサンディエゴを出たことが賢明だったのかどうかを自問していた。僕が「ガイド達」についてホースの束を踏み越え、消防車のサイレンや、燃える倉庫の木の骨組みを破壊しようとする人々の叫び声や斧の音、きな臭い空気の臭いを感じている間も、マリブーの太陽の下の可愛い女の子達のことを考えていた。
彼は夜行列車を待たねばならないと言う。そのため僕は、冷房パイプ、タバコ、ビールの臭いというイギリスの警察署の独特な雰囲気を知ることが出来た。時が過ぎるにつれて、僕は空腹を感じ始めた。署の上の階に住んでいる警官が、奥さんに頼んでサンドイッチを持ってきてくれたが、少量のマーガリンとわずかなもやしだけのサンドイッチだったので、僕はしぶしぶ食べた。僕はまだ精神的に、ハンバーガーと蒸したカニが食べられるサン・フランシスコにいた。
最後に、二人の警部に腕をとられながら、僕は列車に乗り込んだ。防諜部で身元確認を受けるまでは、僕を潜在的な容疑者として考え、そのように扱うのは普通の予防措置だった。警官はすぐに車室から出て行ったので、護衛付きとは言え、僕はさながら伝染病患者のように外部から遮断された一人旅だった。列車の他のスペースは、兵士が一杯に詰め込まれていた。
キングス・クロス駅についた時、サイレンがロンドンに響き渡った。これが、僕のはじめての空襲警報だった。
訳注
#1 南西アフリカ沖の寒流
面接
駅では車が僕を待っていた。ワンズワースの「ロイヤル・パトリオティック・スクール」にある英国情報部で尋問と身元確認を受けるためで、なおも護衛付きで連行される。全ての自由フランス軍兵士や、英国で戦うために枢軸国の占領地から逃れてきた何千もの愛国者達は、1941年1月以降、この手続きを要求されていた。明らかにドイツ側は、これらの亡命者の中にスパイをもぐりこませようと試みている。ドイツ側は成功していたかも知れないが、ここでの厳密な確認手続きによって、迅速にスパイの正体は暴かれていた。
イギリス人の尋問手段はゲシュタポの同類とはかなり違っていたが、多分、ずっと効果的だっただろう。拷問は、ほとんど場合で犠牲者に傷を負わせるだけでなく、精神を麻痺させ、メンタル・ブロックを作るという欠点を持っている。一方イギリスでは、標的の信頼を勝ち取ることが試みられ、お茶とタバコに取って代わられている。ルフトヴァッフェのDulag Luft(捕虜尋問センター)もまた、ゲシュタポよりも巧妙だった。彼らは、過去の尋問の陳述だけでなく、自身で収集した全ての情報の断片を整然とファイルに分類することで、良い結果を得ていた。彼らは、例えば、飛行隊のマスコットの犬の名前なんかを、捕虜が持っている写真の裏側から見つけたりするのである。そして、以前の捕虜と同じ飛行隊のパイロットが撃墜されて捕まった時、ルフトヴァッフェの尋問担当者は、非常に丁重な態度で、知っている全てのこと、マスコットの犬の名前や、飛行隊行き着けのバーのウェイトレスの名前等を知らせるのである。これがどれほど捕虜の心をかき乱すか、じゅうぶん想像がつく(#1)。
「パトリオティック・スクール」の名で知られる建物は、-僕は「パトリオティック(愛国的)」の名をつけたのがどんな人物なのか不思議だったが-、大きな赤レンガのビルで、パブリックスクール、それもとても禁欲的なやつ、を思い起こさせた。硬質な感じのエントランスゲートの傍には、雨の中で二本の年ふりた葉の無い栗の木が、悲しげに歓迎の手を「客」に差し伸べていた。
翌朝、まだ壁に黒板がかかっている教室の、たくさんある白木の机の一つで僕は最初の面接を受けた。僕の尋問担当者は、ミリタリークロスの略綬のついた軍服を着た冷静そうな士官で、とても折り目正しく、愛想が良かった。しかし、彼が伝統に従ってお茶を僕に勧めた時、彼の微笑みが偽りだと言うことは目つきで分かった。
彼の質問は完璧なフランス語で、表面的には全く無害に聞こえた。
「君はパリで学んだそうだね?」
「イエス、サー」
「どこの学校だね?」
「ノートルダム・ド・ボローニュ (Notre Dame de Boulogne)。」
「よろしい。しかし、君のご両親はどこに住んでいたんだい?」
「パリに居た時は、ド・ランバレ(#2)の23番地であります。」
「なるほど。では、君の学校は正確にはどこにある?」
「Porte d'Auteuilであります、サー。」
「Porte d'Auteuil? よし。どの通りだね? このパリの地図で示せるかね?」
「ここです。」
「君がご両親の元を訪ねる時、どのバスに乗った? そしてどこで降りた? アメリカではどうしていた?」
これらの会話全ては、友人同士の間のもののようだった。しかし、彼が無頓着を装って、君はパリで、日曜日に映画を観に行っていたか、と質問をした時、最初のワナが具体化した。僕はイエスと答え、Orphelines d'AuteuilかRanelaghに観に行くと言った。
「ああ、Ranelaghね。パリに居た友人達に聞いたことがあるよ。大通り沿いの、宮殿みたいに豪華な、パリで一番大きな映画館らしいね。」
「ノー、ノー、正反対であります、サー。あそこはとても小さいし、16地区にあって、中は18世紀の個人営業の劇場みたいに古臭いです。」
僕はこうして、最初のハードルを飛び越えたのだった。
もしあなたが、自分でない誰かに偽装しているならば、このような尋問の間じゅう、その偽装を維持するのは極めて難しいだろう。バスや地下鉄の運賃、映画のチケットなどに関する多くの質問によって、浸透を図るスパイの多くが排除されたに違いない。
さて、そのあと僕はついに、ヴァラン司令官に電話をかける許可を得た。彼は最近大佐に昇進し、ピジョー大佐(#3)に代わって、自由フランス空軍(FAFL)の総司令官に就任していたのだ(ピジョー大佐は、ロアール航空群のブレニム爆撃機に搭乗中、リビア上空で戦死していた)。ヴァラン大佐は、三日で僕を「パトリオティック・スクール」から出してくれた。
僕が出て行く前に、寛大なことにイギリス人達は、僕をディナーに招待してくれて、そこでは、単に自分が話したいことだけを喋るために来たような、RAFの戦闘機パイロットの誰かと会った。
「ブラジルの空軍武官が、我々に君の履歴書を送ってきた。君の記録をもってすれば、簡単にRAFに入隊できるだろうし、RAFではフランスのルートよりも早く実戦部隊に配属されるだろう。君はまた、ジャーナリストとしての才能も持っているようだね。我々は、その才能を発揮してくれることを熱望している。ロイター通信が君に記事を書いて欲しいようだ。もちろん、原稿料は出るだろうから、我がフランスの友人達が払う、あまり高くない飛行手当てを補うことができるだろう。それに、君は何カ国語かを話せるようだから、BBCの連中も喜ぶだろう。現行歩合は、放送一回毎に35ポンドだそうだ・・・。」
悪魔も何もかも、この男が作ったんだろう。
既にリオで自由フランス軍に入っていたので、そうした誘いにも関わらず、僕は自由フランス空軍に入隊した。
当時、英国はRAFの活動を盛んに宣伝しており、ド・ゴール将軍配下の戦力強化には熱心ではなかったのである。一方のド・ゴール将軍は、二つの事を盛んに口にしていた。制服の問題と、フランス人はフランス人だけの部隊に!という原則である。チェコやポーランド、ベルギーその他と違い、ド・ゴール将軍はイギリス軍の制服を着ることをよしとしなかった。どんな犠牲を払っても(実際に払ったが!)我々は、大勢の中で存在を誇示するためにフランスの軍服を着用しなければならなかった・・・。コンデ公(#4)は、実行に移すことこそ無かったが、常に言っていた。小さな軍隊は大きな戦いに勝つ、と。
被服手当てと衣料品の配給切符を支給されるとすぐに、僕はリリーホワイトに行って、フランス空軍の制服を作るための寸法取りをした。学歴と飛行記録がモノを言って、僕は軍曹に昇進していたのだ。そして、僕は誇らしい気持ちで店を後にした。もう一人前のフランス人になったように感じ、それに伴う全ての権利も感じた。もし僕が義務を果たせば、と父は言っていたのだが。それが僕の思いの全てだった。
訳注
#1 これに関しては、実際に捕虜生活を経験したアメリカのエース、ジェームズ・グッドソン中佐の著書「P51ムスタング空戦記(早川書房 絶版)」や、ハバード・ゼムケ大佐の「P47サンダーボルト戦闘機隊(これも早川書房で絶版)」に詳しいです。
#2 多分、パリの南にある小さな町。
#3 シャルル・ピジョー大佐(Charles Pijeaud, 1904-1942)。なお、英文には総司令官(C. in C.)とあるが、「オスプレイ軍用機シリーズ23 第二次大戦のフランス軍戦闘機エース」によると、自由フランス空軍の総司令官職は、自由フランス海軍総司令官のエミール・ミュゼリエ中将の兼任になっており、ピジョー大佐やヴァラン大佐は参謀長の職にあって、実質的な総司令官を務めていた。
#4 ルイ14世時代のフランスの名将。
補足
ピジョー大佐について、クロステルマン氏は著書「Feux du ciel(1951, 邦訳「空戦( 朝日ソノラマ刊 絶版)」に一章を割いています。それによると、乗機を撃墜されて重傷を負ったピジョー大佐は、一度はイタリア軍の捕虜となるも、他のイギリス人士官二人に助けられて三日後に脱走、友軍に収容されたものの、1942年1月6日に病院船の中で死去したという。また、ヒジョー大佐の夫人は、ゲシュタポに拷問されて殺されたとのことです。
将軍との面会
最初の大きな興奮時に出会うまで、僕は長く待つ必要は無かった。翌日、配属先が決まるまでの宿泊所に指定されていた、徴用された小さなホテルの僕の書類受けに、短い手紙が入っているのを見つけたのだ。
『カールトン・ガーデンズまで出頭せよ。将軍が今日の1730時に君と会う。』
将軍だって? 誰かに尋ねる必要は無かった。ド・ゴール将軍だ!
僕は緊張でのどをからからにしてカールトン・ガーデンズに行った。すると、コーセル(#1)だと僕は思ったが、副官の男が、部屋に通す前に僕に疑いのこもった一瞥をくれた。
「少なくとも、敬礼のやり方は知っているんだろうな?」
僕はやって見せた。
「おや、違うぞ。見ろ、こうするんだ・・・。それから、気をつけのまま、きっちり姿勢を正して立って、帽子を取って左脇の下に挟んでいろ、将軍閣下が座れと言うまでな。もし彼がそう言わなかったら、気をつけのまま立っていろ。分かったか?」
僕は一種のトランス状態で、部屋に入っていった。将軍は、大きな世界地図を背にした机で、忙しく書き物をしていた。彼が顔を上げる。僕は、興奮し、震えながらも、完璧に敬礼した。
「かけたまえ。」予期しない親切とともに、将軍は付け加えた。「私は、君の父上を存じあげている。彼は家に帰ったが。私は、ブラザビル(#2)とフォート・レミ(#3)でお父上に会った。君の母上ともな。とても上品な女性だったよ。」
一瞬、沈黙がある。将軍は注意深く僕を見つめた。彼の目には、恐らく悲哀と思われる感情が見えた。
「私は、君が既に熟練したパイロットであると聞いている。いくつだね?」
「20歳であります、将軍閣下!」
将軍は、気まずい感じで黙り込んだ。
「けっこう。非常にけっこう。義務を果たしたまえ。だが、決して死に急ぐな。フランスは、勝利の後に君のような息子達を必要としているのだ。そう、私は勝利と言った。何故なら、我々は勝ちつつあるからだ。」
この会見を僕は決して忘れないだろう。将軍はさらにいくつか言葉を付け加えたが、感動にうち震えていた僕には聞こえていなかった。僕は立ち上がり、帽子をかぶりなおそうとして取り落とし、拾い上げた。そして、よろめくようにしてどうにか部屋を出た。
それがド・ゴール将軍と僕の最初の会見だった。
訳注
#1 ジョフロア・ド・コーセル (Geoffroy de Courcel, 1912-1992) ド・ゴールの副官。
#2 当時、アフリカのフランス植民地のうち、チャド、コンゴ、ウバンギ・シャリ、ガボンは「フランス領赤道アフリカ連邦」を構成していて、ド・ゴール支持のチャドの総督が1940年8月にコンゴの首都ブラザビルを占領していた。しかし、ド・ゴール将軍がダカールのビシー支持派の説得に失敗して戦闘となり、イギリス艦隊が大損害を受けて退却したニュースを知ったカボンがビシー支持に寝返ったため、自由フランス軍はガボンに侵攻し、10月12日から11月21日までフランス人同士が戦った。
#3 チャドの地名。Fort-Lamy
クランウェルでの訓練
一週間後、僕は長く厳しいRAFの身体検査を受けた。その翌日、僕の英語力を調べるための面接が行われた。よし、アメリカのアクセントがあるかもしれないが、僕の文法は正しいはずだ!その後、315時間の飛行時間と、本物のCABのスタンプが入った僕のログブックが調べられた。面接官達は大いに感銘を受けた様子で、僕を教官としてローデシアかカナダに配属しようと言い出したので、僕は断固として拒否した。戦闘機部隊に配属されて敵と戦うと言う目標まで、僕はまだ道のりの半分にも達していなかった。
まず最初に、初等飛行試験を受けるため、僕はサイウェルに送られた。そこには既に、教官を含めて三人のフランス人パイロットが居た。ジャック・レムランゲル(#1)はそのヒナ鳥の一人で、後に彼は、僕の最大の親友になる。ジャックはすばらしい人物だった。僕の経歴もなかなかカラフルだったが、ジャックの経歴もなかなか変わっていた。彼の父は、僕の父と同じくアルザス出身であり、第一次世界大戦後、イギリスに貿易会社を所有するようになった裕福な実業家だ。ジャックは、チャーチル首相も通っていたことで有名なパブリック・スクール、ハーロー校に留学中だった(#2)。彼は天性のラグビー選手で、恵まれた体格とスピードが彼を偉大なウイングスリークゥォーターバックスに仕立て上げており、イギリスでは一部で名の知れた存在だった。
18歳になって、彼は自由フランス空軍に入隊した。そして彼は、他の若すぎるフランス人志願兵達と共に、ド・ゴール将軍から、どうやってロンドンまで来たのかという質問を受けた。フランスからの脱出は、信じられない危険を犯す勇敢さが必要だったはずだからだ。だがジャックは、気まずそうに白状したという。
「地下鉄であります、将軍閣下。」
ド・ゴール将軍も少しはびっくりしたにちがいない。
ただし、サイウェルにおいては、僕とジャックはちょっとした知り合い同士でしかなかった。いずれにしても、僕の用事は自分の飛行技術を証明するだけだったので、サイウェルに居たのはごくわずかな期間だったのだ。
僕は、5年も前に操縦を学んだタイガーモス複葉機(#3)でテストさせられたので、僕は少し腹を立てた。基地の主任教官は、僕を複式操縦装置付きの機体に乗せた。離陸する前、教官は伝声管で叫んだ。
「俺を怖がらせるなよ!(Don't frighten me!)」
だが僕は、エンジンの騒音のせいで、こう聞き違えてしまった。
「俺を怖がらせてみろ! (Frighten me!)」
それで僕は、喜んで答えた。
「やってみます、サー!」
僕たちは離陸した。
「左旋回、そして右旋回、3,000フィートまで上昇、それから、宙返りの後に螺旋効果だ。」
僕は教官に要求された空中機動をやって見せ、ベテランパイロットのように螺旋降下から引き起こした。その後、対気速度が十分に低かったので、僕は教官を怖がらせるため、機体を急なフリックロール(#4)に入れた。教科書どおりのスタイルで、コントロールを保ち、完全な水平姿勢を維持していた。伝声管から教官の怒鳴り声が聞こえた。彼は身振りで僕から操縦系を僕から奪い、機体の姿勢を戻すと、僕に操縦を渡して着陸するように合図した。僕は、タマゴの殻の上に降ろすようにそっと着陸した。
機から降りた教官は、ゴーグルと手袋、ヘルメットをはずして言った。
「よし。もう十分だ。もし俺が死ぬとしたら、後でジェリー(#5)と戦って死にたいからな。君はロンドンに戻れ。ああ、もし興味があればの話だが、フリックロールはタイガーモスでは禁止されているぞ。強度不足で尾部がもげるんだ。」
そして僕の新しいRAFのログブックの最初のページには、サイウェルでの30分間の飛行が記入された。そして教官は、「平均以上」との所見を記入した。僕のフリックロールと着陸操作に対しては、かなり失礼な所見である。
自由フランス軍への一時滞在キャンプであるカンバーレイで三週間過ごした後、僕はアストンダウンでさらに上級の飛行試験を受けた。この上級飛行試験は、600馬力のロールスロイス・ケストレルエンジンを装備したマイルズ・マスター(#6)が使用されたが、この飛行機は、僕がサンデイエゴで飛んでいたT-6(#7)よりも操縦しやすく、操縦系もより洗練されていた。コクピットの様子に慣れるのに少し時間がかかったが、その後空に上がり、30分に渡って様々な空中機動をこなした後で着陸した。
「オーケー」教官は言った。「私には他にやることがあるし、テストしなければならない生徒も居る。君は単独飛行が可能だ。30分ほど、こいつで遊んで来い。燃料に注意しろ、無駄使いするな。それから、何をしようとかまわんが、コイツをぶっ壊すな。」
僕は飛行場が見えなくならないように注意しながらも、非常に幸福な気分で飛び回った。教官達は地上から僕の飛行ぶりを見ていて、再び僕は「平均以上」と評価された。
次に僕は、カンバーレイで行進、敬礼、モールス信号などの訓練をしながら2ヶ月ぶらぶらさせられた。今や戦闘機間の通信はすべて無線通信だというのに、モールス信号がなぜ必要かは神のみぞ知るだ。僕は待って、待ち続けて、フラストレーションがたまり続けた。そこで会ったイギリス人の女の子はとても可愛かったが、僕は1904年の英仏和親協定を更新するためにはるばる何千マイルも海を渡ってきたのではない。
最終的に、僕はクイーンズベリー・ウェイの自由フランス軍司令部に呼び出された。
「よくやった!君はラッキーな男だ。イギリス人は君をRAFの士官候補に選抜したぞ!君はクランウェルの王室空軍カレッジに行くんだ!」
それで僕は、8ヶ月、つまりほとんど丸ごと一年を、クランウェルで、僕が既に知っていることを学ぶために無駄にした。その反面、ローカルナビゲーションシステムや、低視界の中での地図を読みながらの低空飛行法などは僕にとっては目新しく、不可欠な知識だった。
僕の飛行時間のほとんどは、カリフォルニアとリオ・デ・ジャネイロの陽光の下だったので、豆スープのような霧に対処する方法を教わったのは喜ばしいことだった。ああ! イギリスの陰鬱な気候を一年の四分の三も楽しんだのだ。僕達は、800馬力の空冷エンジン装備のマイルズ・マスターIIで、正気の者なら飛行不能と判断する、カラスでさえ地上に居るような天候でも空に上がったのである。
アメリカの航空部隊がイギリスに展開した時、彼らも同じ問題に遭遇した。霧に閉ざされたことのあるB17のパイロットは言った。「視界はとても悪く、隣に座っている副操縦士すら見ることが出来ないほどだった。」
クランウェルで僕が驚いたのは、ディナーにおけるイギリスの慣習だった。
これは、彫刻された羽目板で仕切られた、大きな食堂で行われる複雑な儀式だった。校舎が爆撃されて、ドームの左半分がコリント様式の柱の間に張られた防水布に覆われているなかでも、羽目板はなんとか残っていたのだ!食事中、バルコニーに座ったバンドが、スローワルツのように聞こえる珍妙なイギリスの行進曲を演奏するのである。礼装用の制服を着て食事し、モーニング姿でテニスをするのだ!
僕はイギリスの生活様式への賞賛を大きくしていった。そして、こうした楽観的な姿勢で、RAFや英国全体が戦争にうまく対処しているのだと悟った。ドイツ人にはこれが理解できなかったようだ。僕は彼らが、1940年のバトル・オブ・ブリテンに勝てなかった理由はそこだと心から信じている。
僕はクラスでトップの成績で卒業した。だが僕が既に航空工学の学位を持っていることや、これまでの飛行時間などを考えれば特に賞賛に値することではない。そして、スピットファイアへの転換訓練のため、ウェールズのラドネルにある第61実用機訓練部隊に送られた。ここで僕は、ジャック・レムランゲルと再会する。
訳注
#1 Jacques Remelinger. 残念ながら、オスプレイのフランス空軍のエースリストにこの名は見当たりません。
#2 クロステルマン氏も、ジャックも、裕福な家庭で生まれた海外在留者である。自由フランス軍にはこうした裕福な海外在留者のメンバーが多く、このことは、フランス国内に残っていた、もしくは残らざるを得なかった、裕福でない人々が主となる国内抵抗運動との確執の一因となったようです。
#3 de Havilland DH82 Tiger Moth。デ・ハビラント社製の初等練習機で、1931年に初飛行し、8000機以上が作られた大ベストセラー。農薬散布などで戦後も長く現役に留まり、現在でも飛行可能な機体は多い。
#4 flick roll。スナップロール snap rollとも言う。簡単に言うと、とにかく素早いロールを繰り返すこと。因みに、戦時中の日本の戦闘機部隊ではロールを利用した空中機動が重視されていなかったため、有名なゼロ戦も含めて、日本機はロール率が悪かった。
#5 Jerry ドイツ人に対する蔑称。
#6 Miles Master Trainer。高等練習機で、派生型が多くあるが、ケストレルエンジン付きのタイプの初飛行は1939年。
#7 North American T-6。「Texan」の愛称でも知られる練習機。1935年の初飛行以来、2万機近くが作られた大ベストセラー機で、朝鮮戦争では前線航空統制任務で名を上げている。途上国の空軍では今も現役。クロステルマン氏はマイルズ・マスターの方を高く評価しているようですが・・・。また、古い第二次世界大戦映画では、出てくる軍用機をたいていT-6が演じていた。
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