マイケル・コリンズその4 
休戦  

 休戦を受諾した共和国臨時政府は、いよいよイギリスとの和平交渉に入りました。最初、デ・ヴァレラはこの交
渉に自ら当たることにしており、代表団にはコリンズの名は入っていませんでした。殺し屋として悪名高いコリン
ズが、英国で危害を加えられることを(もしくは、イギリスで誰かをぶっ殺すことを)恐れたためです。しかし、10月
になると、デ・ヴァレラはコリンズを代表団の実質的なリーダーに指名して(肩書きの上では、アーサー・グリフィス
が団長でしたが、かなり健康を損ねていました)、イギリス訪問を命じました。コリンズはこういう交渉事は専門外
である、と渋ったのですが、デ・ヴァレラの命令には逆らえませんでした。
 ここで話を1920年に戻します。この年、反故にされていたアイルランド自治法が議会を通過、アイルランドは
独自の議会をもつ権利が認められたのですが、臨時政府は今さらこれを受け入れるはずは無く、臨時政府とIRA
は戦い続けます。そのために、自治法は皮肉にも、あれほど反対していたアルスターに限って施行されることに
なりました。アルスターの統一派や王党派を満足させ、かつアルスターの反英的勢力を宥めるにはこれしかなか
った訳ですが、現在も続くアイルランドの分断はここで決定的となってしまいました。しかし、臨時政府とイギリス
との和平にはアルスターが最大の障害となったはずであり、この自治法施行でアルスターの英国帰属とアルスタ
ーの意思が南部の意思に干渉されないことがはっきりしたために、和平交渉がうまく行った側面もあるように思
えるのですが・・・・・・。
 デ・ヴァレラは、イギリスが1)アルスターの英国帰属 2)南アイルランドの、共和国としての完全独立は認めない
 という点では譲りそうに無いことを知りました。彼とて和平の重要性は理解していましたが、アルスターとの統
一、完全独立は共和派の一貫した主張でした。だから、それが認められない条約の調印者になりたくもなく、カス
タムハウスの件以来、仲が悪くなっていたコリンズにババを押し付けたのだと言われています。
 もっともこれは、悪意ある解釈なのではないでしょうか。コリンズはデ・ヴァレラと違って、交渉者としての手の内
は知られていないし、「殺し屋」としてイギリス側には一目置かれていましたから、その辺に期待したのかも知れ
ません。
 コリンズはしぶしぶながらイギリスへと旅立ちます(英国ウケを狙ったのか、この時だけは何故か口ひげを生や
している)。英国側の和平案は、南アイルランドにおける「アイルランド自由国」の設立(カナダやオーストラリアの
ように名目的にイギリス王室に忠誠を誓うが、ほぼ独立国である)、アルスターの地位はアルスター議会が決定
する(≒英国帰属)、というもので、臨時政府のこれまでの主張ではとても受け入れがたいものでした。しかし、コ
リンズの交渉相手は、ロイド・ジョージ、バーケンヘッド卿、ウインストン・チャーチルなど歴史に名を残すそうそう
たるメンバー、まだ30歳になるかならないかの彼にはとても太刀打ち出来る相手ではありません。その上、アル
スターと完全独立に関しては最初から譲歩の意思は無く、ロイド・ジョージに至っては和平案を拒否すれば戦争
だと露骨に脅しをかけました。
 1921年12月、コリンズは条約に調印、アイルランドに帰国します。この行動に関しては、「アイルランドの分
断を固定化させた」と現在も批難の的です。北アイルランド紛争は今なお続いていますが、ジェリー・アダムス氏
(シン・フェーンの現党首。彼は何かとコリンズになぞらえられる)も、はっきりと「私ならこの種の条約にはサインし
ない」とコリンズを批難しています。しかし、1920年の自治法施行の時点でアルスターの分断は決定的で、コリ
ンズを責めるのはお門違いです。それに、他にどういう手段があったでしょうか? 条約を拒否すればまた戦争に
なるかも知れない。しかし、軍事的反抗はもう限界。ここは平和を得ることが先決であり、統一も、共和国として
の完全独立も自由国を通じて達成できるはず。コリンズの考えは決して間違いではありません。
 ところで英国訪問中、不思議なことに「殺し屋」で「反逆者」であるはずのコリンズは社交界から大歓迎され、こ
こで年上の貴夫人ヘイゼル・ラベリー(このラベリー夫人、何の功績でか後にアイルランド共和国の紙幣に載りま
す)との不倫騒動が起きています。夫人がコリンズに熱を上げていたのは事実のようですが、コリンズのほうは既
にキティ・キアナンと付き合っており(ハリー・ボーランドは哀れにもふられた)、この「不倫」はデマのようです。
 また、この時、「アラビアのロレンス」ことT.E..ロレンスとも会見しています。ロレンスはアイルランド人であり、こ
の時、アラブの分割(←詳しくは「ダビッド・ベングリオン」の項参照のこと)に苦悩していました。そこでコリンズ
は、IRAにゲリラ戦の訓練をしてくれとロレンス要請しましたが、チャーチルの妨害(ロレンスが希望していた空軍
への入隊を突然に認めた。ただし、ロレンスが実際に空軍入りしたのはずっと後のことである)で、残念ながらこ
の話は流れてしまいました。


内戦
 コリンズは帰国したのですが、予想されたように、条約の内容を巡り、アイルランド国民評議会は紛糾します。
ここでもまたデ・ヴァレラ氏はやってくれました。攻撃の急先鋒に立ったのは、なんとコリンズに全権を委任して交
渉に送り出したエイモン・デ・ヴァレラその人。条約がアイルランドの分断を規定していることと、英国王室への忠
誠条項を激しく批難。共和国への道を閉ざすものだと鋭く攻撃し、こともあろうにコリンズを裏切り者と罵りまし
た。デ・ヴァレラはまだ臨時政府首班であり、確かにおいそれと考えを変えるわけには行かなかったのでしょう
が、これはあまりにも無茶苦茶。
 だったらなんでてめえが交渉しなかったんだ、人に押し付けたくせにその言い草はなんだ、と言ったかどうか分
かりませんが、コリンズは猛反発。自由国を足がかりに共和国は達成できる(「自由を達成するための自由」)、
今は平和が必要だ、またアイルランドに流血事態を引き起こすのか!コリンズは主張しました。アーサー・グリフ
ィス、マイケル・コリンズらに代表される条約承認派とデ・ヴァレラら反条約派は激しく対立しましたが、結局、64
対57で条約は承認されました。これでデ・ヴァレラ一派は議会をボイコットします。そのため、アーサー・グリフィ
スが臨時政府議長の後任となり、コリンズは首相として、自由国への移行の実務を担当しました。皮肉なことに、
かつては嫌っていて決して仲は良くなかったグリフィスと手を組み、親しかったデ・ヴァレラと戦うことになったわけ
です。
なお、コリンズの親友、ハリー・ボーランドはデ・ヴァレラ派につきました(キティ・キアナンにふられたことが関係し
ていたかどうかは不明)。
 議会での議決が僅差だったためか、デ・ヴァレラはまだ負けたとは思っていなかったようです。1922年3月、
デ・ヴァレラはシン・フェーンから脱党して新グループを設立します。また、IRAのメンバーの中にもデ・ヴァレラに
同調する者が現れ、1922年4月、IRAの一団がダブリンの最高裁判所に乱入し、占拠する事件が発生しまし
た。
 そして1922年6月、条約承認をかけた国民投票とアイルランド自由国議会選挙が行われました。コリンズとし
ては、1月の時点で議会を解散して総選挙を行い、条約に関する民意を問うつもりだったのですが、デ・ヴァレラ
がいろいろと反対(議会をボイコットしたくせに・・・)したため、6月までずれ込んでしまったのです。
 「条約は共和国への道を閉ざすものだ!アイルランド人の血がまた流されるだろうが、内戦によってしか独立を
得られないのなら、そうしよう!!」「義勇軍はアイルランド人の血を浴びることになるだろう。しかし、自由国政府
は打倒する。アイルランドの真の自由を達成するためだ!」
 デ・ヴァレラの演説はおよそ正気とは思えない内容ですが、彼は本気でした。戦いを甘く見るところは治ってい
ませんでした。
 反対にコリンズら条約承認派の訴えは、共和国は、自由国からも達成できる。今は平和が必要、条約を拒否す
ればまた戦争だ、という常識的なものでした。
 そして国民投票の結果、条約は承認されてアイルランド自由国が成立。自由国臨時政府首班にはアーサー・グ
リフィスが指名されました。また、選挙でもコリンズら条約派がデ・ヴァレラ一派を抑えて勝利しました。
 なお、日本語の資料によっては、コリンズを臨時政府首班としているもの、またグリフィスが大統領でコリンズを
首相としている(自由国には大統領と言う役職は無いはずなので、ドール・エレンの大統領ということ)ものもあり
ますが、とにかくコリンズは臨時政府の次席で、自由国政府軍(兵士の多くは、もともとはコリンズの敵である親
英派だった)の司令官だったことは間違いないです。デ・ヴァレラ辞職後のドール・エレンと、この時に誕生した自
由国政府を混同しているものと思われます。
 さて、国民投票の結果、条約は承認されたのですが、それでも条約を認めないデ・ヴァレラは、またやってくれ
ます。何を思ったか、ついに武装蜂起を決行!自分を支持するIRAゲリラを動員して(現在、北アイルランドで活
動しているIRAやシン・フェーン党は、このデ・ヴァレラ派の流れを汲む組織です。コリンズを支持する一派は、自
由国政府軍に編入されていました)、ダブリンの最高裁判所、中央郵便局(イースター蜂起の因縁の場所)を初め
とするダブリン市内の要所や、各州の行政庁舎を占拠します。アイルランド自由国は無政府状態に陥りました。
グリフィスは武力討伐を主張、しかしコリンズは内戦には断固反対し、交渉による和解を主張します。デ・ヴァレ
ラをはじめとする独立運動の仲間達と戦うことなど、コリンズにはもっての他でした。しかし、イギリスが支援の名
のもとに干渉する気配を見せ、6月中に共和派を鎮圧せよと要求してきたため、結局は、コリンズも武力による
デ・ヴァレラ派の討伐を決意します。
 1922年6月28日、コリンズ自ら指揮する自由国政府軍は、4月以来、共和派が立てこもる最高裁判所を砲
撃(これ、イースター蜂起と同じ展開です)。内戦が始まりました。
 自由国政府軍はただでさえ数と装備で勝っており、英国からの武器援助も受けていました。その上、マイケル・
コリンズを司令官にいただいているとくれば、共和派のゲリラに勝ち目があろうはずは無く、あっという間に掃討
されてしまいます。この時のダブリン市内の戦闘で、政敵カサール・ブルッハーが戦死しましたが、コリンズの親
友だったハリー・ボーランドも射殺されました。
 1922年8月、コリンズは共和派をほぼ掃討することに成功。勝利を確信したのか、同じ頃、コリンズとキティ・
キアナンは婚約していますが、8月12日、アーサー・グリフィスが急死したため、自由国政府首相の全権は、一
時コリンズに委任されました(鈴木良平氏の著書「アイルランド建国の英雄達」によると、7月1日、コリンズは首
相ポストをコスグレーブに譲った、もしくは、IRAを徹底的に掃討する事を望む政府首脳達と対立して引き摺り下
ろされた、とあります。なぜか矛盾した資料が多いので困ります・・・)。
 その心労のため、8月20日、ひどいカゼと深刻な腹痛に悩まさたコリンズは、療養がてらに故郷、コーク州に
帰る事にしました。しかしこの時、反乱の首謀者エイモン・デ・ヴァレラはまだ捕まっておらず、あろうことかコーク
州に逃げ込んでいたのです。コリンズとしてはかつての親しい関係を思い出したのか、デ・ヴァレラら共和派を説
得するためにも、周囲の反対を押し切ってコーク州訪問を強行します。
 そして運命の1922年8月22日、コリンズの護送部隊は共和派ゲリラの待ち伏せ攻撃を受け、戦闘中、コリン
ズ(オープンカーに乗っていた)は頭部に被弾、即死しました。享年31歳。「暗殺」としている資料もありますが、
実際のところ、「戦死」か「暗殺」かはっきりしていません。また「暗殺」だとすれば、デ・ヴァレラの関与(彼は事件
現場から数百メートルのところに潜伏していた)がどの程度のものだったのかも不明です。ダブリンで行われた葬
儀には50万人が参列(当時、アルスターを除いたアイルランドの人口は300万人ほど)。いかに敬愛されていた
かを示しています。



砲撃されるダブリンの最高裁判所 
コーク州を訪問するコリンズ。後部座席の奥の人物
がコリンズで、この写真が撮られた20分後に殺害
された

その後
 総括すると、マイケル・コリンズは悲劇の人でしょう。IRAの指導者として武力でイギリス支配を打破することに
成功しましたが、彼を知る者は一様に、優しく温厚で平和的な人物だと評しており、本人としても悩むところがあ
ったでしょう。しかも彼が敵とした相手には、同胞たるアイルランド人(親英派アイルランド人、およびデ・ヴァレラ
派)も多く含まれていたのです。コリンズが意に沿わぬ戦いで名をはせてしまい、本性に立ち返って平和を取り戻
そうとした矢先に殺害されたのは、アイルランドにとっては勿論、彼個人としても大きな悲劇でした。
 その後のアイルランドについては簡単に触れておきましょう。内戦は1923年5月にデ・ヴァレラが武力行使の
停止を呼びかけるまで続き、4000人の死者を出しました。デ・ヴァレラ派の敗北でしたが、しかし、内戦中に自
由国政府首班(そしてシン・フェーンの創立者)アーサー・グリフィスが急死していたため、条約派は勢いを無くして
しまいました。
 1932年、エイモン・デ・ヴァレラはアイルランド自由国首相に就任。そして1937年、前年のイギリス王室の
「王冠を賭けた恋」事件のドサクサのなかで王室への忠誠を破棄して憲法を改正、1938年アイルランド自由国
は「エール」として実質的に完全独立を果たします。ゲール語の研究で有名な言語学者、ダグラス・ハイド博士が
大統領に就任し、デ・ヴァレラは引き続き首相を務めました。その後デ・ヴァレラは、アイルランド市民の絶大な
支持の下に長く政権を維持(過去のごたごたは、なぜか不問にされた。また、内戦に関する研究は今もアイルラ
ンドではタブー視されている)。アイルランドの発展に尽力しましたが、イギリスに対しては常に非妥協的な態度を
とり続けました(最悪なのは1940年、アイルランド南部にあるイギリスの海軍基地を撤去させたこと)。アルスタ
ーは今も分断されたままで、コリンズはこの件に関しては批難を受けていますけど、デ・ヴァレラの態度がイギリ
スの反発を買ったことが原因のように僕には思えます。

捕捉
  マイケル・コリンズは現在、現代式テロリズムの元祖と考えられています。それはそうですが、一般のテロリス
トとコリンズには決定的に違う点があります。それは、コリンズが決して民間人を巻き込まなかったことです。アイ
ルランド問題をとっても、現代のIRAがイギリス本土でテロ行為を繰り返して一般のイギリス人を巻き込んだのに
対し、コリンズは標的を警官や兵士、役人などに限定し、その能力を有しながらも英国本土でのテロは(デ・ヴァ
レラの脱獄以外)行っていません。この差は無限とも言えるほど大きいです。

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